聖書のみことば/2008.8
2008年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主の声を聞き分ける」 8月第1主日礼拝 2008年8月3日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章15〜21節

10章<15節>それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。<16節>わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。<17節>わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。<18節>だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」<19節>この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。<20節>多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」<21節>ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

15節、「羊を知る羊飼い」と「羊飼いを知る羊」との関係は、「父なる神」と「子なる神(キリスト)」との関係と同一のものである、と言ってくださっております。それは「父なる神と御子キリストとの神秘的な一体性」という神との関係の中に、私どもも御子キリストとひとつなるものとして位置づけられているということです。
 しかしここで覚えたいと思います。神と私どもの関係は「恵みの関係」なのです。私どもは本来、神を父と呼ぶことなどできない者です。そのような私どもが、キリストの贖いの恵みによって神を父と呼ぶことができる、そのような関係に入れていただいているということなのです。主イエス・キリストにとっては、神は父です。しかし私どもはそうではない。にもかかわらず、キリストによって「子としての身分」を与えられているのです。
 「救いの喜びとは何か……神を父と呼べることである」と、鎌倉雪ノ下教会の信仰問答に記されております。救われた者が言い得る恵みです。本来は、神から遠い私どもが神の前に立てば罪が明らかにされ、裁き(滅び)でしかないのです。そんな私どもが、神との深い(父と子)関係に入れられるというのです。それは「キリストと結ばれる、ひとつにされる」ことによって与えられる恵みです。

16節、「囲い」と言うとき、旧約においてはイスラエル(ユダヤ人)を指しますが、ここでは、主イエスを知り、信じ、従う者たち、すなわち「教会」を指しております。「この囲いに入っていない」とは、ヨハネによる福音書が読者として対象としている教会以外の教会がある、ということを示しております。囲いの中には主イエスに聴き従う者がいる。しかし、この囲いの中にいる者だけでなく、時間や場所を超えて、まだ見ぬ「主イエスに聴き従う者がいるのだ」と、主イエスご自身がおっしゃってくださっているのです。「まだ見ぬ主の民がいる」ということがあって初めて「宣教」ということがあるのです。例えば「私どもの家族」も、「まだ見ぬ主の民」としてキリストが見い出してくださっているのだということを、ここに見ることができます。何と幸いなことでしょう。人の思いでは、家族の救いを諦めているのです。しかし主イエスは良き羊飼いとして囲いの外にも救いを見い出していてくださるのです。

17節、「命を捨てる」とは「十字架」を示し、「再び受ける」とは「復活」を示しております。
 ヨハネによる福音書以外では「十字架につく=神の御心にしたがって」と表現しますが、ヨハネによる福音書では「命を捨てる」と表現して、十字架が主イエスご自身の意志であることを強調いたします。ユダの裏切りやユダヤ人の殺意という「人の思い」による十字架なのではない。主イエスが良しとしてくださった、だからこそ十字架につかれたのです。私どもの罪の贖いのために「主イエスが自ら進んで」十字架についてくださいました。それは、全く有り得ない、何とも有り難いことです。
 主イエスは「自ら進んで」というご自身の在り方を通して、私どもの日常生活の在り方をも示してくださっております。「自分がして欲しいと思うことは、他の人にもしなさい」と言われるように、私どもに「積極的に隣人を愛する、隣人に仕える」ことが教えられております。
 しかしそれは、主イエスが「自ら進んで為し得た方」だからこそ言えることです。主イエスは私どもに対して、決して無理強なさっているのではありません。私どもは、積極的に「しよう」と思う以上に、「主イエスに覚えられていることを知る」ことが大事です。本当には「応えきれない」私どものために、主イエスは進んで救いを為してくださいました。それは恵みのできごとなのです。私どもは「主のご意志の内にあるのだ」ということを何よりも覚えたいと思います。
 愛する者の心の内に自分(わたし)がある、思いの内にあるということ、それはどれほど幸いなことでしょう。愛する者に覚えられていることの喜びを思います。「私どもを愛してくださる主イエスのうちに私どもはある」ということが何より大事なことです。その恵みに応えるということ以外になすべきことはないのです。

「再び受ける」と言い、主イエスは「天に帰られる方」であることが示されます。主が天に帰られることを通して、私どももまた、死を超えた命・永遠の命へと導かれております。
 主イエスは「死の支配の内にない、死に対して自由な方」であることが、この福音書には示されております。私ども人間は一度失った命を再び獲得することはできません。しかし主イエスは「死の支配者であられる方」として「私どもの贖い」となり、私どもをも、死を超えた命に生きるようにと導いてくださっているのです。

