聖書のみことば/2008.6
2008年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
あの方は預言者」 6月第1主日礼拝 2008年6月1日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章13〜23節

9章<13節>人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。<14節>イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。<15節>そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」<16節>ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。<17節>そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。<18節>それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、<19節>尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」<20節>両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。<21節>しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」<22節>両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。<23節>両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

13節「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った」とあります。「人々」とは、その人が生まれつき目の見えない人だったことを知っている、癒される前の彼をよく知っている人々です。人々は、この人のことで意見が分かれ、起こった事実を受け止められませんでした。本人に直接聞きますが、彼から「イエスの言われた通りにしたら目が見えるようになった」と聞いてもその事実を受け止められなかったので、ファリサイ派の人々にそれが「癒し」かどうか認定してもらうために彼を連れて行ったのです。自分たちでは判断できないので、ファリサイ派の人々=ユダヤ人の指導的な立場の人々に判断をあおごうとしたのでした。
 しかし、どうしてそのようなことをするのでしょうか。それは、「癒された」という事実があるのに、事実を事実として受け止められない人々がいるということです。自分の固定観念によって事実を事実として受け入れられない、それが人の思いです。人は、思い込んだらその思いを変えるのはなかなか困難です。私どもは固定観念のゆえに他者を受け入れられない、ということがあるのではないでしょうか? それは相手にではなく自分に問題があるのです。自分の思いが優先し、それがその人の真実になってしまうからです。しかしその真実は、事柄の真実と一致するものではありません。
 この「人々」の根底にあることは何か。それは「信じられなかったこと」です。「事実を事実として知る」、それは頭の理解で知るのではありません。「信じること」により、事柄の全体を知る、事実を事実とする認識が生まれるのです。「知識・知恵」では、事柄の全体を把握することはできないのです。
 「信仰」とは、闇雲に信じるということではありません。信仰こそ、全体を把握する認識力なのです。神・キリストの出来事(十字架・復活)は、信じることによってのみ認識できることです。理性によってではなく、信仰によってのみ「救い」を理解できるのです。ですから「信仰」とは、人のみ可能な、深い、大切な能力なのです。
 この「人々」はイエスがなさった事柄を信じられなかった、ゆえに、この人を受け止められませんでした。知識や頭の良さでは「人を人として」受け止めることはできません。信仰の出来事によってのみ「人を尊い存在として」受け止める、認めることができるのです。

では、ファリサイ派の人々は、この人をきちんと認識できたのでしょうか。
 14節、ファリサイ派の人々が前提としたことは、この人が癒されたのは「いつか」「どうやってか」ということで、それを律法に照らすことが判断基準でした。「安息日」は一切の労働を禁じます。その安息日に「土をこねた」という労働と、命にかかわる場合以外の「癒し」という医療行為は、律法に照らせば二重の安息日違反なのです。15節、そこでファリサイ派の人々もその人に直接尋ね「イエスの言われた通りにしたら目が見えるようになった」と聞いて、16節、ここでも意見が分かれます。その事実を受け入れるのではなく、律法違反としてサタンの業だという意見と、しるし=癒しの業は終わりの日の神の到来の業(神によってしか成し得ない業)とする意見に分かれたのです。彼らは統一した判断を出すことが出来ませんでした。ファリサイ派の人々は敬虔な信仰の指導者でしたが、だからといって、事実を事実として受け入れることは出来なかった、それは主イエスを信じることができなかったからです。

こういうやりとりの中で、ファリサイ派の人々は再び、この人に聞きます、17節「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と。ここで変化が生まれています。15節の「癒しがどのように起こったか」という問いから「誰が癒してくれたのか」という問いに変化したのです。それゆえ「あの方は預言者です」という答えに進んでいきました。
 出来事の経緯によっては本質に至ることはありません。「癒したこの方は誰なのか」、この問いこそが事柄の本質であることを覚えたいと思います。
 私どもは、聖書において語られる主イエスの御業・教えを聴きます。しかしそこで「聖書を通して見聞きしているその方は、私どもにとって一体誰なのか」と問われているということが大切なのです。

