聖書のみことば/2009.10
2009年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
この世からの選び」 10月第1主日礼拝 2009年10月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章16〜25節
15章<16節>あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。<17節>互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」<18節>「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。<19節>あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。<20節>『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。<21節>しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。<22節>わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。<23節>わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。<24節>だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。<25節>しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

16節「わたしがあなたがたを選んだ」。弟子たちを、私どもを、主イエスは「友」として選んでくださいました。しかしこの場合、通常の「友関係」、即ち互いに対等な者としての「友」とは違います。主イエスが私どもを「友」としてくださる、それは、主イエスが一方的に私たちを「友・仲間」としてくださるのであって、主イエスはあくまでも、私どもにとって「主人」であることを覚えておかなければなりません。
 「主イエスの友とされる」とは、どういうことなのでしょうか。16節を見ますと「出かけて行って実を結び、…あなたがたを任命したのである」とあります。つまり「私どもが実を結ぶために選んだ」というのです。これは15章2節と繋がる言葉です。「実を結ぶ」とは、神の恵みによって救われた者としての「神の恵みへの応答」であり、それは「神を神として誉め讃え、証しする」ことです。「救われる」ということは、私どもが善い者になるということなのではありません。私どもは善い者になることなどできません。そうではなくて「罪人に過ぎない私どもが救われる」という恵みに与って「神を神とする」「神を表す」ということなのです。
 「出かけて行く」とは、「この世に行く」ことです。この世に対して「神を証しする」即ち「主イエス・キリストこそ救い主と証しする」ことです。
 そして、このことのために主イエスは私どもを「任命する」と言われます。つまり「主イエスが私どもを友とする」ということは、私どもは「主イエスを証しする者として任命された」ということなのです。これはとても大きなことです。私どもは「主イエスから使命を与えられている」のです。この地上で神を証しして生きること、それが神から私どもキリスト者に与えられている使命です。そして、この「礼拝」こそは、証しの中心です。
 「証し」によって起こることは何でしょうか。それは「信じる者が起こされる」ということです。それが「その実が残る(16節)」ということです。信仰が受け継がれていくのです。しかしそこで覚えておくべきことは、「証し」はあくまでも「聖霊の業」であるということです。「聖霊」は「主イエス・キリストを現す霊」です。私どもの為す「証し」は、私ども自身の業なのではありません。私どもの証しは、聖霊の出来事、聖霊の働きによるのです。「信じる者が起こされる」ということ、それはその人が「主の選びの民とされる」ということです。それが「信仰が受け継がれていく」ということなのです。教会の宣教の業は「聖霊の働き」であることを改めて覚えたいと思います。

「友となる」とは「証し人としての任命である」と示されました。しかし、更に16節を読み進めますと、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」という言葉も「任命」にかかっていることが分ります。「与えるために任命する」とは、どういうことなのでしょうか。「何でも与える」というところに強調点を置くと、つまずいてしまいます。ここで大切なことは何なのでしょうか。それは「わたしの名によって父に願うものは…」という言葉です。つまり「主イエス・キリストによって、父なる神に、祈る者とされている」ということなのです。「祈る」ことなしには、何も事は起こらない。「祈る」「求める」ことがあって初めて「叶えられる」「与えられる」ということが起こるのです。
 そうすると、ここに示されているもう一つのことが分ります。それは、私どもが「祈る者として任命されている」ということです。私どもは、主イエス・キリストから「祈り」を託されているのです。「祈りの使命を与えられている」のです。
 私ども日本人の祈りは個人的な願いとしての祈りになりがちで、共に祈るという感覚が薄いのです。しかし「祈りの使命を与えられている」と考えるならば、神の民の共同体の一員として、使命を与えてくださった神の栄光を「共に祈る」「心を合わせて祈る」ということが起こるのです。私どもは皆共に、主イエス・キリストから「共通の祈りの課題を与えられている」、だから「心を一つにして祈る」ことができるのです。それは「神の栄光を表すため」です。そして「隣人の救いのための執り成し」です。その隣人が「神を賛美する者となりますように」と祈るのです。ですから、祈り人として任命されているということは素晴らしいことです。なぜならば、そこでこそ、私どもは「隣人を愛する」ことができるからです。
 「証し人」として任命されているということは「神を愛する」こと、それは「主イエス・キリストを救い主と証しする」こと。「祈り人」として任命されているということは「人を愛する」ということ、それは「隣人の救いを祈る」ことです。
 その上で、主イエスは、「何でも与えられる」と約束してくださっているのです。感謝に堪えません。