18節、主イエスは「命を捨てる」ことも「受ける」ことも自由におできになる方です。主が命を支配して定めておられるのです。私ども「罪人の救い」を、主が定めておられるのです。主は「滅び」ではなく「救い」を定めてくださいました。
 「私どもの救い」を定め主イエス・キリストを遣わしてくださった、それが「父の掟」です。
 私どもは、神の、主イエスの定めてくださったご意志によって救われているのだということを覚えたいと思います。

良いぶどう酒」 8月第2主日礼拝 2008年8月10日 
須賀 工 神学生 
聖書/ヨハネによる福音書 第2章1〜11節

2章<1節>三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。<2節>イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。<3節>ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。<4節>イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」<5節>しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。<6節>そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。<7節>イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。<8節>イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。<9節>世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、<10節>言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」<11節>イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

ガリラヤのカナで行われた婚礼、主イエスとその弟子たちは、その婚礼に招かれた者として示されています。イエスの母マリアもまた、この場にいることが記されていますが、マリアは「ぶどう酒が足りない」ことに深く思い悩んでいます。ユダヤの婚礼にとって、ぶどう酒は欠くことのできないものであります。それが足りなくなることは、同時に、この喜びの宴を終えてしまうことを表しています。それは、婚礼においては、最もあってはいけないことであると言えます。

マリアは成す術もないこの状況において、主イエスの奇跡を求めるのです。しかし、主イエスはそれに対して厳しい言葉を語られます(4節)。しかし、主イエスは正に「御自分の時」に目を向けておられる。「主イエスの時」とは、いつのことでしょうか。それは、「十字架の時」であります。それは、私どもにとっての「救いの時」でもあります。主イエスは、常に、どこにあっても、私どもの救いに目を向けてくださるのです。

また同時に、主は厳しい言葉を述べながらも奇跡を行ってくださったことを聖書は記していきます。この場にあっても、思い悩む者の思いを受け止められ、そこに助けを与えてくださる主イエスの姿を思います。しかし、それは「栄光を現すもの」「神の御業を現すもの」であったと述べられております(11節)。主は、この奇跡の御業を通して、御自身が「神の意志を現す者である」ことを、その力を通してお示しになられたと、聖書は述べるのです。

「水がめに水を満たせ」と主は命じられます。その水は「清めの水」であり、律法にも示されていることです。主イエスは、その水がめに水を満たし召使いに持って行くように命じられます。すると、それは「良いぶどう酒」に変えられた、と聖書はこの奇跡を淡々と記していきます。

ぶどう酒は、実は、ユダヤにおいて、本当に恵まれた者しか毎日飲むことは出来ないほど貴重なものであったと言われています。つまり、ぶどう酒が水がめ一杯になるとは、大きな恵みなのです。その恵みが、満ち溢れているのです。
 また同時に、「清めの水」が「良いぶどう酒」に変えられることは、律法を超えて、主イエスが新たな恵みを与えてくださることを示しています。主イエスは、人間を恵みと喜びで満たし、律法を超えた恵みに与らせてくださる業を行ったのです。この奇跡が「栄光を現す」ことになるのならば、この奇跡を通して示されることは、神の御意志でもあると言えるのです。つまり、神の御意志は、人間を喜びと恵みの内におき、新たな恵みをもって私どもを生かすことにあるのです。

そして、この神の御意志は、正に、主イエスの十字架の救いにおいて、最も良く示されております。その救いの御業は、罪ある私どもを新たに生かす恵みであり、私どもを喜びと恵みの内に常に置いてくださる神の救いの御業なのです。そして、このように人間を愛し、救い出して、喜びを与えてくださるのが、神の御意志なのです。

私どもは、このカナでの婚礼における奇跡を通して、主イエスの十字架によって示される神の御意志を知る者とされているのです。

主の声を聞き分ける」 8月第3主日礼拝 2008年8月17日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章19〜30節

10章<19節>この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。<20節>多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」<21節>ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」<22節>そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。<23節>イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。<24節>すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」<25節>イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。<26節>しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。<27節>わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。<28節>わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。<29節>わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。<30節>わたしと父とは一つである。」

