聖書のみことば/2008.12
2008年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
するままにさせておく」 12月第1主日礼拝 2008年12月7日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章1〜11節

12章<1節>過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。<2節>イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。<3節>そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。<4節>弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。<5節>「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」<6節>彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。<7節>イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。<8節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」<9節>イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。<10節>祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。<11節>多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

今日は、イスカリオテのユダに語ってくださった主イエスの言葉から聴きたいと思います。

マリアは高価な香油を主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。マリアが自らの全てを捧げたこと、それは主イエスへの深い愛を示しているのです。それは見返りを求めてではなく、主イエスへの感謝の故です。
 主イエスの十字架によって贖われた者は、十字架の主イエスに対する応答として自分の全てを献げます。クリスマスに思い起こすのは東方の博士たちの主イエスへの献げものでしょう。献げものは「救いの恵み」に対する感謝です。神の恵みを思い起こす、救い主イエス・キリストが私どもと同じ者(人)となってくださったことを思い起こしての献げものなのです。クリスマスプレゼントの習慣は「献げものをする」という精神の表れです。
 「献げる」ときに大事なことは、主イエス・キリストの恵みを思い起こすということです。クリスマスには「人となってくださった主」を、イースターには「苦しみを担ってくださる主」を、死においては「永遠の命の約束をくださる主」を思い起こして献げるのです。献げることは愛すること、愛することは主の恵みを思い起こすこと。献げることは信仰の出来事であることを覚えたいと思います。

4節「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った」。ここで、ユダについて「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」と言われていることに目を留めたいと思います。主イエスはユダが裏切る者であることを知っておられる、にもかかわらず、ご自分の弟子とされております。このことの意味は何でしょう。主イエスは裏切る者に対しても、尚、救い主であられる、ということです。ユダが裏切る者であっても、主イエスは救いの対象から外しておられないのです。では何故ユダは救われなかったのでしょう。それは、主イエスの救いをユダ自身が受け入れなかったからです。それがユダの滅びに繋がったのです。主は救いを用意していてくださる、しかし強要なさらない、その人の滅びの瞬間まで忍耐なさってくださる。最後の最後まで救いの対象から外さないのです。
 イスカリオテとは熱心党を示すと考えられます。熱心党ゆえに主イエスを追い込もうとしたのです。熱心さは熱狂に通づるものです。自分の正さを主張し、正義感ゆえに相手を窮地に追い込み、果ては裏切りまで成し得るほどにまでなる。自分に正義があれば何でもしてしまう、熱心さはそれほど罪深いのです。
 あくまでも人は、自らに「罪」を見る者です。ただ神にのみ正義を見る、そこでこそ人は正しいのです。神の義によって憐れみを受け、人は救われます。人は愛で救われるのではありません。人は「神の義によって救われる」のです。「義」なしの愛は「神の愛」ではありません。義なしの愛は、同情や人権主張へとつながるのです。「自らの罪を知る」ところで「神の救い」がその人の全てとなるのです。
 自分を義とし、他者を裏切る、しかしユダはそれでも主の救いの対象です。ごまかしに過ぎない者であっても、主の弟子です。私どもがどんな者であっても、どんな罪人であっても、主イエス・キリストの救いの対象から外れないのです。「主よ、憐れんでください」と呼ぶとき、救われるのです。しかし主を拒むなら滅びるしかありません。
 主が救い主であってくださることは、私どもの慰めです。私どもの愛する者にとっても、主が救い主であってくださるからです。ですから、愛する者たちが信じる者になるように信じ祈ることが大事です。

ユダはごまかす者でした。お金を預かっている者がお金をごまかす。お金を預けるということは、預かる人を信頼してのことです。かつては、人にとって「信頼関係」は大事なことでした。今、社会は金融危機に見舞われていますが、それは「信頼すること」を失ったからではないかと思うのです。お金が動くということが大事で、預けられた者が預けた者の信頼を裏切っている。「信頼」をないがしろにする社会は崩壊せざるを得ない、そんな状況をまざまざと見せつけられております。
 実は、「信頼」ということは神があってこそ成り立つことです。神なき社会は信頼なき社会と言わざるを得ません。人間しかない社会は崩壊するのです。全てのことの背後に神がある、神が働いてくださることを信じるがゆえに、信頼できるのです。
 では何故、主イエスは、信頼していないのにユダに会計を預けたのでしょうか。それは、裏切る者をも愛しておられたからです。人が何かを成し得るのは、愛され、託されているからなのだということを覚えたいと思います。「失敗してもよいからやってみなさい」それが、主イエスのやり方なのです。

