聖書のみことば/2008.11
2008年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
一人の人の死」 11月第1主日礼拝 2008年11月2日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章45〜53節

11章<45節>マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。<46節>しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。<47節>そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。<48節>このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」<49節>彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。<50節>一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」<51節>これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。<52節>国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。<53節>この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

45節「…イエスを信じた」、人々は「ラザロの復活の奇跡」を見て信じたのです。しかしここで、「信じる」とはどういうことなのか考えたいと思います。
 確かに人々は、主イエスがなさった「しるし(奇跡)」を「神の御業」と信じ、主をメシアと信じたのでしょう。しかしそれが「真実な信仰」かどうか。信じたはずの人々は、後になって「イエスを殺せ」と熱狂して叫ぶのです。
 このことは、主イエスの一番近くにいた弟子たちも同様でした。主イエスの十字架のとき、弟子たちは皆、主のもとから逃げ出します。彼らの信じたメシアは、ユダヤを独立に導く「政治的な王(メシア)」だったのであり、「罪を贖い、神との和解をもたらす真実な救い主(メシア)」として信じたわけではないのです。
 「しるし」を見て信じることは「骨身にしみて信じる」ことではありません。それは、証拠を示され力づくで信じさせられる「強要されての信仰」であり、状況や自分の思いが変わると失われてしまう信仰なのです。信じる根拠が人間の側にある信仰、自らの認識が根拠となっている、このような信仰は危ういと言わざるを得ません。
 では「真実な信仰を得る」とは、どういうことでしょうか。弟子たちを思い起こしてみましょう。弟子たちが真の信仰に至ったのは「復活の主イエス・キリスト」が臨んでくださったからです。復活の主が臨んでくださって初めて、迫害にも屈しない「揺るぎ無きキリスト者、キリストを宣べ伝える者」となったのです。「真実な信仰」は「十字架と復活の主イエスに出会う」ことによって与えられるのだということを覚えなければなりません。神から示されて初めて真実な信仰に至るのです。これは人間の知識・知恵で理解できることではありません。聖霊の力をいただいて分ることです。
 聖霊は「神の出来事」です。ですから「真の信仰」とは「神による認識」、神を根拠とする認識なのです。人間の認識を根拠とした信仰はあやふやなものです。しかし、聖霊によってしか知り得ない信仰・神から与えられる信仰は、揺るぎない信仰、それ故に「神の賜物・恵み」としての信仰になるのです。
 私どもは幸いです。教会は「十字架と復活の主を宣べ伝えている(宣教)」、それはまさに聖霊の出来事です。 そして教会の宣教を通して、聖霊の出来事として「自分の罪を知り、救いを知る」ことができるのです。聖霊の出来事は「御言葉の宣教」によるのです。「御言葉」によって「十字架と復活の信仰、救い」を知るのです。ここに「しるし」を見て信じた信仰と大きな違いがあります。

46節、ファリサイ派の人々に告げる者があったと記されます。
 47節、ファリサイ派とは、ユダヤの民の指導者です。ユダヤはローマの属国でしたが、自治を認められ、宗教も許されておりました。ですからヘロデは王として立派な神殿を建てたのです。
 ファリサイ派の人々は何故、ユダヤの最高議決機関である「最高法院」を招集したのでしょうか。ユダヤ人たちは「しるし」を見て信じ、そのことに熱狂している、それがローマからの独立運動へと発展することを恐れたのです。そうなればローマ帝国が介入し、自治権も宗教も失ってしまうからです。ファリサイ派の人々は指導者として、一方でユダヤの独立を理想として考えながらも、他方では与えられた特権も失いたくない、と議論しているのです。

49・50節、ここでその年の大祭司であったカイアファが発言します、「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と。一人の人の犠牲で全体の秩序維持を図ろうとする、政治的にはいつの世にもある考え方だったでしょう。一人の人を殺すということは悪しきことです。しかし彼らは「一人の人の死、犠牲」を望みました。小さな悪をなして最悪を逃れようとしたのです。

