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40節「わたしは神から聞いた真理を語っている」と主イエスは言われます。それも「今」と言うのです。「今、聞く」ことについて考えてみたいと思います。 41節「あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」と言われます。44節以下で分かることですが、ユダヤ人の父は「悪魔」だというのです。「人を神から離す力」それが「悪魔」です。悪魔には実体があるわけではありません。「悪魔」は「力」として働くのです。この世には無数の、神を無きものとする悪魔の力があるのです。 42節、しかし「父なる神のみ神としていると言いながら、神から来たわたし(イエス)を愛することなく、何故神の子と主張できるのか」と主イエスは言われます。 44節、人殺しはまさに悪魔のすることです。人の存在を抹殺しようとする時、私どもは悪魔の手先になってしまうのだということを、深く戒めをもって受け止めたいと思います。 信仰とは、新しく生まれることです。滅び・悪魔の子から、神の子に変えられる恵みの出来事です。自分の力によって変わることはできません。ただ神の恵みによって、信じることにより、新しく「神の子」として創造される、生まれるのです。 神の子である証明は、自分の行いによって確認できることではありません。ただ主イエスを信じる信仰により、聖霊によって信じさせていただくことによって、新しく生まれ、神の子とされるのです。どこまでも、自分で「神の子」と言うことのないようにしたいと思います。 あやふやな私どもです。だから繰り返し繰り返し「神のみ言葉に聴く」以外にないのです。 |
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主イエスはユダヤ人たちに「人殺し、それは悪魔の業。それゆえ、わたしを殺そうとするあなたたちは悪魔を父としている」と、はっきりと言われました。 そして45節「わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」と言われます。「真理」とは「イエス・キリスト」のことです。「主イエスは神の子・救い主であられる」ということです。その主イエス・キリストを信じること、それは「救いに与る」ことです。これが真理です。救いの真理です。 最近は「真理」に対する探求心が希薄です。真理を探究しないということは哲学しなくなるということ。哲学はあらゆるものの「存在」を問う学問ですから、哲学しなくなると社会への関心が薄れてくるのです。今の大学教育からは哲学が消え、知識を豊富にすることが第一で、将来実利を得るために専門化した実学が流行です。それも大事ですが、しかし学問には、損得を抜きにして、やはり真理の探求が必要ではないかと思います。そういう意味で「神学」は真理探求の最たるものでしょう。神を問うことは人間存在を問うことなのです。ですから「信仰」も真理の探求です。神の恵みによって知る、真理に至るのです。神を知り自分を知るのです。信仰者は救いの真理を与る者とされている、それは恵みの出来事です。 ユダヤ人たちは主イエスを殺そうとしているのですから、この「救いの真理」を認めないのです。46節、主は「いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか」と問われます。ここで、ユダヤ人と主イエスの態度には大きな違いがあることを覚えたいと思います。 主イエスは「なぜわたしを信じないのか」と言われます。責めることの愚かしさを語っておられます。それは同時に「信じる者になって欲しい」との主の招きの言葉・慈しみの言葉です。ヨハネによる福音書の特徴は、「信ぜよ」との勧めです。「なぜ信じないのか」と繰り返し繰り返し問うことによって「信じる者になれ」と招いてくださっているのです。 47節「神に属する者は神の言葉を聞く」。「神のことば」とは主イエスそのもののことです。「神に属する者」とは、主イエスを信じる者です。主イエスを信じることによって、地に属する者から天に属する者へと生まれ変わることができるのです。 48節「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と、ユダヤ人は主イエスに言い返します。悪魔が父と言われて怒るのも当然と言えましょう。ユダヤ人はここでいきなり「サマリア人」と言うのです。「サマリア人は悪霊に取りつかれている」と。それはサマリア人に対する偏見です。サマリア人が全て悪霊に取りつかれているはずはないのです。他者をどうだこうだと決めつけることは楽なことですが、それは愚かなことです。 49節「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」と言われます。「重んじる」とは「従う」ということです。敬意を表し従うのです。 そして「重んじる」ことは同時に「信じる」ことです。 50節「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」。人間が「自分の栄光」というとき、それは自分を大きくすることであり、罪なる思いです。自分が神に代わる者となるからです。 「神が栄光を現してくださる」そこに私どもの救いがあります。神を信じ従う者にとっては、神が神として臨んでくださることは恵みだからです。それゆえキリスト者は挨拶文などにおいて「栄光在主」と結びます。「神が神として臨まれる、神が栄光を現してくださる、そこに私どもの救いがある」ことを感謝し覚える者でありたいと思います。 |
