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一年の初めに、まず、私どもがこうして礼拝に与るということ、それは神の招きのうちに、神の御心のうちにある出来事なのだということを覚え、感謝したいと思います。 17〜18節、ラザロの甦りを見ていた人々は主イエスのなさった奇跡の業を語った、それが「証し」です。そして、群衆は「ホサナ」と歓呼の声をもって主イエスを迎えました。これは「熱狂」です。人は奇跡を見ると熱狂する、つまり「狂う」のです。我を忘れてしまう。厳しい現実があればある程、熱狂し、忘我して現実から逃避するのです。主イエスの奇跡の業を見ての熱狂、しかしそれは「信じる」ことから程遠いものです。 19節「見よ、何をしても無駄だ」との言葉に、ファリサイ派の人々の思いが語られております。熱狂を前にして、人は無力なのです。 20節「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」と言われております。この「ギリシア人」とは、離散したユダヤ人キリスト者なのではなく、ユダヤ教に改宗していないギリシア人のことです。彼らはユダヤ教に敬意を表しつつも事情により改宗できないでいるギリシア人なのです。 21節、ギリシア人は「イエスにお目にかかりたいのです」と、フィリポに主イエスへの取り次ぎを頼みます。そして22節、フィリポはアンデレに話し、二人で主イエスの元に行くのです。 「イエスにお目にかかりたいのです」と言われれば、普通なら「すぐに会おう」と答えることでしょう。しかし主イエスの答えは、23節「人の子が栄光を受ける時が来た」というものでした。 主イエスの業とは何か。それは「罪人の救い」です。この世の問題の解決をするということではない。「救い」が主イエスのなしてくださることなのだということを覚えたいと思います。ですから教会は、この世の問題の解決を求められているのではありません。この世の問題は、決して解決を見ないのです。一つが解決しても、またすぐ問題は起こる。私どもは「解決できない問題を抱えたこの世」に生きているのだということを知らなければなりません。そして人も皆、自ら未解決な存在なのです。そのような未解決でしかない私どもの「罪を贖い救ってくださる」それが主イエス・キリストの救いの出来事です。 この世の問題の解決に救いがあるのではありません。この世を救うのは主イエス・キリストです。未解決な、救いようのない者を救ってくださる、それが「罪人の救い」ということなのです。 |
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23節「人の子が栄光を受ける時が来た」と主イエスは言われます。 「主イエスが栄光を受ける」とは、受肉・十字架・復活・昇天し、神の右の座につき、神の全権をもって全世界の支配者となられるということです。神として私ども全てを治めてくださること、それが栄光です。 「栄光」とは、ここでは主イエスがその働きを成就されることです。十字架の死によって私どもの罪を贖い「救い主」としての栄光をお受けになることです。神が神としてご自身を現され、主イエスはキリスト(救い主)としてご自身を現される、それが栄光なのです。 25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。「自分の命を愛する」とは「自分の命に執着する」ことです。そして「執着して生きる」ことは「滅び」なのです。「命のことで思い煩うな」と言われる根底にあることは「命は神のもの」だということです。「神との交わりに生きる」こと、それが人が「生きている」ということなのです。 ですから、委ねるべき神を持たないということが、どれほどに辛いことかを思わずにはいられません。私どもを慈しんでくださる神がここにおられる、その神に信頼してお委ねできることの幸いを思います。 「この世で自分の命を憎む人」とは「執着しなくなった人」のことです。執着しなくてよい生き方を与えられている人は、永遠の命に与れると言われております。「永遠の命」とは、決して失なわれることのない神との交わりです。 26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」。「従う」ことと「仕える」は一つのことと言われております。「従う」ことは「信じる」ことです。 27節「今、わたしは心騒ぐ」と主イエスは言われました。一粒の麦として落ちることの「痛み」を覚えたいと思います。主イエスの十字架の死は、主イエスにとって心易いことではない、神に救いを願うほどの痛み、苦しみであったことを忘れてはなりません。私どもの救いのために、痛み、苦しみが伴っているのだということを覚えたい。主イエス・キリストは、ご自身が痛んでまで私どもを救ってくださいました。その主に贖なわれた者の与る恵みの大きさを、「心騒ぐ」と言われた主イエスの御言葉に覚える者でありたいと思います。 |