7節、主イエスはユダに「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。ユダに対して言っておられる。それはマリアと同じように、ユダに対しても「あなたのするままに任せる」と言っておられるのです。マリアを、ユダを、受け入れておられる。自分に対して良いことをした者だけを受け入れるというのではない。悪いことをしている者をも受け入れておられる。どこまでもユダを受け入れてくださるのです。マリアを非難するユダをそのまま受け入れてくださる。驚くべき言葉です。「ごまかしをやめよ」とは言われないのです。裏切りでしかない者をどこまでも受け入れてくださる、それが主のやり方なのです。
 やりたいことしかやらないような、わがままな時代を生きる私どもです。そんな私どもをも、どこまでも主は受け入れてくださっている。「するままにさせておきなさい」とは、あり得ないこと、有り難いことだということを覚えたいと思います。

9節、主イエスだけではなく、ラザロに対しても殺意が抱かれます。主イエスはご自分に不都合な者をも受け入れてくださる方です。しかし、この世の権力者は自分たちに不都合な者を切り捨て、亡き者にしようとするのです。今の社会も力ある者が力ない者を切り捨てる、同じなのです。このことが、いかにキリストの出来事から遠いことかを思います。熱狂、ごまかし、不都合。しかし主イエスは、どのような者をも決してお見捨てにはならない、ご自分の救いの対象から外されないのだということを覚えたいと思います。

深い淵の底から」 12月第2主日礼拝 2008年12月14日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/詩編 第130章1〜8節

130編<1節>【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。<2節>主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。<3節>主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。<4節>しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。<5節>わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。<6節>わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。<7節>イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。<8節>主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

次の主日はクリスマス礼拝として守ります。ですから今日は、待降節に用いられる聖書箇所の一つを取り上げました。

1節「深い淵の底から、主よ」と詩人は神を呼びます。「深い淵の底」は海の隠語として用いられ、吸い込まれるような底なしの闇、悩み苦しみの果てにある姿を表しております。「深い淵の底」この言葉に聴きたいと思います。今の世界、日本の状況はこの言葉のままであると思わずにはいられない、故に聴きたいのです。

「深海」は光の届かない、全き闇の世界です。聖書における「光」とは「神」です。ですから「深い淵の底」は、神を見い出すことのできない世界、陰府(よみ)の世界を表しています。かつての世界観は「天・地・陰府」の3層を考えておりました。「神在す天」「神に創造され神との交わりのある地」「神なき陰府」、優れた世界観です。何故なら、世界を分離して考える故に世界を混沌から救うことが出来るからです。人間しかない世界は行き詰まりであり、闇しかなく、破綻するのです。そして、これこそが今の私どもの現実であります。
 神を見、自分を超えた世界を持てば、行き詰まりの先に希望を見る。人間世界の先を見ることができます。しかし、現実はどうでしょうか。今は「神なし」でやっていけると考えている世界です。神を知ろうとしない、求めようともしない、そして行き詰まっているのです。本来、私どもは神に創られた者として、神との交わりに生きるべきなのに、神を抜きにし、暗闇の世界にあって、どのように生きたら良いか分からないでいるのです。

