聖書のみことば/2008.3
2008年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
天に属する方」 3月第1主日礼拝 2008年3月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章21〜30節

8章<21節>そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」<22節>ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、<23節>イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。<24節>だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」<25節>彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。<26節>あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」<27節>彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。<28節>そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。<29節>わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」<30節>これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

主イエスは神殿の宝物殿の近くで、ファリサイ派の人々に向かって言われます、21節「わたしは去って行く」と。どこへ行くのか、ユダヤ人たちには理解できない、ユダヤ人たちの行けない所です。23節「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」、ユダヤ人は下のものに属する、この世の者です。主イエスは「上のものに属する」すなわち「天に属するもの」として、本来属する所(天)に戻る(帰る)のだとおっしゃっているのです。
 また、「天に帰る」は「上に昇る」とも表現します。ただ天に帰るということではなく、主イエスご自身の意志で十字架に上られたのだということも忘れてはなりません。人々によって十字架に上げられた、そのように罪深い人間の罪の赦しのために自ら十字架に上ってくださったという二重の意味なのです。

しかしユダヤ人は主イエスのその言葉を理解できず、22節「自殺でもするのか」と言うのです。ここにはユダヤ教の伝統的な考え方があります。同時にキリスト者にも言えることですが、「自殺」ということを良しとしていないということが前提なのです。自殺は「陰府(よみ)に下る」ことを意味します。
 ここで、キリスト教では自殺をどのように考えているのか、お話ししたいと思います。キリスト教は、かつては自殺を厳しく戒めました。教会では自殺者の葬儀をしなかったのです。その根本の考え方は何か。それは「十戒」の第6戒「汝殺すなかれ」です。それは自分自身を殺すことも禁じているのです。創造の出来事を見ますと、人の命は神の息が吹き込まれて与えられた、神の賜物です。ですから究極的には「命は神のものだ」ということです。現代は、命を自分のものと錯覚しております。命は神のもの、命は人間が処理すべきことではないのです。命は神の賜物として、とても尊いものだと教えているのです。自殺は神の御心に反する、ですから自殺を罪なることと定めてきたのです。
 命を自分のものとしない、神のものとする、そのことが大事なのです。そこから命に尊厳を見い出すことができるのです。神を畏れることは、命を尊ぶことに繋がっております。神を見い出せないと、命の尊厳が失われてしまうことを忘れてはなりません。死刑についてもそうです。人間が人間の命を処理することも戒めなければならないのです。自分の命も他者の命も、神の前において共に尊厳を覚えるのです。
 今の時代は危ういと言えます。健康ブームがある一方で自虐的、いずれも命を自分のものとして過剰反応し、飽食しながら命を浪費しております。自殺は良くないこととしつつも、現実の生活は決して命を尊ぶものとなってはおりません。
 かつての日本には、切腹など、自殺を美化した歴史がありました。恥を忍んで生きるより死をもって潔しとする。散りゆく桜の潔さを好む精神構造があるのです。散り際の美しさを潔いと感じたのです。今では、その美の価値観は失われつつありますが…。

主イエスは天に属し、天に帰られることで、その使命を果たしてくださいました。すなわち、主イエスを信じる者は、主イエスに結び合わされることによって主と共に天に至ることができる、主イエスは私どもに天に至る道を開いてくださっているのです。天において神に赦され、神を父と呼ぶ交わりを与えられるのだということです。天における神との交わりに生きる、それこそが人の本来の姿であります。人は、神との交わりに生きる者として創られました。
 「救い」とは、人が本来あるべき姿になるということです。神との交わりに至ることが救いなのです。神との交わりの回復、それが救いです。本来あるべき姿に立ち帰るということです。

24節、ユダヤ人に向かって言われます「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と。罪とは「的外れ」ということです。主イエスを救い主と信じることは「的を得ている」のです。
 的外れは主イエスをキリスト(救い主)としない、だから本来の姿・神との交わりを回復できませんから、本来の姿を失う・滅びしかない、すなわち「罪に死ぬ」と言っているのです。
 「『わたしはある』ということを信じないならば、…」これはイザヤ書の御言葉の引用と思われますが、「わたしはある」とは、神がご自身を示される言葉、神が臨在を示される言葉です。その言葉を主イエスが使っておられるのは、「わたしは神である」と直接おっしゃっているということではなく、「わたしは神の子、救い主である」ということを強調・宣言しておられると考えます。

