聖書のみことば/2008.10
2008年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
友ラザロ」 10月第1主日礼拝 2008年10月5日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章6〜16節

11章<6節>ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。<7節>それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」<8節>弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」<9節>イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。<10節>しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」<11節>こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」<12節>弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。<13節>イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。<14節>そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。<15節>わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」<16節>すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

6節「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」、すぐに来て欲しいとの訴えに対し、なぜ主イエスはなお2日間も留まったのでしょうか。実はその留まった所は意味深長な場所です。そこはヨルダン川の向こう側ペレアの「ベタニア」でバプテスマのヨハネが洗礼を授けた場所(10章40節)でした。そしてマリヤ・マルタ・ラザロの村もユダヤの「ベタニア」です。「ベタニアに留まっている」そこに象徴的な意味が込められているのではないでしょうか。場所こそ違いますが同じベタニアという名の所にいて、主イエスは離れていてもマルタ・マリアのことを、ラザロのことをずっと思っておられるのです。主イエスは見える形では近くにおられない、しかし愛する者に対する主イエスの思いは遠くにあるわけではありません。
 このことは考えさせられることです。人は「一緒にいる」からといって思いを共にしているとは限りません。それは見えるものに捕われている在り方です。そうではなくて、「思いを共にしている」ことが一緒にいることなのです。信仰の在り方は「神共にいます」ということです。主は今、天におられ、私どもに見える姿ではおられない。しかし主は常に私どもと共にあって、私どもの思いを知り、担い、受け止めてくださる方であることを覚えたいと思います。

主イエスは意図的に留まっておられました。2日間留まることなど私どもにできるでしょうか。私どもであれば「すぐ行こう」と居ても立ってもいられないのです。しかし主イエスは時を待っておられるのです。私どもは時に振り回される者、しかし主イエスは時を支配しておられる方です。行くべき一番良い時を知っておられ、何をなすべきか知っておられる、だから時を待って2日間留まられたのです。
 これは私どもにとって有り難いことです。私どもは時間の支配から解き放たれない者ですが、主イエスは時に支配されないお方です。私どもの生は「死の時」に向かっており、死の束縛の中にあるのです。しかし主イエスを信じる時、私どもは死にゆく時間から解き放たれ自由にされる、死を超えた「永遠の命の約束」が与えられております。時の支配の中にありながら、主を信じることによって自由なのです。刻々と近づく死の時から解き放たれているのです。それゆえ、この世の時間の束縛からも解き放たれ、時を超えた自由の恵みを与えられているのだということを覚えたいと思います。

7節、主イエスは行くべき時を知り「もう一度、ユダヤに行こう」と言われます。それに対する弟子たちの答え(8節)は、弟子たちが、主イエスが2日間留まっておられることを疑問に思っていなかったことを示しております。弟子たちは、4節の「この病気では死なない」という主イエスの言葉によってラザロは死なないと思っておりましたし、またユダヤに行けば命の危険があることを知っており、行きたくはなかったのです。しかし主イエスは、行くべき時を知り、なすべきことをなすため「行こう」と言われます。
 9節は、まだ十字架の時ではないことを主イエスが知っておられることを暗示しております。人の思いではなく「主の時が十字架の時」なのだから今は心配ない、ということです。ラザロが甦ることは、十字架の前に主イエスがなされる「しるし」なのです。

11節「わたしたちの友ラザロが眠っている」。「わたしの友」ではなく「わたしたちの友」と主は言われます。ラザロにとって弟子たちは友だったでしょうか。病気のラザロの元に駆けつける気など無い、自分の身の安全のために2日間黙していた者たちです。身も心もラザロから遠い弟子たちに対し「わたしたちの友ラザロ」と主は言ってくださいます。それは恵みの出来事です。主イエスが「わたしたちの友」と言ってくださることによって初めて、私どもは「友」を見い出すのです。キリストにあってだけ、人は他者をキリストのものとして、友として見い出すことができます。まさにそれが教会の在り方です。教会に集う者が皆、兄弟姉妹、家族、友として有り得るのは、主イエスが私どもを友・家族と呼んでくださるからです。
 そして続けて「しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われます。「だから」ではなく「しかし」とは、おかしな接続詞です。それは、ラザロの眠りが「死」を意味しているからです。だから「しかし」とおっしゃるのです。主イエスでなければ起こせない眠りなのです。