この「闇の深さ」を考えたいと思います。私どもは今、100年に一度といわれる経済危機の中に置かれております。前の100年の経験を持つ者はいない。誰もが経験したことのない危機に直面し、先が見えず呆然とするばかりです。大量リストラにより職を失い、住まいをも失うという事態になっております。このことが意味することは何でしょうか。それは、日本社会が共同体を失ったことを意味するのです。かつて日本にあった共同体、それは互いに支え合う「お世話共同体」でした。会社の終身雇用もそうです。共同体を失ってしまったが故に「交わりの中で生きるから人である」はずなのに、交わりを失っているのです。深刻なのは「交わり、共同体がない」ことです。ですから、今日本は経験したことのない「深い淵の底」にあると言えるのです。新しい共同体を形作るまでに至っていない、それが行き詰まりの現実です。職を失う者は昔もおりました。しかし共同体の中で助けられ補い合ったのです。
 「神を失うこと」は「共同体を失うこと」と同じなのだということを知らなければなりません。昔、共同体の中心は「氏神」でした。中心になる価値観、「神」が存在したのです。家庭もそうです。同じ価値観を失うことは共同体を失うことなのです。
 「神という概念」それは人間だけに与えられた概念です。その「神」を失ったら共同体を失うのです。信仰によって神の民が生まれ「信仰共同体」が生まれる、形作られるということなのです。真実な共同体は真実な神の共同体です。神を失い共同体が失われる、そうすると「家族、地域、国家」という共同体を失い「世界、宇宙」という共同体にまで考えが及ばなくなるのです。交わりを失った神なき世界の象徴、救いがたい状況が「力の支配、テロ」、無秩序な世界です。神を失うことは「究極の交わり」を失うこと、そこでは人はもやは人ではなくなり、生きることができなくなるのです。今の私どもの闇の深さは、この詩人の想像以上のこと。救いなき時代なのです。

「神を見い出すこと」それが救いです。今の時代、人の知恵では、もやはこの闇を乗り切ることはできません。それ程までに人は「お金」に依存し、お金に魂を売り渡してしまいました。お金は用いるものであって、お金を目的・神にしてはならないのです。お金という偶像には、救いはありません。経済の破綻は世界の破綻となり、希望を見い出せない淵に沈んでしまったのです。

なぜ神を信じることが共同体の形成になるのでしょうか。支え合うときに必要なことは「愛と信頼と謙遜」です。「自分が低くなる、ひざまずく」思いがなければ共同体を形成することはできません。それは神があって初めて、人に備わることです。神がなければ交わりにあることの感謝を持てないし、神からの慈しみを知らなければ他者に対して低くはなれないのです。自分にだけ向いていて、どうして人を愛し信頼し得るでしょうか。神を見ず、人しか見なければ、人は傲慢になり信頼関係は築けないのです。神を信じるところで、人は人となり、低くなり、交わりに生きることが出来るのです。
 3層の世界を生きることは、神なき混沌の中にあっても、自らの罪を知り神を必要としていることを知っているということです。詩人は自らの「神から遠い罪深さ」を知り、その淵から神を呼ぶだけではなく、なお「聞いてください」とすがりつくのです(2節)。

3節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」。詩人は知っております、罪ある自分は神に頼るしかないことを。自らが神から遠ざかってしまっている、だから神が解決してくださる以外に道はないことを知っているのです。

4節「赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」。神が「赦しなる方」であることを知っているのです。神の赦しゆえに、本心から心砕かれ、神を畏れ敬うのです。

5節「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」。神なくして、赦しなくして一歩も進めないことを知り、ただ神の御言葉をいただきたいと切望するのです。

6節「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして」。「見張り」とは「夜警」のことです。夜警は必ず朝が来ることを知っている、だから夜回りできるのです。必ず光なる神がおいでくださることを、御言葉がおいでくださることを知っているが故に、望みがあり希望があるのです。今の現実を超えた未来が与えられるのです。

7節「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに」。慈しみ、罪の赦しが神からやって来る、主の到来がある、と詩人は語ります。

8節「主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」。「主は贖い、主は救い」であることを知っているのです。

今、改めて覚えたい。私どもは「自分が、世界が」いかに行き詰まったとしても、「自分を、地上を」超えた新しい未来を望み見ることができるのです。
 そして、真実な神との交わりを望み見ること、それが神を知る者に与えられた恵み、喜びなのです。

野宿する羊飼いたち」 クリスマス礼拝 2008年12月21日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ルカによる福音書 第2章8〜21節

