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16節「わたしがあなたがたを選んだ」。弟子たちを、私どもを、主イエスは「友」として選んでくださいました。しかしこの場合、通常の「友関係」、即ち互いに対等な者としての「友」とは違います。主イエスが私どもを「友」としてくださる、それは、主イエスが一方的に私たちを「友・仲間」としてくださるのであって、主イエスはあくまでも、私どもにとって「主人」であることを覚えておかなければなりません。 「友となる」とは「証し人としての任命である」と示されました。しかし、更に16節を読み進めますと、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」という言葉も「任命」にかかっていることが分ります。「与えるために任命する」とは、どういうことなのでしょうか。「何でも与える」というところに強調点を置くと、つまずいてしまいます。ここで大切なことは何なのでしょうか。それは「わたしの名によって父に願うものは…」という言葉です。つまり「主イエス・キリストによって、父なる神に、祈る者とされている」ということなのです。「祈る」ことなしには、何も事は起こらない。「祈る」「求める」ことがあって初めて「叶えられる」「与えられる」ということが起こるのです。 17節「互いに愛し合いなさい」とは、12節の繰り返しの言葉です。12節では「主に愛されている者として互いに愛し合いなさい」と示されました。ここでは、主イエスから「祈り人として任命されている」ということは「隣人を愛すること」そのものであるということです。「互いに愛し合う」ということは、互いに「神の恵みを受ける者」として、共に神を証しし、共に執り成しの祈りをする「交わり」を示すのです。 私どもは、主に選ばれて「証し人」「祈り人」となるのです。しかし、18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言われます。私どもキリスト者は、この世に喜んで迎えられるわけではない、いやむしろ憎まれる、敵対する者がいるというのです。そこで主が言われることは「わたし自身が先に憎まれた、ということを思い起こせ」ということです。それは「主イエス・キリストを証しするために迫害を受ける」ならば、その人は「主イエスと一つなる者として覚えられている」ということです。「主イエスと一体の者とされる」というのです。とても主イエスと一体になどなり得ない私どもが、主を崇めつつ、主と一体とされるとは、何と有り難いことかと思います。 19節「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と続きます。「自己中心」の思いを捨て「神中心」とすることは、この世の価値観には合わないのです。ですから「憎まれ」「迫害を受ける」ということが起こるのです。「自己中心」であれば、この世は私どもを受け入れるでしょう。しかし私どもキリスト者は、主に選び出されて、この世ではなく「天の国に属する者とされた」だから憎まれるのです。しかし、この世がキリスト者を憎しむということは、この世がキリスト者を無視できない、関わりを断ち切れないということであって、そこにまだ救いの糸口が残っているという意味では、良いことでもあるのです。 私どもは、もはやこの世に属しているのではありません。主に選ばれた者として、主イエスに、天に属しているのです。まさしく復活なる方「主イエス・キリスト」に属しているがゆえに、地上では終わらない「永遠の命」に生きているのです。天に望みをおいて、今、この地上を生きる、それが私どもキリスト者に与えられている恵みであることを覚えたいと思います。 |
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19節で主イエスは「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われました。それは、弟子たち(私ども)は、主イエスが選んでくださった者、この世ではなく「天に属する者」である、だから、この世が主イエスを憎む故に弟子たちをも憎むのだと言ってくださったのです。 ここで、主イエス・キリストの言葉を思い起こすことの恵みについて考えたいと思います。まず、思い起こす・想起とは、信仰ということです。そして「言葉」は人間だけが持っている力です。人は単に息をし食べて生きるのではありません。人は言葉を用いてコミュニケーションをはかり、共同体を形成することにより交わりを持ち、生きるのです。ですから「言葉」とは、生きる上での力、人を生かす力です。しかし同時に、人は言葉に傷つき、言葉に捕らえられる。言葉は人を傷つけ、時には人を死に至らせることもある。それが、人の言葉です。 続けて「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と言われます。「主イエスが迫害を受ける」とは、主イエスが苦しみを受け「十字架につけられる」ということです。そうであれば「弟子たちも迫害を受ける」ということなのです。主は言われます「人々がわたしを迫害したのであれば…」と。しかしこの時、弟子たちは知りません。これから何が起こるのか。主の十字架はこれから起こる出来事なのです。ですから、弟子たちは主の言葉を何も理解することはできません。にも拘らず、主は言ってくださっている。ここに大切なことがあります。弟子たち(私ども)は、行く末を知る由もない者です。私どもの行く末を知っていてくださるのは、主イエスなのです。自分の行く末も知らない、何も分らない者を、なおご自分の弟子としてくださる、友としてくださるとは、何ということでしょうか。