聖書のみことば/2008.2
2008年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主イエスとは誰か」 2月第1主日礼拝 2008年2月3日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章37〜39節
7章<37節>祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。<38節>わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」<39節>イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

37節「祭り」とは仮庵の祭り(収穫の祭り)です。「最も盛大に祝われる終わりの日」は7日目で、その日には祭司が祭壇を7周まわり、黄金の水差しから水を祭壇にうやうやしく注ぎました。そのことを受けて主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃったのです。
 「イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。28節にも「大声で」とありましたが、これは「主イエスの宣言」です。主イエスの言葉に耳を傾けさせるための招きの言葉でもあるのです。それは恵みを与えるための神の慈しみです。主イエスの言葉は「招きの言葉・恵みの言葉」なのです。
 主イエスは、政治的なメシアとして立ち上がるのではありません。飢え渇く者のために、助けを求める者のために、立ち上がってくださるのです。主イエスは、私どものところに身を乗り出してくださいます。そのような主イエスの在り方を覚えたいと思います。

ここで「渇く」とはなにでしょうか。ヨハネによる福音書における「救い」は「永遠の命」を意味します。ですから「渇き」とは、命の渇き、魂の飢え渇きです。主イエスは「命の水」を与えてくださる、しかも「だれでも」と言っておられる。主イエスは、救いを求める者の良し悪しを問わないのです。特別視することなく、だれをも分け隔てしません。人が平等に扱われるのは神の前にあってこそです。神の前にだけ、人は等しいとされるのです。神が等しく憐れんでくださることを覚えるから、平等になれるのです。神だけが平等な方なのです。
 人は自分だけ特別扱いされると嬉しいものです。しかしそれは逆に、期待されるというプレッシャーを負うことになる。ですから特別扱いは必ずしも幸いではありません。
 神の圧倒的な恵みは「だれにでも等しく」与えられております。神の平等の中でこそ、人は自由なのであり、自分らしくいられるのです。

主イエスの恵みは「だれにでも」開かれたものです。しかし、だれもが与れるわけではないのです。飢え渇いていない者、本当は飢え渇いているのに求めない者、これで良いのだと思う者は、与ることができません。
 飢え渇く者であることを、自ら気付くことが大事です。そしてそれは、どこで気付くのか。聖書のことばに触れて気付くのです。
 「わたしのところに来て飲みなさい」と主イエスは言われます。飢え渇きに気付いたとしても「主イエスのところに行く」ということが大事です。「渇きをうるおす所はどこか? どこに行くのか? それは、ここだ。わたしのところだよ」と、主イエスは示してくださっております。主イエスご自身が示してくださっている、それは何より感謝なことです。「命の水」は主イエスの所にある。主イエスは「来なさい」と命じ、救い・恵みへと私どもを招いてくださっているのです。
 そして、どこに行ったらよいのか分からない人々のために「救いはここにありますよ。主イエスが招いておられますよ」と伝えること、それが私どもの伝道です。伝道は押し付けなのではありません。人々に「求めるものはここにある」と示すこと、すなわち愛の業です。

38節からは「命の水を飲む」とはどういうことかが示されております。「命の水を飲む」とは「主イエスを信じる」ことです。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」それは、内側から湧き出て「永遠の命に満たされる」ということです。
 「その人の内から」とは、「お腹」です。ヘブル人にとって「お腹」は、その人の全人格を表すのです。身も心もすべて神の救いに与るのだということを示しております。

39節、永遠の命を得ることは「聖霊が注がれる」ことです。主イエスの名による洗礼は、聖霊が注がれることです。聖霊の注ぎを受けた者として、全人格的に救いに与るのです。
 この聖書の箇所では、主イエスはまだ天の栄光をお受けになってはおられません。主イエスの十字架・復活・昇天という一連の出来事の時は、まだなのです。
 しかし、私どもは今、既に、主イエスによる聖霊を受けております。主イエスは十字架につき、復活し、天に昇られ、栄光を受けておられます。私どももまた、主イエスの十字架の贖いによって、地上の命では終わらない、永遠の命に至る恵み・神との永遠の交わりをいただいて生きるのだということを覚えたいと思います。