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27節、主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。「この時」即ち「十字架の死」を前にして、主イエスは命の危機に不安を覚えておられるのです。 「罪人としての死の不安」とは、いかなるものでしょうか。 「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と、主イエスは「十字架の死こそ、わたしの死である」と言ってくださるのです。まことに感謝のほかありません。 続けて「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」と記されます。 29節「そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った」。 しかし、30節「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と、天からの声は、主イエスのためにではなく「群衆のために」語られたと言われます。何も理解していない群衆のために語られた、それは「十字架の救いを全く理解できない者のための救い」であることの比喩でもあります。 31・32節「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。 主イエス・キリストは、地上のご生涯の全てを通して「救い主としての御業」を為してくださいました。、私どもは、その主と結ばれて、天に上る恵みに与っているのだということを改めて覚え、感謝するものでありたいと思います。 |
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今日もこうして共に集い、神の前にひざまずき、御言葉に聴き、讃美し、祈る、この礼拝の時を改めて感謝したいと思います。このように集い得ることは、私どもを礼拝へと導いてくださる「神の招き」に与る恵みの出来事です。今ここに神共に在すことを感謝し、恵みの御言葉に与りたいと思います。 32節「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と主イエスは言われました。「上げられる」とは「十字架に上げられる=死」と「天に上げられる」という二重の意味があります。「引き寄せよう」、ヨハネによる福音書はここで、主イエスを信じる者は「主と共に天に引き上げられる」という恵みを語っております。 34節、しかし群衆は理解しません。それは、彼らなりのメシア理解があるからです。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか」。「律法」によればメシアは「永遠にいる」と聞いている、だから「上げられる」とはどういうことか理解出来ない、というのです。「律法」は私どもにはピンとこない、厳しい戒律のようなものと思ってしまいますが、「律法」は「神の言葉」を意味します。ですからここで「律法による」とは、詩編89編36・37節「聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き/」を基としてのことです。メシアはダビデの子孫、ダビデの子孫の支配は永遠に続く、との理解です。彼らの言う「律法」は「神の言葉=聖書全体」であり、広い意味での律法の捉え方なのです。 「『人の子』とはだれのことですか」と、ヨハネによる福音書は、ここで敢えて群衆に「人の子」と言わせております。それは、聞く者に主イエスが「人の子=人間」であることを意識させ、「人の子として人間であられる方、主イエスはメシア」であることを強調しているのです。主イエスが「メシアでありながら人の子となってくださった」ことをヨハネによる福音書は伝えたいのです。何故ならば、この信仰から外れると「異端」になるからです。異端信仰は「神にして人」を神が仮に人の姿を取ったと考え、それはキリスト抜きで三位一体にもかかわるのです。そしてキリスト抜きは結局ユダヤ教に返り、律法(行い)による救いとなり、恵みによる救いとはかけ離れてしまうのです。 「『人の子』とはだれのことですか」と聞くのです。ここで「メシアは誰か?」という問いの中に、救いはないのだということを知らなければなりません。論じても救いにはならないのです。救いは「メシアをメシアとして信じる」こと。論ずることではない。救いは「信じること」にあるのです。ヨハネによる福音書は、議論は救いではないことを深く繰り返し語っていることを改めて思います。論ずることは人の思いを中心にすることであって、「神に聴き従う」ということに至らないのです。 35節「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」。「光」は「主イエス」です。主はしばらく地上にいると言われております。そして大事なことは、救い主は誰かを問うことではなく「光りなる主イエスを信じること」と言われております。「信じる」とは「歩く」ことなのです。歩くことは生活そのものです。心の内に思うことが信じるということなのではありません。歩くとは信じること、それは「信仰生活」であることが示されております。 ヨハネによる福音書は第1章から主イエス・キリストを「光」として語っております。「光」は本来「神」に用いる言葉です。私どもは、主イエス・キリストを光として見い出すことで、同時に、神を見い出すという二重の出来事に与っております。 信じないことはどういうことか、37節〜41節までに示されております。「信じない」ことは「神の裁き」として語られているのです。これは、次週、聴くことといたします。 |
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