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13節「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った」とあります。「人々」とは、その人が生まれつき目の見えない人だったことを知っている、癒される前の彼をよく知っている人々です。人々は、この人のことで意見が分かれ、起こった事実を受け止められませんでした。本人に直接聞きますが、彼から「イエスの言われた通りにしたら目が見えるようになった」と聞いてもその事実を受け止められなかったので、ファリサイ派の人々にそれが「癒し」かどうか認定してもらうために彼を連れて行ったのです。自分たちでは判断できないので、ファリサイ派の人々=ユダヤ人の指導的な立場の人々に判断をあおごうとしたのでした。 では、ファリサイ派の人々は、この人をきちんと認識できたのでしょうか。 こういうやりとりの中で、ファリサイ派の人々は再び、この人に聞きます、17節「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と。ここで変化が生まれています。15節の「癒しがどのように起こったか」という問いから「誰が癒してくれたのか」という問いに変化したのです。それゆえ「あの方は預言者です」という答えに進んでいきました。 問われたこの人は、彼なりに「預言者です」と答えます。この人はまだ、主イエスの十字架も復活も知りません。しかし、主イエスを「神の御業をなす預言者」だと、「主イエスは神」との信仰を言い表し認識できたのです。しかし、ユダヤ人は信じることは出来ませんでした。信じなければ、主イエスを救い主と認識することは出来ないのです。 この問いは、私どもに対する問いでもあります。聖書の教えを聴くとは、主イエスの御業・教えを頭で理解しようとすることではなく、教えを示す「その方はどなたなのか」という問いを与えられているということなのです。 私どもは幸いなことに、この礼拝を通し「主イエスこそ私どもの救い主」と告白し賛美することを赦されております。今ここで「主イエスこそ私どもの救い主」と改めて覚える時が与えられているのです。主イエスの教え・御業を聴くことによって、主の救いの恵みが鮮やかに示され、主が私どもにも臨んでいてくださるということを知ることができるのです。 |
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18節、ユダヤ人たちは「現実に起こったこと」も信じませんでした。「信じない」それは「認めない、認識しない」ということです。事実を知るのは、知恵・知識によるのではありません。ただ「信じること」によってのみ、事柄の全体を認識できるのです。 19節、ユダヤ人たちは本人に聞くだけでは足りず、両親にも尋ねます。しかし両親からも自分たちの思う答えを見い出すことはできませんでした。彼らの問いは威圧的な言葉です。信じられない者の期待は、真実を知ることではなく自分の思いに叶った答えなのです。ですから圧力をかけた語気荒い言葉を使うのです。「信じない」と、そういうことが起こる。それは個人間でも組織においても起こるのです。 21節、両親は「分かりません」と答えますが、実は分っております。それは「どうして」に留まらず「だれが(目を開けてくれたのか)」とまで言っていることからも伺えることです。しかし両親は、その「信じるところ」を言えませんでした。 24節、盲人だった人は「神の前で正直に」答えております。主イエスに出会い、恵みをいただき自立したこの人は、圧力を恐れることなく、自由に恵みの出来事を語ることが出来るのです。 |
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新共同訳聖書では、今日の聖書の箇所には「キリストにおいて一つとなる」という表題が付けられております。今朝は「キリストにおいて一つ」とは、どのような者とされることなのか、御言葉から聴きたいと思います。 昨日は「岩手・宮城内陸地震」が発生しました。このところ大きな自然災害や様々な痛ましい事件が続き、日本社会は先の見えない不安や落胆、絶望を思わざるを得ない状況にあります。 この箇所では「ユダヤ人」と「異邦人」という敵対する者たちが、「告げ知らされた平和の福音によって(17節)」、「一つの霊に結ばれ(18節)」、キリストの恵みを証しする者としてキリストにおいて一つ「神の家族(19節)」とされるのだと語られております。以下、節を追って聴いていきます。 11節、ここで言う「異邦人」とは、初代教会で数を増したユダヤ人以外のキリスト者のことです。 「キリストにおいて」、この御言葉において、人間の本当の生き方が与えられるのです。神がキリストを私どもに与えてくださいました。そしてキリストが与えてくださった聖霊の力によって、私どもは「神を神とする」ことができる恵みのうちにおかれているのだということを覚えたいと思います。そのような者として、地上にキリストの恵みを届ける者として、新しい週もこの世の日々を生きる者でありたいと願います。 |
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今日は最初に讃美歌21−59番を讃美しました。この讃美は「神の御言葉への感謝」を歌っております。「感謝」を強調したのがプロテスタント信仰の特徴です。「感謝」は何か特別なことをするのではありません。私どもの日常に神の守り・支えを見、「懺悔・喜び・感謝の生活」を通して神を現すのです。 さて御言葉に入ります。 25節「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と、彼は冷静に答えます。決めつけられているのに、なぜ彼は自暴自棄にならなかったのでしょうか。それはただ一つ「見えるようになったという事実・真実」があったからです。決めつけの中に置かれると、人は自分を捨てざるを得なくなってしまう。しかし大切なことは相手に合わせてはならないということです。