また「わたしは神である」とは、わたしは存在者として全ての者に存在を与える者だ、ということです。主イエスを信じ救いに与った者は、失われた存在から、存在を与えられた者へと変えられるのです。私どもは主イエス・キリストを見い出すことによって、自分の存在を見い出すのです。
 人は他者と居るから存在感を持つ訳ではありません。人と人との交わりの中では、自らの存在を確かにすることは難しいのです。身近な者と過ごすほど、却って自分の存在が希薄になるということも覚えてよいのです。
 では、どこで自らを見い出すのか。ただ、神の前においてのみ、自らの存在を見い出す、確かにするのです。

今私どもはレントの時を過ごしております。私どもの罪の贖いのために十字架にまで上ってくださった主イエス・キリスト。レントのこの時、神が慈しみの神であられることを改めて知るのです。私どもを尊い大切な存在としてくださり、「わたしはある」と言ってくださる主がいてくださるから、私どもは自分の存在を確かなものとすることができるのだということを改めて覚えたいと思います。
 神の憐れみ、それが十字架の出来事です。神の憐れみ、そこでこそ、私どもは虚しい者から存在ある者に変えられるのです。感謝です。

自由になる」 3月第2主日礼拝 2008年3月9日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章29〜38節
8章<29節>わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」<30節>これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。<31節>イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。<32節>32」<33節>すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」<34節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。<35節>奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。<36節>だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。<37節>あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。<38節>わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

29節、ここは「主イエスは父なる神と一体である」ことが語られております。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない」、既に十字架を前提としての主イエスの御言葉です。
 「ひとりにしてはおかれない」という御言葉を深く覚えたいと思います。この言葉は、他の福音書に記される「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と、十字架上で主イエスが叫ばれた言葉と相反しております。しかし、ヨハネによる福音書は、十字架の深刻さを語るよりも、どこまでも主イエスは神と一体の方であり「十字架」も天に続く「復活・昇天」の一環として「希望」を語るのであり、他の福音書と強調点が違っているのです。ヨハネが語る希望とは、いかなるものなのでしょうか。
 主イエスは、父なる神と一つなる方であるにも拘らず、敢えて、神なき闇の世界(見捨てられた、孤独)にまで至ってくださいました。人は、人以外の何者にもなることは出来ません。しかし主イエスは神でありながら神ならぬ者(人)になってくださった、力ある方です。その主イエスが、陰府(よみ)にまで下ってくださったことにより、もはや神の在さぬ場所はどこにもないのです。陰府(よみ)さえも神の救いの対象なのです。ですから、信仰を持たずに先に召された私どもの家族にも、神の救いが及んでいるのだという希望が与えられております。
 またもう一つの希望は、「わたしをひとりにしてはおかれない」との言葉は、主イエスのみならず、私ども全てに与えられている言葉だということです。
 私どもは、主イエスを信じる者として神の子とされました。「神の子」は旧新約聖書を通して「神と共にある者とされる」ことを意味しております。故に、死においてすら、私どもは孤独ではないのです。神が共に在し、「ひとりにはしない」と言ってくださっております。「孤独」は人により状況により、感じ方の違うものですが、どのような「孤独」の淵にあっても、そこに主が共にいてくださるのです。そしてそれは、「主イエスの御言葉を思い起こす」ことによって知ることです。御言葉を思い起こせなければ、孤独なままです。
 今、共同体性・家族性を失いつつあるこの世で「孤独」は深刻な現実ですが、私どもは孤独の淵に立たされたとしても、主イエスの御言葉を通し、神の家族として生きることができるのだということを覚えたいと思います。

