聖書のみことば/2008.9
2008年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
父の業を行う」 9月第1主日礼拝 2008年9月7日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章31〜39節

10章<31節>ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。<32節>すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」<33節>ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」<34節>そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。<35節>神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。<36節>それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。<37節>もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。<38節>しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」<39節>そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

31節「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして…」、なぜ殺そうとするのでしょうか。それは30節「わたしと父とは一つである」と主イエスが言われたことを受けております。

このことに対し主イエスは、32節「どの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と聞かれます。「わたしと父とは一つ」と言ったことよりも、彼らに都合の悪い「業」をしたから殺そうとしているのだと、主イエスは言われるのです。主イエスは「父の与えてくださった業」に注目させるために、このように敢えて的をはずすような言い方をされました。主イエスのなさる業、それは「神が与えてくださった業」だということが示されております。主イエスは「父が与えてくださった多くの善い業」と言って、カナの婚礼の奇跡(水がぶどう酒に変わる)や生来の病人の癒しという「神の業」を思い起こさせてくださっております。それは人々が神の業を見、それによって救いへと導かれるために言ってくださった言葉でもあるのです。しかしユダヤ人たちは、この主イエスの業に全く注目しません。

主イエスは「わたしは、多くの善い業を示した」と言われました。ここで「善い業」とは何か、考えてみたいと思います。主イエスのなさる業は「神を現す業」です。ですから「善い業」の基準は「神を現すかどうか」なのです。どんな善行をしたとしても、神を現さず自分を現したのであれば意味はありません。
 私どもにとっての善い業は「礼拝」「祈りの生活」です。そこでこそ神を現すからです。私どもは、主の恵みに生かされているならば「善い業」をなすことができる者なのだと言っていただいております。私どもは「善い業」へと導かれているのです。神に向かう、それが私どものなすべき業です。礼拝、祈祷会が良き業です。この私になしてくださった神の恵みを証しすること、教会での奉仕……様々に善い業をなす力が与えられているのだということを覚えたいと思います。

33節「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。もし主イエスが単に人間に過ぎないならユダヤ人たちの言うことは正しいのです。しかし主イエスは「神の御子(みこ)」であられる方です。「神でありながら、人となってくださった」方、「低くなってくださった」方なのです。ですから神を冒涜しているのではありません。人は高みを望み、自ら神になろうとします。しかし主イエスは自らを低くして私ども罪人と一つになり、出会ってくださいました。主イエスが人であるということは、神なる方が低くなってくださったということであって、単に人であるということではないのです。
 主イエスは神の御子として救い主であられる方です。自ら低くなって人となり、人の罪を担い、贖い、終わりとしてくださいました。人は、高くなって、自ら努力して救われるのではありません。神が低くなり、どん底にまでおいでくださって全てを引き受けて下さった、だから救われるのです。それが「神が人となる」ということであり、私どもの救いの筋道であることを忘れてはなりません。

ユダヤ人たちは、主イエスが神を冒涜しているとして裁こうとしております。彼らがその根拠とする律法を基にすると、裁きになるのです。

主イエスが来られたのは裁きのためではありません。救いのためです。教会は、主イエス・キリストによる救いの宣言を権能として与えられております。教会は、キリストの業を、罪の赦しの力を与えられているのです。裁きではありません。キリストの恵みを託された者として、罪の赦しの力を与えられております。それはこの世にどこにもない、ただ教会だけが持っている力なのです。
 そして、その罪の赦しの権能は私ども一人ひとりにも与えられております(万人祭司)。具体的に私どもの教会においては、役員会・牧師に託されております。改めて、キリストの力は「罪を赦す力」なのだということを覚えたいと思います。

私どもは裁きではなく、赦しの恵みに生きるのです。「復讐するは我にあり」と神は言われます。私どものなすべきことは、罪を裁くことではないのです。悔い改めを迫り、赦しに導くことです。「戒規」とは、悔い改めを促すことなのであって、裁きではありません。
 ユダヤ人は裁きを神に任せず、自ら行おうとしております。人は他者を裁くときに、罪のうちにあるのです。裁く人こそ、何よりも神の赦しを必要としているのです。

34節、主イエスは詩編72編の言葉を引いて言われます。「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」。神の言葉をいただく者は神よりの恵みを得ております。ましてや主イエスは「神の御言葉そのものなる方」であって、神の御子です。
 主イエスが私どものところにおいでくださって、救いを与えてくださいました。主イエスがなしてくださった業に神を見、主イエスを信じるとき、私どもは罪の赦しをいただくのです。主イエスを信じる者は、神の憐れみのうちにあるのです。

