聖書のみことば/2008.5
2008年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の業が現れる」 5月第1主日礼拝 2008年5月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章1〜12節

9章<1節>さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。<2節>弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」<3節>イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。<4節>わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。<5節>わたしは、世にいる間、世の光である。」<6節>こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。<7節>そして、「シロアム−『遣わされた者』という意味−の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。<8節>近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った<9節>「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。<10節>そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、<11節>彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」<12節>人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

1節「イエスは通りすがりに、…」と記されております。
 ここに主イエスのあり方を見ることができます。主イエスは「通りすがり」でありながら、「生まれつき目の見えない人」に目をとめてくださいました。主イエスは人に目を注ぎ、見い出してくださる方なのです。主イエスが知ってくださる。私どもは、主イエスに知られた者として主を知ることができる、そこから「信仰」が始まるのです。
 「生まれつき目の見えない人」、それは「重荷を負うている人」ということです。人が担わされている課題、そこに主イエスは目をとめてくださいます。「良きサマリア人のたとえ」にも示されるように、重荷を負う者を避けるのは世の常です。自らの重荷すら負いきれない私どもには、他者の重荷まで負うことはできません。負うどころか、人の重荷(弱み)につけ込んで自分の利益を求めようとさえする、そのために宗教が用いられてしまうという現実です。しかし、主イエスは一人一人が抱える目に見えない重荷をも見い出してくださり、いつくしみを注いでくださる方、そして私どものために命をもささげてくださいました。

2節、主イエスが「生まれつき目の見えない人」に注がれる眼差しを見て、弟子たちは主イエスに問います。弟子たちは「生まれつき目の見えない人」に心を向けておりません。「生まれつき目の見えない人」を材料にして、主イエスの考え方を探ろうとしているのです。「ラビ」とは「先生(律法の)」との呼びかけです。律法に照らして、この人の罪はどこにあるのか学ぼうとする。罪の追求をしているのであって、その人が罪人だったとしても罪の赦し(罪からの救い)を願っているわけではないのです。弟子たちは、律法を「人を罪に定める」ために用いております。人を罪に定めることは、弟子たちの役割ではありません。全ての人に罪はあります。他者の罪をあげつらうことは私どものすることではない。「罪を定めるのは神であって人ではない」ということを覚えなければなりません。
 人は、自らの罪を知ることが大切です。信仰とは、自らの罪深さを知ることです。「自らの罪を知る」ことと「神の恵みを深く知る」ことは一つのことです。私どもは、赦されて初めて、深く自らの罪を知ることができます。ですから「主の赦しのもと」で、他者の罪を見ることが大切なのです。罪を追求すること、そこには赦しもいつくしみもありません。信仰とは、罪の赦しの出来事であることを覚えたいと思います。

3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と、「罪がない」ことを主イエスは宣言してくださっております。はっきりと罪がないと言える、それは主イエスが完全に罪を処理できるお方だからです。
 そして言われます「神の業がこの人に現れるためである」と。主イエスは人を肯定してくださる方です。「生まれつき目の見えない」という障がいを否定的に捉えておられません。今日、私どもにとってもこの姿勢は大事と言えます。事柄に対して否定的にではなく肯定的に受け止めていく、それは力を得ることです。困難においても尚、積極的に受け止めていくとき、それは力となるのです。
 「神の業」、それは天に通じる地上を超えた事柄であり、その人を天にも結びつけるものです。「神の業」は単に癒しを言っているのではありません。その人を通して「神が現される」ということです。「神の業」は癒しが目的なのではありません。私どもは、困難・欠けの中で、神を知る・神を現すという恵みを与えられているのだということを覚えたいと思います。
 神を自覚的に覚えることができるのは、やはり困難の時であると言えます。苦しみは、人を神へと至らせる神の恵みなのです。ですから、私どもに重荷があるということは不幸なのではありません。困難の中で、神を見い出せなくなることが不幸なのです。困難の中で、神を見い出せることは幸いなのです。
 苦しみ・重荷を幸いと言える根拠はどこにあるのか。それは、主イエスが私どもの重荷を共に負ってくださるということです。主イエスがいつくしみをもって、私どもの困難に目を注いでくださるからこそ、幸いと言えるのです。
 パウロは自らの病を取り除いて欲しいと神に祈ったとき、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との御言葉を与えられたことをコリントの信徒への手紙二12章で記しております。
 人はどこまでも傲慢です。人は、その人の一番得意とするところで最も罪深いものです。弱いところでこそ、神の恵みを感じることができます。弱さがなかったならば、神を見い出せない、神のいつくしみを知り得ないのです。

