聖書のみことば/2008.4
2008年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
真理を語る」 4月第1主日礼拝 2008年4月6日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章39〜47節

8章<39節>彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。<40節>ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。<41節>あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、<42節>イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。<43節>わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。<44節>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<45節>しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。<46節>あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。<47節>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

40節「わたしは神から聞いた真理を語っている」と主イエスは言われます。それも「今」と言うのです。「今、聞く」ことについて考えてみたいと思います。
 今の日本は経済活動に光を見いだせない状況です。特に地方の経済は厳しく、グローバル化する社会についていけません。「今」を希望を持って見ることができない現実、行き詰まった状況なのです。経済活動を神とする社会であれば、行き詰まり、救いを見い出せない。そこでは真実な人間の交わりを見い出せないのです。
 しかしそうであったとしても、主イエスは「今」と言われます。「今、神の真理が語られる」、そしてそれを私どもは「今、聞いている」というのです。今この時は神の真理が開示されている時、神の真理の到来の時だと言うのです。ですから週毎の礼拝の大切さを思います。礼拝において、私どもは神の真理を聴いております。神にある今、真理にある今、私どもは行き詰まりの中で、希望と未来を与えられているのです。
 ではなぜ「希望と未来」なのでしょうか。「神が主イエスに語られた真理」とは、主イエス(救い主)を世に遣わすこと、罪の赦しの十字架と復活を通して、信じる者に救いを与える真理です。主イエスにより私どもは終わりの日の甦りの希望が与えられている、永遠の救いの恵みを得ております。ですから信仰なき者にとっては行き詰まりでも、信仰者にとって「今」は希望と未来の時なのです。そしてこのヨハネによる福音書は、救いを未来のこととしてだけではなく「今この時」のこととして語ります。「今は救いの時」と言って良いのです。私どもは主イエスを救い主と信じることによって救いに与り、今、救いの時を生きているのです。
 「主イエスにある救い」という真理を聞いたにもかかわらず、ユダヤ人は主イエスを殺そうとしております。自分を第一とする者には主イエスは邪魔なのです。そんな信じない者の殺意(罪)を一身に受けて、主イエスは十字架につき、罪を終わりとされました。感謝の他ありません。
 ユダヤ人は自分たちはアブラハムと同じ者だと思っておりますが、しかしアブラハムは殺意の人ではありませんでした。自己保身の弱い者、憐れな者でした。しかし憐れな者だからこそ、神の恵みに生かされたのです。「人殺し」が憐れみ受けることは決してありません。私どもはもう一度、自分がどれほど憐れな者であるかを知らなければなりません。「憐れ」を知らない者は「慈しみ」を知らず、命を大切にすることができないのです。自分の弱さを認めず強がっているほど、神から遠くなっていくのです。自らの弱さを知るところに神の憐れみがあることを覚えたいと思います。

41節「あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」と言われます。44節以下で分かることですが、ユダヤ人の父は「悪魔」だというのです。「人を神から離す力」それが「悪魔」です。悪魔には実体があるわけではありません。「悪魔」は「力」として働くのです。この世には無数の、神を無きものとする悪魔の力があるのです。
 なぜ「姦淫」という言葉を使うかと言いますと、神以外のものを神とすることを聖書の世界では「姦淫」と表現したのです。ですからユダヤ人は「姦淫していない」と言って、他の神とは交わっていない、ただ父なる神のみ神としていると主張しているのです。

42節、しかし「父なる神のみ神としていると言いながら、神から来たわたし(イエス)を愛することなく、何故神の子と主張できるのか」と主イエスは言われます。
 私ども人間は地上のものであり、地上から逃れられない、この世に支配されております。しかし主イエスが地上におられるのは、神がイエスを地上に遣わすという神の意志によるのです。ですから、私ども人間と主イエスとでは全く違います。43節、神の意志によって来られた主イエスの言葉を、神の言葉として聞けない、だから神から遠くなるのだと言われております。