主イエスを信じる」 9月第2主日礼拝 2008年9月14日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章37〜42節

10章<37節>もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。<38節>しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」<39節>そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。<40節>イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。<41節>多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」<42節>そこでは、多くの人がイエスを信じた。

37・38節、主イエスは、父の業を行っていることを前提に「その業を」信じなさいと言っておられます。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」、ここで強調されていることは、まさしく主イエスが父なる神の御業を行っているということです。38節後半に示されていることは「主イエスは子なる神として、父なる神と一体である、一つなる神である」ということです。
 ここで吟味したいこと、それは「信じる」とはどういうことかということです。「信じる」ことによって起こること、それは「父と子が一体であることを知り、悟る」ことだと言われております。「信仰」とは思い込むことなのではありません。「知る、認識する」ことです。その認識は、地上の知識・認識によるのではありません。「父と子は一体である」という特別なこと、天上の出来事に対する認識なのです。
 「神を信じる」とは「神を神として知る」ということです。「信じる」以外に「神を神として知る」ことはできません。信仰とは地上の学びでは知り得ない、神にある認識なのです。「主を畏れることは知恵の初め(箴言1章7節)」とあるように、旧約の時代には「神を畏れ敬うことに本当の知識がある」と言い表しました。「信仰」においてしか「神が神であられること、主イエスが救い主キリストであること」を知り得ないのです。だからこそ、私どもは「信仰」によってしか「救い」を得ないのです。「信仰」によってしか「救いによる恵み」を言い得ないのです。神を神として畏れ敬う、そのことが人を信仰に至らせるのです。

今は「神を信じられなくなった」時代です。そうするとどうなるでしょう。何もかも信じられなくなるのです。何も信用できない、だから自分を信じるしかない、ということになる。しかし自分は信じられるのでしょうか。 自分を信じることは苦しく虚しいことです。何故ならば人には限りがあり、人は死ななければならない。挫折のない人生などなく、そんな者が常に確かな拠り所となれる訳がないのです。そして、自分を信じるところには「高慢さ」があるのです。自分は絶対でないにも拘らず、神抜きで自分を神とする「偶像礼拝」となる。「自分を神とする」という高慢、そこに人間の罪深さがあるのです。
 自分を信じるほどに人は罪深い。人は自分を頼りにしても救われないのです。自分を信じ自分が基準であることは、苦しく虚しい。自分の頑張りが他者に認められないということが起こる。そこで人は孤独にならざるを得ないのです。自分第一の生き方(偶像礼拝)は、孤独で苦しく、存在が失われる状況になってしまうのです。
 しかしそのような「救いなき者の救い」、それが主イエス・キリストです。主イエスは「神が人となってくださった」方です。それ故に私どもは、人でありながら神なる方と出会うことが赦されました。相手と同じ者になる、そこに「愛」があります。それは私どもには持ち得ない愛です。私どもの愛は、強要するもの・自分の思いを満たそうとするものに過ぎません。しかし神の愛は、高き方が低き者となってくださり低きと同じ者になってくださったという出来事です。
 更に主イエスは、人と同じ者になったというだけでなく、私どものために十字架につき、命をもって罪の贖いとなって罪を終わりとし、私どもを罪から解き放ってくださいました。「自己犠牲の愛」それを「真実の愛」と言うのです。そして「復活」により、滅びに過ぎない私どもに、神との交わりを回復してくださいました。この「主イエス・キリストの十字架と復活」という神の出来事は何なのでしょうか。それは、罪に過ぎない私どもに「神が愛を貫いてくださっている」という出来事です。私どもは、主イエス・キリストのうちに神の愛を知ることが赦されているのです。
 今日、日本でも「愛」という言葉が頻繁に用いられるようになりました。しかし真実の愛は、教会でこそ言い表されてきたことです。「神の愛」が説かれて初めて定着したものなのです。

