|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
1節「イエスは通りすがりに、…」と記されております。 2節、主イエスが「生まれつき目の見えない人」に注がれる眼差しを見て、弟子たちは主イエスに問います。弟子たちは「生まれつき目の見えない人」に心を向けておりません。「生まれつき目の見えない人」を材料にして、主イエスの考え方を探ろうとしているのです。「ラビ」とは「先生(律法の)」との呼びかけです。律法に照らして、この人の罪はどこにあるのか学ぼうとする。罪の追求をしているのであって、その人が罪人だったとしても罪の赦し(罪からの救い)を願っているわけではないのです。弟子たちは、律法を「人を罪に定める」ために用いております。人を罪に定めることは、弟子たちの役割ではありません。全ての人に罪はあります。他者の罪をあげつらうことは私どものすることではない。「罪を定めるのは神であって人ではない」ということを覚えなければなりません。 3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と、「罪がない」ことを主イエスは宣言してくださっております。はっきりと罪がないと言える、それは主イエスが完全に罪を処理できるお方だからです。 4節「神を現すための業」として「生まれつき目の見えない人は癒しを受けた」のです。 5節「わたしは、世にいる間、世の光である」。「光」は旧約聖書においては「神」を現します。 6節「唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。主イエスが触れてくださることによって、人は癒されるのです。主イエスは、その人の一番弱いところに触れ、ご自身の力・恵みを現してくださいます。主イエスの恵み、それは私どもへの主イエスのいつくしみです。 「信仰は恵みの出来事である」ことを覚えたいと思います。罪の身の上に神のいつくしみを見ること、そして自らの罪を知り、悔い改めることです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
聖霊降臨日、教会誕生の日であります。 今朝は「聖霊をいただく」ことをエゼキエル書から聴きたいと思います。 2節「谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」。枯れた骨=干涸びた骨、それはもはや望みの尽きた骨。それは捕囚の民、希望を失った「イスラエルの全家(11節)」、希望を失った民は「生ける屍」であることを示しております。「骨」という感覚、「骨の髄まで・骨身に沁みて」という日本人の魂の深いところでの感性は、どこかへブルに通ずるものがあります。希望を持てず、気力を掻き立たせることのできない状況の中で、行き詰まりを生きている。それは今の日本社会をも表しているようです。繁栄の行き着いた先の行き詰まり・絶望、それは悪循環で、そこに救いを見い出すことは出来ません。自らの力ではどうしようもない状況、その絶望は人を死へと向かわせるのです。自殺の根底にあることは孤独です。人は交わりを失うと生きていけません。だれも信頼できず希望を失っている、そこでは魂の救済が必要なのです。 「枯れた骨」に必要なのは「霊」、それは「命の息」です。 4節〜、神は言われます「枯れた骨に必要なのは神の言葉である」と。「神の言葉をいただく」とは「聖霊の息吹をいただく」ことです。 今日のこの箇所は、人の虚しさの根底を示しております。 今、家の中で神仏を礼拝する霊的感性が失われております。知識や知恵、体験だけを獲得することが大切なのではありません。神の御言葉に聴き、共に祈る、そこでこそ自分の根底にあることを見い出すことが出来るのです。霊的感性は御言葉に聴き、祈るときに養われます。 「魂の底の飢え渇き」それは、真実な言葉を失い、希望を失っていることによるのです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
先週はペンテコステの祝いの内に礼拝をささげました。 12節、私どもキリストを主と仰ぐ者には一つの義務があると示されております。言葉を変えれば「歩むべき歩みがある」ということです。「肉に対する義務ではありません」と言われております。「肉に従う」というとき、私どもはアダムの子孫であることを思い起こさねばなりません。神に背いた歩みです。本来神と向き合うべき者として神の似姿に創られ、神を礼拝する者、御言葉に歩むべき者でした。しかし神にある自由を、自分を喜ばせるため、自分を神とすることに用いてしまった、罪ある存在となってしまった、それが肉に従うということです。 にもかかわらず、私どもはなお、神の恵みによって神の子とされ、神の御前に歩む者とされている、考えられないような出来事が起こっていると語るのが今日の箇所です。 13節、人としての歩みには2本の線があります。「肉に従って生きる」「霊に従って生きる」です。自分の欲望、周囲の誘惑に従い死に至る道を歩むのか、主イエスをキリストと告白する霊に従って命の道を歩むのか。 14節、神の霊が私どもに働いてくださる、だから神に従う歩みも出来るのです。私どもは自分の力では神に従うことの出来ない者です。全く神に従う道を歩まれた、それは神の子・主イエスのみです。主イエスの十字架と復活により、主イエスを仰ぐ者は復活の命に与る者とされました。それがキリストに結び合わされるということです。教会において、主イエス・キリストの御身体の一部となるのです。 