19節、主イエスの言葉によってユダヤ人の間で対立が生じたと言われております。これは9章で既に起こっている対立です。一方は安息日に「癒し」を行った主イエスを律法違反として「罪ある者」とし、もう一方は「生来の病(生まれつきの盲人)を癒すことが出来るのは神のみ、罪ある者にできるはずがない」として主イエスを「罪無き者」と考える、そういう対立でした。
 「わたしは羊(信じる者)のために命を捨てる。わたしは神と一つなる者である」と主イエスは言われました。しかし、この言葉を「信じられない」者がいたことも無理からぬことです。聖書は何を語っているのでしょう。「信じさせたい」と思うならば「主イエスの奇跡によって、こんなすごいことが起こった」と、信じられるようなことを並び立てることは楽なのです。しかし聖書は、一方に「信じられない者がいる」ことを率直に語っております。なぜ「信じられない者がいる」ことを語るのか、そこに「キリストを信じること」の本質があると言って良いかと思うのです。
 「命を捨てる」とは「主イエス・キリストの十字架」を意味しております。主イエス・キリストは「神の子として罪無き方」です。その「罪無き方」が十字架について死なれるのです。十字架は罪人を罰する極刑であるばかりではなく、人々への見せしめであり、人々を熱狂させ命を軽んじる辱めとしての死でありました。「罪無き神の子」が「罪ある者」として極刑を受ける、これは究極の「冤罪(えんざい)」です。「冤罪」は、あってはならないことです。しかし、主イエスはご自分の十字架を冤罪だとはおっしゃいませんでした。むしろ主イエスは十字架を「父なる神の御心」とし、「罪ある者の身代わり」として十字架についてくださいました。
 しかもそれは単なる「身代わり」なのではありません。もっと深いのです。私どもの罪は自らの命で償う(つぐなう)べきものです。しかし主イエスは「罪無き御自分の清き命」をもって「私どもの罪の命」の贖い(あがない)となってくださったのです。

ここで「罪」について理解を深めたいと思います。
 「罪」とは「神に背を向けていること」です。神無しでやっていけるという傲慢です。罪の結果として起こること、それは「自己中心」です。人間は何かに頼って生きる存在です。ですから、神に頼らない者は、自分に、あるいは物(お金、財産、名誉、能力)に頼る。「罪の姿」は、その人の根本の在り方を示すのであって、何か悪いことをしたということではないのです。
 自分が全て、持っている物が全てとなると、人は他者との交わりを失い「孤独」に生きざるを得ません。友人・家族であっても、真実な交わりを持てないということもあるのです。
 聖書の語る「罪」は「罰」を含んでおります。「神に背を向けている者=罪ある者」は「孤独」という罰の中に既にある。それは自分を低くできないからです。神を神とせず、自分に頼り高くする、人にはそういう罪があるのです。そのような自己中心の「罪ある者」が、神との信頼ある交わりを得ること、それが「救い」です。主イエス・キリストの十字架の死は、そのような「罪ある者の贖い」としての死です。人は主イエス・キリストの十字架によって、神との信頼ある交わりを与えられ、救われるのです。ですから「主イエスの十字架の救い」は「神を信じられない者の救い」なのです。本来「信じられない者の救い」などあり得ないことです。にもかかわらず、主イエスは「信じられない者」を救うために十字架についてくださいました。

聖書は、信じる者の素晴らしさを語っているのではありません。しかし「信じる者は幸い」とも語られております。信じる者には「平和」があるのです。信じられる人の心のうちには「平安」があるのです。「平和」ということを思う時、私ども一人ひとりの心のうちの平安なくして本当の平和を語れるでしょうか。本当の平和は、一人ひとりの心のうちに平安があってこそ実現することなのです。ですから、神を信じられない社会に、時代に、平和はないのです。「信じられる」ということは素晴らしいことです 。そこには「平和への希望」があるからです。

聖書は、主イエス・キリストの十字架について証しし、「信じられない者の救い」を語っております。「信じられない者がいる」ことを語る、そこに「救いの本質」を語っているのです。信じられない者のためにこそ主イエスは十字架につき、信じられない者の救い主になってくださる、それが聖書が証ししていることです。私どもは聖書に聴くとき「主イエス・キリストこそ命まで下さって贖いをなしてくださった私どもの救い主である」ことを知るのです。
 「信じる」ということは、どういうことでしょうか。「信じられない者」は自分の力で信じられるのではありません。私どもは「信じられない者」なのに、聖書の語る救いの言葉を聴くことによって「信じる者へと変えられる」のだということを覚えたいと思います。自分の力によるのではありません。ただ主イエス・キリストの十字架の恵みによるのです。信じられない者が信じる者へと変えられる、その恵みの出来事が「信仰」なのです。

