聖書のみことば/2008.7
2008年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主よ、信じます」 7月第1主日礼拝 2008年7月6日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章35〜41節

9章<35節>イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。<36節>彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」<37節>イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」<38節>彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、<39節>イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」<40節>イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。<41節>イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

生まれつき盲人だった人は、主イエスに出会って見えるようになりました。その人に「主イエスは罪人」と言わせたかったファリサイ人たちは、彼が思い通りに答えなかったために、彼を会堂(ユダヤ人共同体)から追い出したのでした。

今日の箇所は、追い出されたその人に対して主イエスが語ってくださる場面です。
 35節「追い出す」つまり彼は仲間外れにされたのです。仲間外れにされ傷つく者を主イエスは知っていてくださる、そのことが「お聞きになった。そして彼に出会うと」という言葉から分ります。思いを受け止め、主イエスの方から出会ってくださるというのです。
 「主イエスとの出会い」とは、どのようなものなのでしょうか。私どもは、人生に行き詰まりを感じたとき、望んでいるわけでもないのに不思議に主イエスへと向かい、自ずと主イエスに出会うという経験をしたのではないでしょうか。それはとりもなおさず、主イエスの方で私どもに出会ってくださったからに他なりません。
 そして問われます「人の子を信じるか」と。「人の子」とは、一つは「人間」であり、もう一つは「終末においでくださるメシア」を言い表します。ここでは、主イエスはご自身を救い主(メシア)として言い表しておられます。「あなたは、わたしを、地上に来てくださったメシアとして信じるか」という問いです。
 ヨハネによる福音書が強調すること、それは「あなたは、主イエスを救い主(メシア)と信じているか」との問いです。なぜ「信じるか」と問うのか。ヨハネによる福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われます。「あなたたちは神に愛されている。愛されている者として、主イエスを信じるか」と問うのです。愛されている、だから愛してくださる方を信じるよりないのだと、繰り返し語るのです。その神の愛に応えて「信じる」こと、それが信仰です。そして「信じること」によって私どもは義とされるのです。

36節「主よ、」と答えます。彼はまだ信仰を言い表したわけではありませんので、ここで「主よ」と呼びかけたのは、イエスを教師、導き手としてそう呼んだのでしょう。しかしこの人は、これまでの様々な経験を通して、この時既に「メシア(救い主)」に対する感覚を持っているのです。彼の中で「メシアを求めている」ということが明確になっている、だから「信じたいのですが」という言葉になっております。
 現代は、このような感覚が失われている時代です。しかし、この「信じたい」という言葉は、信じることの難しくなった今の時代に響くと思います。信じることが出来ない社会は、疑いと裁きを引き起こす社会。それは不安、焦燥、歩みは暗いのです。だからこそ「信じたい」、「本物を信じたい」というこの社会の心の呻き、叫びが、この言葉の中に言い表されているように思うのです。
 そしてそこで「信じて良いのだよ」と言ってくれているのが聖書です。主イエスの十字架と復活を通して示される「神の御業」が、信じることの出来ない者を「憐れみ」「救って」くださるのです。
 今一度、主イエスが救い主(メシア)であるということを受け止めておきたいと思います。主イエスは地上においでくださり、十字架にかかってくださった方、復活して永遠の命に生きる希望を与えてくださった方です。そして天に帰られる方(先在のメシア)であるが故に、私どもの住まいも天にある、神と共に住むことが赦されると、永遠の命の約束を繰り返し語り、ヨハネは強調しております。

37節、主イエスは「あなたは、もうその人を見ている」と言い、主イエスを見ることによって「主イエスが地上においでくださったメシアである」ことを示しておられます。主イエスがメシアであることを証明するのは誰か。律法でも律法学者でも律法の実践者でもない。主イエスとその御言葉のみが、そのことを証ししております。人間の自己証言、それは全く意味がありません。しかし、主イエスの場合は、主イエスの自己証言しかないのです。それは、主イエスしか知らないことだからです。主イエスは神の御心そのものであられる方、律法の完全な成就者です。主イエス以外には誰も完成を見ないのです。律法学者も律法の実践者も正しくメシアを証言することは出来ません。ですから、主イエスが自ら示してくださる以外に、私どもは主イエスを本当には知り得ないのです。その主イエスが「わたしこそメシアだ」と言ってくださっております。