12節「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」弟子たちは、ただ眠っていると思っているのです。しかしここで、弟子たちにも変化が見られます。主イエスへの呼びかけが「ラビ」から「主よ」に変わっているのです。主イエスがラザロを「わたしたちの友」と言ってくださることによって、自分たちも主に愛されていることを感じ取っているのです。

14節、主イエスはラザロの死を待っておられました。なぜか。15節、ラザロの甦りを見ない限り、弟子たちが「死からの復活」を信じられないことを知っておられたからです。主イエスは、信じることの出来ない弟子たちのために2日間待っていてくださったのです。愛の出来事なのです。
 私どもキリスト者は、死して永遠に眠るのではなく、起きるのです。キリスト者の死は、目覚める者としての眠りです。主イエスが起こしてくださるのです。
 主イエスは、死は終りではない、死を超えた甦りの命があることを知らせるため、2日の時を待ち、そこで神の栄光を現すべく、ペレアのベタニアからユダヤのベタニアへと向かわれました。

16節、訳の分からないディディモの言葉です。ただ感激の赴くままに語っているのです。このようにとんちんかんな者を、主イエスは「弟子」としてくださり、導き、道を共にしてくださいます。私どもを「弟子」としてくださる、主の恵みに感謝するのみです。

復活であり、命である」 10月第2主日礼拝 2008年10月12日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章17〜27節

11章<17節>さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。<18節>ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。<19節>マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。<20節>マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。<21節>マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。<22節>しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」<23節>イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、<24節>マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。<25節>イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。<26節>生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」<27節>マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

17節、ここで知ることがあります。それは「葬られて既に四日」ということは、主イエスがラザロの病気の知らせを受けた時には、既にラザロは死んでいたということです。主イエスがすぐにベタニアに行ったとしてもラザロは死んでいたのです。主イエスはラザロが死んでいることをご存知でした。ですから死を前提にして「死で終わるものではない」と言ってくださったのです。
 主イエスは、人の「生も、死も」ご存知の方です。主イエスのみ、ラザロの死をご存知でした。私どもは、人の生死をご存知の方をのみ、信頼に足る方とすることができるのです。

18節、ユダヤのベタニアはエルサレムに近く、約3km1時間の場所でした。
 19節「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」、単にベタニア村の者ではなく、エルサレムからも多くのユダヤ人が来ていたというのです。それは、エルサレムのユダヤ人も「ラザロの復活」を知っていたということを示しております。「ラザロの復活」は、後の教会にとっては「主を信じる者の復活」のしるしとなりました。しかしそれだけではなく、「ラザロの復活」は、キリストを信じられないユダヤ人でさえも知っている出来事だったのです。
 「ラザロの復活」を目の当たりにしたユダヤ人が多くいた、しかしそこで主イエスを信じたかというと、多くのユダヤ人は信じるには至りませんでした。「見て、知った」としても、そのことでは信仰に至らないのです。
 信仰という認識と、頭や体験による認識には大きな違いがあります。「信じる」という認識は、認識としては一番深い認識です。何故か。「信じる」とは全人格をもって信じるからです。それは人の能力による認識ではなく、「神の聖霊が働いて」得る認識だからです。自分の経験だけでは知り得ない認識、それが「信仰」なのです。神の霊が働いてくださるのです。

20節「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。マルタ・マリアの性格の違いを表しているのでしょうか。そうではありません。マルタは待ち切れずに主イエスを迎えるのです。何故でしょうか。
 21節「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」、この言葉だけであれば愚痴に過ぎないでしょう。しかし22節「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と、マルタはラザロが死んでも、なお主イエスに希望をおいているのです。まだ失望していない、だから急いで主イエスを迎えたのです。
 マリアはどうでしょうか。28節を読みますとマルタの21節の言葉と同じですが、マリアにはそれ以上の言葉はありません。主イエスに望みをおかず、ラザロの死の中に留まって悲しみ、人々の弔問を受けております(32節)。しかし、マルタはそうではない。ラザロの死の現実を受け止め、しかしなお主イエスに望みをおいております。死に打ちひしがれることなく、主イエス・キリストのゆえに、死においてなお希望を失わない。実に見事な信仰の姿です。
 「信仰とは、望みを失わないこと。主イエスに望みをおくこと」です。望みの尽きるところでなお望む。それは「信仰」にしかあり得ない認識です。主イエス・キリストは私どもの希望、生きる糧であられる方です。