問われたこの人は、彼なりに「預言者です」と答えます。この人はまだ、主イエスの十字架も復活も知りません。しかし、主イエスを「神の御業をなす預言者」だと、「主イエスは神」との信仰を言い表し認識できたのです。しかし、ユダヤ人は信じることは出来ませんでした。信じなければ、主イエスを救い主と認識することは出来ないのです。

この問いは、私どもに対する問いでもあります。聖書の教えを聴くとは、主イエスの御業・教えを頭で理解しようとすることではなく、教えを示す「その方はどなたなのか」という問いを与えられているということなのです。
 ただ信じることをもってしか、主イエスを理解できないのだということを覚えたいと思います。「あなたは、主イエスをどなただと思っているのか」と繰り返し繰り返し問われているのだということを覚えたいのです。

私どもは幸いなことに、この礼拝を通し「主イエスこそ私どもの救い主」と告白し賛美することを赦されております。今ここで「主イエスこそ私どもの救い主」と改めて覚える時が与えられているのです。主イエスの教え・御業を聴くことによって、主の救いの恵みが鮮やかに示され、主が私どもにも臨んでいてくださるということを知ることができるのです。
 そしてそれは、ただ信仰によってしか知り得ない恵みなのだということを覚えたいと思います。

信じられない人々」 6月第2主日礼拝 2008年6月8日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章18〜25節

9章<18節>それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、<19節>尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」<20節>両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。<21節>しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」<22節>両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。<23節>両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。<24節>さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」<25節>彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

18節、ユダヤ人たちは「現実に起こったこと」も信じませんでした。「信じない」それは「認めない、認識しない」ということです。事実を知るのは、知恵・知識によるのではありません。ただ「信じること」によってのみ、事柄の全体を認識できるのです。
 信じなかったユダヤ人たちは、その人(盲人であった人)の言葉のみならず、その人をも認めません。人は、「信じる」ことがなければ他者を認められなくなるのです。人は一旦不信を抱けば、その思いを変えることはなかなか出来ません。ですから「信じる」ということは、トータルな深い意味での「認識」であることを覚えたいと思います。
 このことを今の時代と照らし合わせて考えてみたいと思います。
 キリスト教信仰の根幹をなすもの、それは「愛」と言われます。しかしプロテスタント信仰の根幹をなすことは何か。それは「信仰義認」です。「主イエス・キリストを救い主と信じる」ことによって「義」とされる、信じることと認められることは一つのこと、ですから「信じること」は「私どもの救い」の根幹なのです。
 「信仰」というと、独りよがりな熱心とか取り憑かれたことと思われがちですが、そうではありません。「信じる」ことによって「義」と認めら、認められることで人は自由になる。ですから「信仰」は、捕われからの解放、人を自由にする出来事です。何よりもまず「信じる」ことがなければ、「愛する」ということも起こらないのです。
 今の時代は、このユダヤ人たちのように「信じられない」時代と言えましょう。かつて「信仰・神」が前提の時代もあったのです。しかし今は「信じない」ことが前提の社会になりました。「信仰(拠り所)」を失うと、自由を失い、捕われ、疑い、不安であり、事柄の全体を認識することが出来ず、病む。まさに現代は「信じられない」病魔に襲われているのです。
 「信じる」ということは、生き物の中で人間だけが持つ営みです。ですから「信じること」は「真に人間になること、人間としての健康を回復すること」です。信じることなくして、人は救われないのです。
 では現代社会は救われないのでしょうか。キリスト教会は今、「救い」を語り得ていない、「信じることのできない者の救い」を語り得ていないと思います。「信じられない者の救い」が語られるところに、この社会の救いはあるのです。
 では「信じられない者の救い」は本当にあるのでしょうか。主イエス・キリストの十字架と復活は、まさしく「信じられない者(罪人)」の救いであります。「信じられない者の贖い」として主イエスは十字架についてくださいました。信じられない者だからこそ、神との正しい関係を回復する必要があるのです。不信仰の極みに立ってくださる方、それが十字架の主イエス・キリストです。主イエスの十字架と復活は、今まさに「信じられない」私どもの救いとしてあるのです。
 「信じられない私を救ってください」との告白によって、私どもは救われるのです。信じることができたから救われたのではありません。「信じ切れない者」に「主イエスの十字架と復活」があったからこそ、私どもは「主イエスを救い主と信じます」と告白できるのです。そこまで私どもは神に「すがる」のです。その「すがる」者に救いがあるのです。
 この社会は、今こそ主イエス・キリストを必要としております。主の十字架と復活の福音を宣べ伝える教会を、自らの飢え渇きすら知らずに欲しているのです。教会には「信仰なき者を救う」との確信が与えられております。信じられない時代のただ中にあって、私どもは「信じるという恵みを与えられている」のだということを覚えたいと思います。