2章<8節>その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。<9節>すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。<10節>天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。<11節>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。<12節>あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」<13節>すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。<14節>「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」<15節>天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。<16節>そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。<17節>その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。<18節>聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。<19節>しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。<20節>羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。<21節>八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

今日は、ベツレヘムでの主イエス・キリストの誕生の夜に、野宿する羊飼いたちに起こった出来事から聴きたいと思います。

主イエスの誕生が「救い主(キリスト)の誕生」であることを、ヨセフとマリア以外は知りません。誰も知らないのです。 宿屋にいた者は赤ちゃんが無事に誕生したことを知り祝ってくれたかもしれません。しかしその幼な子が「救い主(キリスト)」であるとは誰も知らないのです。
 夜のとばりに人々は眠っております。城壁に守られた町の中で、まどろむ者は誰も「幼な子イエスの誕生」も「救い主キリストの誕生」も知りません。
 その夜のとばりの中で、主の天使が「野宿する羊飼いたち」に臨みました。そこはベツレヘムの東の雪の降らない荒野だと伝説に言われております。荒涼とした中に羊と羊飼いがいる。人々は城壁に守られた町の中で安全にヌクヌクと眠っていて、城壁の外で野宿する者がいることなど思ってもいないのです。人々から忘れ去られた存在「羊飼いたち」に天使が臨みます。「人知れず存在する者たち」に「人知れずお生まれくださった方」のことを天使が告げる、これは非常に象徴的なことです。

9節「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので」。天使は、神に仕え神の御心を伝える者です。「栄光が照らす」ということは、そこに神の臨在があることを示すのです。羊飼いたちはそれ故「恐れた」とあります。圧倒する神の臨在に恐れるのです。何故か。神は「聖なる方」であり、人は不完全な者だからです。
 詩編19編に目を向けましょう「主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう」(10〜14節)。
 神を畏れる詩人は知っております。人には「知らずに犯す罪がある」ということを。人は完全ではない故に神の前に耐えられないことを。そして自分には驕り高ぶりがあることを知っている。驕り高ぶりを知る低き者であるにも拘らず、なお驕る者であることを知り「驕りから引き離してください」と祈るのです。
 人は「知らずに罪を犯し、驕り高ぶる者」です。神を畏れる者はそのことを知っている。しかし神を知らない者は、自らの罪・驕り高ぶりを知らない、それほどまでに罪深いのです。
 自分に罪・咎があることを知ることは、正しく深い自己認識です。それは神の前に正しく自分を知っているということです。
 今の社会の破綻の原因はどこにあるのでしょうか。人は「罪・咎があり驕る者」だから滅ぶのではありません。「自らの罪・咎を知らず、驕り高ぶりに気付かない」、だから滅ぶのです。自らの利益だけを求め格差社会を是認し驕り高ぶり、その罪・咎を認めない。謙遜になれず低くなれない者にとっては、他者の存在はこの羊飼いたちのように自分の思いの外でしかないのです。かつて羊飼いは王にも喩えられる尊い仕事でした。しかし城壁が作られ都市化した貨幣社会になって尊ばれなくなり、忘れ去られたのです。歴史の流れの中で、自らの欲望を追求する中で、人は人に貴賎を作り出しました。

そんな羊飼いたちに神の言葉が臨みます。10節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。人は神を感じるとき、恐れざるを得ない存在です。しかしその圧倒する恐れの中で、「恐れるな」と、不完全な者に対する「裁き」ではなく、「喜びの知らせ、救いの知らせ」が告げられるのです。恐れおののく者に「救いの良き知らせ=福音」が告げられるのです。

11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「ダビデの町に救い主が生まれた」ことを告げられたのは、神から遠く恐れおののく者「羊飼いたち」でした。幼な子の誕生を知っている宿屋の者たちに告げられたのではありません。彼らは幼な子が生まれたことは知っていても、その幼な子が救い主であるとは知らないのです。「幼な子の誕生を知らず、救い主の存在すら知らない羊飼いたち」が、天使の御告げによって知る。ただ「神が示してくださる」ことによってのみ、知り得るのです。人の力で知ろうとしても知ることはできないのです。告げられて、宣べ伝えられる神の言葉によってのみ、知るのです。そしてそれは、この主イエス・キリストの誕生の日から今日まで続いていることです。

