聖書のみことば/2009.1
2009年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
一粒の麦」 1月第1主日礼拝 2009年1月4日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章17〜26節
12章<17節>イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。<18節>群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。<19節>そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」<20節>さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。<21節>彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。<22節>フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。<23節>イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。<24節>はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。<25節>自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。<26節>わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

一年の初めに、まず、私どもがこうして礼拝に与るということ、それは神の招きのうちに、神の御心のうちにある出来事なのだということを覚え、感謝したいと思います。
 今人々は自分の居場所を求めております。自分の居場所がないことは、どんなに惨めなことでしょうか。例え住まいは無くとも、拠り所のある人は幸いです。人がいかに拠り所を必要としているかを示される昨今の厳しい現実です。
 主日の礼拝に集うことは、神の御心のうちに覚えられているという恵みの出来事です。誰も自分のことを顧みてくれないことの孤独から解放されて、主日の礼拝に集い得ているのです。この一年も、神の御旨のうちに始めることが許されていることを覚えたいと思います。

17〜18節、ラザロの甦りを見ていた人々は主イエスのなさった奇跡の業を語った、それが「証し」です。そして、群衆は「ホサナ」と歓呼の声をもって主イエスを迎えました。これは「熱狂」です。人は奇跡を見ると熱狂する、つまり「狂う」のです。我を忘れてしまう。厳しい現実があればある程、熱狂し、忘我して現実から逃避するのです。主イエスの奇跡の業を見ての熱狂、しかしそれは「信じる」ことから程遠いものです。
 「信じる」ことは、自己を弁え(わきまえ)知ることに通じます。何故でしょうか。主イエス・キリストの十字架の恵みを思うところで、人は低くされるからです。こんな私のために申し訳ないと、心低くなるのです。信仰は私どもを熱狂させるものではありません。信仰は私どもに平安を与えるものです。そこに「感謝します」という恵みを感じるとき、人は自らを弁え知り罪深さを知ることができる。それは、肩の力を抜いて自らのありのままを受け止めることができる、自分の弱さを受容できるということです。そこでこそ、自分が大切な存在とされていることを知ることができるのです。

19節「見よ、何をしても無駄だ」との言葉に、ファリサイ派の人々の思いが語られております。熱狂を前にして、人は無力なのです。
 ではここでファリサイ派の人々は冷静なのでしょうか。彼らには「人々を自分たちに従わせたい」という思いがあります。それは、民の模範となる生活をしているファリサイ派の人々の、指導者としての思いです。しかし、人は人に従うべきではなく、神に従うべきものです。ここにファリサイ派の人々の大きな過ちがあります。指導者のなすべきことは「愛する」こと。「愛する」とは「仕える」ということです。主イエスが私どもに命じておられることは何か。「従わせよ」ではなく「互いに愛し合いなさい」、つまり「互いに仕え合いなさい」ということです。主イエスは御自身を捧げてまで私どもを愛してくださいました。その主イエスの愛に応える者として、互いに仕え合うべきなのです。人々に仕える、それが指導者のなすべきことであることを覚えたいと思います。
 そして「熱狂」の隣り合わせは「絶望」です。人は熱狂から醒めると失望し絶望に、死に至るのです。熱狂に救いはない。救いは神にしかないのです。
 ここでもう一つ示されていることがあります。それはファリサイ派の人々の主イエスへの「妬み」です。それは相手に問題があるのではなく、そう思う自分に問題があることに気付かないことが問題なのだということを覚えておくべきです。そのような時には、相手と距離を置いて、自らが妬む思いに捕われていることを受け止め直すことが必要です。

20節「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」と言われております。この「ギリシア人」とは、離散したユダヤ人キリスト者なのではなく、ユダヤ教に改宗していないギリシア人のことです。彼らはユダヤ教に敬意を表しつつも事情により改宗できないでいるギリシア人なのです。