17節「互いに愛し合いなさい」とは、12節の繰り返しの言葉です。12節では「主に愛されている者として互いに愛し合いなさい」と示されました。ここでは、主イエスから「祈り人として任命されている」ということは「隣人を愛すること」そのものであるということです。「互いに愛し合う」ということは、互いに「神の恵みを受ける者」として、共に神を証しし、共に執り成しの祈りをする「交わり」を示すのです。

私どもは、主に選ばれて「証し人」「祈り人」となるのです。しかし、18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言われます。私どもキリスト者は、この世に喜んで迎えられるわけではない、いやむしろ憎まれる、敵対する者がいるというのです。そこで主が言われることは「わたし自身が先に憎まれた、ということを思い起こせ」ということです。それは「主イエス・キリストを証しするために迫害を受ける」ならば、その人は「主イエスと一つなる者として覚えられている」ということです。「主イエスと一体の者とされる」というのです。とても主イエスと一体になどなり得ない私どもが、主を崇めつつ、主と一体とされるとは、何と有り難いことかと思います。

19節「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と続きます。「自己中心」の思いを捨て「神中心」とすることは、この世の価値観には合わないのです。ですから「憎まれ」「迫害を受ける」ということが起こるのです。「自己中心」であれば、この世は私どもを受け入れるでしょう。しかし私どもキリスト者は、主に選び出されて、この世ではなく「天の国に属する者とされた」だから憎まれるのです。しかし、この世がキリスト者を憎しむということは、この世がキリスト者を無視できない、関わりを断ち切れないということであって、そこにまだ救いの糸口が残っているという意味では、良いことでもあるのです。

私どもは、もはやこの世に属しているのではありません。主に選ばれた者として、主イエスに、天に属しているのです。まさしく復活なる方「主イエス・キリスト」に属しているがゆえに、地上では終わらない「永遠の命」に生きているのです。天に望みをおいて、今、この地上を生きる、それが私どもキリスト者に与えられている恵みであることを覚えたいと思います。

律法の実現」 10月第2主日礼拝 2009年10月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章20〜25節
15章<20節>『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。<21節>しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。<22節>わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。<23節>わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。<24節>だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。<25節>しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

19節で主イエスは「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われました。それは、弟子たち(私ども)は、主イエスが選んでくださった者、この世ではなく「天に属する者」である、だから、この世が主イエスを憎む故に弟子たちをも憎むのだと言ってくださったのです。
 そして続けて言われます「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい」と。『僕は主人にまさりはしない』という言葉は、13章16節、主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった時に言われた言葉です。14節に「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とあるように、主イエスに倣って互いに足を洗うべきことを思い起こしなさい、と言われているのです。
 「足を洗う」ことは奴隷の仕事です。主イエスは神の子であって、奴隷ではありません。しかし主イエスは弟子たちを愛するが故に、弟子たちに「仕える」者になってくださいました。ですから「主が足を洗ってくださった」ことを思い起こすことは、弟子とは「仕え合う者として弟子」なのだということ、「愛するとは、仕え合うこと」なのだということを思い起こすことなのです。主イエスの言葉を思い起こすことを通して、私どもは、主イエスが私どもに仕えてくださり私どもの救いを成し遂げてくださったことを思い起こす、だから互いに仕え合うべきなのです。