23節「あなたの兄弟は復活する」と主イエスは言われました。しかし「今、復活する」とは言われないのです。マルタの言葉に対する答えとしては曖昧な言葉です。24節「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」とのマルタの言葉から、マルタが復活を信じていることが分ります。しかし「今」とは思っていない。この問答は、マルタを信仰告白へと導くための主の言葉なのです。

25節「わたしは復活であり、命である」と主イエスは言われます。この言葉は愛宕町教会墓地の墓碑に刻まれている言葉です。主を信じる者として先に召された信仰の友は「今、甦りの命を生きている」ことを信じ言い表す、愛宕町教会の信仰の言葉でもあります。主イエス・キリストは甦られた方、この方を信じるならば、キリストと共に「永遠の命」に生きる。主イエス・キリストは、私どもの甦りを宣言し約束してくださっているのです。ですから、私どもは死の支配の下にあるのではありません。主イエス・キリストの甦りの命の下に既にあるのです。
 それを「信じるか」と問われております。ヨハネによる福音書が強調することは「信仰」です。「信じるか否か」、私どもは問われております。議論するような事柄ではないのです。主に問われていることに対して「信じるか、否か」答えること、それが私どものなすべきことです。「信じるか」と、信仰を主に問われているマルタは見込まれているのです。他の弟子たちはどうでしょう。不信仰を嘆かれてばかりです。「信じるか」と問われることは幸いです。主イエスはマルタの信仰をご存知でいてくださるのです。

27節「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、マルタは主イエスに対する信仰を言い表しております。マルタは信仰を認められた幸いな人です。この言葉で、マルタは「全て」を知ったのです。ラザロが既に「永遠の命」のうちにあることを確信したのです。ですから、敢えてこれ以上のことを主に尋ねる必要はありませんでした。

私どもが信仰を言い表すとき、私どもは既に、キリストと共なる「永遠の命」のうちにあるのだということを覚えたいと思います。

主、ラザロに涙する」 10月第3主日礼拝 2008年10月19日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章28〜37節

11章<28節>マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。<29節>マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。<30節>イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。<31節>家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。<32節>マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。<33節>イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、<34節>言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。<35節>イエスは涙を流された。<36節>ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。<37節>しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

28節、マルタは主に対する信仰告白をし、家に帰り、マリアに「主がお呼びです」と耳打ちします。
 マルタは自ら主のもとに行きました。しかし、マリアは主イエスに呼ばれるまで行こうとしませんでした。二人とも弟ラザロのために主イエスに来て欲しいと願っていたのです。しかし、マリアは悲しみに打ちひしがれ弔問客と共にいることを望み、主イエスを迎えに出ることは出来ませんでした。主イエスを招いておきながら、迎えに行かなかったのです。けれども、このような状況においては、出迎えないことを責める訳にいきません。

では、なぜ主イエスはマリアを呼ばれたのでしょうか。なぜ主イエスの方からマリアのもとに行ってくださらなかったのでしょうか。普通であれば、悲しみの中にある者を呼びつけるなど、心無いことと非難されることでしょう。
 この出来事は、マルタと主イエスとのやりとりがあってのことだということにポイントがあります。マルタと主イエスとの対話によって、「主イエスはいかなる方か」が示されております。主イエスは「あなたの兄弟は復活する。わたしは復活であり命である」と言ってくださいました。主イエスは「死を超えた方、永遠の命なる方」として、死の支配の下にいない、死を打ち破る方として、この姉妹のもとに来てくださっているのです。

その主イエスに対し、マルタは望みをおき、マリアは望みを失って弟の死に留まっているのです。この違いは大変大きいものです。もし主イエスが「復活の主」でなかったらなら、マリアを呼び出すなどもってのほかのことでしょう。しかし主イエスは、死に勝利された方、その方が呼んでくださるのです。死に囚われている者を「永遠の命」へと呼び出してくださる。主の呼び出しは、死の淵から永遠の命へ導く招きなのです。復活の主がマリアを呼び出し、招いてくださっている。主に呼ばれて初めて「救い」へと至るのだということを覚えたいと思います。ヨハネによる福音書は「主の呼び出し」を「救い」そのものと語ります。死の現実から永遠の命へ導き出してくださる、私どもの「救い」がかかっている呼び出しなのです。