15節、肉に従っていたとき、私どもは罪の奴隷であり、決して逃げおおせない死・滅びに至るよりありませんでした。しかし、今私どもに与えられている霊は「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません。自分の思いばかりを活性化させる霊ではない。私どもを「神の子とする霊」なのです。「神の子とされる」、それは神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが赦されているということです。「アッバ」はアラム語で赤ん坊が親を呼ぶ言葉であり、親密さを示す言葉です。神が私どもを自分の子どもとして見てくださる。それは、私どもが神に誉められることをしたからではありません。どうしようもない罪人が、神の子として「アッバ、父よ」と呼ぶことができる、呼ぶことを赦されているのです。「アッバ、父よ」、これは主イエスが祈られた言葉です。主イエスが祈られた祈りを、私どもも祈ることが赦されているのです。 16節、私どもが神の子とされていることは、神の霊により、私どもに保証されているのです。 17節、神の子とされた私どもは、子供であれば相続人、主イエスと共に神の相続人だとパウロは言っております。名ばかりの子なのではありません。主イエス・キリストに神から与えられているものは全て、私どもにも与えられている。私どもは、本来受け継ぐことなどできない神の国を受け継ぐ者として立てられているのです。 「神の子とする霊」は、私どもが絶対に自分の力では歩み得ない喜びの道を歩ませてくださいます。私どもが何かをするのではありません。まず神が働いてくださり、私どもを見つけ、呼び集め、主イエス・キリストを通して永遠の命を与える約束を与えてくださるのです。私どもは、今まさに「神の子」とされる、その恵みの内に歩み続けることが赦されているのです。 神は、私どもが主イエス・キリストを信じ「神の子」として、神の家族として歩み続けることを望んでいてくださいます。神の霊が保証し、望んでくださっている道を歩み続ける者でありたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
主イエスは「生まれつき目の見えない人」の目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言ってくださいました。ハンディーに神の御業を見る、それが主イエスのあり方です。この人に罪がない訳ではありません。誰もが罪を持つのです。しかし主イエスは罪をあげつらうのではなく、罪を贖ってくださる方です。罪に御業を現してくださる、それは神の救いに他なりません。そして私どもに対しても神は御業を現してくださいます。私どもは赦され救われる者です。主イエス・キリストは、私どもに神の御業をなし、救いを与えてくださる方なのです。 4節「わたしたち」とは主イエスと弟子たちのこと、即ち、主を信じる者の群れ=教会を示しております。主を信ずる群は御業をなすと言うのです。教会は主の委託のもとに、主の御業(神の救い)を行うものとして立てられております。教会は、神の救いの御業に参与するために、神から力を与えられ託されているのです。 「裁き」を感じるとすれば、裁かれる方が救いであると言えます。放置されるより怒られた方が良い、そういう意味での裁きはあるのです。本当に裁かれるなら、それは神が私どもに真実に向き合ってくださっているということです。ですから、それは救いの糸口です。神の裁きは慈しみであり、憐れみなのです。しかし人の裁きには慈しみ、憐れみはありません。神の裁きと人の裁きとでは全く違うのです。神の裁きは私どもを覚えてくださる恵みの出来事です。神の裁きは、人を滅ぼすためではなく、人を救うためにあるのです。十字架の出来事は、裁きと救いが一つとなる出来事です。 教会は聖霊により神の救いの業(救いの宣言をなすこと)を託されております。洗礼の出来事は、闇の世界から、神共なる光の世界へと導き出される聖霊の出来事です。今ここに神の支配があることを現す、それが教会に託された使命です。 主イエスは「生まれつき目の見えない人」の目に泥を塗りました。泥に意味があるのではありません。「生まれつき目の見えない人」は、主イエスの言葉に従うことによって、癒しと救いに与ったのです。 8節〜、人は自分の持っている印象をなかなか変えることはできません。「生まれつき目の見えない人」を知っている人々も、身近な相手であればあるほどそうでした。人を見ている限り、思いを変えることはできません。私どもが視点を変えるならば、その人でなくその人に働いている神に目を向けるならば、思いは変えられるのです。神にあって相手を見る、そこに神の御業を見い出すとき、私どもは真実に相手を受け入れる、受け止めることが出来るのです。 10節〜、主イエスの言葉に従って「生まれつき目の見えない人」は池に行って目を洗い癒されましたが、その後、彼は「主イエスに従って来なさい」とは言われておりません。彼は主の弟子になろうと思ってもいないのです。しかし、彼は主イエスを証しする人となっております。その所に信じられない者がいる、だから彼は「イエスという方に従ったら癒された」と言わざるを得ないのです。神は、その所で主を証しする者として、彼を遣わしておられるのです。 このように主イエス・キリストの救いは全く自由に、場所、時を選ばず、信じられない者たちに向かって開かれているのだということを覚えたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||