44節、人殺しはまさに悪魔のすることです。人の存在を抹殺しようとする時、私どもは悪魔の手先になってしまうのだということを、深く戒めをもって受け止めたいと思います。
 人殺しは「真理」に依り頼むことができないのです。「神の真理」とは「救いの真理」です。私どもは、主イエスをキリスト(救い主)と信じることが赦されております。私どもは主イエスを信じることによって既に「神の真理」のうちにあるのです。神の御心・救いの真理に与っているのです。
 ユダヤ人はアブラハムの子孫として神の子でありながら、そうあり切ることは出来ませんでした。主イエスを救い主と信じることができなかったからです。主イエスを救い主と信じることができない者が「悪魔の子」と言われていることを厳粛に受け止めたいと思います。「神の子」であるということは、本来、ただただ神から与えられている恵みの出来事なのです。
 そして「神の子」と言うとき、主イエスと私ども人間との違いをはっきりと弁えておくことが大切です。主イエスは、神から生まれた方として、本質において神です。私ども人間は神から生まれたのではありません。神に創られた者(被造物)にすぎないのです。
 私どもは主イエスを信じることで「神の子」としていただいたのであり、神を「父よ」と呼ぶ親しい交わりの中に入れていただいたのです。主イエスが神を「父よ」と呼んでくださった、だから私どもも神を「父よ」と呼ぶことが許されているのです。信仰によってこそ、「神の子」とされていることを覚えたいと思います。

信仰とは、新しく生まれることです。滅び・悪魔の子から、神の子に変えられる恵みの出来事です。自分の力によって変わることはできません。ただ神の恵みによって、信じることにより、新しく「神の子」として創造される、生まれるのです。

神の子である証明は、自分の行いによって確認できることではありません。ただ主イエスを信じる信仰により、聖霊によって信じさせていただくことによって、新しく生まれ、神の子とされるのです。どこまでも、自分で「神の子」と言うことのないようにしたいと思います。

 あやふやな私どもです。だから繰り返し繰り返し「神のみ言葉に聴く」以外にないのです。
 そして今朝はまた、信仰により新しくされた喜びを「聖餐に与る」ことによって味わい知る恵みが与えられていることを感謝したいと思います。

主の言葉を守る」 4月第2主日礼拝 2008年4月13日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章45〜59節
8章<45節>しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。<46節>あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。<47節>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」<48節>ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、<49節>イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。<50節>わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。<51節>はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」<52節>ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。<53節>わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」<54節>イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。<55節>あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。<56節>あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」<57節>ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、<58節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」<59節>すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

主イエスはユダヤ人たちに「人殺し、それは悪魔の業。それゆえ、わたしを殺そうとするあなたたちは悪魔を父としている」と、はっきりと言われました。

そして45節「わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」と言われます。「真理」とは「イエス・キリスト」のことです。「主イエスは神の子・救い主であられる」ということです。その主イエス・キリストを信じること、それは「救いに与る」ことです。これが真理です。救いの真理です。

最近は「真理」に対する探求心が希薄です。真理を探究しないということは哲学しなくなるということ。哲学はあらゆるものの「存在」を問う学問ですから、哲学しなくなると社会への関心が薄れてくるのです。今の大学教育からは哲学が消え、知識を豊富にすることが第一で、将来実利を得るために専門化した実学が流行です。それも大事ですが、しかし学問には、損得を抜きにして、やはり真理の探求が必要ではないかと思います。そういう意味で「神学」は真理探求の最たるものでしょう。神を問うことは人間存在を問うことなのです。ですから「信仰」も真理の探求です。神の恵みによって知る、真理に至るのです。神を知り自分を知るのです。信仰者は救いの真理を与る者とされている、それは恵みの出来事です。

ユダヤ人たちは主イエスを殺そうとしているのですから、この「救いの真理」を認めないのです。46節、主は「いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか」と問われます。ここで、ユダヤ人と主イエスの態度には大きな違いがあることを覚えたいと思います。
 ユダヤ人は「罪を責めて」いる。主イエスは自分を神の子と言って神を冒涜している、だから殺さなければならない。罪を見つけて処罰するという結論です。
 しかし主イエスはというと、彼らを罪ある者としながら、裁くことがお出来になるにもかかわらず、殺せとはおっしゃらないのです。それだけではなく、そのような自分に敵する者の罪を背負って十字架で死ぬ、贖いになると言ってくださるのです。
 人は罪に耐えられないのですぐ処理しようとする、しかし処理しきることは出来ません。主イエスは罪に耐えられる方、罪を御自分で処理できる神なる方です。罪を処理する・裁くことは、力ある者にしか出来ないことです。人は本当には罪を終わらせることは出来ません。たとえ人が裁いて相手を処刑したとしても、真の慰めは得られず虚しさのみ残るのです。
 ここに語られる主イエスとユダヤ人の違いは、本質的に、神と私ども人間の違いを示しております。人は弱い者なのです。人の罪を全て背負って十字架にかかることなど、私ども人間に出来ることではありません。ただ十字架の主イエスの憐れみを受ける以外、私どもは自らの弱さを克服できないのだということを覚えたいと思います。

