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45節「…イエスを信じた」、人々は「ラザロの復活の奇跡」を見て信じたのです。しかしここで、「信じる」とはどういうことなのか考えたいと思います。 46節、ファリサイ派の人々に告げる者があったと記されます。 49・50節、ここでその年の大祭司であったカイアファが発言します、「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と。一人の人の犠牲で全体の秩序維持を図ろうとする、政治的にはいつの世にもある考え方だったでしょう。一人の人を殺すということは悪しきことです。しかし彼らは「一人の人の死、犠牲」を望みました。小さな悪をなして最悪を逃れようとしたのです。 51節、カイアファの発言に対するヨハネによる福音書の解釈は、預言(神の意志)ということです。無論、カイアファにはそんなつもりはありません。もしカイアファ個人の思いであれば「イエスを殺せば我々は救われる」と単刀直入に言うことも出来たでしょう。ここに見えない神の働きがあって、神がカイアファに言わせておられるのです。 カイアファの言葉は結果的に、「主イエス・キリストの十字架」を預言する言葉となりました。主イエスは、犠牲となって自らを差し出してくださって、私どもに代わって死に、私どもの救い主となってくださいました。 神が働かれる出来事は、私どもの思い・意志を超えているのです。私どもの思いを超えて介入してくださるのです。私どもに解る仕方で介入してくださったとしても、私どもは解らないのです。解らない仕方で働かれる、しかしそこで聖霊によって示されるのです。 |
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53節、カイアファの意見に基づいて、最高法院は「主イエスを殺すこと」を決めました。それは、主イエスに死に値する罪を見い出したからではありません。殺した方が自分たちに好都合だったからです。主イエスが「全ての人の罪ために死なれる」、それは「罪無き方」が「身勝手な罪人」のために死なれるのだということを示しております。 54節、主イエスがユダヤ人を避けたのは、身の安全を第一と考えたからではありません。「荒れ野に近い地方のエフライム」という言葉に目を留めたいと思います。単に「エフライム」と言わず、敢えて「荒れ野」と付け加えているのです。当時「荒れ野」は、人々から離れて「神との親密な交わりを持つ場」だと受け止められておりました。最高法院の決定を知り、主イエスは「荒れ野」へ向かわれる。それは「父なる神の御旨」を受け止めるためでした。神の命令に従うべく、準備として荒れ野へ向かわれたのです。これから起こる「十字架の死」が、「神の救いのご計画」であることを深く受け止めるためです。「荒れ野」は神の導きを受ける場、準備の場なのです。 同行する弟子たちは何も理解しておりません。主イエスを理解出来ないのです。人の理解を得られないこと、まさしくそこで人は孤独です。にも拘らず主イエスは孤独ではありません。なぜなら主イエスは父なる神との交わりにあるからです。神と一つなる方だからです。最も身近な弟子にさえ理解されず、人々の殺意の中に置かれている、地上の主イエスほどに孤独な方はおられない。しかし主は、父なる神との交わりにあるが故に孤独でないばかりか、そのように無理解な、殺意に過ぎない罪人の救い主であってくださるのです。そして、そのような神の御意志の中に、私どもは入れられているのです。 55節、神の前に立つために、人々は7日間身を清める必要があり、そのためにエルサレムに上ったのです。 「主イエスよ、来たり給え」。主イエスは私どもの所に来られる方です。来るか来ないか分らない、というような方ではない。罪人の救いのために来られるのです。主は「終りの日に再び来る」ことを約束していてくださるが故に、救いの完成のために、必ずお出でくださるのです。それ故に私どもは、疑わずに「主よ、来たり給え」と、主を呼ぶ者でありたいと思います。 |
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1節「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」。ベタニアは、主イエスが死から甦らせたラザロと、姉妹マルタ・マリアの住む所です。 主イエスが「エルサレムに入られる前に」ラザロの家に行かれたと敢えて記していること、ここにヨハネによる福音書の意図があります。その意図とは何か。それは「主イエスのエルサレム入城は、王(メシア)としての入城である」ことを明確に示すということです。 2節「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」とあります。この「ナルドの香油」の話の筋から言えば、マルタが給仕をしていたことが書かれていてもいなくても、マルタに関心が向けられることはないのではないでしょうか。しかし敢えて「マルタは給仕をしていた」と書かれております。 2節には続けて「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」と記されております。ラザロは何もしていないし、語りません。「主イエスのための食事」ですが、人々が集まって来る。ラザロは、集まって来る人々の中の一人として、その他大勢の一人として、ただそこに居る。ラザロは居るだけ。しかし省かないで、敢えて、そのラザロの存在が語られているのです。なぜか。