21節、ギリシア人は「イエスにお目にかかりたいのです」と、フィリポに主イエスへの取り次ぎを頼みます。そして22節、フィリポはアンデレに話し、二人で主イエスの元に行くのです。
 ここで知るべきことが2つあります。まず何故フィリポとアンデレか。彼らはユダヤ人ですが名はギリシア名で、二人はギリシアと何らかの関わりがある者だということです。そしてギリシア人の「お目にかかりたい」という言葉の背後には「信仰に入りたい」という気持ちがあるということです。
 つまりユダヤ人社会に交わりがあるこのギリシア人たちは、主イエスへと導びいてくれる人を必要としていたということです。これは私どもにとっても示唆的です。交わりの中にあって、信仰を求めている人々を主イエスへと導く務めを、私どもは託されているということです。そしてこの導きは、一人でしなくても良い。導くためには交わりが必要なのです。交わりの中で共に協力する、そこで信じるということが起こるのです。思いがあっても一人では困難です。交わりの中に引き込むこと、それが大切なことです。
 今日、伝道の困難さが語られております。問題は、私どもの伝道・祈りが孤立しているということです。牧師に「祈ってほしい」と言って良いのです。祈りにおいても共同の作業であって良いのです。協力し助け合って、主のご委託に応えていくということは大切な視点です。共に祈る、救いを願って祈ってくれる者がいること、それが「伝道」となっていくのです。

「イエスにお目にかかりたいのです」と言われれば、普通なら「すぐに会おう」と答えることでしょう。しかし主イエスの答えは、23節「人の子が栄光を受ける時が来た」というものでした。
 ヨハネによる福音書の語る「栄光」とは「主イエスの十字架・復活、そして天に昇られ、救いが成し遂げられること」を示しております。ここで主イエスは「真実」を、まず語られました。それはここにギリシア人たちの救いがかかっているからです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と、救いを成し遂げるための十字架への一歩を踏み出された方、救い主イエス・キリスト。「あなたがたの救いであるわたし、イエス」に、あなたがたは会うのだと宣言してくださっているのです。そして、信仰を望むギリシア人の「お目にかかりたい」という言葉に対する主イエスの答えは、26節「わたしに従え」です。「信じる」ことは「従う」ことであることが語られております。

主イエスの業とは何か。それは「罪人の救い」です。この世の問題の解決をするということではない。「救い」が主イエスのなしてくださることなのだということを覚えたいと思います。ですから教会は、この世の問題の解決を求められているのではありません。この世の問題は、決して解決を見ないのです。一つが解決しても、またすぐ問題は起こる。私どもは「解決できない問題を抱えたこの世」に生きているのだということを知らなければなりません。そして人も皆、自ら未解決な存在なのです。そのような未解決でしかない私どもの「罪を贖い救ってくださる」それが主イエス・キリストの救いの出来事です。

この世の問題の解決に救いがあるのではありません。この世を救うのは主イエス・キリストです。未解決な、救いようのない者を救ってくださる、それが「罪人の救い」ということなのです。

わたしは心騒ぐ」 1月第2主日礼拝 2009年1月11日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章23〜28節

12章<23節>イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。<24節>はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。<25節>自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。<26節>わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」<27節>「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。<28節>父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

23節「人の子が栄光を受ける時が来た」と主イエスは言われます。
 「人の子」とは本来は「人間」のことですが、ここでは「人の子とまでなってくださった主イエス・キリスト」のことを言うのです。主イエス・キリストが人の子とまでなって私どもに出会い、共に歩んでくださる恵みの神であるということが、この「人の子」という御言葉に言い表されていることです。
 神の御言葉に与ることの中心は「救い主キリストの恵みに与る」ということです。御言葉は単に教えを聞くということではありません。神の御言葉に与ることは、御言葉を通して「キリストの救いの出来事に与る」ということです。主日ごとに御言葉に与ることは何と幸いなことでしょう。御言葉なる救い主イエス・キリストの出来事に、今日も聴きたいと思います。