聖書が何故「信じることができない者」のことを語っているのか。「信じることができない者が救われる」ために語っているのだということがお分かりいただけたかと思います。
 「信じることができない者の救い」を成し遂げてくださった方、それが主イエス・キリストなのです。

主イエスの羊」 8月第4主日礼拝 2008年8月24日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章22〜30節

<22節>そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。<23節>イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。<24節>すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」<25節>イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。<26節>しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。<27節>わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。<28節>わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。<29節>わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。<30節>わたしと父とは一つである。」

22節「そのころ」とはいつでしょうか。「神殿奉献記念祭」とあり、それは12月なのです。神殿奉献記念祭は12月に8日間祝われるエルサレムの3大祭の一つで、家々に明かりを灯すので「光の祭」とも言われ「宮清めの祭」として知られております。12月と分っているのに、敢えて「冬であった」と書かれているのはなぜでしょうか。
 ヨハネによる福音書は、12章から主イエスの受難の物語に入ります。ここでは、主イエスの地上でのしるしと教えの時代は終り、いよいよ受難の時代に入ることを強調するために「冬」と言って暗いイメージを与えているのです。
 また、23節「神殿の境内でソロモンの回廊を」という言葉も、「神殿」と言って「神の宮の中心にある方」を、「ソロモン」と言って「ダビデの子」をイメージさせ、主イエスがメシアであられることを印象づけております。

24節、ユダヤ人たちは「イエスがメシアであるかどうか」はっきりさせようとして問うている印象を受けますが、彼らは「主イエスはメシアである」と認めるわけではないのです。「メシアである」と言わせて、それによって「自称メシア」であることを律法に照らして明らかにし、主イエスを断罪しようとしております。
 しかし、ユダヤ人たちのこの問いは、結果として「主イエスはメシアである」ことを証しすることになっております。それは、人の思いを超えて「主イエスはメシアであられる」ということです。
 彼らの間違いは、自分たちの判断が優先していることにあります。自分たちで「メシアであるか否か」判断できると思っているのです。事実を受け止めず、自分たちに都合の良い判断をしようとするのです。考えさせられます。私どもは事実に基づいて行動しているでしょうか。そうではなく自分の都合を優先させているのではないでしょうか。そこに、人の持つ「罪の問題」があります。
 今の時代は、真実・事実を失っている時代です。真実が無いと確かさがなく、人は不安にならざるを得ないのです。人は、真実たらしめるものを心の奥底では求めております。人は神を必要としているのです。なぜなら「神のみ真実」だからです。人は神を見ることによって真実を知り、自分を確かなものとすることができるのです。
 そして「信じられない」からこそ、かえって「神を求め、証しする」のだということを、このユダヤ人たちの姿を通して覚えて良いと思います。人は、何を目的として存在しているのでしょう。人は「神を明らかにする者」として存在しております。一つには「神を讃美する」ことによって証しするのです。しかし「神を否定する」ことによって、神を一層必要とする者として、そのような不信仰によって証しするということもあるのです。
 今の時代は「真実の神」を求めております。そして教会は、その「真実の神」を宣べ伝えているのだということを覚えたいと思います。

25節、この問いに示されていることは何でしょうか。それは「主イエスをメシアと信じるか、信じないか」が問われているということです。
 生来の病(生まれつきの盲人)を癒すことは神にしかできないこと、その癒しを「父の名によっての業」として、「父なる神と一体の者」としてなされた主イエスを、26節「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と言われております。「主イエスの羊」とは、「所有」を表しております。「信じる」ことによってキリスト(救い主)の所有とされているということです。ユダヤ人たちは「信じない」ので、信じない者はわたしの羊ではないと言われているのです。
 主イエスが「わたしの羊」と言ってくださる、それは「主イエス・キリストの救いのうちに既にある」ということです。では、「救い」はどこにあるのでしょう。それは「キリストの名による教会」にあるのです。「教会」は「神が神として現される場、神の支配の場」です。救いは他にはないのです。ですから「教会の交わりのうちにある」ということは、「キリストに属する者とされている」ということであり、「救いのうちに既にある」ということなのです。