ここで、主イエス・キリストの言葉を思い起こすことの恵みについて考えたいと思います。まず、思い起こす・想起とは、信仰ということです。そして「言葉」は人間だけが持っている力です。人は単に息をし食べて生きるのではありません。人は言葉を用いてコミュニケーションをはかり、共同体を形成することにより交わりを持ち、生きるのです。ですから「言葉」とは、生きる上での力、人を生かす力です。しかし同時に、人は言葉に傷つき、言葉に捕らえられる。言葉は人を傷つけ、時には人を死に至らせることもある。それが、人の言葉です。
 しかし、友のために命を捨ててくださった主イエス・キリストの言葉は、人を生かす言葉です。人を支配するのではなく、人を解き放ち元気にする、人を生かす言葉であって、愛があるのです。人の言葉は不完全で、それ故に憎しみ、愛を失って無関心となってしまう。しかし主イエスの言葉は完全です。主イエスは裏切る者をも見捨てず、蔑む者をも救いの対象としてくださるのです。主イエスの愛には揺るぎがない、それが人と主との大いなる違いです。
 人は愛を貫き通すことはできません。しかし、私どもがどんなに惨めな者であっても、また主に無関心であったとしても、主イエスは私どもへの愛を貫いてくださる。だから「救い」があるのです。それが主イエスが「ご自身の命まで捨ててくださって私どもを愛する」ということです。ですから、愛を貫き通すことのできる唯一のお方、主イエス・キリストの言葉には力があるのです。主イエス・キリストの言葉は、虚しさの中にある者に「尊厳」を与え、確かな「存在」を与えてくださる言葉です。主イエスの言葉には救いがあるのです。それ故に「主イエスの言葉を思い起こす」ということは、そこに「主の恵み、憐れみ、救いを知る」ということなのです。
 人間関係においては、関係が深ければ深いほど、人は傷つき、行き詰まってしまいます。それが、愛しきれない私どもの限界です。しかし、そういう関係の中を生きる私どもにとって、主の言葉は私どもを救う言葉、そこでこそ私どもは慰めを得るのです。御言葉に聖霊が働く、そこで主の聖霊が私どもに臨んでくださるのです。主イエスの言葉を想起し、御言葉に触れれば触れるほど、主イエスを知り主に近づき、尚深く主の恵みを知る。ますます「主、共にいます」、そこでこそ、生きる力が与えられるのです。ですから、主の慈しみ、恵みの内にある私どもは、自暴自棄になる必要はありません。この世の支配から解き放たれて、主イエス・キリストの支配のうちにあるからです。
 この世が何故、主イエスを憎しみ、主を信じる弟子たちをも憎しむのか。それは、主を信じる者たちが、この世の力に服さず、天に服するからです。自分たちの仲間とならないことを妬むのです。主イエス・キリストがもたらしたものは、「神の国、神の支配」です。それは「地上にありながら、天に属する者とする」という「救い」を現実のものとしてくださったということです。

続けて「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と言われます。「主イエスが迫害を受ける」とは、主イエスが苦しみを受け「十字架につけられる」ということです。そうであれば「弟子たちも迫害を受ける」ということなのです。主は言われます「人々がわたしを迫害したのであれば…」と。しかしこの時、弟子たちは知りません。これから何が起こるのか。主の十字架はこれから起こる出来事なのです。ですから、弟子たちは主の言葉を何も理解することはできません。にも拘らず、主は言ってくださっている。ここに大切なことがあります。弟子たち(私ども)は、行く末を知る由もない者です。私どもの行く末を知っていてくださるのは、主イエスなのです。自分の行く末も知らない、何も分らない者を、なおご自分の弟子としてくださる、友としてくださるとは、何ということでしょうか。ご自分の命までくださって救ってくださり、ご自分に属する者としてくださる主イエス。そして、主イエスは私どもの行く末を知っていてくださるのです。主イエスは私どもの「究極の行く末」を約束していてくださいます。それは、死を超えた永遠の命の約束です。死をもって終わる行く末は虚しく、不安のみでしかありません。しかし私どもは、途中がどうであったとしても、虚しく終わるのではない、確かな究極の行く末を与えられている。それが、神に属する者に与えられた恵みなのです。自分の明日を知り得る者はいません。しかし、主イエス・キリストは私どもの全てを知り、弟子としてくださり、究極の行く末を与えてくださるのだということを覚えたいと思います。