19節、ユダヤ人たちは本人に聞くだけでは足りず、両親にも尋ねます。しかし両親からも自分たちの思う答えを見い出すことはできませんでした。彼らの問いは威圧的な言葉です。信じられない者の期待は、真実を知ることではなく自分の思いに叶った答えなのです。ですから圧力をかけた語気荒い言葉を使うのです。「信じない」と、そういうことが起こる。それは個人間でも組織においても起こるのです。

21節、両親は「分かりません」と答えますが、実は分っております。それは「どうして」に留まらず「だれが(目を開けてくれたのか)」とまで言っていることからも伺えることです。しかし両親は、その「信じるところ」を言えませんでした。
 ここで、「もう大人ですから、」という言葉から「大人」とは何かと考えさせられます。盲目だったこの人は、経済的には自立した大人と考えにくいのです。しかし、この人は主イエスと出会い、主の御業に与った者として「信じるところ」を語る、自立した者となりました。「大人になる」ということは「自立する」ということです。主イエスと出会い、信じる者とされ、自ら立つということが起こるのです。信仰とは「弱き者が自ら立つ者となる」という出来事です。
 人は交わりの中で助け合いながら生きる者です。しかし、その一人一人が自立した者でなければ、相手を受け止められず、互いに支え合うことはできません。「信仰」とは「我ここに立つ」という出来事であることを覚えたいと思います。自立した者は、周りの人・状況が如何に変化しても、動揺することなく自ら立っていることが出来るのです。ですから、神を信じる社会は自立した社会です。自立できない社会はお金や物に頼り平安がありません。
 この両親は、ユダヤ人共同体(会堂)の中にあることによって、ユダヤ人を恐れないわけにはいかず、自立し得ない者たちです。しかし息子は自立した者となりました。主イエス・キリストを信じるとき、人は、人を束縛する古き共同体から分離して、個々が真実に向き合える新しい共同体の一員となることができるのです。その共同体は、神から恵みを受けた者として、自ら進んで捧げて奉仕する共同体です。神を畏れる者は、人を束縛する他者からも共同体からも自由なのです。

24節、盲人だった人は「神の前で正直に」答えております。主イエスに出会い、恵みをいただき自立したこの人は、圧力を恐れることなく、自由に恵みの出来事を語ることが出来るのです。
 主イエスに出会うということは、主の救いを見、真実な拠り所を見い出すことによって自立できるようになる、ということです。盲人だったこの人は、目が見えるようになった以上の恵みを与えられて、自立した者、真実な人格ある「人」となれたのだということを覚えたいと思います。

神の家族」 6月第3主日礼拝 2008年6月15日 
田邉良三 伝道師(聴者/古屋)
聖書/エフェソの信徒への手紙 第2章11〜22節

2章<11節>だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。<12節>また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。<13節>しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。<14節>実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、<15節>規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、<16節>十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。<17節>キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。<18節>それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。<19節>従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、<20節>使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、<21節>キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。<22節>キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

新共同訳聖書では、今日の聖書の箇所には「キリストにおいて一つとなる」という表題が付けられております。今朝は「キリストにおいて一つ」とは、どのような者とされることなのか、御言葉から聴きたいと思います。