31節「御自分を信じたユダヤ人たちに」と、主イエスは彼らを「信じた者」としながら、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と語られます。「本当の弟子」とは何か、「信仰」とは何なのかと問わざるを得ません。
 33節でユダヤ人は主イエスに「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問います。彼らは、奴隷について、自由について、本当には理解していないのです。彼らには「自分たちはアブラハムの子孫であり律法と神の約束を頂いている神の民だ」という自負があります。ですから、こう問うことによって自分たちは「救いを必要とする者ではない」ことを暗に語っているのです。
 しかし主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば…」と言われます。「主イエスの言葉にとどまる」それが信仰です。「主イエス・キリストを罪なるこの身の救い主と信じること」それが信仰です。アブラハムの子孫だから信仰者なのではないのです。「信じる」と言っても、「主イエスを救い主」と信じなければ、それは信仰ではないのです。そこに救いはありません。罪の自覚がなければ、本当の救いには至らないのです。神を第一とできない現実を持つ私どもは、自ら罪を処理することはできません。主イエス・キリストが罪を贖い、罪を終わりとしてくださるからこそ、救いがあるのです。
 「本当の弟子」と言われます。「本当」とは、信仰が本物かどうか、信仰告白の確かさを言っているのではありません。
 私どもは「完全な者になる」ことを志しますが、決して「完全な者」「完全なキリスト者」にはなり得ません。しかし「完全でなくても大丈夫」なのです。信仰は、完全な者になることが目標なのではありません。完全に完成した、その先に救いがあるわけではないのです。救いの完成は、主がなしてくださることです。私どもは「完全ではない」、だからこそ主イエスを必要とするのです。足りなさを思うが故に「キリストにすがる以外ない」それが大切です。そこでこそ神の恵みが表されるのです。信仰は完全を目指すのではない、完成させてくださるのは神であることを覚えたいと思います。
 そしてここでは「わたしの言葉にとどまりなさい」という言葉に、信仰とは何かということが示されております。「わたしの言葉」それは「神の、主イエスの言葉」です。詩編42編2節「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」と言われます。「わたしの言葉にとどまりなさい」とは、自ら渇き、御言葉を慕い求めること、御言葉にすがりついていくことです。
 主の御言葉は日々新たに語りかけられております。ですから、日々御言葉に聴くことが大切なのです。日々御言葉に聴くとき、私どもは日々新たにされ、生き生きとした者とされるのです。これこそが信仰の出来事です。朝に夕に御言葉に聴くこと、それが「主イエスの言葉にとどまる」ということです。それは正に礼拝の出来事です。

32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われます。私どもは、聴くことによって真理を知ることができます。「真理」とは何か。「真理」とは「主イエスは全世界の救い主である」ということです。この世を救う、私どもを救う「真理」はただ一つ、「主イエス・キリスト」なのです。それが「救いの真理」です。
 そして「真理」は、私どもを「自由にする」のです。主イエスは罪の贖い主として、罪の支配から私どもを解き放ってくださいました。それは、この世の一切の支配からの解放なのです。生・病・老・死、この世の支配には絶大なものがあります。これら地上の力(外的な力)は、私どもに対して強制的な、君臨する支配です。それに対して、キリストの力(内側の力)は、強制されるものではなく、私どもが自ら慕い求める「慈しみの、憐れみの」力なのです。
 この世の終わりの日まで、私どもを束縛する外的支配は続きます。しかし私どもは、私どもの内側で、神の慈しみを心から、自らの思いをもって慕い求めつつ、この世の歩みを歩み続けることができるのです。
 今私どもはレントの時を過ごしております。主イエス・キリストの十字架によるご支配以外に、これらを成し得るものはないのだということを覚えたいと思います。

柔和な方」 棕櫚の主日礼拝 2008年3月16日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第21章1〜11節
21章<1節>一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、<2節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。<3節>もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」<4節>それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<5節>「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」<6節>弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、<7節>ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。<8節>大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。<9節>そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」<10節>イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。<11節>そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

