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主イエスは神殿の宝物殿の近くで、ファリサイ派の人々に向かって言われます、21節「わたしは去って行く」と。どこへ行くのか、ユダヤ人たちには理解できない、ユダヤ人たちの行けない所です。23節「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」、ユダヤ人は下のものに属する、この世の者です。主イエスは「上のものに属する」すなわち「天に属するもの」として、本来属する所(天)に戻る(帰る)のだとおっしゃっているのです。 しかしユダヤ人は主イエスのその言葉を理解できず、22節「自殺でもするのか」と言うのです。ここにはユダヤ教の伝統的な考え方があります。同時にキリスト者にも言えることですが、「自殺」ということを良しとしていないということが前提なのです。自殺は「陰府(よみ)に下る」ことを意味します。 主イエスは天に属し、天に帰られることで、その使命を果たしてくださいました。すなわち、主イエスを信じる者は、主イエスに結び合わされることによって主と共に天に至ることができる、主イエスは私どもに天に至る道を開いてくださっているのです。天において神に赦され、神を父と呼ぶ交わりを与えられるのだということです。天における神との交わりに生きる、それこそが人の本来の姿であります。人は、神との交わりに生きる者として創られました。 24節、ユダヤ人に向かって言われます「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と。罪とは「的外れ」ということです。主イエスを救い主と信じることは「的を得ている」のです。 また「わたしは神である」とは、わたしは存在者として全ての者に存在を与える者だ、ということです。主イエスを信じ救いに与った者は、失われた存在から、存在を与えられた者へと変えられるのです。私どもは主イエス・キリストを見い出すことによって、自分の存在を見い出すのです。 今私どもはレントの時を過ごしております。私どもの罪の贖いのために十字架にまで上ってくださった主イエス・キリスト。レントのこの時、神が慈しみの神であられることを改めて知るのです。私どもを尊い大切な存在としてくださり、「わたしはある」と言ってくださる主がいてくださるから、私どもは自分の存在を確かなものとすることができるのだということを改めて覚えたいと思います。 |
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29節、ここは「主イエスは父なる神と一体である」ことが語られております。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない」、既に十字架を前提としての主イエスの御言葉です。 31節「御自分を信じたユダヤ人たちに」と、主イエスは彼らを「信じた者」としながら、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と語られます。「本当の弟子」とは何か、「信仰」とは何なのかと問わざるを得ません。 32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われます。私どもは、聴くことによって真理を知ることができます。「真理」とは何か。「真理」とは「主イエスは全世界の救い主である」ということです。この世を救う、私どもを救う「真理」はただ一つ、「主イエス・キリスト」なのです。それが「救いの真理」です。 |
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棕櫚の主日を迎えました。主イエスのエルサレム入城に際し群衆が道に敷いた木の枝(8節)が棕櫚だったと言われております。 1節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、」2人の弟子が正式の使者として遣わされることにより、主イエスのエルサレム入城が王として(神の都に神の子として)の入城であることが示されております。 3節、主イエスが入り用と言ってくださったものは「子ろば」でした。勝利の王の凱旋に相応しいのは騎馬です。大の大人が子ろばに乗るなど、見られたものではありません。しかし、主イエスはそのように滑稽な、潰れそうな子ろばでも「入り用」と言ってくださるのです。主に相応しく立派に応えられる者ではない、よたよたと潰れそうな者なのに、私どもを「必要とし用いる」と言ってくださるのです。傲慢で不遜な見苦しい者なのに「あなたを用いる」と言ってくださるのです。なんとありがたいことでしょう。 5節、預言の成就と言われます。子ろばに乗る、それは「柔和な方」であることを示しております。「柔和」とは、謙遜と思いがちですが、そうではありません。「柔和」は「弱さ」ということです。だれが弱い者を相手にするでしょうか。だれも相手にはしないのです。主イエスはその弱さを御自分のものとして引き受けてくださるのです。人から無視され愚弄される、そんな弱さを引き受けてくださるのです。 私どもは、絶えず苛まれます、「頑張らなければ」と。頑張れば頑張るほど、深く傷つくのです。弱さに耐えられない私どもの救い主は、主イエス・キリストのみなのです。 9節「ダビデの子にホサナ」と叫ばざるを得ないのです。「ホサナ」とは「救ってください!」ということです。主の御名を呼び求め、叫ぶ、それが賛美です。 |