主イエスの呼び出しにより、マリアは立ち上がって主のもとに行きます。しかし、マリアは呼び出しの理由を理解してはおりません。
 31節、マリアと共に人々もついて行きます。群衆もまた、ラザロの死の現実の中にあることが示されております。

32節の「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」というマリアの言葉は、21節のマルタの言葉と同じです。そしてマルタにはこの先に、主イエスに望みをおく言葉がありました。
 しかし、マリアの言葉はここで終ってしまいます。マリアは主イエスに望みをおかず、「なぜ、いてくださらなかったのか」と主を責める思い、悔しさがあるのです。マリアは主に悲しみをぶちまけるのです。
 主イエスはマリアを呼んでくださいました。それはまさに、マリアのこの深い思いを引き出し、吐き出させてくださるためです。もしイエスの方から声をかけたならば、マリアはこの悲しみを吐き出すことは出来なかったでしょう。
 人には他者の奥底にある悲しみ・繰り言を担いきることはできません。しかし主イエスは担ってくださる方です。だからこそ、この言葉を引き出してくださったのです。

33節「心に憤りを覚え、興奮して」、主は憤りを覚え怒っておられる。それは神への望みを失って、死に囚われ死に敗れ去っていることへの怒りなのです。
 34節「主よ、来て、御覧ください」と、なお死の勝利を示そうとするマリアたちに対して憤っておられるのです。
 36節「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」、マリアもユダヤ人たちも自分勝手に誤解しております。人の愚かさは何か。主イエスが「復活であり命である方」「永遠の命を与えてくださる方」であることを理解しないことです。
 人が愚かさは、知恵がないことなのではありません。「主イエスに望みをおくことが出来ない」そこに愚かさがあるのです。自らを頼り知恵を頼り、信じることを忘れること、それが人の愚かさです。
 神に至り救いに至る知恵、それが「信仰」です。旧約の時代から「主を知ることは知識の始め」と語られております。真実の知識・知恵、それは主の救いです。

どうして主イエスに呼び出されたのか、わからないマリアです。しかし、立ち上がり主のもとに歩き出すとき、マリアは既に主の導きのもとに、救いの御業のうちにあるのです。

マリアと同じように、私どもにも主の呼び出しがあることを、救いへの導きがあることを、感謝をもって覚えたいと思います。

群衆のために」 10月第4主日礼拝 2008年10月26日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第11章38〜44節

11章<38節>イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。<39節>イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。<40節>イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。<41節>人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。<42節>わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」<43節>こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。<44節>すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

いよいよラザロの復活の場面です。
 38節、主イエスは「再び心に憤りを覚えて」とあります。33節の時の怒りは、マリアと群衆が死の支配に屈して悲しみに沈んだことへの怒りでした。しかしここでは「墓に来られて」憤るのです。今度は、死に打ちひしがれている人々に対する怒りではなく、「死」に対する怒りです。
 この感覚は大切だと思います。一般的に考えれば「死」に対しては、怒りよりも圧倒する不安・恐怖・狼狽でしょう。死の前に、人は自らの存在の危うさを覚えるでしょう。ここでの主イエスの怒りは強いものです。主は故なく憤る方ではありません。では何故怒っておられるのでしょうか。「死」そのものに怒りを覚えておられるのです。人々を圧倒する死の支配、死が人間の最後の支配者として君臨するものとなることに対する怒りです。死は本来、神に対抗するものではないにも拘らず、支配するものとなっていることへの怒りです。神こそが最終的な支配者なのです。
 創世記、アダムとエバは罪を犯してエデンの園を追われました。「永遠に神と共にある恵み」の状態、それがエデンの園、それが「命」です。人は、命なる神から離れた罪ゆえに神共にいます命の恵みを失い、孤独=死の支配を受けるようになったのです。
 主イエス・キリストの到来は、インマヌエル(神共にいます)に与る出来事です。私どもは、神という命から遠ざかってしまって死の支配の中にある。しかし主イエスは命なる方、神です。「復活であり、命である」方、死の支配を打ち破り、死に勝利した方です。その命なる方が来てくださっているのです。そして、死よりも力ある方として、死に対して憤っておられるのです。主は死に勝利した方として、死が力を誇っていることに対して憤っておられるのです。
 私どもは「復活であり命である主イエス」を信じることによって、永遠の命に与る恵みを頂いております。それは、死を超えて永遠に神と共にある恵みです。
 聖書が一貫して語っていること、それはインマヌエル=神共にいます恵み、「命」は「神共にいますこと」だということです。そして「永遠の命」について、主イエスをくださるという形で示されているのです。今日の礼拝では10月の逝去者を覚え祈ります。主イエス・キリストを信じ、宣べ伝え、天に召された人々は、今まさに地上の死を超えて神と共にあるのだということを、この箇所を通して思い起こして良いのです。