「主イエスが栄光を受ける」とは、受肉・十字架・復活・昇天し、神の右の座につき、神の全権をもって全世界の支配者となられるということです。神として私ども全てを治めてくださること、それが栄光です。
 しかしこの箇所で、24節「はっきり言っておく」と主イエスが宣言してくださっていることは「主イエスが一粒の麦として死なれて、多くの実を結ぶこと」それが「栄光」だというのです。「一粒の麦(芽を出す)」=「主イエスの十字架(死)」、これは譬えとしてはあまりぴったりするものではありません。しかし当時メソポタミアなどでは「種が死んで、芽が出ることは生命の復活」という考え方がありました。そして「多くの実を結ぶ」とは「多くの人々の救い」を言い表しております。主イエスは「収穫の譬え話」を多くなさいますが、収穫するのは神です。ですから「多くの実を結ぶ」とは、多くの人々の救いということに止まるのではなく「救われた者として神が収穫してくださり、神のものとされる」ということを示しております。これは大事なことです。単に個人の救いではなく、「神のもの」とされ「神の民とされる」という更なる恵みに与っているのだということを覚えたいと思います。
 神は主イエスをくださることによって、罪の贖いの代価を支払って私どもを買い取り「神のもの」としてくださいました。そうであれば、私どもが自分を自分のものとして生きることは、もはやおかしいのであり、「神のもの、キリストのもの」として生きるべきであることを改めて覚えたいと思います。

「栄光」とは、ここでは主イエスがその働きを成就されることです。十字架の死によって私どもの罪を贖い「救い主」としての栄光をお受けになることです。神が神としてご自身を現され、主イエスはキリスト(救い主)としてご自身を現される、それが栄光なのです。
 人にとっての栄光は自分を誇ることであり、それは神を曇らすことに他なりません。プロテスタント信仰は「信仰義認」であって功績義認を排します。「自己栄光化は罪」と語るのです。私どもの為すべきは、どこまでも「神を神として表す」ことです。「バベルの塔」の話は、自分を表すことの最たるものです。天にまで至る塔を作り自らを誇ろうとしたところで言葉を失ってしまう。人は、自分を誇れば誇るほど交わりを失い、言葉を失い、孤独になるのです。ですから「栄光」ということは、行いによって自らを誇ろうとする私ども人間にとっても関係深い言葉です。
 十字架の死によって私ども罪人の救いを成就された主イエス・キリストを、神はご自分の右の座につかせることによって、主イエス・キリストに救い主としての栄光をお与えになる。そして私どもが、その主イエス・キリストを「あなたこそ救い主」と言い表すとき、主イエス・キリストに栄光を返すこと(帰すること)になるのであり、それこそが私どもの在り方であることを覚えたいと思います。

25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。「自分の命を愛する」とは「自分の命に執着する」ことです。そして「執着して生きる」ことは「滅び」なのです。「命のことで思い煩うな」と言われる根底にあることは「命は神のもの」だということです。「神との交わりに生きる」こと、それが人が「生きている」ということなのです。
 自分に執着することは、孤独になる、孤立するということです。自分に執着すれば、交わりが出来なくなるのです。自分しかない世界は、重くなり気分は沈む。自意識過剰は重いのです。執着(こだわり)は、元々日本人にとっての美意識でもあります。自己陶酔の世界、それは人間同士の絆が強かった時代には「自分を保つ」というところで意味がありました。しかし現代のように、人と人との繋がりが希薄になった時代には、自分への執着しかないことの危うさを考え直さなければなりません。執着は自分自身を重くし、枯渇させ、息苦しくさせるものなのです。
 しかし私どもキリスト者は、もはや自分に執着しなくてよい。なぜならば、神が私どもを「ご自分のもの」としてくださっているのですから、全てを神にお預けすればよいのです。
 自分を離れて初めて、「自分を愛する」ということができるのです。自分を一旦離れて、なおかつ自分を愛する、それが真実に自分を愛するということです。主イエス・キリストの尊い犠牲が払われて、そんな値打ちがないにも拘らず「大切な存在」とされていることを知り、自分を客観的に見ることで、初めて真実に自分を愛することができるのです。ですから、真実に自分を愛することは、キリストの出来事をもってしかあり得ないのだということを改めて覚えたいと思います。
 自らを離れて自分が大切な存在であることを知る、それは「神のものとされる」ということがあってのことです。「神のものとされる」ことは、隷属を意味するのではありません。それは自己執着からの自由であり、本当の自由ということです。主イエスの十字架の贖いによって罪なき者とされ「神の宝の民」とされていること、それが自分を愛することの根本なのだということを覚えたいと思います。