棕櫚の主日を迎えました。主イエスのエルサレム入城に際し群衆が道に敷いた木の枝(8節)が棕櫚だったと言われております。
 受難週を守る習慣は欧米よりも日本において重んじられて参りました。受難週を迎えるにあたり、今日は日本の教会の伝統についてまずお話ししたいと思います。
 来年は、プロテスタント日本伝道150年の年となります。まだ日本が港を閉ざしていた頃、欧米の宣教師が日本伝道への熱い思いを持ってやって来たのでした。宣教師と言えばへボン、クラーク、バランなどの名が挙がりますが、共通していたことは、皆、教師ではなく信徒だったということです。熱心な信徒だったのです。日本への宣教は、その信徒たちの「敬虔さ」と「熱い思い」ゆえに始められました。日本の教会はその「敬虔さ」を受け継いだのです。主イエスの十字架を何よりも恵みの出来事と感じた信徒たちによって伝えられ受け継がれてきました。ですから、他のどの国よりも、主イエスの十字架を、受難週を覚えた、それが日本の教会なのです。「敬虔な信仰」こそが日本の教会の発端であり受け継いできたことです。
 ところが、最近ではその敬虔さが段々と失われつつあります。
 日本の伝道を担ってきたのは敬虔な信徒たちであり、その信徒たちによって守られてきました。しかし1970年以降、日本の教会は大変な論争に巻き込まれ、混乱をきたしました。その混乱は、教師・牧師によって起こったことでした。主イエスを人間イエスとし、聖書を聴くのではなく私心で読むということが起こったのです。にもかかわらず、地方の教会が存続できたのは、「敬虔」を受け継いできた信徒たちが支え守ってきたからです。
 しかし今、その信徒たちも高齢化し天に召されてゆく、日本の教会はまさに危機的状況にあるのです。日本の教会はどうなっていくのか。けれども答えは既に与えられております。日本の教会は、敬虔な信徒たちによって守られてきました。ですから、十字架への熱い思いを持った信徒たちによって、これからも守り続けるのです。十字架への揺るぎない熱い確信に立つこと、それ以外にないのです。何も新しい考え方を必要とはしないのです。今こそ、十字架への熱い思い、敬虔な信仰が求められております。主の血潮は私どものための血潮、こんな私が救われた、その感謝のうちに生きる、それにより教会は在り続け、立ち続けるのです。
 逝去者記念式において召天者を覚える度に思い起こします。愛宕町教会が依って立った信仰はどのようなものだったか。主イエス・キリストへの熱い思い、祈りでした。迫害に負けず祈り続けた先達の信仰によって今があるのです。
 この受難週は、日本の教会の、愛宕町教会の依って立った信仰は何であったかを改めて覚え、熱い祈りの一週間としたいと思います。

1節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、」2人の弟子が正式の使者として遣わされることにより、主イエスのエルサレム入城が王として(神の都に神の子として)の入城であることが示されております。
 2節、主イエスは「向こうの村へ行きなさい」と弟子たちに命じられます。ここで注目すべきことは、弟子たちは「主の指示に従うのみ」であるということです。そして従うことによって、主が言われた通りであることを知り、確認するのです。覚えたいことは「主の言葉は従うべきもの」であって、従うところで、主の言われたことが真実であることを知るのです。知ってから信じるのではない。従ってみて初めて知るのです。主の御言葉は真実なのです。私どもが考えて、真実かどうか知ることではないのです。
 また、主の御言葉に従うと言っても、それは自分の力で成し遂げることではありません。信仰は信じているかが問題ではない、従うかどうかです。御言葉に屈しているかが問題なのです。「あなたを救う、わたしのもの」と言ってくださった主イエスに従うとき、そこで本当に救われ、愛されていることを実感するのです。
 従うことを強調する教派があります。メソジスト教会は服従の信仰と言われます。ホーリネス教会も従うことを大事にしてきました。従うところで真実を知る、主の言葉は現実であることを知るのです。

3節、主イエスが入り用と言ってくださったものは「子ろば」でした。勝利の王の凱旋に相応しいのは騎馬です。大の大人が子ろばに乗るなど、見られたものではありません。しかし、主イエスはそのように滑稽な、潰れそうな子ろばでも「入り用」と言ってくださるのです。主に相応しく立派に応えられる者ではない、よたよたと潰れそうな者なのに、私どもを「必要とし用いる」と言ってくださるのです。傲慢で不遜な見苦しい者なのに「あなたを用いる」と言ってくださるのです。なんとありがたいことでしょう。
 人は見捨てられる存在です。長生きすればするほど「用済み」と言われてしまうような世の中です。しかし主イエスは言ってくださる、老いた身に、見捨てられた人に「あなたが必要だ」と言ってくださるのです。それが子ろばまで入り用と言ってくださる主イエスの御心です。主イエスによってのみ、どこまでも必要とされている、それが私どもです。それがゆえに主イエスは十字架についてくださったのです。御自身の命までも捧げて、私どもの身代わりに十字架についてくださいました。だれが自分の命を捨ててまで、私どもを必要だと言ってくれるでしょうか。