38節、彼は「主よ、信じます」と言います。率直に信仰が言い表されております。この言葉に、思わされます。私どもは心から率直に「主よ、信じます」と言い得ているだろうか、と。主は問い、主は言ってくださるのです、「わたしがメシアだ」と。私どもはいつも主からの言葉をいただいているのです。だからこそ、私どもも率直に「主よ、信じます」と言いたいと思うのです。そういう日々の歩みでありたいと思うのです。「主よ、信じます」これこそが、私どもの歩みであることを、今改めて覚えたいと思います。
 信仰の告白、そして続いて行動が起こります。「ひざまずくと」と言われております。主イエスを拝するのです。「信じる」ことは「礼拝する」ことと一つであることを覚えたいと思います。

39節、主イエスが「裁く」と言われます。信じる者の救いを通して、信じない者への裁きとは「救いに至らないこと」だということが明らかになります。
 ここで言う「見える、見えない」は目のことではありません。「主イエスが救い主である」という、知らなかったことを知るようになったということです。このことが大事なのです。ファリサイ人たちは「見えない」のです。

40節、ファリサイ人たちが、いかに見えていないかが示される発言です。
 主イエスを信じられないということは、罪の中にあるということです。主イエスを見ていないから信じられない、そのことの責任は問われるということです。

「信じる」ということは、主イエスに救いを見ることです。目によってではなく、ただ「信じる」ことによってのみ、私どもは救いへと至る者であることを覚えたいと思います。

主は羊飼い」 7月第2主日礼拝 2008年7月13日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章1〜6節

10章<1節>「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。<2節>門から入る者が羊飼いである。<3節>門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。<4節>自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。<5節>しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」<6節>イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

1節「はっきり言っておく」とは、度々出てくる言葉です。「アーメン(それは真実です)、アーメン」と繰り返され、直訳すると「まことに、まことに、わたしはあなた方に言う」となります。「真実」と繰り返し言われていることに、この言葉が「主イエスの真実な言葉である」ことを覚えたいと思います。それは、真実な方の真実な言葉です。真実には力があるのです。
 また、この言葉はギリシャ語で主語を省かず「わたしが」、「あなた方に」とはっきり記されております。「あなた方」とは、この場のファリサイ人に留まらず、聖書に聴く者全てのことです。ですから、この言葉は主イエスが存在をかけて、私ども聴く者全てに語りかけてくださっている言葉なのです。

「羊飼い」について語られております。「羊飼い」というと、一面の緑の牧場に牧羊犬を連れた遊牧民を思い浮かべますが、それはヨーロッパの草原のイメージであって、当時のパレスチナは違うのです。砂漠の羊飼いは半遊牧で、「囲い」とあるように、羊飼いは羊を牧草地まで連れて行き、また囲いへと戻ります。石囲いは羊を獣から、また迷い出ないように守ります。羊飼いは羊の所有者であり、一匹ずつに名を付け、特徴を知り、自ら大切に扱います。ですから、パレスチナの羊飼いは「王とその民」とも例えられており、羊の一匹一匹を大切な存在とするので、放牧を牧羊犬に任せたりしないのです。
 旧約聖書に出てくるダビデは石投げの名人でした。石投げは、戦いのための技なのではなく、群れから迷い出る羊の鼻先に石を投げ群れに戻すための技でした。羊飼いは、一匹の羊を大切にし、愛し、自分のものとして育み育てるのです。

言うまでもなく、ここで言う「羊飼い」は「主イエス・キリスト」です。そして「羊」は主の弟子、すなわち教会です。ですから主イエスは誰よりも教会に集う私ども一人ひとりをご存知でいてくださるのであり、大切にし、愛し、守ってくださり、羊飼いとして私ども羊の群れを先頭に立って導いてくださる方なのです。