21節、弟子の受ける迫害とは、主イエスを信じるが故の迫害であることが示されております。この世は、主(神)の支配を受け入れず、敵対するのです。
 ここで大切なことがあります。人は迫害・憎しみを受けると、仕返しということを考えてしまいます。しかし、ここでは仕返しとは言われないのです。「主イエスが受けた迫害・憎しみを受ける」とするならば、その人は、その憎しみ・迫害において「主イエスと一つの者とされているという慰め、恵みを与えられている」のだということを覚えたいと思います。ですから、私どもは呪うことなく迫害を受けることができるのです。

ユダヤ人は、主イエスが「神の御子でありながら、神がこの世に遣わされた方」であることを知らない、故に敵対するのです。それは「神認識」の違いです。彼らにとっての神は、律法を為した者を誉めてくださる方であり、そういう神なら大歓迎なのです。しかし神は「憐れみの神」です。ただ「憐れみによって救う神」なのです。彼らも、神は「憐れみの神」であると知らなかったわけではありません。しかし、神が「徹底して憐れみの神」であることを知り得なかったのです。それ故、敵対し、迫害したのです。

神を、主イエス・キリストを、どういう方として知っているかということが大事なことです。ただ憐れみによって命を捨ててまで(十字架)救ってくださる方としての神か、愛の実践を誉めてくれる方として神か。「十字架と復活の主イエス・キリスト、そこに神の憐れみを知る」ことこそが、真実に神を知るということです。そして「十字架と復活の主イエス・キリストの父なる神」として神を知ることが、圧倒する神の恵みを知り、神を畏れる、キリスト者のあり方なのです。

聖霊による証」 10月第3主日礼拝 2009年10月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章22〜27節
15章<22節>わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。<23節>わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。<24節>だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。<25節>しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。<26節>わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。<27節>あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

22節「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」と、主イエスは言ってくださっております。ここに「人が罪を知る」とはどういうことかが示されております。
 人は、自分で「罪」を見出すことはできません。人間社会では、罪ある者同士お互いさまであって、他者から罪を示されても、それを本当の罪としては知り得ないのです。ですから、人間だけで成り立つ社会であれば、そこは「罪を見出せない社会」です。ただ神によってのみ、人は、全き罪というものを知るのです。
 創世記3章を思い起こしてみましょう。エデンの園にいたアダムとエバは、神の命令に従わず、自分たちの思いによって園にある禁じられた木から実をとって食べたのでした。そこで彼らが自分たちの罪を見出すのは「主なる神が園の中を歩く音が聞こえて」(8節)です。自分たちの罪を意識して「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる」、つまり「神を認識する」ことによるのです。更に、神が「どこにいるのか」と声をかけ、木の実を食べた理由を問うてくださり、それに答える、そこに神との対話があり、神より「蛇と大地は呪われ、アダムとエバは苦しみを得る」との宣言が与えられます。呪われるのは人ではありません。人は、神に示されて初めて罪を知り、罪の苦しみを担う者となるのです。
 「罪」とは、人が神の前に立つときに初めて知るものであるということを覚えたいと思います。神の前に立って初めて、本来神より遠い存在であるという、自分の本当の姿を知るのです。ですから、神抜きの社会は「罪の自覚のない社会」です。そこでは何が良いのか悪いのか分らない故に「何でも有り」となり、本当にするべきことを見出せない、分らない、不安な社会となるのです。
 この22節で示されていることは、主イエスが「神の御子」として、つまり「神」として語ってくださった、ということです。「主イエスが話された」、だから「人の罪が明らかになった」のです。

