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今日は、イスカリオテのユダに語ってくださった主イエスの言葉から聴きたいと思います。 マリアは高価な香油を主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。マリアが自らの全てを捧げたこと、それは主イエスへの深い愛を示しているのです。それは見返りを求めてではなく、主イエスへの感謝の故です。 4節「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った」。ここで、ユダについて「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」と言われていることに目を留めたいと思います。主イエスはユダが裏切る者であることを知っておられる、にもかかわらず、ご自分の弟子とされております。このことの意味は何でしょう。主イエスは裏切る者に対しても、尚、救い主であられる、ということです。ユダが裏切る者であっても、主イエスは救いの対象から外しておられないのです。では何故ユダは救われなかったのでしょう。それは、主イエスの救いをユダ自身が受け入れなかったからです。それがユダの滅びに繋がったのです。主は救いを用意していてくださる、しかし強要なさらない、その人の滅びの瞬間まで忍耐なさってくださる。最後の最後まで救いの対象から外さないのです。 ユダはごまかす者でした。お金を預かっている者がお金をごまかす。お金を預けるということは、預かる人を信頼してのことです。かつては、人にとって「信頼関係」は大事なことでした。今、社会は金融危機に見舞われていますが、それは「信頼すること」を失ったからではないかと思うのです。お金が動くということが大事で、預けられた者が預けた者の信頼を裏切っている。「信頼」をないがしろにする社会は崩壊せざるを得ない、そんな状況をまざまざと見せつけられております。 7節、主イエスはユダに「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。ユダに対して言っておられる。それはマリアと同じように、ユダに対しても「あなたのするままに任せる」と言っておられるのです。マリアを、ユダを、受け入れておられる。自分に対して良いことをした者だけを受け入れるというのではない。悪いことをしている者をも受け入れておられる。どこまでもユダを受け入れてくださるのです。マリアを非難するユダをそのまま受け入れてくださる。驚くべき言葉です。「ごまかしをやめよ」とは言われないのです。裏切りでしかない者をどこまでも受け入れてくださる、それが主のやり方なのです。 9節、主イエスだけではなく、ラザロに対しても殺意が抱かれます。主イエスはご自分に不都合な者をも受け入れてくださる方です。しかし、この世の権力者は自分たちに不都合な者を切り捨て、亡き者にしようとするのです。今の社会も力ある者が力ない者を切り捨てる、同じなのです。このことが、いかにキリストの出来事から遠いことかを思います。熱狂、ごまかし、不都合。しかし主イエスは、どのような者をも決してお見捨てにはならない、ご自分の救いの対象から外されないのだということを覚えたいと思います。 |
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次の主日はクリスマス礼拝として守ります。ですから今日は、待降節に用いられる聖書箇所の一つを取り上げました。 1節「深い淵の底から、主よ」と詩人は神を呼びます。「深い淵の底」は海の隠語として用いられ、吸い込まれるような底なしの闇、悩み苦しみの果てにある姿を表しております。「深い淵の底」この言葉に聴きたいと思います。今の世界、日本の状況はこの言葉のままであると思わずにはいられない、故に聴きたいのです。 「深海」は光の届かない、全き闇の世界です。聖書における「光」とは「神」です。ですから「深い淵の底」は、神を見い出すことのできない世界、陰府(よみ)の世界を表しています。かつての世界観は「天・地・陰府」の3層を考えておりました。「神在す天」「神に創造され神との交わりのある地」「神なき陰府」、優れた世界観です。何故なら、世界を分離して考える故に世界を混沌から救うことが出来るからです。人間しかない世界は行き詰まりであり、闇しかなく、破綻するのです。そして、これこそが今の私どもの現実であります。 この「闇の深さ」を考えたいと思います。私どもは今、100年に一度といわれる経済危機の中に置かれております。前の100年の経験を持つ者はいない。誰もが経験したことのない危機に直面し、先が見えず呆然とするばかりです。大量リストラにより職を失い、住まいをも失うという事態になっております。このことが意味することは何でしょうか。それは、日本社会が共同体を失ったことを意味するのです。かつて日本にあった共同体、それは互いに支え合う「お世話共同体」でした。会社の終身雇用もそうです。共同体を失ってしまったが故に「交わりの中で生きるから人である」はずなのに、交わりを失っているのです。深刻なのは「交わり、共同体がない」ことです。ですから、今日本は経験したことのない「深い淵の底」にあると言えるのです。新しい共同体を形作るまでに至っていない、それが行き詰まりの現実です。職を失う者は昔もおりました。しかし共同体の中で助けられ補い合ったのです。 「神を見い出すこと」それが救いです。今の時代、人の知恵では、もやはこの闇を乗り切ることはできません。