主イエスは「なぜわたしを信じないのか」と言われます。責めることの愚かしさを語っておられます。それは同時に「信じる者になって欲しい」との主の招きの言葉・慈しみの言葉です。ヨハネによる福音書の特徴は、「信ぜよ」との勧めです。「なぜ信じないのか」と繰り返し繰り返し問うことによって「信じる者になれ」と招いてくださっているのです。

47節「神に属する者は神の言葉を聞く」。「神のことば」とは主イエスそのもののことです。「神に属する者」とは、主イエスを信じる者です。主イエスを信じることによって、地に属する者から天に属する者へと生まれ変わることができるのです。
 地に属する者は地上の価値観に属さなければなりません。地上の価値観は時代により変わるもの、ですから地上に価値観を置くところでは、自分自身を真に見い出すことはできません。しかし天は、地上がいかに変わろうとも決して揺らぐことがない、不変なのです。
 そして主イエスを信じることによって、信じる者全てが天に属する者、神に属する者の群れとして、地上にあって天の恵みに与っているのだということを忘れてはなりません。教会は、まさしく天に、神に属する者の群れです。

48節「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と、ユダヤ人は主イエスに言い返します。悪魔が父と言われて怒るのも当然と言えましょう。ユダヤ人はここでいきなり「サマリア人」と言うのです。「サマリア人は悪霊に取りつかれている」と。それはサマリア人に対する偏見です。サマリア人が全て悪霊に取りつかれているはずはないのです。他者をどうだこうだと決めつけることは楽なことですが、それは愚かなことです。
 それに対して主イエスは、人を断定的に見ることはなさいません。主イエスは「よきサマリア人のたとえ」で「隣人とは誰か」と問われます。「隣人を愛する」と言うとき、「隣人」に定義はないのです。その人にとって「最も身近な人になる」、それが「隣人を愛する」ということです。たとえ人々が偏見をもって見たとしても、主イエスは人を真実に、一人の人間として大切に見てくださる方であることを覚えたいと思います。

49節「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」と言われます。「重んじる」とは「従う」ということです。敬意を表し従うのです。 そして「重んじる」ことは同時に「信じる」ことです。
 神を信じ神に従うとき、神は重んじられ(大きくされ)、私どもは神を現すことができるのです。ですから信仰は、神を現す出来事、神を重んじる出来事です。

50節「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」。人間が「自分の栄光」というとき、それは自分を大きくすることであり、罪なる思いです。自分が神に代わる者となるからです。
 では、神にとっての「栄光」とは何か。それは「神が神として臨まれること」です。そして神が神として臨まれることによって、当然起こることが「裁き」です。何故なら人は自らの罪に耐えられない者だからです。「わたしの栄光」とは、神が「主イエスこそキリスト(救い主)である」と示されることです。ですから、罪に耐えられないにも拘らず主イエスを信じない者は、自ずと神によって裁かれざるを得ないのです。

「神が栄光を現してくださる」そこに私どもの救いがあります。神を信じ従う者にとっては、神が神として臨んでくださることは恵みだからです。それゆえキリスト者は挨拶文などにおいて「栄光在主」と結びます。「神が神として臨まれる、神が栄光を現してくださる、そこに私どもの救いがある」ことを感謝し覚える者でありたいと思います。

あなたは何者だ」 4月第3主日礼拝 2008年4月20日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章51〜59節
8章<51節>はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」<52節>ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。<53節>わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」<54節>イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。<55節>あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。<56節>あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」<57節>ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、<58節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」<59節>すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