5節、預言の成就と言われます。子ろばに乗る、それは「柔和な方」であることを示しております。「柔和」とは、謙遜と思いがちですが、そうではありません。「柔和」は「弱さ」ということです。だれが弱い者を相手にするでしょうか。だれも相手にはしないのです。主イエスはその弱さを御自分のものとして引き受けてくださるのです。人から無視され愚弄される、そんな弱さを引き受けてくださるのです。
 弱さゆえに神に向かう以外にない、神にすがるよりない、そういう弱い者を主は憐れんでくださいます。主イエス・キリストは弱さを負う者に対する「神の憐れみ」そのものです。だれも人の弱さを担うことはできません。自ら負えず、自分自身をも見捨ててしまうような無力な私どもの救い主として、主イエスは十字架についてくださいました。ただ一人、私どもの弱さを担ってくださるがゆえに、主は救い主なのです。

私どもは、絶えず苛まれます、「頑張らなければ」と。頑張れば頑張るほど、深く傷つくのです。弱さに耐えられない私どもの救い主は、主イエス・キリストのみなのです。

9節「ダビデの子にホサナ」と叫ばざるを得ないのです。「ホサナ」とは「救ってください!」ということです。主の御名を呼び求め、叫ぶ、それが賛美です。
 魂の飢え渇きによって主イエスを求めて叫ぶ、それこそが神への賛美であることを覚えたいと思います。

全地は暗くなる」 受難日礼拝 2008年3月21日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/マタイによる福音書 第27章32〜50節

27章<32節>兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。<33節>そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、<34節>苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。<35節>彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、<36節>そこに座って見張りをしていた。<37節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。<38節>折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。<39節>そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、<40節>言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」<41節>同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。<42節>「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。<43節>神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」<44節>一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。<45節>さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<46節>三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<47節>そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。<48節>そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。<49節>ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。<50節>しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

ここには、主イエスの十字架と、その周りにいる人々が描かれております。

32節、キレネ人シモン、この人物は後にキリスト者となり伝道を担う者となるので、ここにその名が記されております。
 彼は無理に十字架を担がされました。しかしそれによって主イエスと出会うのです。無理に十字架を担がされる、それは理不尽なことです。彼には全く十字架を担がなければならないような罪はないわけで、さぞかし腹立たしかったに違いありません。しかしだからこそ、十字架の重みをひしひしと感じたことでしょう。そして、何故イエスが十字架を担がねばならなかったのか、主イエスには罪がないにも拘らず理不尽にも十字架を担がれたことを知ったとき、理不尽を自らの身にしみて知ったシモンだからこそ、なお、主イエスの十字架の重みを、それが人々の罪のための十字架の重みであることを知ったのであります。そして、彼は主イエスを信じる者とされました。
 主イエスは、誰にも勝って理不尽を背負ってくださいました。主イエスの十字架に勝る理不尽はないのです。だからその主イエスにこそ、私どもは救いを見ることができるのです。

34節「苦いもの」は、痛みを和らげるためのものでした。しかし主イエスは「苦いものを混ぜたぶどう酒」を退けられます。主イエスは十字架の苦しみを苦しみ抜かれた、ということです。苦しみをごまかそうとはなさらなかったのです。
 私どもはどうでしょう。自らの罪を知るということは苦しいことです。しかし開き直り、あるいは見ないようにしようとする。苦しみを苦しみ抜くことは出来ないのです。しかし主イエスは、私どもの罪の苦しみを味わい尽くしてくださいました。

37節「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書の言葉は皮肉な言葉です。主イエスはまさしくユダヤ人の王なのです。その王を十字架につけてしまったユダヤ人の、神への反逆が言い表されております。また、主イエスの十字架はメシア(救い主)としての使命を果たすためのものです。ですから、「自らの王を十字架につけてしまった」ということと「まさしく主イエスはメシアである」ことが、皮肉にもこの罪状書に同時に示されているのです。

38節「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に」、王の左右にいる者は王の従者です。主イエスの左右にある者は、王に従う者としての役目を果たしているのであり、主イエスが王であられることを示す姿です。

39節、通りがかった人々、祭司長や律法学者たちは、主イエスをののしって言います「神の子なら……」と。これは、主イエスの公生涯の中でサタンの誘惑においてサタンが使った言葉と同じです。彼らはサタンの手下になっているのです。主イエスを「神の子」と認めている。認めているから試みるのです。このように主イエスに挑戦することによって、主イエスを救い主と言い表しております。