主イエス・キリストが「人の罪を明らかにされる」ということについて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
 人が他者の罪を明らかにするということは、その人の罪を暴き立て、証言するということです。つまり、人が他者の罪を明らかにするということは、「他者を裁く」ためにすることです。
 では、主イエス・キリストがなさったことはどうか。主イエス・キリストは「人が罪の自覚に至り、神へと向かうために」人の罪を鮮やかに示してくださいました。ですからそれは、裁きのためではなく、「救いのため」です。「人には救いが必要である」ことを示すためです。神を抜きにしては「罪の自覚もなく、また赦しもない」のです。
 私どもは、罪が明らかにされることを「裁かれること」と誤解します。しかし、罪が明らかにされることは裁かれることではありません。主イエス・キリストは「人の罪を終わりにするために」十字架につき死んでくださいました。それはただ、主イエス・キリストの、神の「憐れみによる」のです。主イエス・キリストは「苦難と十字架」によって私どもの罪を贖ってくださいました。主イエスは「ことば」だけではなく、その「苦難と十字架」によって「人の罪を鮮やかにし、同時に罪を贖い、罪を終わりとしてくださった」のです。ただ主イエス・キリストによってのみ、人は「罪を知り、救いを知る」のです。言い換えれば、人にとって「救い」とは、自らの罪の頂点において神の憐れみを見ることです。そこでこそ人は和らぎと慰めを得る。罪を深く知れば知るほどに、神の憐れみの深さを知るのです。
 ですから「主イエス・キリストが人の罪を鮮やかにされる」ということは、「主イエスが救いであってくださる」からなのだということを覚えたいと思います。もし人が神抜きで罪を知るならば、赦しも救いもないのです。そこに、人と主イエスとの、罪の示し方の決定的な違いがあるのです。

「彼らは自分の罪について弁解の余地がない」、まさしく人は、神の前に弁解の余地などないのです。しかしどうでしょうか。創世記3章で、神に問われたアダムは弁解しなかったでしょうか。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました(12節)」と、自分を騙すような女を与えたあなた(神)が悪い、と弁解するのです。これは罪の上塗りに他なりません。弁解の余地などないのに、なお弁解する。人とは、そのように「救い難い者」なのです。それがこの言葉に示されていることです。
 結局はどこかで「神が悪い」と思っているほどに、罪に罪を重ねる救い難い私どものために、主イエス・キリストの苦しみと十字架の死が必要だったのです。使徒パウロの言葉に「主イエス・キリストの十字架における逆転」を思います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマの信徒への手紙 7章 24・25節)、罪の際立ったところに救いがある、それが「罪を知ることの恵み」であることを覚えたいと思います。

23節〜「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」。「業」と「憎しみ」について語られております。
 「業」とは神の御業、主イエスが神の御子としてなさること、「人の罪を鮮やかにする業」です。
 「憎む」、この世は何故、主イエスを、神を憎むのでしょうか。それは「神の支配」を良しとしないからです。「神が第一であること」を良しとしない。それはこの世が「自己中心」だからです。神の支配を認めないから「憎む」のです。神を第一とするならば、神に従わなければならなくなる。それは嫌なのです。人は、自分の世界だけが大事です。順調な時ほど神は邪魔になる。困った時には神の手を借りようとする。それほどに自己中心です。
 しかし一方で、「憎しむ」ということは、人は神と無関係に生きることはできないということを示してもおります。「愛と憎しみは一つのこと」と常々語っておりますが、関わりが無ければ、愛も憎しみも起こらないからです。
 「神は常に関わってくださっている」、だから世は「憎む」のです。人は「関係を生きる」存在なのですから、神抜きには、この世は成り立たないのです。であれば正しい関わり方をすれば良いのに、正しく関われない、だから憎むのです。
 人は何よりも、神を、主イエス・キリスト(救い主)を必要としている。にも拘らず、神を、主イエス・キリストを見ようとしない。大いなる自己矛盾なのです。