ご自分の命までくださって救ってくださり、ご自分に属する者としてくださる主イエス。そして、主イエスは私どもの行く末を知っていてくださるのです。主イエスは私どもの「究極の行く末」を約束していてくださいます。それは、死を超えた永遠の命の約束です。死をもって終わる行く末は虚しく、不安のみでしかありません。しかし私どもは、途中がどうであったとしても、虚しく終わるのではない、確かな究極の行く末を与えられている。それが、神に属する者に与えられた恵みなのです。自分の明日を知り得る者はいません。しかし、主イエス・キリストは私どもの全てを知り、弟子としてくださり、究極の行く末を与えてくださるのだということを覚えたいと思います。 21節、弟子の受ける迫害とは、主イエスを信じるが故の迫害であることが示されております。この世は、主(神)の支配を受け入れず、敵対するのです。 ユダヤ人は、主イエスが「神の御子でありながら、神がこの世に遣わされた方」であることを知らない、故に敵対するのです。それは「神認識」の違いです。彼らにとっての神は、律法を為した者を誉めてくださる方であり、そういう神なら大歓迎なのです。しかし神は「憐れみの神」です。ただ「憐れみによって救う神」なのです。彼らも、神は「憐れみの神」であると知らなかったわけではありません。しかし、神が「徹底して憐れみの神」であることを知り得なかったのです。それ故、敵対し、迫害したのです。 神を、主イエス・キリストを、どういう方として知っているかということが大事なことです。ただ憐れみによって命を捨ててまで(十字架)救ってくださる方としての神か、愛の実践を誉めてくれる方として神か。「十字架と復活の主イエス・キリスト、そこに神の憐れみを知る」ことこそが、真実に神を知るということです。そして「十字架と復活の主イエス・キリストの父なる神」として神を知ることが、圧倒する神の恵みを知り、神を畏れる、キリスト者のあり方なのです。 |
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22節「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」と、主イエスは言ってくださっております。ここに「人が罪を知る」とはどういうことかが示されております。 主イエス・キリストが「人の罪を明らかにされる」ということについて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。 「彼らは自分の罪について弁解の余地がない」、まさしく人は、神の前に弁解の余地などないのです。しかしどうでしょうか。創世記3章で、神に問われたアダムは弁解しなかったでしょうか。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました(12節)」と、自分を騙すような女を与えたあなた(神)が悪い、と弁解するのです。これは罪の上塗りに他なりません。弁解の余地などないのに、なお弁解する。人とは、そのように「救い難い者」なのです。それがこの言葉に示されていることです。 23節〜「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」。「業」と「憎しみ」について語られております。 25節「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」、これは詩編の引用です。 「主イエス・キリストを信じる」、そこに救いがあるのだということを覚えたいと思います。 |
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14章で主イエスは、ご自分が父のもとに帰られて、弟子たちと離れても、弟子たちを決して見捨てない、との約束をしてくださいました。 ヨハネによる福音書はまた、「十字架」「復活」のみならず、主イエスの「昇天」をも救いの出来事として強調して語ります。それは、主イエス・キリストを信じる者は、主と結ばれた者として、終わりの日に「天に住まいする者とされる」という約束です。 父なる神のご意志とは何か。それは「神の御子、主イエス・キリストの十字架によって、人の罪を贖う」という「救い」のご計画です。その「救い」に与っていることを知る、それは聖霊の働きによるのであり、それが「父・子・聖霊なる三位一体の神の救い」ということです。私どもに「神の救いを確信させる力」それが「聖霊の働き」であることを覚えたいと思います。 また、「聖霊の働き」として語られることとして、「主イエスを証しする霊である」と言われております。「主イエスが派遣する霊」なのですから、派遣する方を証しするのは当然のことでしょう。 27節「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と言われます。ここには「弟子とは何か」が示されております。「弟子」とは「主イエス・キリストを証しする者」であるということです。「初めから」と言うように、弟子とされたその時から、主イエスを証しする者として召し出されている、証しする使命を与えられているということです。 「弟子」とは「主イエス・キリストを証しする群れ」であり、それが「教会」です。「主イエス・キリストを救い主と告白する」、それは神を神として誉め讃え、神を現すこと、即ち「礼拝」であり、それが神の民(教会)の姿です。 そして「聖霊が臨む」ということは、私どもが神の民として「神の守りに与りつつ、この地上を孤独にではなく、豊かに生きることが出来る」ということを示しております。 |
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