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生まれつき盲人だった人は、主イエスに出会って見えるようになりました。その人に「主イエスは罪人」と言わせたかったファリサイ人たちは、彼が思い通りに答えなかったために、彼を会堂(ユダヤ人共同体)から追い出したのでした。 今日の箇所は、追い出されたその人に対して主イエスが語ってくださる場面です。 36節「主よ、」と答えます。彼はまだ信仰を言い表したわけではありませんので、ここで「主よ」と呼びかけたのは、イエスを教師、導き手としてそう呼んだのでしょう。しかしこの人は、これまでの様々な経験を通して、この時既に「メシア(救い主)」に対する感覚を持っているのです。彼の中で「メシアを求めている」ということが明確になっている、だから「信じたいのですが」という言葉になっております。 37節、主イエスは「あなたは、もうその人を見ている」と言い、主イエスを見ることによって「主イエスが地上においでくださったメシアである」ことを示しておられます。主イエスがメシアであることを証明するのは誰か。律法でも律法学者でも律法の実践者でもない。主イエスとその御言葉のみが、そのことを証ししております。人間の自己証言、それは全く意味がありません。しかし、主イエスの場合は、主イエスの自己証言しかないのです。それは、主イエスしか知らないことだからです。主イエスは神の御心そのものであられる方、律法の完全な成就者です。主イエス以外には誰も完成を見ないのです。律法学者も律法の実践者も正しくメシアを証言することは出来ません。ですから、主イエスが自ら示してくださる以外に、私どもは主イエスを本当には知り得ないのです。その主イエスが「わたしこそメシアだ」と言ってくださっております。 38節、彼は「主よ、信じます」と言います。率直に信仰が言い表されております。この言葉に、思わされます。私どもは心から率直に「主よ、信じます」と言い得ているだろうか、と。主は問い、主は言ってくださるのです、「わたしがメシアだ」と。私どもはいつも主からの言葉をいただいているのです。だからこそ、私どもも率直に「主よ、信じます」と言いたいと思うのです。そういう日々の歩みでありたいと思うのです。「主よ、信じます」これこそが、私どもの歩みであることを、今改めて覚えたいと思います。 39節、主イエスが「裁く」と言われます。信じる者の救いを通して、信じない者への裁きとは「救いに至らないこと」だということが明らかになります。 40節、ファリサイ人たちが、いかに見えていないかが示される発言です。 「信じる」ということは、主イエスに救いを見ることです。目によってではなく、ただ「信じる」ことによってのみ、私どもは救いへと至る者であることを覚えたいと思います。 |
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1節「はっきり言っておく」とは、度々出てくる言葉です。「アーメン(それは真実です)、アーメン」と繰り返され、直訳すると「まことに、まことに、わたしはあなた方に言う」となります。「真実」と繰り返し言われていることに、この言葉が「主イエスの真実な言葉である」ことを覚えたいと思います。それは、真実な方の真実な言葉です。真実には力があるのです。 「羊飼い」について語られております。「羊飼い」というと、一面の緑の牧場に牧羊犬を連れた遊牧民を思い浮かべますが、それはヨーロッパの草原のイメージであって、当時のパレスチナは違うのです。砂漠の羊飼いは半遊牧で、「囲い」とあるように、羊飼いは羊を牧草地まで連れて行き、また囲いへと戻ります。石囲いは羊を獣から、また迷い出ないように守ります。羊飼いは羊の所有者であり、一匹ずつに名を付け、特徴を知り、自ら大切に扱います。ですから、パレスチナの羊飼いは「王とその民」とも例えられており、羊の一匹一匹を大切な存在とするので、放牧を牧羊犬に任せたりしないのです。 言うまでもなく、ここで言う「羊飼い」は「主イエス・キリスト」です。そして「羊」は主の弟子、すなわち教会です。ですから主イエスは誰よりも教会に集う私ども一人ひとりをご存知でいてくださるのであり、大切にし、愛し、守ってくださり、羊飼いとして私ども羊の群れを先頭に立って導いてくださる方なのです。 「羊」とは、どのような存在でしょうか。「羊」は、鋭い牙も爪も持っておりません。身を守るとすれば、力で押すか逃げるかしかないのです。ならば逃げ足が速いかと言えば、足は短く体はずんぐりしていて速く走れません。また、近眼で遠くを見通せないので、危険を察知する能力もなく、前を行く羊のお尻にくっついて進むしかない。羊は、自ら身を守る術を持たない弱い動物です。ですから、ただ「群れ」にいることによってのみ安全を得ることができるのです。羊は、その群れから迷い出ればもうおしまい、群れを離れては生きて行けない存在であります。そしてそのことは、人間と共通しているのです。人もまた、群れの中で自らの存在を確かにできるのであり、孤独は人を虚しくさせます。ですから、所属すべき共同体を失うことは危ういことです。弱く無力であるがゆえに、共同体(群れ)を必要とする、それが人間の姿です。 「真実、まことに、わたしはあなた方の羊飼いである」と、主イエスが宣言してくださっている、ありがたいことです。「あなた方は、わたしの羊」と言ってくださっております。「誰もが大切な主イエス・キリストの羊である」ということを、このところから聴きとりたいと思います。 3節「羊はその声を聞き分ける」、4節「羊はその声を知っている」と言われております。主イエスの声を聞くとはどういうことなのでしょうか。それは「主イエスの語られる御言葉に聴く」ということです。主イエスは、私どもに「御言葉」をくださっております。その「御言葉」が、私どもの真実な姿を示してくださって悔い改めへと導かれるのです。主イエスから御言葉をいただき導びかれる、だから私どもは「主の声を知っている」のです。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」、このように主は愛を示してくださっております。「声をかけられている」ということは、御言葉を与えられているということなのです。 