51節「はっきり言っておく」とは「まことに、まことに、わたしはあなたに告ぐ」というニュアンスの言葉で、聞く者に対する「主イエスの宣言」です。
 「わたしの言葉を守るなら…」、31節では「わたしの言葉にとどまるならば…」と言われていますが、共にみ言葉(主イエス)に対する信頼という意味では同じです。「主イエスを信じる者こそ本当の弟子」と言われているのです。
 私どもは「主イエスのみ言葉に聞き従う」ということを強く思わない者です。しかし「信仰」は「主イエスのみ言葉に聞き従うこと」だということを改めて覚えたいと思います。
 「死ぬことがない」という表現は、「死を見ない」即ち「永遠の命を受ける」ことの隠喩として語られております。この言葉によって「主イエスに聞き従う人は永遠の生命を得る」との宣言を頂いているのです。
 またこの言葉には、「宣言として」と同時に「約束として」の二重の意味があります。「終わりの日の救いを待ち望みつつ生きる(約束)」と同時に「今既に終わりの日の恵みの先取りとして与えられている(宣言)」と、ヨハネは語っております。

52節「アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ」、ユダヤ人が主イエスの「死ぬことがない」という言葉を「永遠の命」ではなく「不死」と誤解したのも無理はないのです。
 ここで少し考えてみましょう。「不死」とは幸いなことでしょうか。「甦りの命」は完全なものであるのに対して「地上の命」は不完全なものです。地上では絶えず人間関係に苦しみ、過ちも清算できません。このような不完全な地上の命を生き続ける(不死)ことは、完成を見ない限定の中を生き続けることであり、それは苦しいことです。地上の命を「終えられない」ことは不幸ではあっても喜びではあり得ません。例えば、人は堪え難く苦しい病のうちにあっては、尊厳ある死を願うのです。「死がない」ことは幸いなのではない……「死なない」ことは苦痛であり不幸なことです。ですから私どもにとっては「死」が何を意味し、どのような死で終わるかが問題なのです。
 幸いなことに、主イエスを信じる者は、地上の死を終えても「天における永遠の命を生きる」ことが赦されております。ですからキリスト者の死は、不完全さから解き放たれて完全に至る門口なのです。そしてそれは、主イエスの十字架と復活があってのことです。私どもの安住の地はこの地上ではないのです。この地にあっては他者を許せず、受けた傷はトラウマとなって続く…。「完全・安住」は神の御国にあるのです。

ここで知らなければならないことがあります。主イエスを信じ永遠に生きる者として、私どもは「地上の命の清算」をしてから地上の命を終えなければなりません。この「地上の命の清算」を御子イエス・キリストが「十字架の死」においてなさってくださいました。主イエスは私どもの地上の命を清算し、甦りの命を与えてくださり、真の「平安」を与えてくださるのです。私どもは「平安」を望み見る者ですが、地上においては平安を見い出すことはできません。人間は自ら「平安・平和」を生み出せると思っていた、それが罪なのです。真に平和を生み出したいとすれば「自らの無力さ」を知らなければなりません。「謙虚さ」が必要なのです。

53節「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」。主イエスを神の子・救い主と信じることが出来ないユダヤ人にとっては、この非難も無理からぬことです。しかし、主イエスは真に神の子・救い主であられる方であって、アブラハムより偉大なのです。
 主イエスの十字架の死は私どもの罪の贖いのための死でした。主イエスは「死ぬ必要のない方」であるにも拘らず、「わたしは死なない」とは言っておられない。「罪なき方」であるにも拘らず、人の死(罪の報いの死)を死んでくださって、人と一つなる者となってくださったのです。死ぬ必要のない方が敢えて死んでくださった、そこには「私どもの罪の贖い」を意図した主イエスの御心が、力が働いているのです。ユダヤ人は、主イエスを神なる方と信じないがゆえに主イエスの言葉を受け止められませんでした。

神は主イエスの父です。そしてユダヤ人も神を父と呼びます。しかしそれは、父と呼ぶことを「許されている」だけのことです。ユダヤ人は錯覚しています、「自分たちは神の側にある」と。ですから主イエスについて勝手な判断をするのです。
 私どもも同じ間違いを犯してはなりません。「主イエスを信じる」ということは、主イエスの十字架の贖いを受けるということ、それは「神の憐れみを受ける」ということです。私どもが神の側に立ったのではない。神が私どもの側に立ってくださったのです。神が私どもを憐れみ、神の方から来てくださったのです。信仰とは神の憐れみの出来事、その憐れみを知ること、「神が私どもに寄り添ってくださるのだ」ということを忘れてはなりません。