51節、カイアファの発言に対するヨハネによる福音書の解釈は、預言(神の意志)ということです。無論、カイアファにはそんなつもりはありません。もしカイアファ個人の思いであれば「イエスを殺せば我々は救われる」と単刀直入に言うことも出来たでしょう。ここに見えない神の働きがあって、神がカイアファに言わせておられるのです。
 大祭司とは、本来「神に仕える者」です。しかし、カイアファは自分の思いでは自分の地位保全のために発言したのです。にも拘らず、いみじくもその発言によってカイアファは「神に仕える者、主の十字架を宣べ伝える者」となっている。驚くべきことです。神はカイアファまでも、神に仕える者として相応しく用いておられるのです。
 このことは、私どもにとっても幸いなことです。私どもがどのような者であったとしても、神は用いてくださる。私どもの自己本意な思い、しかしそこでなお、私どもの救いのために神が働いておられることを覚えたいと思います。私どもが神から離れて、自分本位になっているときにも、神に仕える者としての恵みを用意していてくださる。有り難いことです。

カイアファの言葉は結果的に、「主イエス・キリストの十字架」を預言する言葉となりました。主イエスは、犠牲となって自らを差し出してくださって、私どもに代わって死に、私どもの救い主となってくださいました。

神が働かれる出来事は、私どもの思い・意志を超えているのです。私どもの思いを超えて介入してくださるのです。私どもに解る仕方で介入してくださったとしても、私どもは解らないのです。解らない仕方で働かれる、しかしそこで聖霊によって示されるのです。
 御言葉の宣教によって聖霊をいただき、「十字架と復活の救いを日々知る者とされている」、そこに私どもの幸いがあることを覚えたいと思います。

過越祭が近づく」 11月第2主日礼拝 2008年11月9日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章53〜57節

11章<53節>この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。<54節>それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。<55節>さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。<56節>彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」<57節>祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

53節、カイアファの意見に基づいて、最高法院は「主イエスを殺すこと」を決めました。それは、主イエスに死に値する罪を見い出したからではありません。殺した方が自分たちに好都合だったからです。主イエスが「全ての人の罪ために死なれる」、それは「罪無き方」が「身勝手な罪人」のために死なれるのだということを示しております。
 最高法院はローマの介入を恐れておりました。神に従うのではなく、人の作った組織を恐れたのです。
 「一人の人の命」が大切にされるということ、それは人を根拠にしたところでは起こらないことです。そこでは「命」さえも人の都合に左右されるからです。
 「神を畏れ、神に従う、神を見い出す」ことなくして「一人の人の命」が大切にされることはありません。何故なら「命」は神からのものだからです。「命は神のもの」と思う神への畏敬なくして人の命の尊厳はあり得ないのだということを覚えたいと思います。神への畏敬、かつてそれは自然な感覚でした。しかし信仰心を失ってしまったために「神からの恵みとしての命」という感覚を失い、その代わりに人の力を恐れて自らの利益をのみ求め、人の命を軽んじる愚かしい事件が起こるのです。現代は人の命が犠牲にされている時代と言わざるを得ません。信仰の喪失は命の喪失に繋がっているのです。

54節、主イエスがユダヤ人を避けたのは、身の安全を第一と考えたからではありません。「荒れ野に近い地方のエフライム」という言葉に目を留めたいと思います。単に「エフライム」と言わず、敢えて「荒れ野」と付け加えているのです。当時「荒れ野」は、人々から離れて「神との親密な交わりを持つ場」だと受け止められておりました。最高法院の決定を知り、主イエスは「荒れ野」へ向かわれる。それは「父なる神の御旨」を受け止めるためでした。神の命令に従うべく、準備として荒れ野へ向かわれたのです。これから起こる「十字架の死」が、「神の救いのご計画」であることを深く受け止めるためです。「荒れ野」は神の導きを受ける場、準備の場なのです。
 私どもの人生の「荒れ野」は何でしょう。それは様々な「試練」です。試練のとき、この世の一切に頼ることが出来なくなるとき、誰に聞くべきか。そこでこそ神の導きを知る、神が拠り所であることを知るのです。試練もまた私どもにとって大切なとき、神が働いてくださる恵みの出来事、神に生きる根拠を見い出す恵みのときなのだということを覚えたいと思います。
 「罪人の救いのための死」を「神の御旨」として受け止めるために、主イエスは荒れ野に退かれました。試練を「神からの出来事として受け止め直すこと」、これは私どもにとっても大切なことです。そうでなければ自分を見失ってしまうのです。