それ程までに人は「お金」に依存し、お金に魂を売り渡してしまいました。お金は用いるものであって、お金を目的・神にしてはならないのです。お金という偶像には、救いはありません。経済の破綻は世界の破綻となり、希望を見い出せない淵に沈んでしまったのです。 なぜ神を信じることが共同体の形成になるのでしょうか。支え合うときに必要なことは「愛と信頼と謙遜」です。「自分が低くなる、ひざまずく」思いがなければ共同体を形成することはできません。それは神があって初めて、人に備わることです。神がなければ交わりにあることの感謝を持てないし、神からの慈しみを知らなければ他者に対して低くはなれないのです。自分にだけ向いていて、どうして人を愛し信頼し得るでしょうか。神を見ず、人しか見なければ、人は傲慢になり信頼関係は築けないのです。神を信じるところで、人は人となり、低くなり、交わりに生きることが出来るのです。 3節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」。詩人は知っております、罪ある自分は神に頼るしかないことを。自らが神から遠ざかってしまっている、だから神が解決してくださる以外に道はないことを知っているのです。 4節「赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」。神が「赦しなる方」であることを知っているのです。神の赦しゆえに、本心から心砕かれ、神を畏れ敬うのです。 5節「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」。神なくして、赦しなくして一歩も進めないことを知り、ただ神の御言葉をいただきたいと切望するのです。 6節「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして」。「見張り」とは「夜警」のことです。夜警は必ず朝が来ることを知っている、だから夜回りできるのです。必ず光なる神がおいでくださることを、御言葉がおいでくださることを知っているが故に、望みがあり希望があるのです。今の現実を超えた未来が与えられるのです。 7節「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに」。慈しみ、罪の赦しが神からやって来る、主の到来がある、と詩人は語ります。 8節「主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」。「主は贖い、主は救い」であることを知っているのです。 今、改めて覚えたい。私どもは「自分が、世界が」いかに行き詰まったとしても、「自分を、地上を」超えた新しい未来を望み見ることができるのです。 |
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今日は、ベツレヘムでの主イエス・キリストの誕生の夜に、野宿する羊飼いたちに起こった出来事から聴きたいと思います。 主イエスの誕生が「救い主(キリスト)の誕生」であることを、ヨセフとマリア以外は知りません。誰も知らないのです。 宿屋にいた者は赤ちゃんが無事に誕生したことを知り祝ってくれたかもしれません。しかしその幼な子が「救い主(キリスト)」であるとは誰も知らないのです。 9節「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので」。天使は、神に仕え神の御心を伝える者です。「栄光が照らす」ということは、そこに神の臨在があることを示すのです。羊飼いたちはそれ故「恐れた」とあります。圧倒する神の臨在に恐れるのです。何故か。神は「聖なる方」であり、人は不完全な者だからです。 そんな羊飼いたちに神の言葉が臨みます。10節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。人は神を感じるとき、恐れざるを得ない存在です。しかしその圧倒する恐れの中で、「恐れるな」と、不完全な者に対する「裁き」ではなく、「喜びの知らせ、救いの知らせ」が告げられるのです。恐れおののく者に「救いの良き知らせ=福音」が告げられるのです。 11節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「ダビデの町に救い主が生まれた」ことを告げられたのは、神から遠く恐れおののく者「羊飼いたち」でした。幼な子の誕生を知っている宿屋の者たちに告げられたのではありません。彼らは幼な子が生まれたことは知っていても、その幼な子が救い主であるとは知らないのです。「幼な子の誕生を知らず、救い主の存在すら知らない羊飼いたち」が、天使の御告げによって知る。ただ「神が示してくださる」ことによってのみ、知り得るのです。人の力で知ろうとしても知ることはできないのです。告げられて、宣べ伝えられる神の言葉によってのみ、知るのです。そしてそれは、この主イエス・キリストの誕生の日から今日まで続いていることです。 12節「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。神は羊飼いたちに「飼い葉桶に眠る乳飲み子」という「しるし」まで示してくださっております。救い主の誕生は特別な誕生なのではありません。「保護を必要とする普通の赤ちゃんとしてお生まれくださる」それが救い主のしるしなのです。圧倒する力を持った神が自らを低くし「保護を必要とする存在」としてお生まれくださったのです。人にまでなってくださるほどに、神は低くなってくださいました。