12節「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。神は羊飼いたちに「飼い葉桶に眠る乳飲み子」という「しるし」まで示してくださっております。救い主の誕生は特別な誕生なのではありません。「保護を必要とする普通の赤ちゃんとしてお生まれくださる」それが救い主のしるしなのです。圧倒する力を持った神が自らを低くし「保護を必要とする存在」としてお生まれくださったのです。人にまでなってくださるほどに、神は低くなってくださいました。高ぶることが、力あることなのではありません。本当の力は「自らを低くできる」ことにあるのです。「神が低くなる」それは私ども全ての救いのために神がなしてくださったことです。この世で頑張った者がご褒美として救われるのではありません。この世のどん底で出会ってくださる神を知ること、それ以外に救いはないのです。「自らを全く低くする」こと、それは人には不可能な、神の絶大な力なのです。

14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と天の大軍が賛美します。「御心に適う人」とはどのような人でしょうか。羊飼いこそ「御心に適った者」でした。それは、羊飼いたちが「神の憐れみの内にある者」だからです。「御心に適う人」とは「神のご好意を得る者」ということです。

20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。神を恐れるしかなかった羊飼いたちは、神をあがめ賛美し、救い主を誉め讃える「神の民」となりました。
 人は、御言葉を告げられることによって救い主を知り、主イエス・キリストこそ私の救い主と信じ賛美することによって、神の民とされるのです。

今日このクリスマス礼拝に、私どもは「救い主の誕生の知らせを聞いた者」として、「神の民」として集められていることを感謝したいと思います。
 そして、神の御導きのうちに「神の御心に適う者」として、ここに集い得ているのだということを改めて覚え、感謝するものでありたいと思います。

主の名によって来る方」 歳晩礼拝 2008年12月28日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章12〜19節

12章<12節>その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、<13節>なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」<14節>イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。<15節>「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」<16節>弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。<17節>イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。<18節>群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。<19節>そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

12節「その翌日」とは、12章の始めの記述から過越祭の5日前であることがわかります。「過越祭」が基準の日となっているのです。
 では「過越祭」とはどんな祭なのでしょうか? あと数日で日本では「お正月」という祭を祝いますが、過越祭と日本の祭との違いについてもお話ししたいと思います。

「過越祭」はユダヤ教最大の祭で、世界各地からユダヤ人がエルサレムに集まって、出エジプトの出来事をお祝いする祭です。出エジプトは、神がエジプトで奴隷だった民の苦しみ呻きを聞きモーセを指導者として起こし、民をエジプトから荒野へと導き出してくださった出来事です。エジプト王ファラオは神の下された9度の災いによっても民を去らせず、10度目、国中の初子を撃つという災いがなされた際、イスラエルの民は家の鴨居に贖いの子羊の血を塗り、神がその家を過ぎ越してくださったのでイスラエルの初子はこの災いを免れることができました。そして出エジプトを果たしたイスラエルの民は、この「神の救い」を思い起こし、神を礼拝する民とされたのです。ですから「神の救いを思い起こすこと」が過越祭の中心にあることです。神の救いの御業を想起し、主なる神こそ私の救いであることを誉め讃える、それが過越祭です。

では日本の祭とは? 日本の祭は汚れの清めです。同じ日常の繰り返しの中で起こること、それは汚れ。汚れとは「気が枯れる」こと、気力を失うことです。お正月は正に一年の汚れを清める祭なのです。恵みの想起というような信仰的なことではなく、日常性から解放され気力を充実させるために必要な祭、それが日本の祭です。しかしどうでしょう。汚れは繰り返し、すぐに気は枯れていくのです。

「神の恵みの想起」ということは、とても大事なことです。自分がどういう者であるか、神との関係の中で自分を位置づけることができるからです。神との関係の中にあることを知る者は孤独ではありません。「トム・ソーヤの冒険」で、孤島に一人となったトム・ソーヤは、祈り・礼拝を通して神との交わりのうちにあることによって、孤独ではなく、人格性を失うことはありませんでした。関係の中で自分を位置づけ、応答する、そこに「人格」が築かれるのです。
 16世紀〜20世紀、このことがプロテスタント思想の根幹にあり、そこから「人権」の思想が広がっていきます。

