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31節「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして…」、なぜ殺そうとするのでしょうか。それは30節「わたしと父とは一つである」と主イエスが言われたことを受けております。 このことに対し主イエスは、32節「どの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と聞かれます。「わたしと父とは一つ」と言ったことよりも、彼らに都合の悪い「業」をしたから殺そうとしているのだと、主イエスは言われるのです。主イエスは「父の与えてくださった業」に注目させるために、このように敢えて的をはずすような言い方をされました。主イエスのなさる業、それは「神が与えてくださった業」だということが示されております。主イエスは「父が与えてくださった多くの善い業」と言って、カナの婚礼の奇跡(水がぶどう酒に変わる)や生来の病人の癒しという「神の業」を思い起こさせてくださっております。それは人々が神の業を見、それによって救いへと導かれるために言ってくださった言葉でもあるのです。しかしユダヤ人たちは、この主イエスの業に全く注目しません。 主イエスは「わたしは、多くの善い業を示した」と言われました。ここで「善い業」とは何か、考えてみたいと思います。主イエスのなさる業は「神を現す業」です。ですから「善い業」の基準は「神を現すかどうか」なのです。どんな善行をしたとしても、神を現さず自分を現したのであれば意味はありません。 33節「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。もし主イエスが単に人間に過ぎないならユダヤ人たちの言うことは正しいのです。しかし主イエスは「神の御子(みこ)」であられる方です。「神でありながら、人となってくださった」方、「低くなってくださった」方なのです。ですから神を冒涜しているのではありません。人は高みを望み、自ら神になろうとします。しかし主イエスは自らを低くして私ども罪人と一つになり、出会ってくださいました。主イエスが人であるということは、神なる方が低くなってくださったということであって、単に人であるということではないのです。 ユダヤ人たちは、主イエスが神を冒涜しているとして裁こうとしております。彼らがその根拠とする律法を基にすると、裁きになるのです。 主イエスが来られたのは裁きのためではありません。救いのためです。教会は、主イエス・キリストによる救いの宣言を権能として与えられております。教会は、キリストの業を、罪の赦しの力を与えられているのです。裁きではありません。キリストの恵みを託された者として、罪の赦しの力を与えられております。それはこの世にどこにもない、ただ教会だけが持っている力なのです。 私どもは裁きではなく、赦しの恵みに生きるのです。「復讐するは我にあり」と神は言われます。私どものなすべきことは、罪を裁くことではないのです。悔い改めを迫り、赦しに導くことです。「戒規」とは、悔い改めを促すことなのであって、裁きではありません。 34節、主イエスは詩編72編の言葉を引いて言われます。「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」。神の言葉をいただく者は神よりの恵みを得ております。ましてや主イエスは「神の御言葉そのものなる方」であって、神の御子です。 |
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37・38節、主イエスは、父の業を行っていることを前提に「その業を」信じなさいと言っておられます。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」、ここで強調されていることは、まさしく主イエスが父なる神の御業を行っているということです。38節後半に示されていることは「主イエスは子なる神として、父なる神と一体である、一つなる神である」ということです。 今は「神を信じられなくなった」時代です。そうするとどうなるでしょう。何もかも信じられなくなるのです。何も信用できない、だから自分を信じるしかない、ということになる。しかし自分は信じられるのでしょうか。 自分を信じることは苦しく虚しいことです。何故ならば人には限りがあり、人は死ななければならない。挫折のない人生などなく、そんな者が常に確かな拠り所となれる訳がないのです。そして、自分を信じるところには「高慢さ」があるのです。自分は絶対でないにも拘らず、神抜きで自分を神とする「偶像礼拝」となる。「自分を神とする」という高慢、そこに人間の罪深さがあるのです。 しかしここで、私どもは「愛されている」ことに留まってはなりません。なぜ神が愛を貫いてくださったのでしょうか 。それは、信じることができない私どもが、この愛に打たれ、この方を信じる以外にないと変えられ、信じるに至るためです。人は「信じる」ことができる。神に愛されていることを知り、信じる者に変えられる時、それが「救い」なのです。 主イエス・キリストを救い主と証しすること、それがヨハネの使命でした。「信仰」は、キリストの証言を聴くことによって起こるのです。「聴く」ことを通して「信じる」ということが起こる。それは「御言葉に聖霊が働く」からです。私どもは、御言葉を聴き信仰へと至るのです。ですから教会の使命は大切です。教会は神の御言葉を託されたものとして、祈りをもって、主イエス・キリストを証しするのです。祈りなくして、神の言葉は語れないのです。 |