39節、生死を区切る石が墓に置かれております。主イエスは言われます「石を取りのけなさい」と。マルタは「四日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。マルタは先に主への信仰を告白いたしました。しかし、だからと言ってラザロの死と復活について理解してはいないのです。ここで覚えたい。「信仰告白」できるということは、自ら信じ得ないことを言い表す「神の恵みの出来事」だということを。神の導きに従うことです。そこに神が働いてくださる、だから告白し得るのだということです。それが信仰にある恵みです。

マルタの言葉通り、ラザロの肉体はもはや腐敗しているのです。40節、しかし主イエスはマルタに言ってくださる「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と。「信じるなら、ラザロは復活する」とはおっしゃらない。「信じる」とは「神の御業を見る」こと、そこに神が臨んでくださっていることを知ることです。単に奇跡を見ることではありません。人間に視点を置くことではないのです。奇跡は、神の臨在を示し神の栄光を現す業です。
 信仰は、自らの利益を求めるものではありません。人は自らの利益を求め欲望に走るとき、他者を搾取し秩序を破壊するのです。信仰においてさえ、人の権利を優先するとき、その愚かさに陥ってしまうのです。信仰は神を現すこと、人のためにあるのではありません。自分の利益を求めれば求めるほど、神から遠くなり、命を失い滅びへと至るのです。
 「神の栄光を見る」なんと幸いなことでしょう。神が今、私どもに臨んでいてくださる、そこに命があるのです。

41節「天を仰いで言われた」これは祈りです。それは「ラザロを生き返らせてください」という願いの祈りでしょうか。そうではありません。「父よ、感謝します」と、すでに願いが聞かれていることを感謝する祈りです。主イエスは父なる神と一つなる方として思いも一つです。ですから主イエスは何も特別に願う必要はないでのす。
 では、主イエスはなぜ祈るのでしょうか。42節「わたしがこう言うのは、群衆のためです」、信じられない群衆のために祈っていてくださるのです。主イエスは祈っていてくださる、私どものために祈っていてくださるのです。主イエス・キリストが祈っていてくださることは有り難いことです。神なる方としてご自身は祈る必要がないにも拘らず、何よりも私どものために祈ってくださっているのです。自分のことしか考えられず周りが見えなくなる、祈れなくなる、その時に思い起こして欲しいのです、主イエスが私どものために祈っていてくださることを。信じきれない私どもが、信じる者となるため、信仰に生きる者となるためです。

43節「ラザロ、出て来なさい」、主イエス・キリストの言葉は「命の言葉」ゆえに力があり、人に命を与えるのです。私どもがその言葉に従うとき、恵みが満ちあふれるのです。大声で叫ばれる声は、死んだ者にも届くのです。

44節「行かせなさい」という言葉が意味することは何でしょう。それは「日常生活に戻される」ということです。人にとって大事なことは、神の恵みに生かされて日常を生きることです。平安を生きることです。神の恵みのうちにあることを知るとき、私どもは平安のうちに日常を生きるのです。
 毎週毎の礼拝において、私どもは恵みの御言葉に与り「神の平安のうちに行きなさい」と送り出されます。礼拝において神の恵みの御言葉に与ってこそ、私どもは平安・平和のうちに日常を生きることが出来るのだということを覚えたいと思います。礼拝抜きの日常生活に平安はありません。神の恵みに与ってこそ「神共にいます」日常だからです。