昨日は「岩手・宮城内陸地震」が発生しました。このところ大きな自然災害や様々な痛ましい事件が続き、日本社会は先の見えない不安や落胆、絶望を思わざるを得ない状況にあります。
 しかし、そのような苦しみの中にあってなお、私どもは「折れず、取り去られず、光のうちを歩んでいる」と言って良いのです。救い主キリストのおられる教会に共に集うとき、私どもは、混乱の中にあってなお、キリストにある希望をこの世の人々に届けることができるという恵みを与えられております。「本当の希望」を知っている者が一つとなり、神を礼拝するとき、この世の人々に「キリストの光」が示されるのです。

この箇所では「ユダヤ人」と「異邦人」という敵対する者たちが、「告げ知らされた平和の福音によって(17節)」、「一つの霊に結ばれ(18節)」、キリストの恵みを証しする者としてキリストにおいて一つ「神の家族(19節)」とされるのだと語られております。以下、節を追って聴いていきます。

11節、ここで言う「異邦人」とは、初代教会で数を増したユダヤ人以外のキリスト者のことです。
 しかしキリストが来られる以前には、「いわゆる手による割礼を身に受けている人々」即ち「霊による割礼ではなく肉による外見上の割礼を受けている(ローマの信徒への手紙2章28・29節)」ユダヤ人と、そのユダヤ人から「割礼のない者=救いと関係ない者」と呼ばれた異邦人しかいなかったのであり、彼らは互いに敵対しており、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソの信徒への手紙2章1節)と言われているように、ユダヤ人も異邦人も共に、神の前に過ちを犯す者にすぎませんでした。
 13節「キリスト・イエスにおいて」=「キリストが来てくださって」初めて、「キリストの血によって」=「主イエスの十字架」によって、以前の状況は変えられたのです。私どもは、例外なく「神に従い得ない者」です。その罪人を救うためにキリストが来られたということが、ここに示されております。「キリストが来られて」私どもは、神の前に罪を数えられない者とされ、父なる神に「近い者となった」と言われております。キリストの復活の命に与るまでは、永遠の命の希望はどこにも見い出すことはできませんでした。
 14節、キリストはその十字架と復活によって私どもの敵意を取り除き、私どものうちに「平和」を与えてくださり、割礼の民(ユダヤ人)と無割礼の民(異邦人)を一つとしてくださいました。
 15節「規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」とは、自らの行いを誇るものとして用いられた「律法」は廃棄されたということです。しかし、キリストは律法を完成させてくださる方です。キリストによって、神の恵みに応える歩みをなす者とされることにより、律法は本来のあり方を取り戻すのです。そして、私どもはキリストにおいて全く「新しい人」、神に従う者として「新たに造り上げられる」と言われております。
 16節、キリストにおいて「神と和解させて」いただいたからこそ、私どもは互いに違いを超えて唯一の神を信じる者として一つとされる、そこで「敵意が滅ぼされる」ということが起こるのです。
 17節〜「遠くにいる者も近くにいる者も」、地上の諸霊に従う者から「一つの霊に結ばれた者」とされるのです。「聖なる民」、それはキリストに結ばれることによって「神の子」とされ、「神を神とする」ことができるようになるということです。ただ一人の神を「父よ」と呼び、恵みを分かち合う兄弟姉妹として一つとされているのだということが「神の家族」という言葉によって示されております。そして私ども一人一人は、キリストを頭とした「キリストの体なる教会」の体の一部となって、神の前に一つとされるのです。
 20節、ここでは「神の家族」を建物として描き、語り直しております。「使徒や預言者という土台の上に」と言われます。コリントの信徒への手紙一12章28節には、初代教会において「預言者」と呼ばれた者は「福音を語る者」とされております。そのように神の救いの歴史の中に位置づけられた者たちを土台として、私どもは今あるのです。「かなめ石はキリスト・イエス御自身」、「かなめ石」は建物の最後に納める石です。
 21節、私どもが「かなめ石」であるキリストによって組み合わされ、恵みのうち一つになるとき、そこに「キリストの体」が現れ出す、それが「神殿」です。そこは神と出会う場所であり、キリストによって「成長する」ものとして神から託されております。そこで私どもは恵みをいただいた者として「恵みを届ける者」とされるのです。
 「キリストにおいて」と繰り返し語られます。「キリストにおいて」と言うとき、私ども一人一人のうちに神がいてくださるということが示されております。そして「キリストにおいて」以外にはあり得ないのです。私どもの思いによっては、「一つのもの=神の家族」とはなり得ないのだということを覚えたいと思います。
 「キリストにおいて」でなければ、「平和は与えられない」「一致は生まれない」のです。「キリストにおいて」というところに立つならば、聖霊の働きにより、いかなる困難の中にあっても「争いが取り除かれる」という、神による大きな喜び・希望が与えられるのです。