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51節「はっきり言っておく」とは「まことに、まことに、わたしはあなたに告ぐ」というニュアンスの言葉で、聞く者に対する「主イエスの宣言」です。 52節「アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ」、ユダヤ人が主イエスの「死ぬことがない」という言葉を「永遠の命」ではなく「不死」と誤解したのも無理はないのです。 ここで知らなければならないことがあります。主イエスを信じ永遠に生きる者として、私どもは「地上の命の清算」をしてから地上の命を終えなければなりません。この「地上の命の清算」を御子イエス・キリストが「十字架の死」においてなさってくださいました。主イエスは私どもの地上の命を清算し、甦りの命を与えてくださり、真の「平安」を与えてくださるのです。私どもは「平安」を望み見る者ですが、地上においては平安を見い出すことはできません。人間は自ら「平安・平和」を生み出せると思っていた、それが罪なのです。真に平和を生み出したいとすれば「自らの無力さ」を知らなければなりません。「謙虚さ」が必要なのです。 53節「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」。主イエスを神の子・救い主と信じることが出来ないユダヤ人にとっては、この非難も無理からぬことです。しかし、主イエスは真に神の子・救い主であられる方であって、アブラハムより偉大なのです。 神は主イエスの父です。そしてユダヤ人も神を父と呼びます。しかしそれは、父と呼ぶことを「許されている」だけのことです。ユダヤ人は錯覚しています、「自分たちは神の側にある」と。ですから主イエスについて勝手な判断をするのです。 ユダヤ人は主イエスに問います「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と。ここで思います。「何者か」と問うあなたは何者なのかと。 しかし、私どもキリスト者は幸いなことに、答えを示されております。私どもは、行き詰まりの中で滅びゆく者にすぎないにも拘らず、神の子とされ天上に属する者とされ、永遠に生きる者されております。私どもは、放浪の旅人なのではありません。私どもは本来虚しい者であるにも拘らず、ただ「主イエスを信じる信仰により」、神のものとして、大切な存在として「豊かに生きる者」、無くてはならない「有意義な存在」とされているのです。それが信仰の出来事です。 「あなたはいったい何者か」、答えは主イエス・キリストの内にあります。 |
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54節は、53節の「あなたはアブラハムよりも偉大なのか?」との問いへの答えとして語られております。 「神が神として臨まれ、神が神として現される」、それが「神の栄光」です。 「わたしの父」と主イエスが呼ばれる神を、ユダヤ人も「我々の神」と言っております。55節に言われる「偽り」とは何でしょうか。「わたしが知らないと言えば、偽り者になる」とは逆に言えば「あなたたちは知っていると言って偽っている」ということです。ユダヤ人は、神を知らないのに「知っている」と思い違いしている、それが偽っていることだとおっしゃっているのです。「主イエスがどなたなのかを知らない」、だから思い違いをしているのです。主イエスはどなたか。結論は58節「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」ということです。「わたしはある」、それは神の宣言です。主イエス・キリストは「初めから」天にあって父なる神と一つなる神の子、全てのものの根源なる方、神なる方である、という宣言です。ユダヤ人は、主イエスが「神と一つなる、神なる方」であることを知らない。主イエスを理解できない、それは本当には神を知らないということ、だから偽り者と言われるのです。人の真実の無さは「神を神として認められない」ところにあります。人の真実は「罪に過ぎない私どもの救い主は主イエスであると信じること」だということを改めて覚えたいと思います。 56節「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。アブラハムは、今や信仰の父として、神のみもとで生きる恵みを与えられております。アブラハムによる救いは人々を神へと導くものでした。しかしアブラハムによる救いは未完成です。完全な罪の終わりと救いは、主イエス・キリストを待たなければなりませんでした。既にアブラハムの役割は終わり、アブラハムは、救いの完成を与えてくださる救い主・主イエスを待ち望み、主イエスが救いを完成するために地上に来られたことを、今天から見て喜んだ、と言っているのです。 59節、イエスを信じられないユダヤ人は、主イエスの言葉に到底納得できません。「わたしはある」という主イエスの神宣言を神への冒涜とし、主イエスに石を投げます。石を投げる、それは死刑を意味するのです。 人の考えや力は、人を滅びへと至らせるものです。そしてその力が大きければ大きいほど、「むなしさ」も大きいのです。 |
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