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ここには、主イエスの十字架と、その周りにいる人々が描かれております。 32節、キレネ人シモン、この人物は後にキリスト者となり伝道を担う者となるので、ここにその名が記されております。 34節「苦いもの」は、痛みを和らげるためのものでした。しかし主イエスは「苦いものを混ぜたぶどう酒」を退けられます。主イエスは十字架の苦しみを苦しみ抜かれた、ということです。苦しみをごまかそうとはなさらなかったのです。 37節「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書の言葉は皮肉な言葉です。主イエスはまさしくユダヤ人の王なのです。その王を十字架につけてしまったユダヤ人の、神への反逆が言い表されております。また、主イエスの十字架はメシア(救い主)としての使命を果たすためのものです。ですから、「自らの王を十字架につけてしまった」ということと「まさしく主イエスはメシアである」ことが、皮肉にもこの罪状書に同時に示されているのです。 38節「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に」、王の左右にいる者は王の従者です。主イエスの左右にある者は、王に従う者としての役目を果たしているのであり、主イエスが王であられることを示す姿です。 39節、通りがかった人々、祭司長や律法学者たちは、主イエスをののしって言います「神の子なら……」と。これは、主イエスの公生涯の中でサタンの誘惑においてサタンが使った言葉と同じです。彼らはサタンの手下になっているのです。主イエスを「神の子」と認めている。認めているから試みるのです。このように主イエスに挑戦することによって、主イエスを救い主と言い表しております。 45節、遂に十字架の死の時が来ました。暗の支配が3時間続きます。そこで主イエスは叫ばれます「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、まさしく絶望の叫びであります。 人皆に等しく与えられる全き絶望の淵=死、そこにも主イエスは既にいてくださいます。 十字架の主イエスを仰ぐとき、私どもは、本当に絶望の淵にあるのは私どもであることを覚えなければなりません。私どもこそ絶望して死なねばならない者なのです。その私どもの死の様を、主イエスは死んでくださいました。 十字架の主イエスの死、それは滅びから救いへ、絶望から希望への転換の出来事であることを覚えたいと思います。 |
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過ぐる一週間、私どもは主の十字架を偲び受難週を守りました。 この受難週は、私どもの信仰の薄さを示されました。しかし、このことも神の御心であると思います。神は私どもの信仰の薄さを突きつけてこられた、そう思わざるを得ません。 アリマタヤのヨセフは主の十字架に心痛める者でした。主イエスに畏敬の念を抱き、犯罪人として処刑された人に哀悼の念を示して、自らの墓に主イエスを納めたのです。主の十字架を痛み畏敬の念を抱く者がいたことは、私どもにとって衝撃であります。私どもの十字架に対するあり方を顧み、改めて十字架の主に赦しを乞うのみです。「主よ、赦したまえ」と願うのみです。悔い改めなく主の復活に臨むには、甚だ無様な私どもです。そのことを今覚え心痛むのであれば、神の赦しがここにあるのです。痛む者と共に神はいてくださるのです。痛まないならば、その人は神から遠いのです。 1節、2人のマリアは十字架の主の死に心痛み、主を思い、まんじりともせず夜を過ごし、主の葬りの準備をいたしました。そして安息日が明けると早々に主の墓を見に行くのです。主イエスを愛し、十字架に死なれたことを痛み悲しみ、墓に向かわずにはいられないほどに涙する婦人たち、そういう者にこそ、復活の主は臨まれます。 5節「恐れることはない」との天使の言葉に、婦人たちの恐れは取り除かれます。主イエスを思い、主イエスのために心痛む者に「死んだ者の中に、主イエスはいない。復活されたのだ」と語ってくださいます。天使が2人のマリアに語ったことは、主イエスがかねてから弟子たちに語っておられたことでした。その主イエスの語られたこと、「御言葉」を思い起こせ、と言われているのです。信仰とは「主の言葉を思い起こすこと」です。 そして、婦人たちになすべきことが示されます、7節「弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と。心痛むとき、苦しみがあるとき、そこに主の御言葉が与えられます。主の御言葉が響くのです。痛むことなく、主の御言葉を聴くことはできません。 8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」、2人のマリアは主を思う思いで満ち溢れておりました。