しかしここで、私どもは「愛されている」ことに留まってはなりません。なぜ神が愛を貫いてくださったのでしょうか 。それは、信じることができない私どもが、この愛に打たれ、この方を信じる以外にないと変えられ、信じるに至るためです。人は「信じる」ことができる。神に愛されていることを知り、信じる者に変えられる時、それが「救い」なのです。
 愛が地球を救うのではないのです。神に愛されていることを知り、神を信じるに至るとき、私どもは救われる、地球は救われるのです。それが信仰による救いです。私どもは、愛されていることに留まるならば真実に人として生きたことにはならないのです。神を信じ、神から与えられている賜物・使命によって神の栄光を現すものとして歩む・生きる、それが人が人となる・自立した者として生きるということです。
 私どもは「愛されている」ということで、人を、神を、肉親を、子を試していないでしょうか? 愛を確かめようとしていないでしょうか?
 神の愛が私どもの身も心も貫いてくださっております。だからこそ、神を信じ、主イエスこそ救いと言い得るのだということを覚えたいのです。そこでこそ人は真実に人となることができる。揺るぎない神に委ねて生きる者となるのです。信じるが故に、愛を試す必要はなくなるのです。そこでこそ人は、他者を真実に愛することができる。神が私どもを愛してくださり「愛することができるという力」をくださっているのです。人は信じる対象ではありません。人は人を信じるのではなく、愛するのです。たとえそこに裏切りがあったとしても、信じられないとしても、愛するのです。「互いに愛しあいなさい」と言われております。神を信じるとき、人は初めて人として、愛する者として生きることができるのです。

主イエス・キリストを救い主と証しすること、それがヨハネの使命でした。「信仰」は、キリストの証言を聴くことによって起こるのです。「聴く」ことを通して「信じる」ということが起こる。それは「御言葉に聖霊が働く」からです。私どもは、御言葉を聴き信仰へと至るのです。ですから教会の使命は大切です。教会は神の御言葉を託されたものとして、祈りをもって、主イエス・キリストを証しするのです。祈りなくして、神の言葉は語れないのです。

イエス・キリストを
       着なさい」
9月第3主日礼拝 2008年9月21日 
近藤勝彦 先生/東京神学大学教授
(聴者)
聖書/ローマの信徒への手紙 第13章11〜14節
   ガラテヤの信徒への手紙 第3章26〜29節

《ローマの信徒への手紙》第13章<11節>更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。<12節>夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。<13節>日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、<14節>主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
《ガラテヤの信徒への手紙》第3章<26節>あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。<27節>洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。<28節>そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。<29節>あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

今は、先日起こった秋葉原の無差別殺人などのような犯罪が目立つ世の中です。これは現代社会の持つ深い問題を表しているように思います。
 現代は、家族との親密な交わりや共同体の中での守り・養いを失って孤立した人が多く、また若い人たちは挫折経験に弱く、挫折した者の立ち直りに親切でない社会の中で傷つき、不満を抱えた人が多いのです。そしてその不満は、自分に向けられれば自殺に、そうでなければ他者を傷つけることになるのです。もちろん、それは個々人の問題ではあります。しかし、全体としてこのように社会が病んでいるということを認めなければならないと思います。

そこで重要なことは、キリスト教はこの社会に何を伝えられるか、ということです。何を伝え、何か与えるものがあるのか。どういうメッセージで人々を救いへと招けるのか。
 聖書は、良きおとずれ、good news、福音を語っております。そして教会には、この聖書によって人々に伝えるべき「救い」があるのです。「救い」それは「主イエス・キリスト」のことです。「主イエス・キリストによって救いが与えられている」ことを、「主イエス・キリストによって神の国への希望を抱いて地上の生を生きることができる」ことを、教会は確信し、それを伝えるのです。
 今日の聖書の箇所を現代人へのメッセージとして伝えたいと思います。

ローマの信徒への手紙13章とガラテヤの信徒への手紙3章に、共通して一つのことが語られております。それは「イエス・キリストを着なさい」ということです。また、既に洗礼を受けた人は「イエス・キリストを着ている」のだということです。では「イエス・キリストを着る」とはどういうことなのでしょうか。また、「イエス・キリストを着る」とどうして救いになるのか、ということをこの箇所から聴きたいと思います。