ですから、委ねるべき神を持たないということが、どれほどに辛いことかを思わずにはいられません。私どもを慈しんでくださる神がここにおられる、その神に信頼してお委ねできることの幸いを思います。
 地上での生活だけが全てであれば、地上での日々が惨めであれば、その人の人生は惨めなものです。しかし、たとえ地上での日々が成功であったとしても、地上での生の終わりの、その先を持たなければ、それも結局は惨めなものに過ぎません。
 たとえこの地上での日々がどのようなものであったとしても、地上での死の後に約束された永遠の命を与えられている者にとっての地上での歩みは、神に祝福された幸いな人生なのです。永遠の命に至らない人生は、勝利の人生ではありません。勝利した人生とは、十字架の贖いの約束、永遠の命の約束を与えられた人生を生きることです。

「この世で自分の命を憎む人」とは「執着しなくなった人」のことです。執着しなくてよい生き方を与えられている人は、永遠の命に与れると言われております。「永遠の命」とは、決して失なわれることのない神との交わりです。

26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」。「従う」ことと「仕える」は一つのことと言われております。「従う」ことは「信じる」ことです。
 しかしここで、私どもは「主に仕える」ほどに立派な者ではないということを忘れてはなりません。私どもではなく、主イエスこそが私どもに仕えてくださったのだということを忘れてはならないのです。では、私どもは何をもって主に仕えることができるのでしょうか。私どもは「主イエスを救い主として証しする」ことによってしか仕えることはできません。それが主の御恩に報いることです。主イエス・キリストの恵みに与った者として、主の身許に集うこと、それしかないのです。また賜物を与えられている人は、賜物を活かして神に仕えること、それがキリストを表すことです。ですから「礼拝する」ことは「仕えること」、まさしくそこで神を表し、キリストを表していることなのです。「祈り、御言葉に聴く」ことは「神を神として崇める」ことです。神を礼拝し、神を証しする者として生きる、キリストこそ我が救いと言い表して生きること、それが「仕える」ということなのだということを覚えたいと思います。

27節「今、わたしは心騒ぐ」と主イエスは言われました。一粒の麦として落ちることの「痛み」を覚えたいと思います。主イエスの十字架の死は、主イエスにとって心易いことではない、神に救いを願うほどの痛み、苦しみであったことを忘れてはなりません。私どもの救いのために、痛み、苦しみが伴っているのだということを覚えたい。主イエス・キリストは、ご自身が痛んでまで私どもを救ってくださいました。その主に贖なわれた者の与る恵みの大きさを、「心騒ぐ」と言われた主イエスの御言葉に覚える者でありたいと思います。

光の子となるために」 1月第3主日礼拝 2009年1月18日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章27〜36節

12章<27節>「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。<28節>父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」<29節>そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。<30節>イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。<31節>今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。<32節>わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」<33節>イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。<34節>すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」<35節>イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。<36節>光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

27節、主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。「この時」即ち「十字架の死」を前にして、主イエスは命の危機に不安を覚えておられるのです。
 主イエスが「不安」を覚えてくださったということ、これは私どもにとって大変意味深いことです。ヨハネによる福音書は、主イエスは「先在の神なる方」として「創造の始めから在す方」であることを記しておりますが、本来、神である方が死の不安を覚える必要はありません。ただ父なる神の御心として、主イエスは、神なる方でありながら肉の体をとり、人の罪の贖いのために十字架の死を死んでくださいました。父なる神に疑いなく全く従順に従われた主イエスに、十字架の死を前にしての不安などあるはずはないのです。このことを私どもの類推で「ああ、イエスも死を恐れたのだ」などと考えることは、神なる主イエスを私ども人間の側に引き下ろしてしまうことです。
 主イエスは死を前にして不安を覚えてくださいました。敢えて「死の不安を覚えてくださった」のです。神の方で、私ども人間の思いを汲んでくださって、私どものところへ「降りて来てくださった」のだということを覚えたいと思います。罪人ゆえの人としての不安を、主イエスはご自分のものとしてくださいました。それが、徹底して私どものところへ「降りて来てくださる」主イエス・キリストの在り方です。「主がおいでくださる」ことと、私どもの類推で「主を引き下ろす」ことの大いなる相違を知らなければなりません。ともすると、私どもは「神なる主イエス」を「人間イエス」として、引き下ろしてしまうのです。