4節「神を現すための業」として「生まれつき目の見えない人は癒しを受けた」のです。

5節「わたしは、世にいる間、世の光である」。「光」は旧約聖書においては「神」を現します。

6節「唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。主イエスが触れてくださることによって、人は癒されるのです。主イエスは、その人の一番弱いところに触れ、ご自身の力・恵みを現してくださいます。主イエスの恵み、それは私どもへの主イエスのいつくしみです。

「信仰は恵みの出来事である」ことを覚えたいと思います。罪の身の上に神のいつくしみを見ること、そして自らの罪を知り、悔い改めることです。

神が霊を吹き込む」 ペンテコステ礼拝 2008年5月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/エゼキエル書 第37章1〜14節

37章<1節>主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。<2節>主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。<3節>そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」<4節>そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。<5節>これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。<6節>わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」<7節>わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。<8節>わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。<9節>主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」<10節>わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。<11節>主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。<12節>それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。<13節>わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。<14節>また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

聖霊降臨日、教会誕生の日であります。
 主イエスが十字架にかけられた時、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げました。主イエスの十字架は人々の殺意と弟子たちの裏切りの故に起こったのでしょうか。そうではありません。殺意や裏切り、そのような人の罪を贖うための死でした。そして主イエスは3日目によみがえり、弟子たちに臨み、現れてくださり「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい(ルカによる福音書24:49)」と命じられました。主イエスが約束してくださったこと、それは「高い所からの力に覆われる」こと、それは「神の力に覆われる」こと=「聖霊をいただく」ことです。過ぎ越しから50日、弟子たちは心を合わせて約束のものを待ち望み、そして弟子たちに「聖霊」がくだり、彼らは「神の救いを宣べ伝える者」となりました。それが「教会」の姿です。「聖霊を受けて神の救いを宣べ伝える」それが教会の使命なのです。
 また、聖霊が臨むことにより、教会は「救いを与える鍵」をいただいております。聖霊(神の力)をいただくことにより、宣べ伝えるだけでなく「救いを宣言」し、そこで神の救いが現実のものとなる、神の御業を委託されている、それが教会です。

今朝は「聖霊をいただく」ことをエゼキエル書から聴きたいと思います。
 エゼキエルはエレミヤと同時代の預言者です。イスラエルの民は預言者たちの警告を受け入れませんでした。イスラエルの民は信仰篤く、神が守っているのだから自分たちの行いに間違いはないと自己正当化し、自分たちは決して神に裁かれることはないと思っておりました。しかし、人は神に打たれる者であることを覚えなければなりません。信仰とは、神に全く信頼し全てを任せることであって、自らの正当化のためにあるのではありません。信仰とは「神を現す」ことです。
 エゼキエルもイスラエルの民の罪を語りました。捕囚が起こり、イスラエルの民は自らの確信を失います。神に打たれたという実感、それゆえ、打ちひしがれ、先が見えない民となるのです。希望を失い、生きる気力を失ったのです。神の都エルサレムの崩壊、そんな茫然自失のただ中で、神はエゼキエルに対し「民に語れ」と言われます。
 1節、エゼキエルは恍惚状態になって幻を見たのです。それは神の啓示です。

2節「谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」。枯れた骨=干涸びた骨、それはもはや望みの尽きた骨。それは捕囚の民、希望を失った「イスラエルの全家(11節)」、希望を失った民は「生ける屍」であることを示しております。「骨」という感覚、「骨の髄まで・骨身に沁みて」という日本人の魂の深いところでの感性は、どこかへブルに通ずるものがあります。希望を持てず、気力を掻き立たせることのできない状況の中で、行き詰まりを生きている。それは今の日本社会をも表しているようです。繁栄の行き着いた先の行き詰まり・絶望、それは悪循環で、そこに救いを見い出すことは出来ません。自らの力ではどうしようもない状況、その絶望は人を死へと向かわせるのです。自殺の根底にあることは孤独です。人は交わりを失うと生きていけません。だれも信頼できず希望を失っている、そこでは魂の救済が必要なのです。

「枯れた骨」に必要なのは「霊」、それは「命の息」です。
 3節「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」との問いがエゼキエルに臨みます。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。エゼキエルは不遜に「あなたならお出来になります」とは言いませんでした。「あなたの御心次第です」と、どこまでも「神の御心のみが成る」と言い表しました。ですから神は語ってくださったのです。