ガラテヤの信徒への手紙では27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とあります。「キリストを着る」とは「洗礼を受ける」ことだと言っております。聖書の時代「洗礼」は上着を脱いで水に入り、水から出て上着を着直しました。つまり「洗礼」とは、古い自分の生活・重荷を脱ぎ、キリストに結ばれることによって、古い自分に支配されない生活が始まることです。それが「キリストを着る」ということです。そしてこの洗礼は、生涯にただ一度、受けるものです。
 聖書が語る福音は「イエス・キリストは救い主」ということです。「イエス・キリストの十字架」は人類史上ただ一度の十字架であって、全人類史を包括するものです。そしてその「キリストの十字架」が私どもの「救い」なのです。病むときも悩みのときも、また喜びのときも、どんなときにも「洗礼によってキリストのものとされた(キリストを着た)」ことが、私どもの人生を、根本において支え続けるのです。
 ローマの信徒への手紙には「光の武具を身に着けましょう(12節)」「主イエス・キリストを身にまといなさい(14節)」と語られます。14節で「主イエス」と言っております。つまりイエスが「主」なのです。イエスが「主」であってくださるのですから、私どもは「主のもの」とされて、他の何ものにも支配されないのです。
 13節「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」とは「キリストを着て」ということです。そして「礼拝する」ことは「キリストをまとう」ことです。朝毎に週毎に「キリストを着る」ことを心がけ、努力しようというのです。これは難行苦行なのではありません。「キリストを着る」ことは「神の恵み(神の恩寵)を着る」ことです。教会はこの「恩寵の福音」を、この世の孤立する人々に伝えたいのです。
 また続けて「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」とあります。「酒宴と酩酊…」によっては、人生の問題も、世界の問題も解決しません。この言葉は、この聖書の時代のローマ帝国に当てはまるだけではなく、現代社会に当てはまるのです。「酒宴と酩酊…」これらを脱いで「キリストを着る、キリストのものとされて生きる」という生き方、それが礼拝生活・教会生活です。
 今日は教会研修会ですが、礼拝すると共に、聖書の学びをすることも「キリストを身にまとう」ために大切なことです。学びつつ、キリストを身にまといながら、この世の様々な問題について考えていく、見極めていくことです。そうするならば、簡単にこの世に絶望することはなくなるのです。

「キリストを着る」ことの幸いとは、ガラテヤの信徒への手紙では28節「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言われます。私どもはキリストのものとして「一つ」とされ、キリストの体である教会の交わりに入れられるということです。キリストを着ているのに、孤立無援になる人はおりません。キリスト者は孤独ではないのです。そういう意味で、孤立する現代にあって、教会には「キリストを着る」ことによって皆「キリストのものとされる」という一体性があるのです。キリスト抜きの一体感は虚弱なものです。大事なことは、キリスト者は「キリストを着て一体とされる」ということです。それがキリスト者のアイデンティティとも言えるのです。

ローマの信徒への手紙では、12節「光の武具を身に着けましょう」とあります。「武具」を身につけると言うのです。キリスト者であっても、時には試練にぶつかり誘惑に負けそうになる、この世の戦いがあるのです。その時に「身に着ける」のは「光の武具」すなわち「キリスト」なのです。キリストはただ一人、死に勝利された方(復活)です。このキリストの勝利があるからこそ、私どもの救いがあります。私どもが「キリストを着て」いれば、私どもを襲うどのような外からの攻撃からも、キリストは武具として私どもを守ってくださるのです。
 あるいはまた、外からの攻撃だけではなく、私どもの内側は既に傷んでいるかも知れません。しかし、キリストを「武具」として身にまとっている間に、私どもの内側の痛みは癒されていくのです。「キリストを着る」ことによって、私どもは外からの攻撃から守られ、内なる破れも癒されて生きることができるのです。

聖書は様々な方向からイエス・キリストの福音を語っておりますが、今日は「イエス・キリストを着ている」「身にまとっている」という御言葉から「キリストのものとされた者の幸い」を語りました。
 孤立・分裂を引き起こしている今の時代だからこそ、すべての人に「キリストを着よう」と伝えたいのです。

神の栄光」 9月第4主日礼拝 2008年9月28日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章1〜16節

11章<1節>ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。<2節>このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。<3節>姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。<4節>イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」<5節>イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。<6節>ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。<7節>それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」<8節>弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」<9節>イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。<10節>しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」<11節>こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」<12節>弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。<13節>イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。<14節>そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。<15節>わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」<16節>すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

1節「ある病人がいた」と興味深い書き方で始まっております。
 この箇所は「ラザロの復活」の話ですが、ラザロの紹介が「マリア、マルタ、その兄弟ラザロ」という順番でなされます。しかもマルタ・マリアの姉妹も、妹マリアの名が先に出てくるのは何故でしょうか。12章にマリアが主イエスに香油を注いだことが記されております。マリアは主イエスに香油を注ぎ、主の十字架への備えをした女性でした。つまり、教会にとって内容的に重要な人物から語られているということです。
 しかしここで、マリアよりマルタが劣っていると考えてはなりません。なぜなら11章27節で「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰の告白をしているのはマルダだからです。「信仰」という視点から見て、マルタもマリヤも重要な役割を果たした人物として、ラザロ以上に紹介されているのです。