同行する弟子たちは何も理解しておりません。主イエスを理解出来ないのです。人の理解を得られないこと、まさしくそこで人は孤独です。にも拘らず主イエスは孤独ではありません。なぜなら主イエスは父なる神との交わりにあるからです。神と一つなる方だからです。最も身近な弟子にさえ理解されず、人々の殺意の中に置かれている、地上の主イエスほどに孤独な方はおられない。しかし主は、父なる神との交わりにあるが故に孤独でないばかりか、そのように無理解な、殺意に過ぎない罪人の救い主であってくださるのです。そして、そのような神の御意志の中に、私どもは入れられているのです。
 改めて思います。神を信じられなくなること、それが人の本当の孤独です。孤独に病む私ども、主はそのような私どもの救い主なのです。現代の病の根本は何か。「孤独」ということに尽きます。「神との交わりを失っている、信仰を失っている」それ故に、本来頼るべき方を失って「孤独」なのです。信仰なき時代は、孤独に耐えられず、命を軽んじる時代です。異常なまでに他者に依存したり、反対に攻撃したり、自らを傷つけてしまうのです。
 しかし私どもキリスト者は、主の十字架と復活の恵みにより聖霊を与えられ、罪深き者であるにも拘らず、罪赦された者として生きる、大切な存在として生きる幸いにあるのだということを覚えたいと思います。何よりも、主の十字架は人の思いではなく、神の御心であるということが今日の箇所には示されております。
 そして主イエスが荒れ野に退かれたことを通して「神との深い交わりにあることの麗しさ」を思います。私どもも心鎮めて神の前に立ち、対峙し、神の御旨をかしこんで、この世の人との交わりの中に戻ることの大切さを思います。

55節、神の前に立つために、人々は7日間身を清める必要があり、そのためにエルサレムに上ったのです。
 56節、人々は主イエスを捜します。それは命令により、主イエスを殺すために、捕らえるために捜すのです。何と身勝手なことでしょう。以前には「いやしてもらおう」と主イエスを捜したのです。
 そして人々は「神殿の境内」で語り合います、「あの人はこの祭りには来ないのだろうか」と。本来、神殿の境内で語るべきことは何でしょう。神の宮に集うことの恵み、神の祝福の恵みをこそ、語るに相応しいのです。ところが、ここでは信じ難い罪なる思いが語り合われております。私どもも覚えなければなりません。この会堂で、他者に対して罪なる思いを抱き語るとすれば、この人々と大差ない、愚かな振る舞いなのです。
 しかし主イエスは、そのような中に、人々の殺意の中にお出でくださるのです。神の救いの御計画を成し遂げられるためです。

「主イエスよ、来たり給え」。主イエスは私どもの所に来られる方です。来るか来ないか分らない、というような方ではない。罪人の救いのために来られるのです。主は「終りの日に再び来る」ことを約束していてくださるが故に、救いの完成のために、必ずお出でくださるのです。それ故に私どもは、疑わずに「主よ、来たり給え」と、主を呼ぶ者でありたいと思います。
 主イエスが十字架につき、甦り、天に昇られた。それは再びお出でになるため、救いの完成のためです。主が「荒れ野」へ向かわれた、このことが、終りの日の私どもの救いにかかっているのだということを覚えたいと思います。
 信仰の出来事は、主をお迎えする出来事です。救いを成し遂げ、完成させるてくださる主イエスを迎えることです。今、その主イエスが私どもの所へ来てくださっているのです。そして、救いの完成のために再び来てくださるのです。

ナルドの香油」 11月第3主日礼拝 2008年11月16日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章1〜8節

12章<1節>過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。<2節>イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。<3節>そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。<4節>弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。<5節>「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」<6節>彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。<7節>イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。<8節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

1節「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」。ベタニアは、主イエスが死から甦らせたラザロと、姉妹マルタ・マリアの住む所です。
 今日の箇所は、ここでマリアが主イエスに高価な「ナルドの香油」を注いだという、有名な物語です。