27節、「主イエスの羊」は誰に聞くのでしょうか。「わたしの声」すなわち主イエス・キリストのみ言葉に聴く、聴き従うのです。「主のみ言葉に聴く」、それは「聖書に聴く。聖書に親しむこと」、そして「説教を聴く。聖書の解き明かしを聴く」ことです。

28節「主の言葉を聴く主の羊」には「永遠の命を与える」と言われております。ヨハネによる福音書は、「救い」を「永遠の命をいただくこと」と語ります。そしてそれは(1)終わりの日の約束として与えられる、(2)今既に与えられている、という二重性を持っております。この地上にありながら既に永遠の命に与っている、ということです。「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と主は言われます。一旦、キリストのものとされたならば、決して滅びることはないのです。
 地上の命は死をもって終わりますが、神のくださる永遠の命は終わることはありません。「永遠の命」とは「神との交わりにある」ということです。「神との交わりがない」、それは「陰府(よみ)」です。地上の命だけでは、陰府の世界で終わるのです。陰府に終わるしかない私どものために「主イエス・キリストが十字架につき復活して」くださいました。ですから私どもは、その主イエスを信じることによって、死を超えた永遠の命をいただく者とされるのです。ですから、キリスト者にとって地上での死は、永遠の命の通過点に過ぎないのです。

主に勝る者はどこにもない、その主イエスが「わたしの羊」と言ってくださって、私どもは主イエスにある確かさのうちに生きることを得、永遠の命の恵みのうちに既にあるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

主よ、わたしの声を
     聞いてください」
8月第5主日礼拝 2008年8月31日 
田邉良三 伝道師 
聖書/詩編 第5章1〜13節

5編<1節>【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】<2節>主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。<3節>わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。<4節>主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。<5節>あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず<6節>誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。<7節>主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。<8節>しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。<9節>主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。<10節>彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。<11節>神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。<12節>あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。<13節>主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

今朝与えられ御言葉は詩篇5編です。その1節は次のようになっています。

<5:1 指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。>
 このことから、まず、この詩が礼拝において用いられてきたことが分かります。更に、ダビデの詩といわれていることからこの詩がダビデ王とも結びつけられていることが分かります。ダビデ王はイスラエルにおいてとても重要な王様です。彼の子孫から救い主が誕生すると預言者の言葉にあるほどの王様です。しかし、その彼は苦しみの尽きない、そして、神の前に罪深い一人の人間でした。その中で、ただ神にすがって歩むものだったのです。そうしたものの祈りとしてこの詩編は位置づけられ、礼拝の中で読み続けられてきたのです。

<5:2 主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。>
 ここで主に祈り求める信仰者は、何度も言葉を重ねながら自分の祈りを聞いてくださいと主に祈っています。それも、その祈りは言葉になるものだけではありません。ここでは祈る者の祈りを表すのに、「言葉・つぶやき・叫ぶ声」という表現が用いられています。祈りの言葉は、次第に言葉としての整った形を失い、つぶやきへと変わっていきます。まさに自分でも言葉にできないような祈りへと変わっています。そして最後には、それは、ただただ私の王、私の神に助けを求める叫びの声となっているのです。この詩においてそれほどの激しい祈りがなされているのです。それもこの祈りは「朝ごとに」なされた祈りであるということを続く言葉から知ることができます。「主よ、朝ごとに、私の声を聞いてください。朝ごとに、私は御前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます。」このように主の前に毎朝祈り訴え続ける姿を見るとき、まさにそれほどに深い苦しみがこの信仰者の中にあることを知らされるのです。ここ以外の詩編の多くの詩の中でも、祈る者に苦しみがあります。苦しめる者たちによって不当に与えられた苦しみがあったのです。この詩においてもこの信仰者を取り巻いている状況は恐ろしいものです。

<5:9 わたしを陥れようとする者がいます。5:10 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。>
 この9-10節にあるように彼の周りには、彼を陥れようとする者が、その偽りの言葉によって、彼を死へと滅びへと引き込もうとする者がいるのです。そうした状況の中に今この信仰者は入れられているのであり、自分ではどうにもあらがいきれない力に翻弄される中で主なる神に救いを祈り求めているのです。彼にはもうほかになすすべがない、ただ主の前に訴え出て主がこの祈りを聞き正しい裁きをなしてくださることに望みをおく以外にできることはないのです。こうした祈りは主を信じるものだけがなすのではありません。苦しみの中で言葉にならない言葉で救いを叫ぶということは苦しむ者すべてに訪れる可能性のあることです。主を信じるものであれ、求道中のものであれ、教会に足を踏み入れたことのないものであれ、多くのものが苦しみの中でそこから助け出されることを願い、祈るのです。しかし、祈る相手が誰でも良いとは聖書はいいません。ここでもこの詩人ははっきりとその祈りに答えてくださる方を示しています。「私の王、私の神」こそが、主だけが自分の声に耳を傾けてくださることを知っているのです。