5節「ほかの者」とは、1節にある「盗人、強盗」のことです。彼らは自分の利益のために、自分の思いを満たすために羊を集めようとします。しかし、主イエスはそうではない。主イエスは「羊が羊として生きていけるように」集めてくださるのです。私どもは、主を喜ばせる羊でしょうか。いえ、決してそのような羊ではありません。にも拘らず、主は、私どもが「生きる喜びをもって生きられるように」、主の囲いの中に入れて守ってくださっているのです。 6節、ファリサイ派の人々は、自分たちが「盗人・強盗」と言われていることが分らないのです。何故分らないのでしょうか。それは、あくまでも「自分が正しい」と思っているからです。自分が正しいと思っている限りは、他者を理解することはできません。自分とはどのような者か、自分の真実な姿が分らないからです。 私どもにとっての幸いは何か。それは、自分を「弱く、無力な者だ」と知っていることです。自らの弱さを知り、欠けある者は、「祈り」を「神へと向かうこと」を必要といたします。神はそのような者を慈しみ憐れんでくださるのです。自らの弱さを知るがゆえに、神を知る。神の愛に守られている存在として自分を見ることができるのです。 主イエス・キリストが私どもの羊飼いであってくださることを知ることは、何と幸いなことでしょうか。御言葉を聴くごとに、神の憐れみを改めて知り、歩むことのできる恵みを感謝したいと思います。 |
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7節、主イエスは宣言されました、「わたしは羊の門である」と。1〜6節では「わたしは羊飼い」と言われ、ここで突然「門」と言われます。主イエスとはどういう方なのか、「門」ということから語られております。すなわち、ご自身が「門・入口」なのだと言っておられる。「わたしを通して人は救いに至るのだ」とおっしゃってくださっております。 その上で、8節「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」というのです。例えば、民の指導者であり、律法を実践しているファリサイ人を「盗人」と言われます。何故でしょうか。ファリサイ人は、「盗むな」と命じる律法を厳格に守る者として、自分は断じて「盗人ではない」という強い自覚を持った人々でした。しかし、律法を守ることでは人は救いに至ることはできませんでした。律法によっては、神の民にふさわしく生きることはできなかったのです。人はどこまでも自分本意です。律法厳守も、神の恵みへの応答としての行為ではなく、守っているという自己肯定・自負、すなわち自分を誇ることになるのです。ちゃんとやっていると思えば思う程、自分が神となってしまい、神から遠くなる。順調であればある程、神を必要としなくなります。そして、神の前ですら自らを誇る。人の高慢さ、傲慢さです。それゆえに主イエスは「盗人・強盗」と言われるのです。一体何を盗んだのでしょうか。彼らは自分を誇った、それは「栄光」を自分のものとしたということです。「栄光」は神のものです。真実に栄光に値するのは神のみです。ですから「盗人」なのです。栄光は「神を神として、そこに神の臨在を現すこと」です。神を現さず、自分を現す、それは盗人なのです。高慢であるがゆえに神の栄光をかすめ取るような生き方が、盗人(罪人)の生き方です。 11節で「わたしは良い羊飼い」と、主イエスは言われます。羊飼い(イエス)は羊(人)のために「命を捨てる」と言ってくださっております。 最近、「罪の贖い(あがない)」と「罪の償い(つぐない)」の違いについて思わされました。罪は「償うべきこと」です。ですから、私ども(人)は、罪を償うというあり方です。しかし、主イエスの十字架の出来事は「贖い」です。 「わたしは門」「わたしは良い羊飼い」と言って、私どもの救いを宣言してくださる方、それが主イエス・キリストです。この主の御言葉をいただいた者として、「主イエス以外に救い主はいない」との信仰を言い表す者でありたいと願います。 |
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主イエスは言ってくださいます、「わたしは良い羊飼いである」と。主イエスの御言葉に聴く者に対して「良い羊飼い」であることを宣言してくださっております。 「良い羊飼い」とは、どのようなものでしょうか。「良い羊飼い」は「自分の羊を知っている者」です。羊飼いとして、私どものことを誰よりも良く知っていてくださる。主のみ、私どもを本当に知っていてくださるということです。 人は何故、知ってくれる者を持てなくなったのでしょうか。一つは人間関係の希薄さ、もう一つは共同体性の喪失です。人は交わりの中で、共同体の中で、自分を位置づけております。人と人とが関わりを失い、自分を位置づけてくれるものを失うとき、人には確かさがなくなり、虚しくなるのです。その代用品は何でしょう。お金、地位、名誉等。人の作り出したこれらに確かさを見い出そうとするとき、人は、他者を見下し、他者の存在を失わせてしまいます。ですから、人と人との関係、共同体の大切さをひしひしと思わざるを得ないのです。 では何故、人間関係、共同体性が失われるのでしょうか。人間関係とは、他者との関係です。他者を「自己同一化しない、道具化しない関係」が「真実な人間関係」です。この根本にあるのは神です。絶対としての他者、すなわち「神」に対する畏敬を失う時、そこに人間関係の破綻があることを忘れてはなりません。神を畏れない者は、他者を利用するような人間関係しか持てません。真実な人間関係をつくることは、神の前にひざまずくことなくして有り得ないのです。神を忘れ見失ったから、信仰を失ったから、人は人格を失い狂気となるのです。 今、このような中で、主の御言葉が臨みます。主の方から「わたしはあなたがたの羊飼い」と言い、「救い主」として関わってくださいます。「恵み」という仕方で関わってくださり、私どもを全て把握し、そして私どもを位置づけてくださいます。 それが孤独からの解放です。それが現代の救いなのです。 |
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