45節、遂に十字架の死の時が来ました。暗の支配が3時間続きます。そこで主イエスは叫ばれます「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、まさしく絶望の叫びであります。
 本当に捨てられた人の思いとはどのようなものでしょうか。主イエスは父なる神とひとつなる方として、全く神に信頼しておられました。全く信頼している、であるが故に「捨てられた」と叫べるのです。全く信頼した人だけが絶望できるのだということを覚えたいと思います。
 そして、絶望の淵にあって、尚、「わが神」と、神を信頼し神の名を主イエスは呼んでおられます。ただただ絶望の極みを知る者のみ、為し得ることです。
 私どもはどれほど神に信頼できているでしょうか。私どもの信頼は中途半端なものにすぎません。神から遠い私どもこそが、本当は絶望の淵にあるのです。しかし私どもは、それを見ないようにしております。そんな私どもの身代わりに、罪なき方であるにもかかわらず、主イエスが、本当の私ども(絶望の淵にある者)になってくださいました。

人皆に等しく与えられる全き絶望の淵=死、そこにも主イエスは既にいてくださいます。

十字架の主イエスを仰ぐとき、私どもは、本当に絶望の淵にあるのは私どもであることを覚えなければなりません。私どもこそ絶望して死なねばならない者なのです。その私どもの死の様を、主イエスは死んでくださいました。

十字架の主イエスの死、それは滅びから救いへ、絶望から希望への転換の出来事であることを覚えたいと思います。
復活された方」 イースター礼拝 2008年3月23日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第28章1〜10節
28章<1節>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。<2節>すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。<3節>その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。<4節>番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。<5節>天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、<6節>あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。<7節>それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」<8節>婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。<9節>すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。<10節>イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

過ぐる一週間、私どもは主の十字架を偲び受難週を守りました。
 しかしそこで思い知らされたことは、主イエスの受難の時、私どもは主と共にいなかったということでした。主イエスが祈っておられた時、その場にいなかった、眠りこけていた弟子たちの姿そのものを垣間見せられたのです。十字架を覚えての歩みをすべき時に、私どもは共に祈るにはあまりにも思いが小さく、弱く、主の十字架を痛みきれない者でした。

この受難週は、私どもの信仰の薄さを示されました。しかし、このことも神の御心であると思います。神は私どもの信仰の薄さを突きつけてこられた、そう思わざるを得ません。
 主イエスが十字架につけられた時、そこには「神の子なら降りてみよ」と侮る者たちしかおりませんでした。弟子たちはそこに居ないのです。弟子たちは、主の十字架が何であったのかを知りませんでした。復活の主イエスに出会ってから知るのです。もし十字架だけで復活が無かったら、それは犯罪人の処刑でしかありません。復活があって初めて、復活の主が出会ってくださって初めて、十字架が罪深い私どもの贖いのための死であることを知るのです。十字架は、主の復活なくして意味をもたないのです。

アリマタヤのヨセフは主の十字架に心痛める者でした。主イエスに畏敬の念を抱き、犯罪人として処刑された人に哀悼の念を示して、自らの墓に主イエスを納めたのです。主の十字架を痛み畏敬の念を抱く者がいたことは、私どもにとって衝撃であります。私どもの十字架に対するあり方を顧み、改めて十字架の主に赦しを乞うのみです。「主よ、赦したまえ」と願うのみです。悔い改めなく主の復活に臨むには、甚だ無様な私どもです。そのことを今覚え心痛むのであれば、神の赦しがここにあるのです。痛む者と共に神はいてくださるのです。痛まないならば、その人は神から遠いのです。

1節、2人のマリアは十字架の主の死に心痛み、主を思い、まんじりともせず夜を過ごし、主の葬りの準備をいたしました。そして安息日が明けると早々に主の墓を見に行くのです。主イエスを愛し、十字架に死なれたことを痛み悲しみ、墓に向かわずにはいられないほどに涙する婦人たち、そういう者にこそ、復活の主は臨まれます。
 2節「すると、大きな地震が起こった」、地震は神の顕現のしるしです。そして天使の姿が述べられております、3節「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と。また4節「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。墓は光輝き、生きた番兵は死人のようになる、ここに、終わりの日の救いの完成の時の生と死の逆転が示されております。キリスト者は、主イエスと共によみがえり、永遠の命を得るのです。