それは「主の集いの中に居る」こと、そこでこそラザロは生きるからです。「あのラザロ」に人々は注目するのです。ラザロは「主の恵みをいただいた者」として、その存在自体で「主を証しする者」となっているのだということを見過してはなりません。 私どものなす「奉仕」がどんな業であったとしても、主は喜んで受けてくださいます。いえ、たとえ奉仕できないとしても、共に祈り、共に讃美する集いの中にあるとき、そこに主は共にあってくださるのです。主と共にあることの麗しさを喜ぶ者でありたいと思います。「集うこと」がいかに幸いなことか、「集うこと」が私どもの証しであることを改めて覚えたいと思います。 今日もまた、1・2節に示されることが多く、予定した「ナルドの香油」の話にまで至りませんでした。今日はまず、平凡な日常性の中で主を証しすることを語り、次週、マリアの「ナルドの香油」の話に進みたいと思います。 |
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先週のマルタ・ラザロに続き、今朝はマリアから聴いていきたいと思います。 マルタが給仕によって、またラザロが主イエスと共にあることを通して主に仕えたように、マリアも最上のものをもって主イエスに仕えました。3節「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」とあります。「純粋」とは高価さを表す言葉と言ってよいでしょう。「ナルドの香油一リトラ」は300デナリオン、労働者の賃金は一日1デナリオンですから、一年分の賃金の額に値するのです。ですから、その香油はマリアにとっても人々にとっても高価なものです。マリアは自分の全財産を主イエスに注いだということです。 私どもにとっても、救い主である主イエスは、この世の全てに勝って尊い方です。神は、罪深い私どものために御子イエスまでくださって、私どもを尊いもの、「宝の民」としてくださいました。 神がどれほど私どもを愛していてくださるか。申命記7章6〜8節に「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と記されております。私どもに対する「主の愛のゆえに」、神は私どもを「宝」としてくださるのです。 人は他者との関わりに生きる以上、自分の内に自分の尊厳を持つことは難しいことです。他者との比較の中で自分の小ささを思うとき、ただ「愛されている」という実感の中にあってこそ、尊厳は守られるのです。しかし、人と人との愛は移り変わるもの、そこに真実な愛の実感はありません。「揺るぎなく変わることのない神」との関係においてしか、真実な愛の実感はないのです。 マリアの香油の用い方をイスカリオテのユダは「無駄遣い」と言いますが、そうではありません。「宝は用いてこそ宝」です。蔵に納めておくことは「宝の持ち腐れ」です。ですからマリアはナルドの香油を本当の宝として用いたのです。最も大切なものに捧げてこそ宝なのです。宝が宝となるとは何か、を改めて思います。大切なものに用いてこそ、宝は生きるのです。宝を宝として用いたということです。 今の時代、自分が宝とされていることを知ることは大事です。自らの存在が顧みられず自らの尊厳を失うとき、人は自らの存在を示すために無差別殺人を起こすのです。どこまでも「あなたは宝」と言ってくれる存在、拠り所、真の支えである神を失っている姿です。人が人に依存すれば、顧みられない思いは復讐という形で人に向かってしまうのです。 マリアは香油を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」とあります。それは、単に全財産を捧げただけではなく、まさに自分自身までをも捧げて主に仕えるているマリアの姿です。 5節「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とは、ユダの心無い言葉です。ここで覚えたい。私どもは貧しい人々を「助ける」ことはできても、貧しい人々を「救う」ことはできません。施しの心はあっても良いのです。けれども、ただ主イエスのみ、貧しい人々の救い主であることを忘れてはなりません。私どもは「主に捧げる」ことによって初めて、貧しい人々への「主の救いの業」に参与することが赦されているのです。貧しい人々の利益をはかること、それはあくまでも地上の出来事であって、地上・天上を貫く全ての救いとはならないのです。ですから、主に捧げることは施し以上の業です。捧げることで主の救いの業への参与が赦されるのです。あくまでも救いは主イエスによってなされることを覚えたいと思います。 教会のなすべき業は何でしょう。奉仕も社会的活動も、主イエス・キリストに捧げる業でなくなってはなりません。キリストの救いがなるために捧げ、仕えるのです。全ては、主の御業が表わされるためです。 |
