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37節「祭り」とは仮庵の祭り(収穫の祭り)です。「最も盛大に祝われる終わりの日」は7日目で、その日には祭司が祭壇を7周まわり、黄金の水差しから水を祭壇にうやうやしく注ぎました。そのことを受けて主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃったのです。 ここで「渇く」とはなにでしょうか。ヨハネによる福音書における「救い」は「永遠の命」を意味します。ですから「渇き」とは、命の渇き、魂の飢え渇きです。主イエスは「命の水」を与えてくださる、しかも「だれでも」と言っておられる。主イエスは、救いを求める者の良し悪しを問わないのです。特別視することなく、だれをも分け隔てしません。人が平等に扱われるのは神の前にあってこそです。神の前にだけ、人は等しいとされるのです。神が等しく憐れんでくださることを覚えるから、平等になれるのです。神だけが平等な方なのです。 主イエスの恵みは「だれにでも」開かれたものです。しかし、だれもが与れるわけではないのです。飢え渇いていない者、本当は飢え渇いているのに求めない者、これで良いのだと思う者は、与ることができません。 38節からは「命の水を飲む」とはどういうことかが示されております。「命の水を飲む」とは「主イエスを信じる」ことです。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」それは、内側から湧き出て「永遠の命に満たされる」ということです。 39節、永遠の命を得ることは「聖霊が注がれる」ことです。主イエスの名による洗礼は、聖霊が注がれることです。聖霊の注ぎを受けた者として、全人格的に救いに与るのです。 |
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40〜43節、群衆の間に分裂が起こったのです。主イエスをメシアと信ずる者と否定する者の対立であります。これは、いつの時代にもあることです。ヨハネによる福音書は「信じない者がいる」ことをはっきり述べております。そして、その上で「あなたは信じる者か、信じない者なのか?」と問うているのです。「対立」には「問い」があるのです。その問いに対して「では、あなたはどうなのか」との判断が問われているのです。 信じなかった者たちは聖書を引きながら「イエスはガリラヤの出身だから、メシアではない」と言います。しかし、そのことによって彼らが「主イエスのことを十分に知らない」ことが暴露されるのです。主イエスはベツレヘムでお生まれになりました。彼らの言葉は皮肉にも「ベツレヘムに生まれる者がメシアである」ことを、まさしく「主イエスこそメシアである」ことを証しする結果となったのです。 44節、主イエスを否定する者の中には主イエスを殺そうとする者もおりました。しかし「手をかける者はなかった」と記されております。それは「その時」ではなかったことを示しているのです。「主の時」、それは人が定める時ではないということです。人は時を支配する者ではないのです。逆に、時の支配の中に生きる者です。しかし時を支配される主イエスを信じる時、時間・空間から解き放たれ、今という「限界ある時」から解き放たれて、永遠の時を生きることができるのだということを覚えたいと思います。 45節「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。」と記されております。祭司長たちは主イエスを名前で呼ばず「あの男」と言うのです。感情的な表現で、相手の存在を否定する言葉です。それは、相手を否定しなければおられないほどに無視できない、相手を恐れているがゆえの言葉なのです。もはや相手を抹殺する他ない、しかし否定したからといって、本当の意味で何の問題解決にもなりません。相手の存在を受容するのでなければ、決して解き放たれず自由になれないのです。敵意を持っている限りは自立できないのです。自立していれば相手に依存する必要はなく、相手を認めることが出来るのです。私どもは他者との関係に生きる存在として、他者を他者として見ることが大切です。他者に依存すれば、その人の束縛を受けざるを得ない、従って自立できないのです。 46節、下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と語ります。彼らは主イエスの存在に圧倒するものを感じたのです。主イエスを自分の思いの範疇を超えた者と感じ、捕らえられなかったのです。 47・48節、ファリサイ派の人々は言います「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」。彼らは知性・教養ある者として答えようとします。教養ある者が主イエスをメシアと信じるはずがないと決めつけ、言い放つのです。このように聞く耳を持たない人の人生は不平不満だらけで、つまらないのです。さらに自分の正当性を、仲間を引き合いに出してまで示そうとしております。一人では立つことができないのです。 50節、ニコデモはサンヘドリン(議員)の一人です。51節、そのニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と反論いたします。自分の思いではなく、主に聞くことを勧めております。これは、敵する者のためにも十字架にかかってくださった主イエスに聴くことによってのみ、判断すべきであることを示しております。 主イエスの御言葉、十字架にこそ、救いがあるのです。十字架の主イエスに聴かなければ、私どもは滅びでしかないのです。 |