5節「恐れることはない」との天使の言葉に、婦人たちの恐れは取り除かれます。主イエスを思い、主イエスのために心痛む者に「死んだ者の中に、主イエスはいない。復活されたのだ」と語ってくださいます。天使が2人のマリアに語ったことは、主イエスがかねてから弟子たちに語っておられたことでした。その主イエスの語られたこと、「御言葉」を思い起こせ、と言われているのです。信仰とは「主の言葉を思い起こすこと」です。

そして、婦人たちになすべきことが示されます、7節「弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と。心痛むとき、苦しみがあるとき、そこに主の御言葉が与えられます。主の御言葉が響くのです。痛むことなく、主の御言葉を聴くことはできません。

8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」、2人のマリアは主を思う思いで満ち溢れておりました。主イエスのことで思いが一杯であるがゆえに、主の十字架を深く痛み、それゆえ主が復活されたことを知って喜びに満ち溢れるのです。この姿を私どもは覚えなければなりません。

そして2人は、弟子たちに知らせようと走ります。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので」、当時男性は女性に挨拶はしませんでした。2人のマリアは、主から特別の挨拶を、恵みを受けたのです。この恵みは、喜びに満ち溢れた婦人たちにこそ、ふさわしいのです。
 そして「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」、「足を抱く」2人は主イエスにすがりついたのです。
 ひたすら復活の主にすがりつくこと、それが礼拝です。そこでこそ、主が私どもの主であることを表すのです。
 2人のマリアは復活の主にお会いしました。十字架の主の死に自らの罪深さを見、罪に痛む者こそ、復活の主にお会いできるのです。主が臨んでくださるのです。

10節「「恐れることはない」と、主イエスご自身が、天使の告げた言葉を言ってくださり、恐れを取り除いてくださいます。そして「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言ってくださいます。主の十字架の時にいなかった裏切り者、主より自分を大切にした者に向かって「わたしの兄弟」と言ってくださるのです。十字架の主を痛みきれない私どもに「わたしの兄弟」と言ってくださるのです。

この一週間、主の苦しみを痛みきったとは到底言えない私どもにも、復活の主は「わたしの兄弟」と言ってくださっております。ただただ申し訳ない思いです。
 そして更に「ガリラヤへ行け、そこでわたしと会う」と言ってくださっております。自分を見捨てて逃げ去った者を「兄弟」と呼ぶだけではなく、「会う」と言ってくださるのです。

今、思います。「わたしの兄弟」と言ってくださる復活の主が、会ってくださる場所はガリラヤ。私どもにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。私どもにとってのガリラヤ、それは「聖書」であり「祈り」であり「礼拝」なのです。そこでこそ主の御言葉を聴き、復活の主にお会いできるのです。

信仰薄き者であることを改めて思います。そんな私どもに、復活の主が「ガリラヤに行け」と言ってくださっております。礼拝を守り、祈り、御言葉に聴くところで「わたしはあなたがたに出会う」と言ってくださる主の憐れみを深く覚えたいと思います。

神に属する者」 3月第5主日礼拝 2008年3月30日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章37〜47節
8章<37節>あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。<38節>わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」<39節>彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。<40節>ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。<41節>あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、<42節>イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。<43節>わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。<44節>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<45節>しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。<46節>あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。<47節>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

37節、ユダヤ人が「アブラハムの子孫」であることを、主イエスは認めておられます。その根拠は、神の約束です。「子孫」とは、キリスト教・ユダヤ教にとっては血統を意味しない、契約(約束)の出来事であることを、まず覚えたいと思います。神はカナンの地を目指しつつも道半ばにあったアブラハムに臨み、彼を祝福の基とすると約束してくださいました。それはただ一方的に神の約束をいただいたのであって、人間の状況によって継承されていくものではないのです。
 しかし同じ契約に基づくとはいえ、キリスト教とユダヤ教では違っております。キリスト者は、「キリストによって罪赦され神の子とされる」という約束によって「アブラハムの子孫(神の民)」とされているのです。