「キリストにおいて」、この御言葉において、人間の本当の生き方が与えられるのです。神がキリストを私どもに与えてくださいました。そしてキリストが与えてくださった聖霊の力によって、私どもは「神を神とする」ことができる恵みのうちにおかれているのだということを覚えたいと思います。そのような者として、地上にキリストの恵みを届ける者として、新しい週もこの世の日々を生きる者でありたいと願います。

神のみ為し得る」 6月第4主日礼拝 2008年6月22日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章24〜34節

9章<24節>さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」<25節>彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」<26節>すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」<27節>彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」<28節>そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。<29節>我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」<30節>彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。<31節>神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。<32節>生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。<33節>あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」<34節>彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

今日は最初に讃美歌21−59番を讃美しました。この讃美は「神の御言葉への感謝」を歌っております。「感謝」を強調したのがプロテスタント信仰の特徴です。「感謝」は何か特別なことをするのではありません。私どもの日常に神の守り・支えを見、「懺悔・喜び・感謝の生活」を通して神を現すのです。

さて御言葉に入ります。
 不治の病(生まれつき盲目)を主イエスに癒していただいたこの人(盲人であった人)は、人々の様々な言葉のうちに晒されております。彼は受け入れてもらえないのです。主イエスに出会って変化をいただいたのに、そのことを誰からも喜んでもらえないという悲しい現実。親に至ってもそうでした。
 そして24節、ユダヤ人たちはもう一度「神の前で正直に答えなさい」と彼に言います。正直に言っていないと決めつけているのです。問題は「神」まで持ち出して自分たちに益となる答えを得ようとする、不遜なのです。ユダヤ人たちは確かに敬虔な者でした。しかしその敬虔さも「自分の益のため」であれば、本当には神を現していないのです。「神の前で」という言葉に、ユダヤ人たちの偽りのあり方が示されております。
 正直に言っていないと決めつけられている、それはどんなに悲しいことでしょう。この人は何度も呼び出され、親まで呼び出され問われるのです。「えん罪」の根底には、この「決めつけ」があります。決めつけられ、苦しくなり、権力の前に自暴自棄にならざるを得ない状況に置かれるのです。このことは私どもの日常の人間関係においてもあることです。
 ユダヤ人たちは「罪ある人間」という言い方をします。そして自分たちの正しさを主張するのです。何と心無いあり方でしょう。個々の業が悪いというなら良いでしょう。しかし人の全人格を罪(否定)としている、そこに問題があります。真実に人を裁けるのは神だけです。私どもも他者を全否定してしまう罪深さを持っているということを覚えたいと思います。

25節「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と、彼は冷静に答えます。決めつけられているのに、なぜ彼は自暴自棄にならなかったのでしょうか。それはただ一つ「見えるようになったという事実・真実」があったからです。決めつけの中に置かれると、人は自分を捨てざるを得なくなってしまう。しかし大切なことは相手に合わせてはならないということです。「真実の上に立つ」、そこでは自分を失うことはなく自暴自棄になる必要はないのです。彼に「目が見えるようになったという真実」をくださったのは、主イエス・キリストでした。自分に与えられている真実のゆえに、彼は揺らがなかったのです。