「罪人としての死の不安」とは、いかなるものでしょうか。
 「罪人」は、神との正しい関係を失っているが故に「孤独に死を迎える」のです。「幸いな死」というものを、かつて日本人はどう考えたでしょうか。「どこの馬の骨か分らずに死ぬ」のではなく「畳の上で死にたい」、つまり、家での親しい者に悼まれながらの死を望みました。それは、死を前にしての孤独の中に、なお愛を感じつつの死、共同体の中で自分が受容される死ということでしょう。
 キリスト者は、神のうちに自分の全てが受容されていることを知っているが故に、死を前にしても孤独ではないのです。
 また、もう一つの不安は「死んだらどうなるのか」という確信を持たないが故の不安です。地上の生を終えた後の世界を何も知らないこと、行き先が分らないこと、それが人に不安を与えるのです。地上の命に捕われて「死んだら全てが終わり」と考える、それが地上以外の生を知らない者の現実です。
 しかし、主イエス・キリストを信じる者の死は、地上の死で終わらないのです。主イエス・キリストは十字架に死に、復活して、死を超えた天の世界に帰られました。主を信じる者にとっては、地上は全てではない。主を信じる者は、天において、地上を超えた命の充実があることを知るのです。
 もちろん、死を前にして、ひとときの不安はあることでしょう。しかし、地上を超えた永遠の命、天の世界を知っているが故に「何も知らない不安」から解き放たれ、揺るぎない場所を知っているが故に、ひとときの不安を通過点として、死を平安に迎えることができるのです。
 今、この世は厳しい現実の中にあって、希望を見い出せないでおります。しかし、永遠の命の恵みを知っている者は決して絶望することはありません。不安があったとしても、天上の希望が与えられているのです。ですから、天に属する者とされて地上を生きることを知っている私どもキリスト者は、たとえ地上で野垂れ死ぬようなことがあったとしても、決して絶望することはないのです。

「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と、主イエスは「十字架の死こそ、わたしの死である」と言ってくださるのです。まことに感謝のほかありません。
 そして、28節「父よ、御名の栄光を現してください」。十字架につかれることこそ、ご自分が「神の栄光を現す」ことなのだと、主イエスは言ってくださっております。「十字架の死」とは「罪人の死」にほかなりません。主イエスの十字架の死によって私ども罪人の罪を贖い罪無き者と清めてくださること、それが父なる神の御心です。罪人の罪を十字架で裁き、罪人を救う。十字架の死によって主イエスがキリスト(救い主)としての使命を果たされること、それが「神の栄光」なのです。
 「罪人の救い」は、神のみが為せる御業です。ですから、私どもが十字架に神のご臨在を感じ、神を誉め讃え、神が全てとなるとき、そこで神の栄光が現されるのです。私どもが「神を誉め讃える」ことをも含めて「栄光」と言ってくださっていることを感謝をもって覚えたいと思います。「神を誉め讃える」それが、私どもが神の栄光を現すことです。私どもは「神を誉め讃えること」以外に、神に栄光を帰することは出来ません。「礼拝」はまさしく「神の栄光を現す」こと、神の栄光が満ち溢れる場です。礼拝においてこそ、私どもは神の臨在を知り、神を誉め讃えるのです。

続けて「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」と記されます。
 「既に」現された栄光とは「先在の神なるキリストが『人となって』くださったこと」です。主イエスが「人となって」まで低くなって、私どもと同じ者になってくださったが故に、私どもは地上に救い主をお迎えすることができました。この「地上」に、神は「天上の業=救いの御業」を現してくださったのです。
 「再び」現される栄光とは、主イエスの十字架、復活、昇天により、神が救いの御業を更に鮮やかに示してくださるということです。

29節「そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った」。
 「天使が話しかけた」とは、「あなたは神の御子である」という主イエスに対する天からの証明の言葉、という暗示です。