主イエスのことで思いが一杯であるがゆえに、主の十字架を深く痛み、それゆえ主が復活されたことを知って喜びに満ち溢れるのです。この姿を私どもは覚えなければなりません。 そして2人は、弟子たちに知らせようと走ります。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので」、当時男性は女性に挨拶はしませんでした。2人のマリアは、主から特別の挨拶を、恵みを受けたのです。この恵みは、喜びに満ち溢れた婦人たちにこそ、ふさわしいのです。 10節「「恐れることはない」と、主イエスご自身が、天使の告げた言葉を言ってくださり、恐れを取り除いてくださいます。そして「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言ってくださいます。主の十字架の時にいなかった裏切り者、主より自分を大切にした者に向かって「わたしの兄弟」と言ってくださるのです。十字架の主を痛みきれない私どもに「わたしの兄弟」と言ってくださるのです。 この一週間、主の苦しみを痛みきったとは到底言えない私どもにも、復活の主は「わたしの兄弟」と言ってくださっております。ただただ申し訳ない思いです。 今、思います。「わたしの兄弟」と言ってくださる復活の主が、会ってくださる場所はガリラヤ。私どもにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。私どもにとってのガリラヤ、それは「聖書」であり「祈り」であり「礼拝」なのです。そこでこそ主の御言葉を聴き、復活の主にお会いできるのです。 信仰薄き者であることを改めて思います。そんな私どもに、復活の主が「ガリラヤに行け」と言ってくださっております。礼拝を守り、祈り、御言葉に聴くところで「わたしはあなたがたに出会う」と言ってくださる主の憐れみを深く覚えたいと思います。 |
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37節、ユダヤ人が「アブラハムの子孫」であることを、主イエスは認めておられます。その根拠は、神の約束です。「子孫」とは、キリスト教・ユダヤ教にとっては血統を意味しない、契約(約束)の出来事であることを、まず覚えたいと思います。神はカナンの地を目指しつつも道半ばにあったアブラハムに臨み、彼を祝福の基とすると約束してくださいました。それはただ一方的に神の約束をいただいたのであって、人間の状況によって継承されていくものではないのです。 ここで主イエスは、イエスを殺そうとしているユダヤ人たちは本当にはアブラハムの子孫とは言い難いのだということを言っておられます。ユダヤ人たちは主イエスを「神を冒涜する者」と思っており、神を冒涜することは確かに「死」に値するのです。しかし「十戒」において「あなたは何ものをも殺してはならない」と命じられているように、たとえ「神を冒涜した」としても、神は「人が人を殺すこと」を望んでおられるのでしょうか。そうではありません。神が望んでおられることは「悔い改め」です。それ故に、主イエス・キリストは十字架につかれたのです。人は自分の分をわきまえなければなりません。神は「復讐するは我にあり」と言われます。私どものなすべきは「悔い改め」なのです。ですから、主イエスに対し安易な殺意を抱くユダヤ人たちはアブラハムの子孫ではあり得ないと、主イエスは言われるのです。 38節「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」、主イエスには神との直接の交わりがあることが示されております。人間は直接神との交わりを持つことはできません。ですから主イエスは、直接神と交わりのある方として真実に、神の御心を私どもに示してくださるのです。 ここで、パウロの使徒としての証明について思い起こしてみましょう。パウロは律法を実践し、それ故に、神を冒涜する者としてキリスト者を迫害しました。迫害する者に過ぎなかったパウロに復活の主イエス・キリストが臨んでくださり、救われて、神の救いの恵みを語る者=使徒となったのです。パウロは神を指し示す(恵みを語る)ことによって、神の民であることを証明いたしました。ですから、このパウロと同じく、私どもは「恵みとして、アブラハムの子孫」なのだということを覚えたいと思います。自ら「子孫」と証明するところには人の奢りがあるのであり、神から遠いのです。 ユダヤ人たちが「主イエスを殺そうとしている」ことは、全く神の御心から外れたことでした。しかし、そのような者(神から遠い)のために、主イエスは十字架への道を進まれます。主イエスは自分に敵する者の滅びを望まず、救いを望んでおられるのです。 39節「わたしたちの父はアブラハムです」と、ユダヤ人たちは、なお、アブラハムの子孫であることを強調いたします。それに対し主イエスは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」と言われます。 信仰とは、神に聴き従うことによって、神を神として表すことです。 |
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