26節、今度は方法論に罪を見い出そうとしております。人間は悪知恵を働かせるものです。

27節、何度も言わせる、そして揚げ足取りをするのです。ですから何度も答えない方が良いのです。彼は「もう何度も話したでしょう」と言って、もはや答えません。大切なことは「真実の上に立っているかどうか」ということです。もはや彼がどう答えるかが問題なのではなく、問う側の問題なのです。「真実の上に立つ」とき、相手の問題が鮮やかにされるということが起こるのです。「なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と、全くユダヤ人たちのペースにはまらず、彼は問います。ユダヤ人たちは困り、腹を立てるのです。
 「主イエスの弟子になる」ということは「主の力をいただくこと」、これが前提です。「主の弟子である」ということは、主の力に支えられ守られているということです。自らではどうすることも出来ない、自分を見失いそうになる、そこで「主の弟子である」ことは支えなのです。それはただ恵みの出来事です。

28節「我々はモーセの弟子だ」と言うのです。「モーセの弟子」と言って、律法(神の言葉)を守っている自負があるのです。

29節、律法を基にして、主イエスを罪に定めようとする言葉です。

30節「神からの言葉を知っていると言いながら、なぜ神から来られた主イエスのことを知らないと言うのか不思議だ」と彼は言います。「生まれつきの盲人の目を見えるようにしてくださった」という「神にのみ為し得る業」がなされたという事実があるのに、と語るのです。

31節、彼は「主イエスが神の業をなさったということは、主イエスは神の御心に適う行いをする人だからではないか」と言っております。彼は決して教育を受けた者ではありませんでした。にもかかわらず、ユダヤ人にまさって神を言い表し、主イエスを「罪なき神からの方」と言い表したのです。主イエスを救い主と知るとき、信仰の言葉が与えられます。主イエスを救い主として知る恵みに与っていることを知るとき、そこで私どもは信仰を告白することができるのです。

32節「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた」、これは人には為し得ない、神のみ為し得ることです。神は「不可能を可能にしてくださる方」なのです。それは「罪人を救う」ということです。救いの根拠は私どもにあるのではありません。「救い」は主イエスを通して神が為してくださった「不可能を可能にする神の業」、神の憐れみの出来事なのです。不可能を可能にする神の業、プロテスタント信仰においては、それを「愛」と言い表しました。

33節 「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」とは立派な信仰の告白です。主イエスは神の御心を行う方、不可能を可能にする方、神であるとの告白です。

34節、ユダヤ人たちはどこまでも高みにある者です。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って彼を外に追い出したというのです。それはユダヤ人共同体から追い出したということです。彼は革命を起こして出て行ったのではありません。信仰とは、新しいイデオロギーによって新しい共同体を作るということではないのです。ただ「神の真実により頼む」ところで、新しい共同体(神の国)が自ずと形成されるのです。

この盲目だった人を通して私どもは、「神の真実の前に立つ時、人は人として立つ」のだということを示されました。
 「私どもの真実」それは「救い主、主イエス・キリスト」であります。

神からの真理」 6月第5主日礼拝 2008年6月29日 
田邉優子 牧師(聴者/古屋)
聖書/テモテへの手紙一 第3章14〜16節

3章<14節>わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。<15節>行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。<16節>信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。

愛宕町教会兼務担任教師としての3年間、夕礼拝を共に守って参りましたが、主日礼拝を共にしたいと願いながらも叶いませんでした。しかし場所は違っていても、私どもは「主を礼拝することにおいて一つ」とされるのです。

テモテへの手紙は、パウロの名を用いて誰かが書いたものと言われております。テモテとて、実際にはテモテかどうか分りません。しかしここで示されていることは「神によって立てられた人」から、同じように「信仰が与えられた人」へ書かれたものだということです。