主イエスが「エルサレムに入られる前に」ラザロの家に行かれたと敢えて記していること、ここにヨハネによる福音書の意図があります。その意図とは何か。それは「主イエスのエルサレム入城は、王(メシア)としての入城である」ことを明確に示すということです。
 ヨハネによる福音書以外の福音書では「ナルドの香油」の話は、主イエスのエルサレム入城の後に記されており、マリアの「油注ぎ」は主イエスの「葬りの準備」として語られております。しかしここでヨハネによる福音書は、「葬り」ということを強調しないのです。香油の注ぎ方も、ヨハネ福音書では足だけ、他福音書では頭からと違っております。
 「メシア」とは「油注がれた者」。聖別された者として、メシアの職務は「預言者(神へと導く者)」「祭司(執り成し手)」「王(神に代わって治める者)」。ここでヨハネによる福音書は、マリアの香油注ぎによって、主イエスが「油注がれた者として王である」ことを強調するのです。
 ヨハネによる福音書が他の福音書に比べて早い時期から語っていること、それは、主イエスが「王なるメシアとして」エルサレムに入られ、「王でありながら」全ての人の罪の贖いのために苦しみを担い、十字架へと歩んでくださる方なのだ、ということです。
 このように、受け止め方の違いによって強調点が違うのだということを覚えたいと思います。信仰は画一なものではありません。同じことを経験したとしても受け止め方は様々で、言い表し方も違ってくるのです。ですから、聖書の記述の違いにあれこれ戸惑う必要はありません。聖書は「神のことば」として語られていると同時に、私どもの「信仰のことば」として与えられているものなのです。私どもがいかなる信仰に生きているかを物語ってくれている、聖書にこそ、私どもの信仰が言い表されているのです。違いは恵みであり、そこに「信仰の豊かさ」ということがあります。度外れた解釈でない限り、その信仰の言葉を一つにしたものが「信仰告白」であり「使徒信条」なのです。

2節「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」とあります。この「ナルドの香油」の話の筋から言えば、マルタが給仕をしていたことが書かれていてもいなくても、マルタに関心が向けられることはないのではないでしょうか。しかし敢えて「マルタは給仕をしていた」と書かれております。
 この記述によってわかること、それは、マルタがこの家の女主人であること、そして主イエスのために食事を作り給仕をしているのはマルタだということです。マルタは自分のできる仕方で主イエスへの愛を尽くし、主に仕えている。ヨハネによる福音書は「マルタがマルタにしかなし得ない仕方で、主に仕えていること」を、おろそかにせずに語っております。
 この物語の中心は「香油を注いだマリア」と思いがちです。しかしマリアがマルタのようになし得たでしょうか。この福音書はマリアの香油注ぎを特別なこととして捕らえてはおりません。他の福音書のようにマリアの行為が「記念として覚えられる」とは記していないのです。マリアはマリアにしかできないことで、マルタはマルタにしかできないことで「主に仕えた」こと、つまり「奉仕」ということについて語っているのです。
 「奉仕」するとき、自分の奉仕を絶対化してはなりません。「奉仕」は「主に仕える」業なのであって、自分の業が目的になってはならないのです。人に対してではなく、キリストに向かう業を、主は「良し」としてくださっていることを覚えたいと思います。教会の奉仕は、主イエス・キリストに真心を尽くすことです。ですから、どんなに小さな奉仕であっても、「拙い(つたない)」と言ってはならない。どんなに小さな奉仕であっても、主が受け入れてくださっていることを喜ぶべきなのです。

2節には続けて「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」と記されております。ラザロは何もしていないし、語りません。「主イエスのための食事」ですが、人々が集まって来る。ラザロは、集まって来る人々の中の一人として、その他大勢の一人として、ただそこに居る。ラザロは居るだけ。しかし省かないで、敢えて、そのラザロの存在が語られているのです。なぜか。それは「主の集いの中に居る」こと、そこでこそラザロは生きるからです。「あのラザロ」に人々は注目するのです。ラザロは「主の恵みをいただいた者」として、その存在自体で「主を証しする者」となっているのだということを見過してはなりません。
 主の恵みを受けた者は、主と共にある、主の集いの中にあるとき、その存在をもって主を証しすることができるのです。このことは、私どもにとっても大切なことです。主と共にあること、主の集いの中にあること、私どもはそれで十分なのです。「主のもの」としてそこに居る、それによって主を讃美する者とされているのです。
 ですから、まさしく「礼拝」の場にあることは、主を証ししていることです。何故なら主の御名による集いは、主共なる、主の臨在の場だからです。「礼拝者としての存在」、それが私どもの証しであることを覚えたいと思います。
 高齢のゆえに、病のために教会に来れないときがあります。しかし、置かれた場所で、主の御名を讃美し祈ることはできるのです。その場にあって、その人は主を証しする者とされるのです。

私どものなす「奉仕」がどんな業であったとしても、主は喜んで受けてくださいます。いえ、たとえ奉仕できないとしても、共に祈り、共に讃美する集いの中にあるとき、そこに主は共にあってくださるのです。主と共にあることの麗しさを喜ぶ者でありたいと思います。「集うこと」がいかに幸いなことか、「集うこと」が私どもの証しであることを改めて覚えたいと思います。