25節「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」、これは詩編の引用です。
 神は常に関わっていてくださる。しかし人は、自分の都合で神から離れたり利用したりしようとする。神の側に理由があるのではありません。人は身勝手な理由で、いわれなき憎しみを神に向けているのです。神への憎しみは、真実に正しく関わろうとしない人の側に問題があることなのです。神抜きの社会は、人の身勝手が通ると錯覚している社会であり、まさにそれが今の現実です。
 「律法」は「罪を明らかに」しますが、救いを語るものではありません。なのに人は、律法を誤解しているのです。「律法を守れば、神に誉めてもらえる」と思ってしまう。「わたしはこんなにやっている。だから、神は自分を認めるだろう」、神を自分の思いに従わせようとする、それが人の奥底にある罪の思いなのです。
 「律法に救いはない。救いは主イエス・キリストにのみある」、それがここに言われていることです。

「主イエス・キリストを信じる」、そこに救いがあるのだということを覚えたいと思います。

聖霊による証」 10月第4主日礼拝 2009年10月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章26〜16章4節
15章<26節>わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。<27節>あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。16章<1節>これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。<2節>人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。<3節>彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。<4節>しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

14章で主イエスは、ご自分が父のもとに帰られて、弟子たちと離れても、弟子たちを決して見捨てない、との約束をしてくださいました。
 そして今日の箇所、26節で主イエスは、弟子たちに「弁護者(真理の霊)を遣わす」と言ってくださっております。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」
 「わたしが」「父のもとから」遣わす。つまり「主イエス・キリスト」と「父なる神」からの派遣、「子なる神と父なる神からの派遣」ということです。ここに「三位一体」の教理の一端が示されております。「聖霊」は、東方教会(ギリシャ正教)では「父からのみ」の派遣、西方教会(カトリック・プロテスタント)では「父と子から」の派遣という教理で、違いがあるのです。ここでは明らかに西方教会の教理が示されております。
 「弁護者」については14章15節以下にも語られておりますが、ここでの強調点は「父のもとから出る真理の霊である」ということです。「真理」というのは様々ありますが、「聖書が言い表す真理」とは「この世に対する救いの真理」であり、「救いの真理」とは「主イエスは神の御子であり、キリスト(救い主)である」ということです。
 その内容は、まず、「救い主」は「神の子でありながら、人と同じ者になってくださった方である」ということです。「救い」は、人が神と同じく完全な者になる、ということではありません。人が完全な者になるということは有り得ないことです。人はあくまでも不完全な者です。そんな不完全な者にまでなって、私どもと等しい者とまでなってくださって、私どもと出会ってくださった、それが主イエス・キリスト(救い主)です。そして「主イエスは十字架につき、私ども人間の罪を贖ってくださった」ということです。
 しかし、ここに「聖霊の働き」が無ければ、私どもは、この「救いの真理」を知ることはできません。実際主イエスの弟子たちも、十字架に死なれた主イエスに失望し、主イエスを救い主と信じることは出来ませんでした。しかし、そのような弟子たちに「聖霊が臨んだ」ことによって、後に彼らは「主イエスこそ救い主である」ことを知るのです。
 また、主イエスの「復活」も、人の知恵で理解できる事柄ではありません。主イエスの復活は「主の十字架の死によって贖われ、主の死に結ばれて、主の復活によって神との完全な交わりを回復し『永遠の命』に与るという約束」を示す出来事です。このことも「聖霊の働き」が無ければ、知り得ないことです。
 今日は今月の逝去者を覚える主日ですが、私どもが、先に逝去された兄弟姉妹方を今まさに「主イエスの復活の恵みに与る者」として覚えることができるのは、この「救いの真理」の御言葉によるのであり、聖霊の働きによるのです。