 その彼が続いて発する5-7節の言葉は、今彼が祈っている相手がどのような方であるかということを明らかにしています。
<5:5 あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず5:6 誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。5:7 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。>
 まさにここに現れている確信の故に、彼は彼の神に訴え続けるのです。神は逆らう者を喜ばれないとあり、悪人はみもとに宿ることが許されないとあります。ここの逆らう者という言葉も「悪」という意味を持つ言葉です。また、誇り高い者とは、自らを誇り、傲慢な者となり神を神としないものを指しています。そうした悪しき者を神は許さず憎まれるというのです。そして、偽りを語る者、人を傷つけ死へと追いやる者、あざむく者を主は厭い滅ぼされるのだということが語られています。神は正しい方です。だからこそ悪をそのままにはされないというのです。

 しかし、ここで彼の次の言葉に目を向けていかなければなりません。
<5:8 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。5:9 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。>
 その中でも「深い慈しみをいだいて」という言葉に目を向けたいのです。これは「神の豊かな慈しみの中で」という意味の言葉なのですが、それをいだいて神の家にはいるというのです。実は彼は自分が神の慈しみによらなければ神の家に入り得ないものであることを知っているのです。彼自身も神の前で正しい者でありえないのです。だからこそ、彼は神の慈しみのうちにその家にはいることが許されていることに感謝し、神を礼拝しているのです。もっというならば、彼は神の前で罪ある者だったわけです。神に背く者であった、しかし、神の慈しみのうちに彼は主なる神に立ち返ることのできた者であったのです。自分が神によって滅ぼされる者であったのにそこから神が恵みの御業を通して立ち返らせてくださったのです。だからこそ彼は神の恵みの御業による導きを願い、主の道をまっすぐに歩ませてくださるように祈るのです。主の導きがなければ、自分がすぐに主を離れ滅びの道に歩んでしまうことをはっきりと知っているのです。彼は悪の力、主に背かせる力が、自分のうちにも周囲にも充満していることを知っているのです。だからこそ、主の導きを祈るのです。

 また、10-11節には次のようにあります。
<5:10 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。5:11 神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。>
 その祈りのうちに、彼を取り巻く悪を打ち倒してくださいと祈るのです。あざむきの言葉によって信仰者を神から引き離し、死へと、滅びへと誘う者を打ち倒してくださいと願うのです。

 悪の力は私たちをほんろうします。しかし、この恐ろしい敵もかなわない相手がいる。それこそが主なる神に他なりません。まさに主を避けどころとする者、御名を愛する者、主に従う者に、この悪の力、主に背かせようとする力は何の権利も支配の力も持ってはいないのです。12-13節には次のようにあります。
<5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。5:13 主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。>
 主なる神に従う者を神は祝福し盾となって守ってくださるのです。この神の祝福、守りのうちに私たちは喜びつつ神を礼拝するのです。まさに神によって守られた者として、慈しみのうちに恵みの御業によって導かれた者として、自分を誇る者ではなく、主を誇る者とされるのです。私たちは主イエス・キリストが十字架についてくださらなければ、復活してくださらなければ私たちの罪によって滅ぶばかりでありました。聖霊がこの十字架と復活の主に引き合わせてくれなければ、ただただ悪の力、罪の力にほんろうされていくしかなかったのです。そんな私たちを、この信仰者と同じように、罪にほんろうされていくばかりの私たちを、神はご自分のひとり子の死を持って贖ってくださったのです。この恵みの御業によって私たちは主の者とされ、主と共に生きる者とされたのです。だからこそ、この主を離れては私たちは真実に生きていくことはできないのです。主がいつも共にいて我らを導き、命の道を歩かせてくださるように祈っていきましょう。「助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。」この真剣な祈りの叫び声を神は決して聞き逃される方ではないのです。私たちの盾となってくださる方は、私たちの祈りの声を聞いて悪から救いだし、祝福で満たしてくださる方なのです。この主に信頼して今週も祈りつつ歩んでいきましょう。

 主は私たちの祈りの声を必ず聞いていてくださいます。