確かめた上でなせ」 2月第2主日礼拝 2008年2月10日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章40〜52節
7章<40節>この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、<41節>「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。<42節>メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」<43節>こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。<44節>その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。<45節>さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。<46節>下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。<47節>すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。<48節>議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。<49節>だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」<50節>彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。<51節>「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」<52節>彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

40〜43節、群衆の間に分裂が起こったのです。主イエスをメシアと信ずる者と否定する者の対立であります。これは、いつの時代にもあることです。ヨハネによる福音書は「信じない者がいる」ことをはっきり述べております。そして、その上で「あなたは信じる者か、信じない者なのか?」と問うているのです。「対立」には「問い」があるのです。その問いに対して「では、あなたはどうなのか」との判断が問われているのです。
 ここで思い起こします。ヨハネによる福音書の最後、20章24節、トマスの出来事が記されております。「わたしは信じない」と言ったトマスに復活の主イエスが言ってくださったことは、十字架の御傷を示しながら「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉でした。主イエスは「信じるか」と問うと同時に、主イエス自身を思い起こさせようとしてくださるのです。主イエスは、この世の対立の中で、私どもを「信じる者へと、救いへと、信仰へと」招いてくださっていることを覚えたいと思います。

信じなかった者たちは聖書を引きながら「イエスはガリラヤの出身だから、メシアではない」と言います。しかし、そのことによって彼らが「主イエスのことを十分に知らない」ことが暴露されるのです。主イエスはベツレヘムでお生まれになりました。彼らの言葉は皮肉にも「ベツレヘムに生まれる者がメシアである」ことを、まさしく「主イエスこそメシアである」ことを証しする結果となったのです。

44節、主イエスを否定する者の中には主イエスを殺そうとする者もおりました。しかし「手をかける者はなかった」と記されております。それは「その時」ではなかったことを示しているのです。「主の時」、それは人が定める時ではないということです。人は時を支配する者ではないのです。逆に、時の支配の中に生きる者です。しかし時を支配される主イエスを信じる時、時間・空間から解き放たれ、今という「限界ある時」から解き放たれて、永遠の時を生きることができるのだということを覚えたいと思います。

45節「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。」と記されております。祭司長たちは主イエスを名前で呼ばず「あの男」と言うのです。感情的な表現で、相手の存在を否定する言葉です。それは、相手を否定しなければおられないほどに無視できない、相手を恐れているがゆえの言葉なのです。もはや相手を抹殺する他ない、しかし否定したからといって、本当の意味で何の問題解決にもなりません。相手の存在を受容するのでなければ、決して解き放たれず自由になれないのです。敵意を持っている限りは自立できないのです。自立していれば相手に依存する必要はなく、相手を認めることが出来るのです。私どもは他者との関係に生きる存在として、他者を他者として見ることが大切です。他者に依存すれば、その人の束縛を受けざるを得ない、従って自立できないのです。
 そういう意味で、信仰は、人に真実の調和を与えるものです。十字架の主イエスに依り頼み、真実に神に依存するとき、人は他者に依存する必要なく自立した者として生きることができるのです。そして相手を受容できるのです。
 信仰者は、神なくしては無力です。神に依り頼んでこそ強いのです。信仰こそ自立なのです。

46節、下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と語ります。彼らは主イエスの存在に圧倒するものを感じたのです。主イエスを自分の思いの範疇を超えた者と感じ、捕らえられなかったのです。

47・48節、ファリサイ派の人々は言います「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」。彼らは知性・教養ある者として答えようとします。教養ある者が主イエスをメシアと信じるはずがないと決めつけ、言い放つのです。このように聞く耳を持たない人の人生は不平不満だらけで、つまらないのです。さらに自分の正当性を、仲間を引き合いに出してまで示そうとしております。一人では立つことができないのです。
 49節「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と、「呪う」とまで言い、律法を人を呪うために用いております。律法は人を生かすためにあるにも拘らず、神以上に自らが裁く者になっている傲慢さが表れております。