今日もまた、1・2節に示されることが多く、予定した「ナルドの香油」の話にまで至りませんでした。今日はまず、平凡な日常性の中で主を証しすることを語り、次週、マリアの「ナルドの香油」の話に進みたいと思います。

ラザロへの殺意」 11月第4主日礼拝 2008年11月23日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章1〜11節

12章<1節>過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。<2節>イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。<3節>そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。<4節>弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。<5節>「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」<6節>彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。<7節>イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。<8節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」<9節>イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。<10節>祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。<11節>多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

先週のマルタ・ラザロに続き、今朝はマリアから聴いていきたいと思います。

マルタが給仕によって、またラザロが主イエスと共にあることを通して主に仕えたように、マリアも最上のものをもって主イエスに仕えました。3節「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」とあります。「純粋」とは高価さを表す言葉と言ってよいでしょう。「ナルドの香油一リトラ」は300デナリオン、労働者の賃金は一日1デナリオンですから、一年分の賃金の額に値するのです。ですから、その香油はマリアにとっても人々にとっても高価なものです。マリアは自分の全財産を主イエスに注いだということです。
 全財産を捧げる、それほどまでにマリアは主イエスを慕い、愛しております。主イエスはマリアにとって何にもまして値高い方、宝、なくてならぬお方なのです。マリアがそれほどまでに主イエスを愛するということは、マリアが主を愛する以上に主がマリアを愛してくださっていることを感じている、愛されている実感がある、だから捧げることができたのです。

私どもにとっても、救い主である主イエスは、この世の全てに勝って尊い方です。神は、罪深い私どものために御子イエスまでくださって、私どもを尊いもの、「宝の民」としてくださいました。 神がどれほど私どもを愛していてくださるか。申命記7章6〜8節に「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と記されております。私どもに対する「主の愛のゆえに」、神は私どもを「宝」としてくださるのです。

人は他者との関わりに生きる以上、自分の内に自分の尊厳を持つことは難しいことです。他者との比較の中で自分の小ささを思うとき、ただ「愛されている」という実感の中にあってこそ、尊厳は守られるのです。しかし、人と人との愛は移り変わるもの、そこに真実な愛の実感はありません。「揺るぎなく変わることのない神」との関係においてしか、真実な愛の実感はないのです。
 人と言えども我が子は宝と思うものです。ましてや神は、御自身にとって宝なる御子イエスまでくださって、御子の十字架によって私どもの罪を贖い、本当はガラクタに過ぎない私どもを「宝」としてくださる。神がそこまでしてくださった、その恵み、幸いを改めて思います。そして、このことこそが、マリアが全財産を捧げたことの背景にある心です。主の愛、恵みを感ずるがゆえなのです。

マリアの香油の用い方をイスカリオテのユダは「無駄遣い」と言いますが、そうではありません。「宝は用いてこそ宝」です。蔵に納めておくことは「宝の持ち腐れ」です。ですからマリアはナルドの香油を本当の宝として用いたのです。最も大切なものに捧げてこそ宝なのです。宝が宝となるとは何か、を改めて思います。大切なものに用いてこそ、宝は生きるのです。宝を宝として用いたということです。

今の時代、自分が宝とされていることを知ることは大事です。自らの存在が顧みられず自らの尊厳を失うとき、人は自らの存在を示すために無差別殺人を起こすのです。どこまでも「あなたは宝」と言ってくれる存在、拠り所、真の支えである神を失っている姿です。人が人に依存すれば、顧みられない思いは復讐という形で人に向かってしまうのです。
 ですから、神が私どもを宝としてくださっていることは幸いです。揺るぎない方が「あなたは宝」と言ってくださるのです。主イエスの出来事、神がそこにいてくださること、そこに私どもの救いがあります。

マリアは香油を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」とあります。それは、単に全財産を捧げただけではなく、まさに自分自身までをも捧げて主に仕えるているマリアの姿です。
 「家は香油の香りでいっぱいになった」。香りの広がりは、マリアの主イエスへの愛が満ちていることが示されております。マリアは自ら進んで捧げ尽くすのです。主イエスが愛してくださっていることを知っているがゆえに、自分の存在の一切を主イエスからいただいているがゆえに、捧げずにはいられないのです。
 この思いは私どもも同じです。主イエスは十字架にまで付いてくださって、私どもに「愛」を貫いてくださいました。その愛はいかばかりでしょう。どこまでも尽くし得ない「主の愛」への応答を、マリアも私どもも持たずにはいられません。マリアにとっても、私どもにとっても、十字架の主が全てなのです。