高ぶることが、力あることなのではありません。本当の力は「自らを低くできる」ことにあるのです。「神が低くなる」それは私ども全ての救いのために神がなしてくださったことです。この世で頑張った者がご褒美として救われるのではありません。この世のどん底で出会ってくださる神を知ること、それ以外に救いはないのです。「自らを全く低くする」こと、それは人には不可能な、神の絶大な力なのです。 14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と天の大軍が賛美します。「御心に適う人」とはどのような人でしょうか。羊飼いこそ「御心に適った者」でした。それは、羊飼いたちが「神の憐れみの内にある者」だからです。「御心に適う人」とは「神のご好意を得る者」ということです。 20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。神を恐れるしかなかった羊飼いたちは、神をあがめ賛美し、救い主を誉め讃える「神の民」となりました。 今日このクリスマス礼拝に、私どもは「救い主の誕生の知らせを聞いた者」として、「神の民」として集められていることを感謝したいと思います。 |
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12節「その翌日」とは、12章の始めの記述から過越祭の5日前であることがわかります。「過越祭」が基準の日となっているのです。 「過越祭」はユダヤ教最大の祭で、世界各地からユダヤ人がエルサレムに集まって、出エジプトの出来事をお祝いする祭です。出エジプトは、神がエジプトで奴隷だった民の苦しみ呻きを聞きモーセを指導者として起こし、民をエジプトから荒野へと導き出してくださった出来事です。エジプト王ファラオは神の下された9度の災いによっても民を去らせず、10度目、国中の初子を撃つという災いがなされた際、イスラエルの民は家の鴨居に贖いの子羊の血を塗り、神がその家を過ぎ越してくださったのでイスラエルの初子はこの災いを免れることができました。そして出エジプトを果たしたイスラエルの民は、この「神の救い」を思い起こし、神を礼拝する民とされたのです。ですから「神の救いを思い起こすこと」が過越祭の中心にあることです。神の救いの御業を想起し、主なる神こそ私の救いであることを誉め讃える、それが過越祭です。 では日本の祭とは? 日本の祭は汚れの清めです。同じ日常の繰り返しの中で起こること、それは汚れ。汚れとは「気が枯れる」こと、気力を失うことです。お正月は正に一年の汚れを清める祭なのです。恵みの想起というような信仰的なことではなく、日常性から解放され気力を充実させるために必要な祭、それが日本の祭です。しかしどうでしょう。汚れは繰り返し、すぐに気は枯れていくのです。 「神の恵みの想起」ということは、とても大事なことです。自分がどういう者であるか、神との関係の中で自分を位置づけることができるからです。神との関係の中にあることを知る者は孤独ではありません。「トム・ソーヤの冒険」で、孤島に一人となったトム・ソーヤは、祈り・礼拝を通して神との交わりのうちにあることによって、孤独ではなく、人格性を失うことはありませんでした。関係の中で自分を位置づけ、応答する、そこに「人格」が築かれるのです。 12・13節「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』」。 イスラエルの持つ「神の国思想」とは、神に選ばれた民として世界の中心に立ち、全世界に神を知らしめ、神の裁きと神の支配を打ち立てるということです。しかしその「神の国思想」が「神抜き」で考えられた思想が、マルクスなどが唱えた共産主義となるのです。 大群衆は王を迎えて盛り上がっております。しかし主イエスのなさったことは、14節「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」。王に相応しい軍馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られるのです。いかにも滑稽で弱々しい姿です。 武力という力によっては、全き支配はできないのです。武力は憎しみを生みます。人々の心の底からの平安のないところに、真の平和はありません。武力によっての解放では、真の平和はもたらされないのです。 「過越」の出来事は、イスラエルだけではなく、私どもキリスト者にとっても大事です。「過越」は子羊の血によって初子の命を贖なったという「贖い」を示す出来事だからです。 16節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」。弟子たちは、この時には不信仰の故に分らなかったのですが、後に聖霊を受け、このことを思い起こし分るようになるのです。 主イエス・キリストが私どものために十字架にかかってくださったことを思い起こす(想起する)こと、それが私どもの信仰です。信仰は「神の恵みを思い起こす」ことであることを覚えたいと思います。 今年のクリスマスの説教では、共同体性の喪失による今日の社会の危機について度々語りました。この危機の解決は、「礼拝」にあります。礼拝において、私どもは神の民としての「共同体」をいただくのです。教会は救いの喜びに満ちた「礼拝共同体」です。誰でも隔てなく入ることのできる共同体です。神を覚え礼拝することにこそ、世界の救いがかかっているのです。 |
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