12・13節「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』」。
 ここでは、王や貴族たちだけに用いられる「迎える」という言葉が使われております。そして「ホサナ」とは「どうぞお助けください」という救いを求める言葉であり「救いに来る方」への呼びかけです。つまり、エルサレムの大群衆はイエスをキリスト=メシア=救い主として迎えているのです。
 しかし、彼らが求めていた王は政治的な王でした。ユダヤは自治権はあるもののローマの支配下に置かれており、ローマ支配から解放され、神の民イスラエルとして建つことを願っていたのです。

イスラエルの持つ「神の国思想」とは、神に選ばれた民として世界の中心に立ち、全世界に神を知らしめ、神の裁きと神の支配を打ち立てるということです。しかしその「神の国思想」が「神抜き」で考えられた思想が、マルクスなどが唱えた共産主義となるのです。

大群衆は王を迎えて盛り上がっております。しかし主イエスのなさったことは、14節「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」。王に相応しい軍馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られるのです。いかにも滑稽で弱々しい姿です。
 ここで旧約聖書ゼカリヤの預言「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリヤ書9:9口語訳)が成就したことが示されております。主イエスは「柔和」=「弱さ」によって支配する王としておいでになったということです。

武力という力によっては、全き支配はできないのです。武力は憎しみを生みます。人々の心の底からの平安のないところに、真の平和はありません。武力によっての解放では、真の平和はもたらされないのです。
 しかし、主イエスは「弱さ」を担われる方です。人の弱さの根本にあるもの=罪、その罪の弱さを担う方として主イエスは十字架にかかり、私どもの罪を贖ってくださいました。そして心の底からの平安・平和を私どもに与えてくださったのです。それが主イエス・キリストの在り方です。「ろばの子に乗って来られた方」、それが「柔和(弱さ)の王」としておいでになったことを意味しております。

「過越」の出来事は、イスラエルだけではなく、私どもキリスト者にとっても大事です。「過越」は子羊の血によって初子の命を贖なったという「贖い」を示す出来事だからです。
 主イエス御自身が「贖い」となって来てくださったこと、まさしく「恩寵」です。こんな私のために御自身の血潮まで流してくださった「恩寵」に、私どもは申し訳ない、と低くなり頭を垂れるしかないでしょう。自ら低くなる、そこで争いはなくなるのです。
 主イエス・キリストの十字架によって贖われていることを思い起こす(想起する)ことによって、人は人として低くなり、謙遜になり、交わりの中で平和に生きることができるようになるのです。

16節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」。弟子たちは、この時には不信仰の故に分らなかったのですが、後に聖霊を受け、このことを思い起こし分るようになるのです。

主イエス・キリストが私どものために十字架にかかってくださったことを思い起こす(想起する)こと、それが私どもの信仰です。信仰は「神の恵みを思い起こす」ことであることを覚えたいと思います。
 そしてそれは、聖霊が臨んでくださって初めてなし得ることです。聖霊が臨んでくださり、神の恵みを思い起こし「主こそ我が救い」と信仰を告白する、それが「礼拝」です。ですから礼拝は、信仰者にとっての必然です。神の恵みを想起するとき、私どもは神を神として崇め、神の民とされるのです。「神の民」とは「礼拝する者」です。神を神とし神の民とされること、それこそが私ども人間の本来あるべき姿なのです。

今年のクリスマスの説教では、共同体性の喪失による今日の社会の危機について度々語りました。この危機の解決は、「礼拝」にあります。礼拝において、私どもは神の民としての「共同体」をいただくのです。教会は救いの喜びに満ちた「礼拝共同体」です。誰でも隔てなく入ることのできる共同体です。神を覚え礼拝することにこそ、世界の救いがかかっているのです。
 全世界の人々が、ここに、礼拝に招かれているのだということを覚えたいと思います。