50節、ニコデモはサンヘドリン(議員)の一人です。51節、そのニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と反論いたします。自分の思いではなく、主に聞くことを勧めております。これは、敵する者のためにも十字架にかかってくださった主イエスに聴くことによってのみ、判断すべきであることを示しております。

主イエスの御言葉、十字架にこそ、救いがあるのです。十字架の主イエスに聴かなければ、私どもは滅びでしかないのです。
 改めて、主イエスの御言葉に聞きたい、主イエスを仰ぎ見たいと思います。そこに救いがあるのです。

罪に定めない」 2月第3主日礼拝 2008年2月17日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章53〜第8章11節
7章<53節>〔人々はおのおの家へ帰って行った。8章<1節>イエスはオリーブ山へ行かれた。<2節>朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。<3節>そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、<4節>イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。<5節>こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」<6節>イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。<7節>しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」<8節>そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。<9節>これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。<10節>イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」<11節>女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

ここは多くの方に馴染みのある聖書箇所です。しかし、なぜ新共同訳になって〔〕括弧が付いたのでしょう。写本によっては、この場所でないところに載っているものもあるのです。要するに、この箇所は本来独立して存在していた物語であったと考えられております。
 では、ヨハネがこの場所に入れた意図は何でしょうか。8章15節「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」との主イエスの御言葉の実証として用いているのです。この物語は、ヨハネによる福音書がどこまでも主イエスを「裁き主ではなく、救い主として」語っていることを示すものとして印象深いものです。
 「信じない者は既に裁かれている」、信じない者は罪に放置されたまま、罪の苦しみの中に生きざるを得ないのです。
 「裁く」とは本来「赦し」のためにあるものです。罪を終りにすることが「裁く」ことです。主イエス・キリストが私どもの身代わりに十字架で裁かれてくださった、だから私どもは赦されております。「裁き」と「救い」は表裏一体であることを知らなければなりません。そうでなければ真実の救いが解らないのです。
 赦しがない、それは責めが続くことであり苦しいのです。かつて日本の農耕社会においては、共同体の助け合いが不可欠でした。他者を受容しないでは、共同体が成立しないからです。しかし、今の社会には共同体性が失われております。そこでは自分(個)が第一になりますから、自分にとっての得は何かが重要になるのです。一番小さな共同体形成は結婚、かつては必ずしも好き嫌いで結婚しませんでした。好き嫌いではなく、相手を受容することによって共同体を守ってきたのです。他者を受容することなくして、本当の共同体は成り立ちません。
 今は、相手の責任を追求する社会に変貌してきております。受容型社会ではなく、徹底的に相手の責任を問う社会になったのです。個を大事にすることは大切ですが、そこに許しがなければ重苦しく、息苦しく、平安のない社会です。私どもは生きることが窮屈な社会を生きております。だからこそ、格差社会が生む弱さ貧しさの中で、許し合う社会を切に求めております。キリスト教の語る「赦し・受容」が、今まで以上に、この社会に必要とされているのです。

8章1節、主イエスはオリーブ山に「祈るために」行かれました。父なる神との語らいの時を、一日の始まりにまず持たれたのです。朝目覚めて、感謝をもって始める。新しい命を、新しい朝を感謝するのです。一日を「神の恵みの日」として生きる、それは豊かな在り方です。

2節、主イエスはご自分が座ることで、聴く者たちが心静かに聴くことができる体制をとらせてくださいました。

3節、律法学者たちやファリサイ派の人々は、姦通の女を真ん中に立たせ、さらしものにし、5節「律法によれば石打ちによる死刑」であると知っていながら、彼らは何故主イエスに問うのでしょうか? 真剣に女の罪を処理することよりも、自分たちの関心の方が大事なのです。6節「イエスを試して」、主イエスを訴える口実を得るために試すのです。主イエスは徴税人と食事をされました。そこで彼らは主イエスに「罪人の仲間だ」というレッテルを貼り、もし律法違反の姦通の女を主イエスがかばったなら、主イエスも同罪で訴えることができると考えたのです。しかも、この試みは、どう転んでも自分たちの得になるように仕組まれております。すなわち、姦通の女を主イエスが許さないなら、主イエスといえども律法を超える者ではないという証明になるからです。