5節「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とは、ユダの心無い言葉です。ここで覚えたい。私どもは貧しい人々を「助ける」ことはできても、貧しい人々を「救う」ことはできません。施しの心はあっても良いのです。けれども、ただ主イエスのみ、貧しい人々の救い主であることを忘れてはなりません。私どもは「主に捧げる」ことによって初めて、貧しい人々への「主の救いの業」に参与することが赦されているのです。貧しい人々の利益をはかること、それはあくまでも地上の出来事であって、地上・天上を貫く全ての救いとはならないのです。ですから、主に捧げることは施し以上の業です。捧げることで主の救いの業への参与が赦されるのです。あくまでも救いは主イエスによってなされることを覚えたいと思います。

教会のなすべき業は何でしょう。奉仕も社会的活動も、主イエス・キリストに捧げる業でなくなってはなりません。キリストの救いがなるために捧げ、仕えるのです。全ては、主の御業が表わされるためです。

目を覚まして祈りなさい」 11月第5主日礼拝 2008年11月30日 
田邉良三 伝道師 
聖書/ルカによる福音書 第21章34〜36節

21章<34節>「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。<35節>その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。<36節>しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

本日より、教会暦では、アドベントに入ります。それは主の御降誕を待ち望む時として、待降節といわれます。わたしたちは、クリスマスを目の前に控え、一週ごとにローソクの火をともしつつ、救い主がこの地上に来てくださったことを覚え、主を迎える準備をするのです。ここで少し、クリスマスの日のことを思い起こしてみたいと思います。クリスマスの聖書箇所はイエスさまが生まれるとき、時のローマ皇帝の命によって住民登録をすることになり、イエスさまの父ヨセフも自分の町ベツレヘムに行ったといわれています。そこで母マリアはイエスさまを生むこととなりましたが、そのとき、宿屋には泊まる所がなかったというのです。この世の支配者の力が人々に容赦なく押し寄せているとき、住民登録とはまさにそうした支配を明らかにするものでしょう。その中で人々は様々な思いを抱いて自分の町に戻ることになりました。その心には様々なことが渦巻いていたことでしょう。そして、宿屋はいっぱいとなり、身重の夫婦を留めてくれる所はないのです。救い主の誕生など人々の思いの中にありはしなかったのです。彼らはイスラエルの民として、メシヤ、つまり救い主の登場を心待ちにしていました。しかし、それがいつになるかわからない中で、日々の生活に心を騒がせ、誰も本当の救い主の誕生を祝うことができなかったのです。いま、わたしたちはイエスさまの誕生を待ち望む時の中にあり、イエスさまがそうした、いうなれば自分ばかりを見て、神様を見ないわたしたちのもとに救い主として来てくださったことを知っています。しかし、この時の人々と、いまのわたしたちには、多くの似通った部分があるのではないでしょうか。今日の聖書箇所はそのことにわたしたちの目を向けさせてくれているのです。