しかし、30節「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と、天からの声は、主イエスのためにではなく「群衆のために」語られたと言われます。何も理解していない群衆のために語られた、それは「十字架の救いを全く理解できない者のための救い」であることの比喩でもあります。
 「神が栄光を現される」出来事は、この世の全ての者のために為された出来事です。本来、神が神として臨まれるということは、罪深く神に耐えられない存在の人間にとっては「滅び」の出来事です。にも拘らず、神は「救い」として栄光を現してくださるというのです。このことは、とても人の知恵では理解し得ないことです。

31・32節「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。
 ここで明らかなことは、十字架と共にこの世の支配は終わり、主イエスをキリスト(救い主)と信じる者は、キリストと共に天に引き上げられる、ということです。主を信じる者として、主が私どもを引き寄せ、主と共に天へと引き上げてくださる恵みが、ここに言い表されております。

主イエス・キリストは、地上のご生涯の全てを通して「救い主としての御業」を為してくださいました。、私どもは、その主と結ばれて、天に上る恵みに与っているのだということを改めて覚え、感謝するものでありたいと思います。

預言者イザヤの言葉」 1月第4主日礼拝 2009年1月25日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章37〜43節

12章<30節>イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。<31節>今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。<32節>わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」<33節>イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。<34節>すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」<35節>イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。<36節>光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」<37節>このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。<38節>預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」<39節>彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。<40節>「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」<41節>イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

今日もこうして共に集い、神の前にひざまずき、御言葉に聴き、讃美し、祈る、この礼拝の時を改めて感謝したいと思います。このように集い得ることは、私どもを礼拝へと導いてくださる「神の招き」に与る恵みの出来事です。今ここに神共に在すことを感謝し、恵みの御言葉に与りたいと思います。

32節「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と主イエスは言われました。「上げられる」とは「十字架に上げられる=死」と「天に上げられる」という二重の意味があります。「引き寄せよう」、ヨハネによる福音書はここで、主イエスを信じる者は「主と共に天に引き上げられる」という恵みを語っております。

34節、しかし群衆は理解しません。それは、彼らなりのメシア理解があるからです。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか」。「律法」によればメシアは「永遠にいる」と聞いている、だから「上げられる」とはどういうことか理解出来ない、というのです。「律法」は私どもにはピンとこない、厳しい戒律のようなものと思ってしまいますが、「律法」は「神の言葉」を意味します。ですからここで「律法による」とは、詩編89編36・37節「聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き/」を基としてのことです。メシアはダビデの子孫、ダビデの子孫の支配は永遠に続く、との理解です。彼らの言う「律法」は「神の言葉=聖書全体」であり、広い意味での律法の捉え方なのです。
 彼らのメシア理解による「メシアの支配」は、ローマ支配からの解放と全世界の支配であり「選ばれた民イスラエルがメシアと共に地上を支配する」ということ、そしてそれを彼らは望んでいるのです。
 このメシア理解は「メシアの支配は永遠」という点では正しい、しかしメシア支配が地上の世界に止まると考えることは間違いです。主イエス・キリストは復活と昇天によって、地上に勝る権威・支配があることをお示しくださいました。第一、地上の支配の永遠性は論理上成り立ちません。誰もが地球はいつか滅びると考えているのです。本当の意味での「永遠の支配」は、地上を超えたところの永遠の支配でなければ成り立たないのです。
 彼らの誤解は「メシアと共に」とはいえ、自分たちが支配者になりたいと思っていることです。そしてこれは私どもにも無関係なことではありません。「人より上に立ちたい」という願いは誰にでもある欲望です。
 しかし、信仰の出来事から考えてみましょう。神の子が受肉したということは、神が人となってくださってまで「低くなった」ということです。救い主だから高くなる、というのではないのです。ですから、私どもが人より高くなろうとすることは、神の御心に反することです。主イエス・キリストは「十字架の死」すなわち極刑、極悪人の死にまで至ってくださいました。低き者となり仕えることが、私どもの信仰の在り方なのです。
 「上に立つ」というメシア観と「低くなり仕える者」としてのメシア観の大いなる違いを知らなければなりません。「仕える」ことの方が「力」を要することです。「仕える」には「忍耐、自分をコントロールする意志」も必要です。圧倒的な力を持っておられるが故に、主イエス・キリストはおできになるのです。しかし私どもは違います。力が無いから高くなろうとするのです。
 「自己実現の罪」は、低くなれないことです。高くなろうとするところに本当の救いはありません。自己実現に失敗すれば低くならざるを得ないのですが、その低さは卑屈になる低さであり、それは自暴自棄を招くのです。
 ただ無力の淵で、そこに神のうちにある尊い存在としての自分を見い出すことこそが、本当の救いです。十字架にご自分から架かってくださった主イエス・キリストが、大いなる絶大な力をお持ちになっておられる方であることを覚えたいと思います。十字架は圧倒的な神の力です。神の愛は仕える愛です。君臨するのではありません。人は愛するが故に独占し、束縛し、支配するのです。主イエス・キリストが真実のメシア(救い主)であられることは、神の絶大な力をもって十字架に架かられた方であることによって明らかなのです。