ところが「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と、主イエスのなさることは不思議です。心の中では、彼らのやり方を嘆いておられたことでしょう。ここでは「主イエスが地面に何を書いているのか」が取り沙汰されがちですが、聖書には何も記されておりません。何を書いておられるかが問題ではないのです。主イエスのその行動を見て、彼らがどう感じたかが問題なのです。彼らは苛立ったことでしょう。何も答えない主イエスの対応に、沈黙に耐えられず、怒りと憤りを覚えたのです。怒り・憤りは、人の本心を鮮やかにするものです。

7節、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。彼らの思いにはない、見事な答えです。「裁くことのできる者は誰か」と問うておられるのです。裁くことができるのは「罪なき者」のみ、神のみであります。人は罪ある者です。ですから「裁きは神にのみある」のです。

9節、主イエスは告発する者の罪を暴かれました。告発することは、罪を犯した者以上に罪深いのです。主イエスの御言葉は、人の罪深さを鮮やかにします。見事です。主イエスは人の隠された罪を鮮やかにしてくださる方なのです。
 罪を赦すことが出来るお方だからこそ、出来ることです。

ここでもう一つ覚えたいことは、主イエスが、去って行った者に追い打ちをかけないということです。去った者を「それ見たことか」と責めない、やり込めないのです。自らの罪に気付き立ち去った者たち、そういう者をも憐れみ、受け入れてくださっていることを忘れてはなりません。人の罪を受容するとは、そういうことです。

10節、姦通の女だけが残りました。この女は立ち去ることも出来ません。自らの深い罪に打ちひしがれているからです。
 11節「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」との主イエスの御言葉により、女は「新しく生きる」ことができる、新しい人生を歩むことができる者とされました。罪の赦しは、人を新しくする恵みの出来事であることを覚えたいと思います。

人は、主イエスの御言葉によって、自らの罪を知り、罪赦されていることを知るとき、真実の慰め・喜び・平安が与えられ、新しい真実な人生を始めることができるのです。

わたしは世の光」 2月第4主日礼拝 2008年2月24日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第8章12〜20節
8章<12節>イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」<13節>それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」<14節>イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。<15節>あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。<16節>しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。<17節>あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。<18節>わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」<19節>彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」<20節>イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

12節「わたしは世の光である」と、主イエスは御自分について宣言しておられます。「世」とは全世界、神が創られた世界です。「光」とは「神」です。ですから「この世の光である」とは「この世の神である」ということです。
 なぜ神を「光」と言い表すのでしょうか。神が神として臨まれることによって本来あるべき姿になる、言葉を変えるとそれが「救い」です。「世の光」とは訳も分からずよく使われる言葉ですが、本来は神を背景として「救い」を意味する言葉なのです。
 では、なぜ「主イエスが救い(光・神)」なのでしょうか。主イエスは父なる神と一つなる方(主イエスと神との一体性)だからです。主イエスが神として、救いとしてこの世に来てくださった、そのことが示されております。
 「救い」は神が神として臨むこと、表されること、覚えられることです。「神こそ救い」が聖書の言い表していることなのです。旧約では、出エジプトを思い起こし「神の救いの出来事」を想起しました。安息日規定の理由付けとなることは、出エジプトによる神の救いの想起、そして神の創造の業の完成の想起です。神は創造の7日目に完成した世を良しとされました。安息日は休息なのではなく、私どもの6日の業を神が完成させてくださって、本来の意味を与えられる日です。ですから私どもは7日目に神を覚え礼拝するのです。神を覚えること、そこでこそ救いがあり、完成があるのです。新約を生きる私どもは、主イエス・キリストを通して「救い」を想起するのです。