ヨハネによる福音書はまた、「十字架」「復活」のみならず、主イエスの「昇天」をも救いの出来事として強調して語ります。それは、主イエス・キリストを信じる者は、主と結ばれた者として、終わりの日に「天に住まいする者とされる」という約束です。
 私どもの地上での命は朽ちる命でしかありません。しかし、復活の命は決して失われることのない命です。ですから、人は必ず地上の生を終えなければなりませんが、復活の主イエスを信じる者には「天に住まいが用意されている」のです。この救いの真理も、聖霊の働きによってのみ、知り得る真理なのです。

父なる神のご意志とは何か。それは「神の御子、主イエス・キリストの十字架によって、人の罪を贖う」という「救い」のご計画です。その「救い」に与っていることを知る、それは聖霊の働きによるのであり、それが「父・子・聖霊なる三位一体の神の救い」ということです。私どもに「神の救いを確信させる力」それが「聖霊の働き」であることを覚えたいと思います。
 そして、聖霊の働きによって神の救いの内にあること知る、それは即ち「神の守り(弁護)の内にある」ということです。聖霊は真理の霊であるがゆえに、揺るぎない「救いの確信」を与えられているのです。

また、「聖霊の働き」として語られることとして、「主イエスを証しする霊である」と言われております。「主イエスが派遣する霊」なのですから、派遣する方を証しするのは当然のことでしょう。
 「霊」とは「そのものを証しするもの」です。ですから「聖霊」は「主イエス・キリスト」を証しします。この世に様々にある霊、それはこの世にある人・物・組織など各々を証しします。皆それぞれに自分を認めてもらいたいと思う、自分を証しする霊です。そのような様々な証しの霊の満ちた世界に、私どもは生きているのです。しかしその中で、私どもの「救い」となる霊は「聖霊」のみです。

27節「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と言われます。ここには「弟子とは何か」が示されております。「弟子」とは「主イエス・キリストを証しする者」であるということです。「初めから」と言うように、弟子とされたその時から、主イエスを証しする者として召し出されている、証しする使命を与えられているということです。
 実際には、この時まだ主の十字架も復活も知らない主イエスの弟子たちは、聖霊を受けてから証し人となるのです。
 しかし、今、私どもは既に、主イエスの十字架と復活の恵みに与っている者です。私どもにとって「主イエスを信じる、信仰」とは、自分の心の平安が目的なのではありません。信仰によって優れた霊の持ち主になる、ということでもない。そうではなくて「主イエス・キリストは、わたしに関わる全ての者の救いである」ことを証しする者になるということなのです。

「弟子」とは「主イエス・キリストを証しする群れ」であり、それが「教会」です。「主イエス・キリストを救い主と告白する」、それは神を神として誉め讃え、神を現すこと、即ち「礼拝」であり、それが神の民(教会)の姿です。
 私どもは「日本基督教団 信仰告白」において「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に…」と言い表します。時間、空間、全てを超えて、「代々の聖徒と共に」今、主を礼拝し、神の民の姿をなしているのです。先に逝去した者も皆、今この礼拝に共に与り、神を讃美し、主イエス・キリストを証ししているのだということを覚えたいと思います。
 「聖霊が臨む」、それが「礼拝」です。そこでは、語る者も聴く者も、共に聖霊の業の内にあるのです。

そして「聖霊が臨む」ということは、私どもが神の民として「神の守りに与りつつ、この地上を孤独にではなく、豊かに生きることが出来る」ということを示しております。
 私どもの日常、地上での生活には困難があるのです。しかし私どもは、神の民として、神の守りの内に「神共にいます恵みに与りつつ生きる」者なのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。