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本日より、教会暦では、アドベントに入ります。それは主の御降誕を待ち望む時として、待降節といわれます。わたしたちは、クリスマスを目の前に控え、一週ごとにローソクの火をともしつつ、救い主がこの地上に来てくださったことを覚え、主を迎える準備をするのです。ここで少し、クリスマスの日のことを思い起こしてみたいと思います。クリスマスの聖書箇所はイエスさまが生まれるとき、時のローマ皇帝の命によって住民登録をすることになり、イエスさまの父ヨセフも自分の町ベツレヘムに行ったといわれています。そこで母マリアはイエスさまを生むこととなりましたが、そのとき、宿屋には泊まる所がなかったというのです。この世の支配者の力が人々に容赦なく押し寄せているとき、住民登録とはまさにそうした支配を明らかにするものでしょう。その中で人々は様々な思いを抱いて自分の町に戻ることになりました。その心には様々なことが渦巻いていたことでしょう。そして、宿屋はいっぱいとなり、身重の夫婦を留めてくれる所はないのです。救い主の誕生など人々の思いの中にありはしなかったのです。彼らはイスラエルの民として、メシヤ、つまり救い主の登場を心待ちにしていました。しかし、それがいつになるかわからない中で、日々の生活に心を騒がせ、誰も本当の救い主の誕生を祝うことができなかったのです。いま、わたしたちはイエスさまの誕生を待ち望む時の中にあり、イエスさまがそうした、いうなれば自分ばかりを見て、神様を見ないわたしたちのもとに救い主として来てくださったことを知っています。しかし、この時の人々と、いまのわたしたちには、多くの似通った部分があるのではないでしょうか。今日の聖書箇所はそのことにわたしたちの目を向けさせてくれているのです。 わたしたちはイエスさまを救い主と信じこの場所に集まっています。それはイエスさまの十字架と復活に与って、罪赦されたものとされ、神様の前に義しいものと見なされているということ、そして、永遠の命を与えられ、神の国に生きる約束の中に生きているということです。わたしたちもかつては、主の御降誕の時の人々のように、神様を知らず、神様を忘れ、自分のみを頼りとし、自分を神としてしまうようなものでした。神様のことを知らされても、いっこうに信じることなく、神様に目を向けることのないものだったのです。神を神とせず、自分を神とする、ここにわたしたちの罪がありました。この罪のために、わたしたちは死に支配されたもの、罪に囚われたものであったのです。そのわたしたちのために自らを十字架につけ、血を流し、肉を裂かれ、苦しみ抜いてくださったのがイエスさまです。まさに救い主としてわたしたちの罪をすべて背負い、その死の呪いを一身に引き受けてくださったのです。この主を父なる神は三日後に復活させてくださったのです。このことによって、主を信じるものは救い主イエスさまと結びつけられ、永遠の命に生き、やがて来る神の国に生きるものとされたのです。つまり、イエスさまを信じ、イエスさまに結ばれたとき、わたしたちは神の国の完成を待ち望み、生きるものとされたのです。父なる神がイエスさまを通して、わたしたちに与えてくださった約束に生きるもの、それがわたしたちです。 35節、その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 この終末の時は、まさに世界の裁きの時として、どこにいるものの上にも同様に及ぶのです。そのときこの世界にどれほど「その日」に備えた者たちがいるでしょうか。主はその御言葉を通して、わたしたちに、その準備をするすべを教えてくださっているのです。わたしたちが、この約束に与り、永遠の命に生きるものとなることを主御自身が望んでくださっているのです。 36節、しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 その日を前に、様々な誘惑がわたしたちを襲います。また様々な恐ろしい出来事がわたしたちの上に襲いかかるのだと聖書はわたしたちに教えています。そのことは今日の聖書より少し前に書かれていますし、終末の出来事は黙示として、ヨハネ黙示録にも描かれています。そこでは終末に向かうわたしたちに、神様に逆らう力が容赦なく襲う光景が描かれています。神の国の完成を前に、神様に逆らうものは最後の抵抗を見せるのです。そのような誘惑や恐怖に打ち勝つためにはわたしたちはどうすればよいでしょうか。自分自身を磨き、自分の力により頼む姿は思い煩う姿に他なりません。それは神様を忘れた姿であり、それでは神の国に入るための準備ができてはいないのです。そうではなく、神様のみに目を向けて歩むことが、その時にふさわしい歩みだといわれるのです。それは目を覚まし祈りなさいという言葉で示されています。迷いやすく、恐れにとりつかれやすいわたしたちが、その日を迎えるためには、目を覚まし祈ることが必要なのです。起ころうとしているすべてのことを逃れて人の子の前に立つことは、つまり、再臨の主イエスの前に立つことです。裁きの時わたしたちの前にイエスさまが来てくださるのです。この主を望みつつ歩んでいくのが、わたしたちイエス・キリストを主といただくものたちなのです。目を覚ましているとは、神に力をいただかなくてはとてもわたしたちにできることではありません。それは言葉を換えるならば、神様に目を向けるということなのです。そのためにわたしたちに必要なのは、神の御言葉をいただき、聖霊の導きの内に主を仰いで歩むことなのです。それは祈りによってしかできないものなのだと主はいわれるのです。それは主にすべてを委ねること、祈りはわたしたちの心を神様に向けるものだからです。主日ごとの礼拝と祈りの内に主イエスによる神との交わりに入れられ、神の国の完成の日を望みつつ、主に信頼し歩んでいくのです。目を覚まし、祈ることを主は望んでくださいます。この主に信頼し、力づけられ、その日を目指し歩みましょう。主に結ばれたわたしたちにとって、終わりの日は恐れの日でなく、希望の日なのです。アドベントを迎え、主の御降誕を待ち望むこの時にこそ、主イエス・キリストの再び来てくださる時を待ち望みつつ歩むものとされたいと願います。 |
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