「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず」と言われます。「従う」とは「信じる」ことです。主イエスのようになる・主イエスに習うということではありません。私どもは、主イエスのようになれるはずはないのです。
 主イエスを「キリスト(救い主)と信じる」ことです。「信じなさい」ということです。それが「暗闇の中を歩まず」ということです。
 では「暗闇」とは何でしょうか。「神なし」が暗闇です。人には闇が、神なき世界があるのです。「闇」とは創造ということで言いますと、この世に創造主なる神を見出せなければ、世界は無意味で虚しいものです。「世界の全てには意味(神の意志)がある、全てが大切なものなのだ」ということを「創造」は表しております。神なき世界では、創造主の意志を見出せず、虚しくなるのです。ですから神なき世界は暗闇、無の世界、そこでは必死に耐えて生きるのみで、その中に自分を見出すことは難しいのです。
 「暗闇」で示されるもう一つの意味は、人間の創造にかかわっております。人は「神に似る者」として創られました。その意味は、神とやり取りできること、神との交わりができる者としての創造であり、それは人にのみ与えられた恵みなのです。神との交わり、すなわち礼拝し祈る者であるということです。呼びかけに応える、応答できる人格ある者とされているのです。神があってこそ、人格があることを言い表しております。ですから「神なし」では、人は孤独になり人格なしになってしまうのです。交わりを失った孤独に、人は耐えることはできません。
 このように、私どもは神を見出せない闇を持つ者です。自らの力では神に至れないそのような私どもに対し、主イエスは御自分を「わたしは救い」と言い表し、主イエスの方から「従いなさい(信じなさい)」と言ってくださっております。「私のもとに来なさい」とはっきり言ってくださるのです。ですから、ただ信じればよいのです。どうしたら救われるのか、どこに行ったらよいのか分からない私どもに「従いなさい」と言い、救いへと招いてくださる、大いなる恵みの御言葉です。

13節「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言ったファリサイ派の人々の言葉はある意味正しいのです。人の自己証言は正確とは言えません。人は自分を客観的に言い表すことは難しく、自己弁護か、卑屈かになるのです。人間の証言とはそういうものです。
 しかし、ファリサイ人は知らないのです、主イエスしか知り得ないこと=「どこから来て、どこへ行くのか」ということを。「父なる神のもとから来て、父なる神のもとに帰る」、主イエスは父なる神と一つなる方として神であられるのだと、神御自身がご自分を証言しておられるということです。それは真実でしかあり得ない。主イエスだけがご自身を示すことがお出来になる方なのです。
 私どもは、無知にすぎない者です。主イエスがこのようにご自分について語ってくださるからこそ、私どもは神を知ることができます。ファリサイ人は、自分たちが無知であることをも知らないのです。無知は恥なのではありません。無知であることを認めないことこそ恥なのです。「自分は無知なる者である」と言える、それが幸いなのです。なぜなら、そこで神に聴く者となるからです。知恵は、神から頂けば良いのです。「無知の知」と哲学者ソクラテスは申しました。自らは無知であることを知ることこそ大切です。
 キリストこそ神の知恵です。キリストによって御言葉を与えられ、知恵の言葉が与えられるのです。無知を知ることは人の最大の誉れであることを覚えたいと思います。

16節、「裁き」は本来、神の義が示されることです。義なる神が表されること、それが正義です。裁きには正義がなければなりません。神なきところに正義はなく、神なくして真実の裁きはありません。神なき裁きは人の無念をはらすだけのものになってしまうのです。私的制裁、リンチにすぎません。神なき裁きが横行するこの世にあっては、被害者の権利にも危うさがあるのです。本当の義のないところに救いはないのだということを忘れてはなりません。裁きの連鎖は憎しみを生み、憎しみが憎しみを生むのです。
 「神が神として臨む」そこでこそ「悔い改め」が起こるのです。「神が神として臨む」それが「裁き」です。「神が思い起こされ、悔い改めが起こる」、故に「救いが起こる」、それが本当の裁きなのです。そこでこそ、全ての者(被害者も加害者も)が救いに至るのです。
 ですから、正義が必要なのです。神なしに本当に裁きはありません。神の真実な裁きにこそ救いがあることを覚えたいと思います。