「『人の子』とはだれのことですか」と、ヨハネによる福音書は、ここで敢えて群衆に「人の子」と言わせております。それは、聞く者に主イエスが「人の子=人間」であることを意識させ、「人の子として人間であられる方、主イエスはメシア」であることを強調しているのです。主イエスが「メシアでありながら人の子となってくださった」ことをヨハネによる福音書は伝えたいのです。何故ならば、この信仰から外れると「異端」になるからです。異端信仰は「神にして人」を神が仮に人の姿を取ったと考え、それはキリスト抜きで三位一体にもかかわるのです。そしてキリスト抜きは結局ユダヤ教に返り、律法(行い)による救いとなり、恵みによる救いとはかけ離れてしまうのです。
 「神が人であること」これは秘義であって人の理解を超えることであり、ただ信じるよりない信仰の出来事です。私どもが努力して救われるのではありません。神が人となって、しかも一番低い者となってくださって、私どもと同じ者になってくださった。ですから、私どもは人として罪人のままで、神に、キリストに出会うことが赦されているのです。「神が人となる」ということ、それが「私どもの救い」なのだということを覚えたいと思います。

「『人の子』とはだれのことですか」と聞くのです。ここで「メシアは誰か?」という問いの中に、救いはないのだということを知らなければなりません。論じても救いにはならないのです。救いは「メシアをメシアとして信じる」こと。論ずることではない。救いは「信じること」にあるのです。ヨハネによる福音書は、議論は救いではないことを深く繰り返し語っていることを改めて思います。論ずることは人の思いを中心にすることであって、「神に聴き従う」ということに至らないのです。

35節「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」。「光」は「主イエス」です。主はしばらく地上にいると言われております。そして大事なことは、救い主は誰かを問うことではなく「光りなる主イエスを信じること」と言われております。「信じる」とは「歩く」ことなのです。歩くことは生活そのものです。心の内に思うことが信じるということなのではありません。歩くとは信じること、それは「信仰生活」であることが示されております。
 「信仰生活」とは、礼拝を守り、聖書に聴き、祈ること、このことを改めて覚えたいと思います。心の中で思うだけで良いならば「歩け」とは言われないのです。歩くことによって初めて信仰が意味を持つのです。ですから「信じる」という生き方は、礼拝・聖書・祈りであり、それが救いの恵みであることを覚えたいと思います。

ヨハネによる福音書は第1章から主イエス・キリストを「光」として語っております。「光」は本来「神」に用いる言葉です。私どもは、主イエス・キリストを光として見い出すことで、同時に、神を見い出すという二重の出来事に与っております。
 光なる主イエスを信じることが出来ないことが「暗闇」です。闇は神との交わりが無い孤独です。ですから「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」と言われているのです。闇の先は滅びに過ぎません。しかし、主イエス・キリストを信じる者は、キリストと共に引き上げられ天に上り、神共に在すところ=永遠の住まいに入ることが明らかに示されております。ですから、光なる主イエスを信じる者として生きるとき、私どもには神の恵みが満ち溢れるのです。

信じないことはどういうことか、37節〜41節までに示されております。「信じない」ことは「神の裁き」として語られているのです。これは、次週、聴くことといたします。