4節〜、神は言われます「枯れた骨に必要なのは神の言葉である」と。「神の言葉をいただく」とは「聖霊の息吹をいただく」ことです。
 「人の言葉」は真実であり切れない、限界があるのです。人の言葉は絶望や怒りを含んでしまうので、本当の慰めや癒しになり得ません。ただ「神の真実な言葉」をいただかない限り、人には希望がないのだということを覚えたい。人は真実な言葉(神の言葉)により、本当の慰めを受け、力をいただくのです。真実な言葉を見い出せない世界は絶望を生きるしかなく、孤独です。しかしそこで、神が言葉をくださるのです。「主の言葉を聞け」と語ってくださる。枯れた骨・虚しい民イスラエルに「真実な言葉」を語ってくださり、命あふれる地に導くと言ってくださるのです。

今日のこの箇所は、人の虚しさの根底を示しております。
 今の時代、人は「霊性」を失っていると思います。「霊」として言い表される心の奥底の感性が失われた世界、それが絶望へと繋がっているのです。教会ですら霊性を失って、十字架・復活を語らず人の体験のみを語ろうとするという現実があります。私どもは、もう一度、聖霊を受けなければなりません。今こそ神の霊の回復がなければならないのです。
 虚しい民イスラエルは、聖霊をいただいて、神の民へと回復されました。「聖霊をいただく」、それはただ「神の御言葉を聞くこと」以外にありません。神の御言葉により、人は、心の奥底の課題に真の慰めを受けるのです。

今、家の中で神仏を礼拝する霊的感性が失われております。知識や知恵、体験だけを獲得することが大切なのではありません。神の御言葉に聴き、共に祈る、そこでこそ自分の根底にあることを見い出すことが出来るのです。霊的感性は御言葉に聴き、祈るときに養われます。

「魂の底の飢え渇き」それは、真実な言葉を失い、希望を失っていることによるのです。
 そんな私どもの「飢え渇き」を知っていてくださる神が、御言葉をくださり、聖霊を与え、生きる力を再生させてくださることを覚えたいと思います。
 魂の回復、それは「聖霊の恵み」です。

神の子とする霊」 5月第3主日礼拝 2008年5月18日 
田邉良三 伝道師(聴者/清藤)
聖書/ローマの信徒への手紙 第8章12〜17節

8章<12節>それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。<13節>肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。<14節>神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。<15節>あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。<16節>この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。<17節>もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

先週はペンテコステの祝いの内に礼拝をささげました。
 ペンテコステの日、信じる者の上に聖霊がくだり、様々な言語によって主イエスの御業を証ししました。主イエスを「神の子・救い主」と告白し、神が成してくださった御業を賛美し、様々な言語で讃えたのです。それは、救い(福音)が遠くにまで、全世界へと拡がることを暗示しておりました。

12節、私どもキリストを主と仰ぐ者には一つの義務があると示されております。言葉を変えれば「歩むべき歩みがある」ということです。「肉に対する義務ではありません」と言われております。「肉に従う」というとき、私どもはアダムの子孫であることを思い起こさねばなりません。神に背いた歩みです。本来神と向き合うべき者として神の似姿に創られ、神を礼拝する者、御言葉に歩むべき者でした。しかし神にある自由を、自分を喜ばせるため、自分を神とすることに用いてしまった、罪ある存在となってしまった、それが肉に従うということです。

にもかかわらず、私どもはなお、神の恵みによって神の子とされ、神の御前に歩む者とされている、考えられないような出来事が起こっていると語るのが今日の箇所です。
 主イエス・キリストを信じることで、死ぬばかりの者が霊に導かれ永遠の命に至る…神の前に不義に過ぎない者が、義(正しい)とされるのです。それは、ただ神が目を留めてくださったからです。それは神が、私どもを創ったが故に、私どもがあまりにも弱く愚かな故に憐れんでくださり、主イエスを信じることで救いへと導き、新しく生きることを得させてくださった、ということです。

13節、人としての歩みには2本の線があります。「肉に従って生きる」「霊に従って生きる」です。自分の欲望、周囲の誘惑に従い死に至る道を歩むのか、主イエスをキリストと告白する霊に従って命の道を歩むのか。
 「霊によって体の仕業を絶つならば」、主イエスをキリストと告白したならば全身全霊をもって神に従う、神から目をそらさず生きるだろう、それが身体の仕業を断つということです。何かの働きをしたから絶つことができるということではありません。