「羊」とは、どのような存在でしょうか。「羊」は、鋭い牙も爪も持っておりません。身を守るとすれば、力で押すか逃げるかしかないのです。ならば逃げ足が速いかと言えば、足は短く体はずんぐりしていて速く走れません。また、近眼で遠くを見通せないので、危険を察知する能力もなく、前を行く羊のお尻にくっついて進むしかない。羊は、自ら身を守る術を持たない弱い動物です。ですから、ただ「群れ」にいることによってのみ安全を得ることができるのです。羊は、その群れから迷い出ればもうおしまい、群れを離れては生きて行けない存在であります。そしてそのことは、人間と共通しているのです。人もまた、群れの中で自らの存在を確かにできるのであり、孤独は人を虚しくさせます。ですから、所属すべき共同体を失うことは危ういことです。弱く無力であるがゆえに、共同体(群れ)を必要とする、それが人間の姿です。
 そしてそこで大切なことは、共同体は導き手を必要とするということです。真実な導き手を必要としているのだということを覚えたいと思います。あるいは「群れ」であれば、無いよりましなのかもしれません。しかし、群れには、群れの一人ひとりを大切にして整えてくれる存在が必要なのです。
 主イエス・キリストは、私どもの真実な導き手です。私ども一人ひとりの全てをご存知でいてくださり、自らの命まで捨てて(十字架)私どもを贖うほどに愛してくださっております。ですから、教会という共同体(群れ)の中では、私どもは決して孤独ではなく、教会の交わりの中にあるということは、我知らぬうちにも主イエスに覚えられ守られているということなのです。

「真実、まことに、わたしはあなた方の羊飼いである」と、主イエスが宣言してくださっている、ありがたいことです。「あなた方は、わたしの羊」と言ってくださっております。「誰もが大切な主イエス・キリストの羊である」ということを、このところから聴きとりたいと思います。

3節「羊はその声を聞き分ける」、4節「羊はその声を知っている」と言われております。主イエスの声を聞くとはどういうことなのでしょうか。それは「主イエスの語られる御言葉に聴く」ということです。主イエスは、私どもに「御言葉」をくださっております。その「御言葉」が、私どもの真実な姿を示してくださって悔い改めへと導かれるのです。主イエスから御言葉をいただき導びかれる、だから私どもは「主の声を知っている」のです。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」、このように主は愛を示してくださっております。「声をかけられている」ということは、御言葉を与えられているということなのです。

5節「ほかの者」とは、1節にある「盗人、強盗」のことです。彼らは自分の利益のために、自分の思いを満たすために羊を集めようとします。しかし、主イエスはそうではない。主イエスは「羊が羊として生きていけるように」集めてくださるのです。私どもは、主を喜ばせる羊でしょうか。いえ、決してそのような羊ではありません。にも拘らず、主は、私どもが「生きる喜びをもって生きられるように」、主の囲いの中に入れて守ってくださっているのです。

6節、ファリサイ派の人々は、自分たちが「盗人・強盗」と言われていることが分らないのです。何故分らないのでしょうか。それは、あくまでも「自分が正しい」と思っているからです。自分が正しいと思っている限りは、他者を理解することはできません。自分とはどのような者か、自分の真実な姿が分らないからです。

私どもにとっての幸いは何か。それは、自分を「弱く、無力な者だ」と知っていることです。自らの弱さを知り、欠けある者は、「祈り」を「神へと向かうこと」を必要といたします。神はそのような者を慈しみ憐れんでくださるのです。自らの弱さを知るがゆえに、神を知る。神の愛に守られている存在として自分を見ることができるのです。

主イエス・キリストが私どもの羊飼いであってくださることを知ることは、何と幸いなことでしょうか。御言葉を聴くごとに、神の憐れみを改めて知り、歩むことのできる恵みを感謝したいと思います。

わたしは羊の門」 7月第3主日礼拝 2008年7月20日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章7〜13節

10章<7節>イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。<8節>わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。<9節>わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。<10節>盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。<11節>わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。<12節>羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。−狼は羊を奪い、また追い散らす。−<13節>彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

7節、主イエスは宣言されました、「わたしは羊の門である」と。1〜6節では「わたしは羊飼い」と言われ、ここで突然「門」と言われます。主イエスとはどういう方なのか、「門」ということから語られております。すなわち、ご自身が「門・入口」なのだと言っておられる。「わたしを通して人は救いに至るのだ」とおっしゃってくださっております。