14節、「神を信じる者」のところへ行きたいが行けない、しかし急いで手紙を書かなくてはならない、そこには大きな問題を抱えている教会の状況があったのです。人の集まるところには様々な問題が起こります。それは教会と言えども同じです。ただ「神を礼拝すること」によって一つにされるのです。「神を信じる」これを見失ってしまったら分裂の危機に遭遇してしまいます。「神を礼拝する」ことは、神の前に一つとされることの根拠なのです。
 人の集まりの中では、人を受け止めようとする、人が尊重されます。しかし教会においては、何よりも大事なことは「神の出来事」です。ですから、ある意味で教会は民主主義とは言えません。教会においては、多くの者が望むことでも、それが神の御心に適わないことであれば実現してはならないのです。
 主イエスは、最も重要な掟は「神を神とする」ことと「隣人を自分のように愛する」ことと言われました。この二つの掟の順番は逆転しません。「神を神とする」とき、人は「隣人を自分のように愛する」のです。「神を神とする」ことが押しやられ、人が大切にされるならば、それは教会ではないのです。

15節、私どもが神を愛し隣人を愛して生きるために、神は生きて働きかけてくださり共にいてくださる。それが生ける神の教会です。

16節、教会は沢山の人が集まるところ、そこでは「神の真理」に反することが行われてはなりません。「神の真理」それは「キリストが肉において現れてくださった」ことです。私どもは弱く、目に見えるものを確かなものとしてすがろうとしてしまいます。しかし、目に見えるものだけが確かなものなのではありません。私どもの真の神は目に見えませんが、私どもに働きかけてくださる方です。その神が、キリストを私どものために遣わしてくださいました。
 目に見えないものを信じることの難しさを思います。しかし私どもは、神を「確かに存在する方」として信じている。それは私どもが確かに「生ける神」と出会っているからです。
 「キリストが肉において現れてくださった」、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私どもに見える形で「救い」を示してくださいました。しかし人々は、キリストを「触れることが出来る方として、目の前に」示されながら、信じませんでした。人は、見たいものだけを見、信じたいことだけを信じるのです。
 そんな私どものところに、御子イエス・キリストは来てくださいました。それは「神の御心を示す」ためです。「信じられない者のため」に、御子は何の罪もないのに十字架についてくださいました。
 御言葉に「人が心に思うことは幼い時から悪い」と言われます。聖書の言う「悪い」とは「神に背く」ということです。子どもは自由に自分のしたいことをする。神の御心と関係なく自分の心のままに、それが罪の姿です。神に向かわず、自分の中心を自分としてしまう、そのような者のために、神はキリストを遣わしてくださったのです。
 目の前に御子イエス・キリストを示されながら、ユダヤ人たちは信じることができませんでした。主イエスが、自分たちの思い描く救い主と違っていたからです。神をも自分のイメージで思い描いてしまう、私どもはそのような者です。神は私どもがどのような者であるか、よくご存知でいてくださる。そんな「悪い者」のためにキリストは来てくださったのです。

そしてここでは、キリストの救いはユダヤ人だけの限られた救いではないことが、はっきりと語られております。御子の誕生の出来事は、全世界の人々のための恵みの出来事なのです。だから私どもは宣べ伝えなければなりません。私どもと出会う方々が神と出会うように、宣べ伝えるのです。
 一体どうやって神を宣べ伝えるのか。聖書に記された人々は、預言者と言えども特別な人なのではありません。語るべき言葉は神が与えると約束されております。私どもは、どこにあっても一人ぼっちではない、神が共にいて導いてくださるのです。
 「異邦人(神の救いの対象外)」と言う言葉で、神の恵みがどのような者にも及んでいることが示されております。神を礼拝し、神を信じる者として生きる。生ける神の教会で、私どもは神と出会い、神は私どもを用いてくださいます。だからこそ、福音は今に至るまで宣べ伝えられてきたのです。

私どもは、自分が救われると同時に愛する者の救いをも願いますが、それはなかなか成らないという現実があります。しかし、聖書は「信じる人々は日々起こされる」と約束してくださっております。だからこそ、希望を持って生きる者でありたいと思います。神なしには救いはない。そして神の救いは、私どもだけの救いなのではなく、この世の全ての者の救いであることを感謝したいと思います。