ユダヤ人は主イエスに問います「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と。ここで思います。「何者か」と問うあなたは何者なのかと。
 「人はいったい何者か」という問い。これは私どもにとって、常に明確にすべきこと、永遠の課題です。4月のこの時期には特に思わされます。就職・進学と新しい人間関係を構築しなければならない時に、今までの関係だけでは済まされない中で「自分はいったい何者か」と問わざるを得ない経験をするのです。しかし人は、心にこの問いを秘めながらも、なかなか答えを見い出すことはできません。この問いは、現代の私どもに切実な問題です。後期高齢……格差社会……生きにくい今の日本社会に、「自分はいったい何者か」という問いが帰って来たと思うのです。豊かさの中で忘れられていた「人間の永遠のテーマ」、しかし今、如実に迫っている課題です。自ら答えを出せずに行き詰まっている、そういう社会なのです。

しかし、私どもキリスト者は幸いなことに、答えを示されております。私どもは、行き詰まりの中で滅びゆく者にすぎないにも拘らず、神の子とされ天上に属する者とされ、永遠に生きる者されております。私どもは、放浪の旅人なのではありません。私どもは本来虚しい者であるにも拘らず、ただ「主イエスを信じる信仰により」、神のものとして、大切な存在として「豊かに生きる者」、無くてはならない「有意義な存在」とされているのです。それが信仰の出来事です。

「あなたはいったい何者か」、答えは主イエス・キリストの内にあります。

わたしはある」 4月第4主日礼拝 2008年4月27日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章54〜59節
8章<54節>イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。<55節>あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。<56節>あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」<57節>ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、<58節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」<59節>すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

54節は、53節の「あなたはアブラハムよりも偉大なのか?」との問いへの答えとして語られております。

「神が神として臨まれ、神が神として現される」、それが「神の栄光」です。
 では「人の栄光」とは、どのようなものなのでしょうか。主イエスは「わたしは自分自身のために栄光を求めない」と言われます。人について言うならば「栄光」とは「自分を大きくする」ことです。しかし主イエスはここで、ご自分を「大きい者」とすることを望まないし、自分を大きい者として他者に認めさせようとすることは「むなしい」と教えておられます。
 主イエスのあり方は、ご自分を大きい者とすることではありません。主イエスはご自身を低い者としてくださいました。神なる方(イエス)が人となられたということは、自ら低い者になられたということです。しかも十字架にまでかかり、人の罪の奥深くにまでくだって「むなしい者にまで」なってくださいました。
 「自己栄冠」は、人間存在にある深い罪です。創世記11章・12章を見てみましょう。創世記11章バベルの塔の話では「名を大きくする」ということが、12章アブラム(後のアブラハム)の召命の話では「本当に人が大きくされるとはどういうことか」ということが示されております。
 11章、バベルの人々はレンガとアスファルトという新しい技術・文化を得ました。しかし彼らは新しく得たその力を弱さを補うために用いるのではなく「天にまで届く塔を作って有名になろうとした」と記されております。「有名になる」の原文は「名を大きくする」という意味を持っております。神に代わって自分が大きくなり自分が神となる、そこでは個々人が皆神になり、小さな神が大勢生まれ、結果として「言葉が通じなくなった」のです。自分が神になる、そこでは人と人との分裂が生じます。バベルの塔の物語は人の罪深さを語っております。人が交わりを失う、それは「孤独」です。人は「自分の低さを知ること」が大切なのです。そして「孤独」は「行き詰まり」をもたらします。行き詰まり、希望を失うのです。それはアブラムの姿そのものです。
 12章で、アブラムはカナンを目指しつつもハランに留まる、道半ばで挫折した状況です。しかも妻サラには子がなく、未来・希望もない、まさに行き詰まっているのです。しかしそのような時に、アブラムに対して「神の祝福」が臨みます。行き詰まり、無力で希望のない者に「あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われるのです。「名を高める」とは「名を大きくする」ということです。
 自らを大きくしようとしたバベルの人々は希望なき者となり、希望なき者アブラムは、ただ憐れみにより臨んでくださった神の祝福により「大いなる者」となる栄光を与えられ「大きな存在」とされました。「神の前に自らを低くして神を大きなものとして現す」それが信仰の出来事です。その時こそ、神はその人を「大きな存在」としてくださるのです。
 人は、自らの力で大きくなるのではありません。人は自ら大きくなろうとするとき、奢り、人を支配したり搾取したりしようとするのです。実は、私どもは取るに足りない存在なのです。そんな行き詰まりの者を、神が憐れんでくださって初めて、「滅びにすぎないむなしい存在」から「神の子とされる新しい存在」として「大いなる者、大切な意義ある存在」とされるのです。
 そして、そのことが現実のこととして起こるのは、主イエス・キリストによるのです。主イエスの十字架と復活により罪を終わりとされ「滅びの子」から「神の子(大いなる存在)」とされる、それが「救い」です。ですから「救い」とは、私どもを「大いなる存在とする」という「神からの栄光(祝福)」をいただくことなのです。神が私どもを祝福し、主イエス・キリストの十字架の死をもってまで私どもを救い出してくださった、それこそが、私どもが「栄光を受ける」ということなのです。