その上で、8節「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」というのです。例えば、民の指導者であり、律法を実践しているファリサイ人を「盗人」と言われます。何故でしょうか。ファリサイ人は、「盗むな」と命じる律法を厳格に守る者として、自分は断じて「盗人ではない」という強い自覚を持った人々でした。しかし、律法を守ることでは人は救いに至ることはできませんでした。律法によっては、神の民にふさわしく生きることはできなかったのです。人はどこまでも自分本意です。律法厳守も、神の恵みへの応答としての行為ではなく、守っているという自己肯定・自負、すなわち自分を誇ることになるのです。ちゃんとやっていると思えば思う程、自分が神となってしまい、神から遠くなる。順調であればある程、神を必要としなくなります。そして、神の前ですら自らを誇る。人の高慢さ、傲慢さです。それゆえに主イエスは「盗人・強盗」と言われるのです。一体何を盗んだのでしょうか。彼らは自分を誇った、それは「栄光」を自分のものとしたということです。「栄光」は神のものです。真実に栄光に値するのは神のみです。ですから「盗人」なのです。栄光は「神を神として、そこに神の臨在を現すこと」です。神を現さず、自分を現す、それは盗人なのです。高慢であるがゆえに神の栄光をかすめ取るような生き方が、盗人(罪人)の生き方です。
 人のあり方は本質的に、自らの栄光を現そうとする、盗人というあり方です。信仰とは、自らの栄光を現すものではなく神の栄光を現すもの、神を神として現すことです。人は何でも誇ってしまう、弱さまでも売り物にするように誇り、自己正当化の材料としてしまう者です。そういう罪深い者を、十字架によって贖い出してくださる主イエス、その主に委ねるよりないのです。
 「わたしは門である」と言って、主イエスをキリストと信じることにより私どもが救われることが示されております。「救いに至る」ことは「神の国に入る」ことと一つです。神の支配(神の国)の内に入れていただくことです。地上という限定されたところから、制限を超えた「永遠の御国」に入れられることが示されております。もはや私どもにとって、地上が全てではありません。「神の国、神」が私どもの全てなのです。

11節で「わたしは良い羊飼い」と、主イエスは言われます。羊飼い(イエス)は羊(人)のために「命を捨てる」と言ってくださっております。
 私ども(罪人)のために、主イエスは命を捨てると言われます。本来ありえないことです。罪人のために死ぬ、それは主イエスにだけ可能なことです。主イエスは私どもに対して、死ななければならない道理も義理もないのです。それなのに私どものために命を捨ててくださったお方です。そのことが「わたしは良い羊飼い」という言葉に示されております。ですから、「羊飼いとして主イエスを信じる」ということは、「十字架の主イエス・キリストを信じる」ということに他なりません。主イエス・キリストのみが神の栄光を現したのです。「十字架」こそは、神の栄光を現す出来事です。そして私どもは、その十字架の主イエスを信じることによって、神に栄光を帰することが赦される、それはただ恵みのできごとです。

最近、「罪の贖い(あがない)」と「罪の償い(つぐない)」の違いについて思わされました。罪は「償うべきこと」です。ですから、私ども(人)は、罪を償うというあり方です。しかし、主イエスの十字架の出来事は「贖い」です。
 私どもは、神の前にある自分の罪深さを到底償いきれない者です。その罪を一切引き受けてくださった、それが主イエスの十字架の贖いです。償いは為すべきこと、贖いは為し得ないことです。私どもの償いきれない罪の一切を贖ってくださった、それが主イエスの十字架と復活を通して私どもに与えられた贖いの恵みなのです。

「わたしは門」「わたしは良い羊飼い」と言って、私どもの救いを宣言してくださる方、それが主イエス・キリストです。この主の御言葉をいただいた者として、「主イエス以外に救い主はいない」との信仰を言い表す者でありたいと願います。

良い羊飼い」 7月第4主日礼拝 2008年7月27日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第10章14〜21節

10章<14節>わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。<15節>それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。<16節>わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。<17節>わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。<18節>だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」<19節>この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。<20節>多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」<21節>ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

主イエスは言ってくださいます、「わたしは良い羊飼いである」と。主イエスの御言葉に聴く者に対して「良い羊飼い」であることを宣言してくださっております。
 私どもが主イエスを「良い羊飼い」として選んだのではありません。主イエスを全く理解できない私どもであるにも拘らず、ただ憐れみにより、主は十字架と復活の贖いによって、私どもに救いを示してくださいました。主イエスご自身が、そこまでして私どもの「良い羊飼いになって」くださっている。有り難いことです。
 旧約においてイスラエルは奴隷の民でした。そのような有象無象の民を、神はただその選びによって、神の民としてくださいました。神の方から、民の魂の呻きを聞き、導き出して神の民としてくださったのです。