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今は、先日起こった秋葉原の無差別殺人などのような犯罪が目立つ世の中です。これは現代社会の持つ深い問題を表しているように思います。 そこで重要なことは、キリスト教はこの社会に何を伝えられるか、ということです。何を伝え、何か与えるものがあるのか。どういうメッセージで人々を救いへと招けるのか。 ローマの信徒への手紙13章とガラテヤの信徒への手紙3章に、共通して一つのことが語られております。それは「イエス・キリストを着なさい」ということです。また、既に洗礼を受けた人は「イエス・キリストを着ている」のだということです。では「イエス・キリストを着る」とはどういうことなのでしょうか。また、「イエス・キリストを着る」とどうして救いになるのか、ということをこの箇所から聴きたいと思います。 ガラテヤの信徒への手紙では27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とあります。「キリストを着る」とは「洗礼を受ける」ことだと言っております。聖書の時代「洗礼」は上着を脱いで水に入り、水から出て上着を着直しました。つまり「洗礼」とは、古い自分の生活・重荷を脱ぎ、キリストに結ばれることによって、古い自分に支配されない生活が始まることです。それが「キリストを着る」ということです。そしてこの洗礼は、生涯にただ一度、受けるものです。 「キリストを着る」ことの幸いとは、ガラテヤの信徒への手紙では28節「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言われます。私どもはキリストのものとして「一つ」とされ、キリストの体である教会の交わりに入れられるということです。キリストを着ているのに、孤立無援になる人はおりません。キリスト者は孤独ではないのです。そういう意味で、孤立する現代にあって、教会には「キリストを着る」ことによって皆「キリストのものとされる」という一体性があるのです。キリスト抜きの一体感は虚弱なものです。大事なことは、キリスト者は「キリストを着て一体とされる」ということです。それがキリスト者のアイデンティティとも言えるのです。 ローマの信徒への手紙では、12節「光の武具を身に着けましょう」とあります。「武具」を身につけると言うのです。キリスト者であっても、時には試練にぶつかり誘惑に負けそうになる、この世の戦いがあるのです。その時に「身に着ける」のは「光の武具」すなわち「キリスト」なのです。キリストはただ一人、死に勝利された方(復活)です。このキリストの勝利があるからこそ、私どもの救いがあります。私どもが「キリストを着て」いれば、私どもを襲うどのような外からの攻撃からも、キリストは武具として私どもを守ってくださるのです。 聖書は様々な方向からイエス・キリストの福音を語っておりますが、今日は「イエス・キリストを着ている」「身にまとっている」という御言葉から「キリストのものとされた者の幸い」を語りました。 |
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1節「ある病人がいた」と興味深い書き方で始まっております。 2節のマリアのことにつきましては12章で語ることとし、3節、姉妹は「人をやって」主イエスに来てもらおうとしております。実はベタニア村は遠いのです。ベタニア村にも医者、まじない師もいたはずです。にも拘らず、わざわざ遠方にまで主を呼びにやる、ここに彼女たちの思いがあります。ラザロの病はもはや医術を以てはどうにもらない、つまり「主イエス無くしてはおさまらない、主イエスを必要としている」状況だということです。主イエス無くしてはこの状況を解決できない、だからわざわざ呼びにやる、ここに姉妹の信仰を見ることができます。「主無くしては済まされない」という姿勢です。 続けて「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、姉妹は遣わした者に言わせております。「わたしたちの弟が」と言わないで「あなたの愛しておられる者が」と、主イエスとラザロの関係に重きをおいております。自分たちとの関係でラザロを見るのではなく、主イエスとの関係でラザロを見る、これは見事です。主イエスとの関係の中に、自分を、友を、家族を、愛する者を置くこと、これは大事なことなのです。姉妹は「わたしの大事な弟だから助けてほしい」とは言わない。「あなたの愛しておられる者だからこそ、あなたの憐れみが必要です」と言っている。あくまでも主体は主イエスなのです。 あなたの愛している夫、妻、子。私どもは自分の家族を主イエスとの関係の中に見ているでしょうか。主イエスが愛しておられる夫、妻、子…主との関係の中に家族を、友を見る、この視点は重要です。ここにマルタ、マリアの信仰の姿が現われております。 「病気なのです」と続きます。それで十分なのです。主イエスは決して放置なさらない。だからこそ「助けてください」と言わなくても、いや言わないからこそ、その切実さが伝わるのです。 ここで思います。私どもは祈りにおいて、大人になっても「この小さな者の祈りを」と祈ることがありますが、これは主に愛されている者としては相応しい言い方ではないと思います。主イエスは私どもを「愛する者」と言い、大切な存在としてくださっております。取るに足りない者と言うのではなく「大切な者」と言ってくださるのです。ですから、取るに足りない者であったとしても、主に愛されている者として「あなたの憐れみの内に、恵みの内に」と祈りたいと思います。 4節「この病気は死で終わるものではない」、これは何を前提としている言葉でしょうか。「この病で死ぬ」ことが前提なのです。しかし「死ぬが、死で終わらない」というのです。人は死なないことを求めます。しかし私どもは死ぬ。けれども「死で終わらない」と主は言ってくださる。それは、主を信じ、主に従う者に与えられた恵みなのです。 「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と続いております。ラザロ生き返らせることによって、死が最後の支配者なのではなく、神こそが全てを超えた支配者であることが示されております。そこでこそ神が神として現され、神の臨在が現されるのです。 私どもは今日「神無くして」は生き得ないのだということを知りました。無くてならないものは神、主イエス・キリストです。その神との関係無くして、人を神との関係に見ること無くして、人は大切にされないのだということを覚えたいと思います。そして、十字架の死を以てまで私どもを愛し、大切な存在としてくださる主に心を向けつつ、生きる者でありたいと思います。 |
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