14節、神の霊が私どもに働いてくださる、だから神に従う歩みも出来るのです。私どもは自分の力では神に従うことの出来ない者です。全く神に従う道を歩まれた、それは神の子・主イエスのみです。主イエスの十字架と復活により、主イエスを仰ぐ者は復活の命に与る者とされました。それがキリストに結び合わされるということです。教会において、主イエス・キリストの御身体の一部となるのです。
 何一つ誇り得るもののない私どもです。私どもの歩みは、日々神から離れ、神を悲しませる歩みに過ぎません。自分では何とか神に従おうとする、しかし自分の力では従いきれないのです。神にふさわしい生き方をするために与えられた律法においても、行いによって自分の正しさを誇る歩みになってしまいました。それは、2000年前も今も変わりません。
 しかし、そこに神の霊があってくださる、導いてくださっているのです。180度違う方向転換が与えられ、神へと結び付けられた者となるのです。

15節、肉に従っていたとき、私どもは罪の奴隷であり、決して逃げおおせない死・滅びに至るよりありませんでした。しかし、今私どもに与えられている霊は「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません。自分の思いばかりを活性化させる霊ではない。私どもを「神の子とする霊」なのです。「神の子とされる」、それは神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが赦されているということです。「アッバ」はアラム語で赤ん坊が親を呼ぶ言葉であり、親密さを示す言葉です。神が私どもを自分の子どもとして見てくださる。それは、私どもが神に誉められることをしたからではありません。どうしようもない罪人が、神の子として「アッバ、父よ」と呼ぶことができる、呼ぶことを赦されているのです。「アッバ、父よ」、これは主イエスが祈られた言葉です。主イエスが祈られた祈りを、私どもも祈ることが赦されているのです。
 神は私どもを憐れみ、愛し、主イエスを救い主と信じる者をご自分のもとへと引き寄せてくださり、真実に生きる者として歩ませてくださる、その恵みが用意されております。

16節、私どもが神の子とされていることは、神の霊により、私どもに保証されているのです。

17節、神の子とされた私どもは、子供であれば相続人、主イエスと共に神の相続人だとパウロは言っております。名ばかりの子なのではありません。主イエス・キリストに神から与えられているものは全て、私どもにも与えられている。私どもは、本来受け継ぐことなどできない神の国を受け継ぐ者として立てられているのです。

「神の子とする霊」は、私どもが絶対に自分の力では歩み得ない喜びの道を歩ませてくださいます。私どもが何かをするのではありません。まず神が働いてくださり、私どもを見つけ、呼び集め、主イエス・キリストを通して永遠の命を与える約束を与えてくださるのです。私どもは、今まさに「神の子」とされる、その恵みの内に歩み続けることが赦されているのです。

神は、私どもが主イエス・キリストを信じ「神の子」として、神の家族として歩み続けることを望んでいてくださいます。神の霊が保証し、望んでくださっている道を歩み続ける者でありたいと思います。

イエスという方」 5月第4主日礼拝 2008年5月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第9章4〜12節

9章<4節>わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。<5節>わたしは、世にいる間、世の光である。」<6節>こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。<7節>そして、「シロアム−『遣わされた者』という意味−の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。<8節>近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った<9節>「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。<10節>そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、<11節>彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」<12節>人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

主イエスは「生まれつき目の見えない人」の目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言ってくださいました。ハンディーに神の御業を見る、それが主イエスのあり方です。この人に罪がない訳ではありません。誰もが罪を持つのです。しかし主イエスは罪をあげつらうのではなく、罪を贖ってくださる方です。罪に御業を現してくださる、それは神の救いに他なりません。そして私どもに対しても神は御業を現してくださいます。私どもは赦され救われる者です。主イエス・キリストは、私どもに神の御業をなし、救いを与えてくださる方なのです。