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ここは多くの方に馴染みのある聖書箇所です。しかし、なぜ新共同訳になって〔〕括弧が付いたのでしょう。写本によっては、この場所でないところに載っているものもあるのです。要するに、この箇所は本来独立して存在していた物語であったと考えられております。 8章1節、主イエスはオリーブ山に「祈るために」行かれました。父なる神との語らいの時を、一日の始まりにまず持たれたのです。朝目覚めて、感謝をもって始める。新しい命を、新しい朝を感謝するのです。一日を「神の恵みの日」として生きる、それは豊かな在り方です。 2節、主イエスはご自分が座ることで、聴く者たちが心静かに聴くことができる体制をとらせてくださいました。 3節、律法学者たちやファリサイ派の人々は、姦通の女を真ん中に立たせ、さらしものにし、5節「律法によれば石打ちによる死刑」であると知っていながら、彼らは何故主イエスに問うのでしょうか? 真剣に女の罪を処理することよりも、自分たちの関心の方が大事なのです。6節「イエスを試して」、主イエスを訴える口実を得るために試すのです。主イエスは徴税人と食事をされました。そこで彼らは主イエスに「罪人の仲間だ」というレッテルを貼り、もし律法違反の姦通の女を主イエスがかばったなら、主イエスも同罪で訴えることができると考えたのです。しかも、この試みは、どう転んでも自分たちの得になるように仕組まれております。すなわち、姦通の女を主イエスが許さないなら、主イエスといえども律法を超える者ではないという証明になるからです。 ところが「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と、主イエスのなさることは不思議です。心の中では、彼らのやり方を嘆いておられたことでしょう。ここでは「主イエスが地面に何を書いているのか」が取り沙汰されがちですが、聖書には何も記されておりません。何を書いておられるかが問題ではないのです。主イエスのその行動を見て、彼らがどう感じたかが問題なのです。彼らは苛立ったことでしょう。何も答えない主イエスの対応に、沈黙に耐えられず、怒りと憤りを覚えたのです。怒り・憤りは、人の本心を鮮やかにするものです。 7節、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。彼らの思いにはない、見事な答えです。「裁くことのできる者は誰か」と問うておられるのです。裁くことができるのは「罪なき者」のみ、神のみであります。人は罪ある者です。ですから「裁きは神にのみある」のです。 9節、主イエスは告発する者の罪を暴かれました。告発することは、罪を犯した者以上に罪深いのです。主イエスの御言葉は、人の罪深さを鮮やかにします。見事です。主イエスは人の隠された罪を鮮やかにしてくださる方なのです。 ここでもう一つ覚えたいことは、主イエスが、去って行った者に追い打ちをかけないということです。去った者を「それ見たことか」と責めない、やり込めないのです。自らの罪に気付き立ち去った者たち、そういう者をも憐れみ、受け入れてくださっていることを忘れてはなりません。人の罪を受容するとは、そういうことです。 10節、姦通の女だけが残りました。この女は立ち去ることも出来ません。自らの深い罪に打ちひしがれているからです。 人は、主イエスの御言葉によって、自らの罪を知り、罪赦されていることを知るとき、真実の慰め・喜び・平安が与えられ、新しい真実な人生を始めることができるのです。 |
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12節「わたしは世の光である」と、主イエスは御自分について宣言しておられます。「世」とは全世界、神が創られた世界です。「光」とは「神」です。ですから「この世の光である」とは「この世の神である」ということです。 「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず」と言われます。「従う」とは「信じる」ことです。主イエスのようになる・主イエスに習うということではありません。私どもは、主イエスのようになれるはずはないのです。 13節「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言ったファリサイ派の人々の言葉はある意味正しいのです。人の自己証言は正確とは言えません。人は自分を客観的に言い表すことは難しく、自己弁護か、卑屈かになるのです。人間の証言とはそういうものです。 16節、「裁き」は本来、神の義が示されることです。義なる神が表されること、それが正義です。裁きには正義がなければなりません。神なきところに正義はなく、神なくして真実の裁きはありません。神なき裁きは人の無念をはらすだけのものになってしまうのです。私的制裁、リンチにすぎません。神なき裁きが横行するこの世にあっては、被害者の権利にも危うさがあるのです。本当の義のないところに救いはないのだということを忘れてはなりません。裁きの連鎖は憎しみを生み、憎しみが憎しみを生むのです。 |
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