ここで主イエスは、イエスを殺そうとしているユダヤ人たちは本当にはアブラハムの子孫とは言い難いのだということを言っておられます。ユダヤ人たちは主イエスを「神を冒涜する者」と思っており、神を冒涜することは確かに「死」に値するのです。しかし「十戒」において「あなたは何ものをも殺してはならない」と命じられているように、たとえ「神を冒涜した」としても、神は「人が人を殺すこと」を望んでおられるのでしょうか。そうではありません。神が望んでおられることは「悔い改め」です。それ故に、主イエス・キリストは十字架につかれたのです。人は自分の分をわきまえなければなりません。神は「復讐するは我にあり」と言われます。私どものなすべきは「悔い改め」なのです。ですから、主イエスに対し安易な殺意を抱くユダヤ人たちはアブラハムの子孫ではあり得ないと、主イエスは言われるのです。

38節「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」、主イエスには神との直接の交わりがあることが示されております。人間は直接神との交わりを持つことはできません。ですから主イエスは、直接神と交わりのある方として真実に、神の御心を私どもに示してくださるのです。
 一方ユダヤ人たちは、直接ではなく「聞き伝え」なのです。そして与えられた「律法」を行うことによって、神の民としてふさわしく神の御心を行うという方法を取るのです。従ってユダヤ人にとっては、「律法を行うこと」が「アブラハムの子孫である」ことの証明になります。しかしどうでしょうか。「証明するために行う」これは難しいことです。「律法を完全に履行する」ことが人に出来ることなのかどうか、改めて考えさせられます。

ここで、パウロの使徒としての証明について思い起こしてみましょう。パウロは律法を実践し、それ故に、神を冒涜する者としてキリスト者を迫害しました。迫害する者に過ぎなかったパウロに復活の主イエス・キリストが臨んでくださり、救われて、神の救いの恵みを語る者=使徒となったのです。パウロは神を指し示す(恵みを語る)ことによって、神の民であることを証明いたしました。ですから、このパウロと同じく、私どもは「恵みとして、アブラハムの子孫」なのだということを覚えたいと思います。自ら「子孫」と証明するところには人の奢りがあるのであり、神から遠いのです。
 律法に忠実なあまり主イエス・キリストを苦しめてしまったパウロ。そのパウロに復活の主イエスが臨んでくださり救ってくださった、主の恵みを改めて覚えたいと思います。

ユダヤ人たちが「主イエスを殺そうとしている」ことは、全く神の御心から外れたことでした。しかし、そのような者(神から遠い)のために、主イエスは十字架への道を進まれます。主イエスは自分に敵する者の滅びを望まず、救いを望んでおられるのです。
 そして、この「主イエスへの殺意」は、単に当時のユダヤ人だけの問題ではないことをも覚えたいと思います。「主イエスを亡き者としている」現代人に対しても突きつけられている問題なのです。主イエスを亡き者として生きている、そのように神から遠い者のために、主イエスは十字架にかかられたのです。今ある全ての者の救いが、このところに示されております。

39節「わたしたちの父はアブラハムです」と、ユダヤ人たちは、なお、アブラハムの子孫であることを強調いたします。それに対し主イエスは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」と言われます。
 「アブラハムと同じ業」とは何でしょうか。アブラハムのした良い業と言えば、イサクの奉献、ソドムとゴモラの滅びに対する執り成し等が思い浮かびます。しかし、聖書に記されるアブラハムの行いは立派な行いばかりだったとは言い難い。自己保身のために妻を妹と偽ったり、族長としてのリーダーシップに欠けていたり、実の子イシュマエルを追放するなど情けない面が多いのです。
 では「アブラハムと同じ業」とは? それは「神がおっしゃったことを信じたこと」「神に頼るしかなかったこと」です。弱く情けないアブラハムを、神が全て引き受けてくださったのです。弱さゆえに破れている者を、神が覆い、尻拭いしてくださったのです。ただ「神を信じる」、そのことの故にアブラハムは「神を表す者」となりました。
 信仰とは行為です。信仰とは「神を表す」という業です。
 しかし、律法を行うことは、成し得るという傲慢なのです。自分を表そうと行動することは、真の業ではないのです。
 ただ「信じる」ということ以外に、神を表すことはできません。アブラハムは、その弱さゆえに、神を神として表すことができました。ただ「神を信じる」ことで、神を神としたのです。「信じること」以外に必要なものはないのです。

信仰とは、神に聴き従うことによって、神を神として表すことです。
 それは具体的に言うならば、「祈り、礼拝」なのです。祈ってこそ、礼拝してこそ、私どもは神を表す者として行動していることになるのです。
 「信仰生活」とは、「礼拝生活、祈りの生活」であることを覚えたいと思います。