「良い羊飼い」とは、どのようなものでしょうか。「良い羊飼い」は「自分の羊を知っている者」です。羊飼いとして、私どものことを誰よりも良く知っていてくださる。主のみ、私どもを本当に知っていてくださるということです。
 「他者を知る」とは難しいことです。人間は他者のことを「頭では分っていても心では分りたくない」といことがあるのです。ですから、本当に深く知られているということは、どれほど慰め深いことかと思います。
 「自分のことを知られている」ということは、今日大事なことではないかと思います。自暴自棄になって他者を傷つける事件が次々に起こっております。自分を大切に思えなくなっている。ですから他者も大切に思えない。そして、自分の存在を知らしめる、そのために人々を驚かすような過激な行動に走る。そうすることにより、ようやくホッとした思いになっている。そのような形でしかホッとできない、何と悲しいことでしょうか。それほどに人の孤独の深さとは深刻なのです。
 人はどこかで自分の存在を得たいのです。自分を知ってくれるものを欲しております。自らの存在の確かさを失い、あえいでいる、そんな私どもに、主が言ってくださる、「わたしは良い羊飼い。誰よりもあなたを知っている」と。

人は何故、知ってくれる者を持てなくなったのでしょうか。一つは人間関係の希薄さ、もう一つは共同体性の喪失です。人は交わりの中で、共同体の中で、自分を位置づけております。人と人とが関わりを失い、自分を位置づけてくれるものを失うとき、人には確かさがなくなり、虚しくなるのです。その代用品は何でしょう。お金、地位、名誉等。人の作り出したこれらに確かさを見い出そうとするとき、人は、他者を見下し、他者の存在を失わせてしまいます。ですから、人と人との関係、共同体の大切さをひしひしと思わざるを得ないのです。

では何故、人間関係、共同体性が失われるのでしょうか。人間関係とは、他者との関係です。他者を「自己同一化しない、道具化しない関係」が「真実な人間関係」です。この根本にあるのは神です。絶対としての他者、すなわち「神」に対する畏敬を失う時、そこに人間関係の破綻があることを忘れてはなりません。神を畏れない者は、他者を利用するような人間関係しか持てません。真実な人間関係をつくることは、神の前にひざまずくことなくして有り得ないのです。神を忘れ見失ったから、信仰を失ったから、人は人格を失い狂気となるのです。
 今、社会は孤独に呻き、神を求めております。だからこそ、今、教会は大切なメッセージを発しているのです。共同体を結びつける根本、共通の絶対の価値観、それは宗教・信仰です。信仰が失われると共同体は成り立たなくなる、人はバラバラになるのです。今の社会の姿は、神を信じられなくなった時代の、宗教を失った時代の姿なのです。
 だからこそ私どもは、信仰を大切にし、語っていかなければなりません。家庭の中で、子ども達に、神を畏れることを教え、伝えていかなければなりません。教会が大切にすることは、そういうことなのです。それが、信仰ある者が社会にあって為すべきことです。

今、このような中で、主の御言葉が臨みます。主の方から「わたしはあなたがたの羊飼い」と言い、「救い主」として関わってくださいます。「恵み」という仕方で関わってくださり、私どもを全て把握し、そして私どもを位置づけてくださいます。
 悲しみ、苦しみ、痛みを、全て知っていてくださる。いや、そんな浅い表面的なことだけではない。私どもの罪深さを知っていてくださるのです。
 私どもは、自らの罪を知り、その罪に苦しみ嘆いているでしょうか。いや、自分ではそこまで罪を知り得ないのです。本当には罪の苦しみを感じ得ない私どもです。それなのに主イエスは、私どもために命までくださって、罪を贖ってくださいました。私ども以上に私どもの計り知れない罪深さを知り、痛み、苦しみ、嘆いてくださったからです。
 それが「主に知られている」ことの内容です。それは、あり得ないことの故に、有り難いことです。ですから、その方におすがりするよりないのです。自分以上に自分を知っていてくださる方、その方に信頼し、すがるのです。
 そして、そこでこそ知ります、「自分がどれほど主に愛され、大切にされているか」を。私どもの存在の確かさは、この主イエス・キリストのうちに、主を遣わしてくださった神のうちにあるのです。

それが孤独からの解放です。それが現代の救いなのです。