2節のマリアのことにつきましては12章で語ることとし、3節、姉妹は「人をやって」主イエスに来てもらおうとしております。実はベタニア村は遠いのです。ベタニア村にも医者、まじない師もいたはずです。にも拘らず、わざわざ遠方にまで主を呼びにやる、ここに彼女たちの思いがあります。ラザロの病はもはや医術を以てはどうにもらない、つまり「主イエス無くしてはおさまらない、主イエスを必要としている」状況だということです。主イエス無くしてはこの状況を解決できない、だからわざわざ呼びにやる、ここに姉妹の信仰を見ることができます。「主無くしては済まされない」という姿勢です。
 日常生活において私どもは、神を必要としないで事を済ませてはいないでしょうか? 主の恵みに与った者として、日常生活において「主無くして」済まされることなどあるのでしょうか。信仰者の日常生活は「主無くしてはあり得ない生活」だということを覚えたいと思います。信仰生活は「神、共にいます」生活です。ですから私どもは「祈り」を必要とするのです。礼拝を通し祈りを通して、どれほど主を必要とする者であるかを知るのです。どんな状況の中でも「主無くしてはあり得ない」私どもであることを覚えたいと思います。私どもは「人」が一番大事と思いますが、そうではありません。無くてならないのは「人」ではなく「主イエス・キリスト」です。

続けて「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、姉妹は遣わした者に言わせております。「わたしたちの弟が」と言わないで「あなたの愛しておられる者が」と、主イエスとラザロの関係に重きをおいております。自分たちとの関係でラザロを見るのではなく、主イエスとの関係でラザロを見る、これは見事です。主イエスとの関係の中に、自分を、友を、家族を、愛する者を置くこと、これは大事なことなのです。姉妹は「わたしの大事な弟だから助けてほしい」とは言わない。「あなたの愛しておられる者だからこそ、あなたの憐れみが必要です」と言っている。あくまでも主体は主イエスなのです。

あなたの愛している夫、妻、子。私どもは自分の家族を主イエスとの関係の中に見ているでしょうか。主イエスが愛しておられる夫、妻、子…主との関係の中に家族を、友を見る、この視点は重要です。ここにマルタ、マリアの信仰の姿が現われております。

「病気なのです」と続きます。それで十分なのです。主イエスは決して放置なさらない。だからこそ「助けてください」と言わなくても、いや言わないからこそ、その切実さが伝わるのです。
 そして5節「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と、主イエスが3人を愛しておられることが記されております。それは特定の人を、ということではないのです。「主イエスに信頼する者を主は愛してくださっている」ということを忘れてはなりません。主イエスが私どもを愛していてくださるがゆえに、私どもも、家族を、友を、神との関係の中に見ることができるのです。

ここで思います。私どもは祈りにおいて、大人になっても「この小さな者の祈りを」と祈ることがありますが、これは主に愛されている者としては相応しい言い方ではないと思います。主イエスは私どもを「愛する者」と言い、大切な存在としてくださっております。取るに足りない者と言うのではなく「大切な者」と言ってくださるのです。ですから、取るに足りない者であったとしても、主に愛されている者として「あなたの憐れみの内に、恵みの内に」と祈りたいと思います。

4節「この病気は死で終わるものではない」、これは何を前提としている言葉でしょうか。「この病で死ぬ」ことが前提なのです。しかし「死ぬが、死で終わらない」というのです。人は死なないことを求めます。しかし私どもは死ぬ。けれども「死で終わらない」と主は言ってくださる。それは、主を信じ、主に従う者に与えられた恵みなのです。
 主が愛してくださる者は死を以て終らず、その先に、主と共なる永遠の命が約束されております。主と共に甦り、復活の命(永遠の命)に生きる者とされる、まさしくそこで主イエス・キリストが神の御子であることが現されます。地上の命には限りがある。しかしここでラザロが生き返ることは、地上の死を超え復活の命に生きること(人の復活)を現す一つのしるしなのです。

「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と続いております。ラザロ生き返らせることによって、死が最後の支配者なのではなく、神こそが全てを超えた支配者であることが示されております。そこでこそ神が神として現され、神の臨在が現されるのです。
 主イエス・キリストにとって「死」は「甦りのための死」です。「死」もまた「神の栄光」のためにあるのだということを覚えたいと思います。

私どもは今日「神無くして」は生き得ないのだということを知りました。無くてならないものは神、主イエス・キリストです。その神との関係無くして、人を神との関係に見ること無くして、人は大切にされないのだということを覚えたいと思います。そして、十字架の死を以てまで私どもを愛し、大切な存在としてくださる主に心を向けつつ、生きる者でありたいと思います。