 34節「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」

わたしたちはイエスさまを救い主と信じこの場所に集まっています。それはイエスさまの十字架と復活に与って、罪赦されたものとされ、神様の前に義しいものと見なされているということ、そして、永遠の命を与えられ、神の国に生きる約束の中に生きているということです。わたしたちもかつては、主の御降誕の時の人々のように、神様を知らず、神様を忘れ、自分のみを頼りとし、自分を神としてしまうようなものでした。神様のことを知らされても、いっこうに信じることなく、神様に目を向けることのないものだったのです。神を神とせず、自分を神とする、ここにわたしたちの罪がありました。この罪のために、わたしたちは死に支配されたもの、罪に囚われたものであったのです。そのわたしたちのために自らを十字架につけ、血を流し、肉を裂かれ、苦しみ抜いてくださったのがイエスさまです。まさに救い主としてわたしたちの罪をすべて背負い、その死の呪いを一身に引き受けてくださったのです。この主を父なる神は三日後に復活させてくださったのです。このことによって、主を信じるものは救い主イエスさまと結びつけられ、永遠の命に生き、やがて来る神の国に生きるものとされたのです。つまり、イエスさまを信じ、イエスさまに結ばれたとき、わたしたちは神の国の完成を待ち望み、生きるものとされたのです。父なる神がイエスさまを通して、わたしたちに与えてくださった約束に生きるもの、それがわたしたちです。
 ここでイエスさまは、この約束に生きるものとして、心が鈍くならないように注意しなさいといわれます。放縦や深酒や生活の煩いという言葉でその内容を示しておられますが、それはわたしたちが、自分たちのことばかりに思いがいってしまい、神様に目を向けることができないものであるということを思い出させます。主に結ばれたいまも、やはりわたしたちにはそうした部分が残っているのです。この地上にある限り、そうした誘惑にさらされないということはないのです。まさにその中で自分のことのみに目が行き、この地上の生活の思い煩いでいっぱいになってしまう。自分を守ろうとして、自分の力を頼みとして、神様に委ねるということを忘れてしまうのです。その結果わたしたちは本当に目を向けるべき方向を見失うのです。自分のことばかりですから、身の回りに起きたことにばかり目が行き、目線が定まらず、ついには自分の目指す方向がわからなくなってしまう。まさにそんな迷いの中にわたしたちは陥りやすいのです。そんなときに、「その日」がこないとも限らない、その日とは終末の時を表す言葉です。最後の審判の時、主イエスが再びこの地上に来られる時、神の国の完成の時のことです。このとき、わたしたちは神の前にその裁きの座にあげられるのです。神様の前にあって神様をなお見ることのできないものとなる恐れがあるのです。わたしたちはその日がいつ来るのかを知りません、それは父なる神しか知らないのです。わたしたちが主イエスキリストを通して父なる神様を見続けるしか、その時に備えることはできないといわれているのです。そして、それはこの世界すべてに及ぶといわれるのです。

35節、その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

この終末の時は、まさに世界の裁きの時として、どこにいるものの上にも同様に及ぶのです。そのときこの世界にどれほど「その日」に備えた者たちがいるでしょうか。主はその御言葉を通して、わたしたちに、その準備をするすべを教えてくださっているのです。わたしたちが、この約束に与り、永遠の命に生きるものとなることを主御自身が望んでくださっているのです。

36節、しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

その日を前に、様々な誘惑がわたしたちを襲います。また様々な恐ろしい出来事がわたしたちの上に襲いかかるのだと聖書はわたしたちに教えています。そのことは今日の聖書より少し前に書かれていますし、終末の出来事は黙示として、ヨハネ黙示録にも描かれています。そこでは終末に向かうわたしたちに、神様に逆らう力が容赦なく襲う光景が描かれています。神の国の完成を前に、神様に逆らうものは最後の抵抗を見せるのです。そのような誘惑や恐怖に打ち勝つためにはわたしたちはどうすればよいでしょうか。自分自身を磨き、自分の力により頼む姿は思い煩う姿に他なりません。それは神様を忘れた姿であり、それでは神の国に入るための準備ができてはいないのです。そうではなく、神様のみに目を向けて歩むことが、その時にふさわしい歩みだといわれるのです。それは目を覚まし祈りなさいという言葉で示されています。迷いやすく、恐れにとりつかれやすいわたしたちが、その日を迎えるためには、目を覚まし祈ることが必要なのです。起ころうとしているすべてのことを逃れて人の子の前に立つことは、つまり、再臨の主イエスの前に立つことです。裁きの時わたしたちの前にイエスさまが来てくださるのです。この主を望みつつ歩んでいくのが、わたしたちイエス・キリストを主といただくものたちなのです。目を覚ましているとは、神に力をいただかなくてはとてもわたしたちにできることではありません。それは言葉を換えるならば、神様に目を向けるということなのです。そのためにわたしたちに必要なのは、神の御言葉をいただき、聖霊の導きの内に主を仰いで歩むことなのです。それは祈りによってしかできないものなのだと主はいわれるのです。それは主にすべてを委ねること、祈りはわたしたちの心を神様に向けるものだからです。主日ごとの礼拝と祈りの内に主イエスによる神との交わりに入れられ、神の国の完成の日を望みつつ、主に信頼し歩んでいくのです。目を覚まし、祈ることを主は望んでくださいます。この主に信頼し、力づけられ、その日を目指し歩みましょう。主に結ばれたわたしたちにとって、終わりの日は恐れの日でなく、希望の日なのです。アドベントを迎え、主の御降誕を待ち望むこの時にこそ、主イエス・キリストの再び来てくださる時を待ち望みつつ歩むものとされたいと願います。