「わたしの父」と主イエスが呼ばれる神を、ユダヤ人も「我々の神」と言っております。55節に言われる「偽り」とは何でしょうか。「わたしが知らないと言えば、偽り者になる」とは逆に言えば「あなたたちは知っていると言って偽っている」ということです。ユダヤ人は、神を知らないのに「知っている」と思い違いしている、それが偽っていることだとおっしゃっているのです。「主イエスがどなたなのかを知らない」、だから思い違いをしているのです。主イエスはどなたか。結論は58節「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」ということです。「わたしはある」、それは神の宣言です。主イエス・キリストは「初めから」天にあって父なる神と一つなる神の子、全てのものの根源なる方、神なる方である、という宣言です。ユダヤ人は、主イエスが「神と一つなる、神なる方」であることを知らない。主イエスを理解できない、それは本当には神を知らないということ、だから偽り者と言われるのです。人の真実の無さは「神を神として認められない」ところにあります。人の真実は「罪に過ぎない私どもの救い主は主イエスであると信じること」だということを改めて覚えたいと思います。

56節「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。アブラハムは、今や信仰の父として、神のみもとで生きる恵みを与えられております。アブラハムによる救いは人々を神へと導くものでした。しかしアブラハムによる救いは未完成です。完全な罪の終わりと救いは、主イエス・キリストを待たなければなりませんでした。既にアブラハムの役割は終わり、アブラハムは、救いの完成を与えてくださる救い主・主イエスを待ち望み、主イエスが救いを完成するために地上に来られたことを、今天から見て喜んだ、と言っているのです。
 まさに主イエスは、救いにおいてアブラハムに勝ったお方です。十字架の死、その血によって、私どもの罪を完全に終わりにしてくださった「主イエスこを真の救い主である」ことを改めて覚えたいと思います。
 神を知るとは、救いを知り、救いに与ることです。十字架と復活により罪を完全に贖ってくださった主イエスを救い主と信じること、それが神を知ることです。人は神を知ることで、すなわち主イエスを信じることで救われるのだということを覚えたいと思います。人は、神を知らないから自分を低くできないのです。神を知らないから悔い改められず自分を大きくする他なく、結果として行き詰まるのです。私どもの希望は「神にのみある」ことを覚えたいと思います。

59節、イエスを信じられないユダヤ人は、主イエスの言葉に到底納得できません。「わたしはある」という主イエスの神宣言を神への冒涜とし、主イエスに石を投げます。石を投げる、それは死刑を意味するのです。
 しかし「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」。ユダヤ人の力が行使されることはありませんでした。何故か。それは、まだ「その時」ではなかったからです。「その時」=「十字架の時」は、人の力が行使される時ではありません。「十字架の時」それは主イエスが自らを人々に明け渡される時なのです。人がどれほど力を行使しても、主イエスの前には無力です。
 ただ、神の御心が成るのです。人の思いが成るのではありません。

人の考えや力は、人を滅びへと至らせるものです。そしてその力が大きければ大きいほど、「むなしさ」も大きいのです。
 しかし、神の力は偉大であり、有り難いのです。それは真実の力です。私どもの罪を終わりとし、むなしい者を大いなる存在と変えてくださる力です。
 何よりも、主イエス・キリストこそ神の力そのものであられることを覚えたいと思います。