「真実の上に立つ」、そこでは自分を失うことはなく自暴自棄になる必要はないのです。彼に「目が見えるようになったという真実」をくださったのは、主イエス・キリストでした。自分に与えられている真実のゆえに、彼は揺らがなかったのです。 26節、今度は方法論に罪を見い出そうとしております。人間は悪知恵を働かせるものです。 27節、何度も言わせる、そして揚げ足取りをするのです。ですから何度も答えない方が良いのです。彼は「もう何度も話したでしょう」と言って、もはや答えません。大切なことは「真実の上に立っているかどうか」ということです。もはや彼がどう答えるかが問題なのではなく、問う側の問題なのです。「真実の上に立つ」とき、相手の問題が鮮やかにされるということが起こるのです。「なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と、全くユダヤ人たちのペースにはまらず、彼は問います。ユダヤ人たちは困り、腹を立てるのです。 28節「我々はモーセの弟子だ」と言うのです。「モーセの弟子」と言って、律法(神の言葉)を守っている自負があるのです。 29節、律法を基にして、主イエスを罪に定めようとする言葉です。 30節「神からの言葉を知っていると言いながら、なぜ神から来られた主イエスのことを知らないと言うのか不思議だ」と彼は言います。「生まれつきの盲人の目を見えるようにしてくださった」という「神にのみ為し得る業」がなされたという事実があるのに、と語るのです。 31節、彼は「主イエスが神の業をなさったということは、主イエスは神の御心に適う行いをする人だからではないか」と言っております。彼は決して教育を受けた者ではありませんでした。にもかかわらず、ユダヤ人にまさって神を言い表し、主イエスを「罪なき神からの方」と言い表したのです。主イエスを救い主と知るとき、信仰の言葉が与えられます。主イエスを救い主として知る恵みに与っていることを知るとき、そこで私どもは信仰を告白することができるのです。 32節「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた」、これは人には為し得ない、神のみ為し得ることです。神は「不可能を可能にしてくださる方」なのです。それは「罪人を救う」ということです。救いの根拠は私どもにあるのではありません。「救い」は主イエスを通して神が為してくださった「不可能を可能にする神の業」、神の憐れみの出来事なのです。不可能を可能にする神の業、プロテスタント信仰においては、それを「愛」と言い表しました。 33節 「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」とは立派な信仰の告白です。主イエスは神の御心を行う方、不可能を可能にする方、神であるとの告白です。 34節、ユダヤ人たちはどこまでも高みにある者です。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って彼を外に追い出したというのです。それはユダヤ人共同体から追い出したということです。彼は革命を起こして出て行ったのではありません。信仰とは、新しいイデオロギーによって新しい共同体を作るということではないのです。ただ「神の真実により頼む」ところで、新しい共同体(神の国)が自ずと形成されるのです。 この盲目だった人を通して私どもは、「神の真実の前に立つ時、人は人として立つ」のだということを示されました。 |
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愛宕町教会兼務担任教師としての3年間、夕礼拝を共に守って参りましたが、主日礼拝を共にしたいと願いながらも叶いませんでした。しかし場所は違っていても、私どもは「主を礼拝することにおいて一つ」とされるのです。 テモテへの手紙は、パウロの名を用いて誰かが書いたものと言われております。テモテとて、実際にはテモテかどうか分りません。しかしここで示されていることは「神によって立てられた人」から、同じように「信仰が与えられた人」へ書かれたものだということです。 14節、「神を信じる者」のところへ行きたいが行けない、しかし急いで手紙を書かなくてはならない、そこには大きな問題を抱えている教会の状況があったのです。人の集まるところには様々な問題が起こります。それは教会と言えども同じです。ただ「神を礼拝すること」によって一つにされるのです。「神を信じる」これを見失ってしまったら分裂の危機に遭遇してしまいます。「神を礼拝する」ことは、神の前に一つとされることの根拠なのです。 15節、私どもが神を愛し隣人を愛して生きるために、神は生きて働きかけてくださり共にいてくださる。それが生ける神の教会です。 16節、教会は沢山の人が集まるところ、そこでは「神の真理」に反することが行われてはなりません。「神の真理」それは「キリストが肉において現れてくださった」ことです。私どもは弱く、目に見えるものを確かなものとしてすがろうとしてしまいます。しかし、目に見えるものだけが確かなものなのではありません。私どもの真の神は目に見えませんが、私どもに働きかけてくださる方です。その神が、キリストを私どものために遣わしてくださいました。 そしてここでは、キリストの救いはユダヤ人だけの限られた救いではないことが、はっきりと語られております。御子の誕生の出来事は、全世界の人々のための恵みの出来事なのです。だから私どもは宣べ伝えなければなりません。私どもと出会う方々が神と出会うように、宣べ伝えるのです。 私どもは、自分が救われると同時に愛する者の救いをも願いますが、それはなかなか成らないという現実があります。しかし、聖書は「信じる人々は日々起こされる」と約束してくださっております。だからこそ、希望を持って生きる者でありたいと思います。神なしには救いはない。そして神の救いは、私どもだけの救いなのではなく、この世の全ての者の救いであることを感謝したいと思います。 |
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