4節「わたしたち」とは主イエスと弟子たちのこと、即ち、主を信じる者の群れ=教会を示しております。主を信ずる群は御業をなすと言うのです。教会は主の委託のもとに、主の御業(神の救い)を行うものとして立てられております。教会は、神の救いの御業に参与するために、神から力を与えられ託されているのです。
 ここで主イエスは「わたしをお遣わしになった方」という言葉で、ご自身のことを「神から遣わされた者」であると示しておられます。本来、父なる神と共におられるべき子なる神、神でありながら地上に遣わされた、おいでくださった方という意味です。主イエス・キリストは、私どものところにおいでくださった神です。私どもが神に至るというのではない。神が私どものところにまでおいでくださった、有り難いことなのです。「神がおいでくださった」ので、私どもはこの地上で罪あるままで神に出会うことが出来る、恵みの出来事なのです。神が出会ってくださるので、私どもは神との交わりを得、救いを得るのです。
 神が来たりたもうところに、この世の、私どもの希望があるのだということを覚えたいと思います。私どもは本来、神から遠いのです。それは、神無き罪なる世界です。自らが神となる世界です。神から遠く離れ自らが神となっている、それは滅びでしかないのです。交わりを失い、滅びが始まるのです。
 神を畏れる人は自分の低さを知り、自らを弁えることができます。低くなれず、皆が高ければ、交わりは失われるのです。ですから、神を畏れない世界は真実の交わりを失った世界であり、それが私どもの現実なのです。神無き世界は、救い無き世界、滅びしかない陰府(よみ)の世界です。陰府(よみ)は特別な場所なのではありません。神が在さぬ所、交わりなき所、それが陰府(よみ)なのです。
 「光」は神のことです。神を信じる(神が在す)ところでは、人は明るいのです。自分を真実に知ることが出来るからです。主イエスが来てくださったので、この世はもはや闇ではありません。主イエスを信じるとき、光の、神の支配のもとで生きることが出来るのです。
 ここで「裁き」ということについても覚えてほしいと思います。「真実の裁き」とは、神無き世界に放置されることです。相手にされないこと、それが滅びです。神を畏れず、自ら望んだところにいるとすれば、その責任はその人にあるのです。ですから、陰府(よみ)は、人自らが作り出した世界と言えます。
 しかし、だからこそ、この世は神から遠いがゆえに、滅びの状況にあるがゆえに神を求めざるを得ないのです。自分自身が呻いていることすら知らず声もなく呻いてる、自分ではどうしてよいか分らない、そのような漂う者の呻きを、神は知っていてくださいます。それゆえ、神は御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。それは神の憐れみ以外のなにものでもありません。
 神を失うことは、人と人との交わりを失うこと=孤独です。自分が低くなって相手に聞くことが出来なければ、自分の弱さを知り得ず、交わりを失うのです。しかし、そういう孤独の苦しみ、呻きを神は知っていてくださり、御子イエス・キリストを「人」として、私どものところにお遣わしくださいました。「人」として、人の心の痛み、呻きをも真実に知っていてくださる方として、主イエスはお生まれくださったのです。人の悲しみ、苦しみ、痛みをご自分のものとして担い切ってくださった方、それが主イエス・キリストです。それゆえ、主イエスは十字架にかかってくださいました。

「裁き」を感じるとすれば、裁かれる方が救いであると言えます。放置されるより怒られた方が良い、そういう意味での裁きはあるのです。本当に裁かれるなら、それは神が私どもに真実に向き合ってくださっているということです。ですから、それは救いの糸口です。神の裁きは慈しみであり、憐れみなのです。しかし人の裁きには慈しみ、憐れみはありません。神の裁きと人の裁きとでは全く違うのです。神の裁きは私どもを覚えてくださる恵みの出来事です。神の裁きは、人を滅ぼすためではなく、人を救うためにあるのです。十字架の出来事は、裁きと救いが一つとなる出来事です。

教会は聖霊により神の救いの業(救いの宣言をなすこと)を託されております。洗礼の出来事は、闇の世界から、神共なる光の世界へと導き出される聖霊の出来事です。今ここに神の支配があることを現す、それが教会に託された使命です。

主イエスは「生まれつき目の見えない人」の目に泥を塗りました。泥に意味があるのではありません。「生まれつき目の見えない人」は、主イエスの言葉に従うことによって、癒しと救いに与ったのです。

8節〜、人は自分の持っている印象をなかなか変えることはできません。「生まれつき目の見えない人」を知っている人々も、身近な相手であればあるほどそうでした。人を見ている限り、思いを変えることはできません。私どもが視点を変えるならば、その人でなくその人に働いている神に目を向けるならば、思いは変えられるのです。神にあって相手を見る、そこに神の御業を見い出すとき、私どもは真実に相手を受け入れる、受け止めることが出来るのです。

10節〜、主イエスの言葉に従って「生まれつき目の見えない人」は池に行って目を洗い癒されましたが、その後、彼は「主イエスに従って来なさい」とは言われておりません。彼は主の弟子になろうと思ってもいないのです。しかし、彼は主イエスを証しする人となっております。その所に信じられない者がいる、だから彼は「イエスという方に従ったら癒された」と言わざるを得ないのです。神は、その所で主を証しする者として、彼を遣わしておられるのです。

このように主イエス・キリストの救いは全く自由に、場所、時を選ばず、信じられない者たちに向かって開かれているのだということを覚えたいと思います。