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6節「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」、すぐに来て欲しいとの訴えに対し、なぜ主イエスはなお2日間も留まったのでしょうか。実はその留まった所は意味深長な場所です。そこはヨルダン川の向こう側ペレアの「ベタニア」でバプテスマのヨハネが洗礼を授けた場所(10章40節)でした。そしてマリヤ・マルタ・ラザロの村もユダヤの「ベタニア」です。「ベタニアに留まっている」そこに象徴的な意味が込められているのではないでしょうか。場所こそ違いますが同じベタニアという名の所にいて、主イエスは離れていてもマルタ・マリアのことを、ラザロのことをずっと思っておられるのです。主イエスは見える形では近くにおられない、しかし愛する者に対する主イエスの思いは遠くにあるわけではありません。 主イエスは意図的に留まっておられました。2日間留まることなど私どもにできるでしょうか。私どもであれば「すぐ行こう」と居ても立ってもいられないのです。しかし主イエスは時を待っておられるのです。私どもは時に振り回される者、しかし主イエスは時を支配しておられる方です。行くべき一番良い時を知っておられ、何をなすべきか知っておられる、だから時を待って2日間留まられたのです。 7節、主イエスは行くべき時を知り「もう一度、ユダヤに行こう」と言われます。それに対する弟子たちの答え(8節)は、弟子たちが、主イエスが2日間留まっておられることを疑問に思っていなかったことを示しております。弟子たちは、4節の「この病気では死なない」という主イエスの言葉によってラザロは死なないと思っておりましたし、またユダヤに行けば命の危険があることを知っており、行きたくはなかったのです。しかし主イエスは、行くべき時を知り、なすべきことをなすため「行こう」と言われます。 11節「わたしたちの友ラザロが眠っている」。「わたしの友」ではなく「わたしたちの友」と主は言われます。ラザロにとって弟子たちは友だったでしょうか。病気のラザロの元に駆けつける気など無い、自分の身の安全のために2日間黙していた者たちです。身も心もラザロから遠い弟子たちに対し「わたしたちの友ラザロ」と主は言ってくださいます。それは恵みの出来事です。主イエスが「わたしたちの友」と言ってくださることによって初めて、私どもは「友」を見い出すのです。キリストにあってだけ、人は他者をキリストのものとして、友として見い出すことができます。まさにそれが教会の在り方です。教会に集う者が皆、兄弟姉妹、家族、友として有り得るのは、主イエスが私どもを友・家族と呼んでくださるからです。 12節「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」弟子たちは、ただ眠っていると思っているのです。しかしここで、弟子たちにも変化が見られます。主イエスへの呼びかけが「ラビ」から「主よ」に変わっているのです。主イエスがラザロを「わたしたちの友」と言ってくださることによって、自分たちも主に愛されていることを感じ取っているのです。 14節、主イエスはラザロの死を待っておられました。なぜか。15節、ラザロの甦りを見ない限り、弟子たちが「死からの復活」を信じられないことを知っておられたからです。主イエスは、信じることの出来ない弟子たちのために2日間待っていてくださったのです。愛の出来事なのです。 16節、訳の分からないディディモの言葉です。ただ感激の赴くままに語っているのです。このようにとんちんかんな者を、主イエスは「弟子」としてくださり、導き、道を共にしてくださいます。私どもを「弟子」としてくださる、主の恵みに感謝するのみです。 |
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17節、ここで知ることがあります。それは「葬られて既に四日」ということは、主イエスがラザロの病気の知らせを受けた時には、既にラザロは死んでいたということです。主イエスがすぐにベタニアに行ったとしてもラザロは死んでいたのです。主イエスはラザロが死んでいることをご存知でした。ですから死を前提にして「死で終わるものではない」と言ってくださったのです。 18節、ユダヤのベタニアはエルサレムに近く、約3km1時間の場所でした。 20節「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。マルタ・マリアの性格の違いを表しているのでしょうか。そうではありません。マルタは待ち切れずに主イエスを迎えるのです。何故でしょうか。 23節「あなたの兄弟は復活する」と主イエスは言われました。しかし「今、復活する」とは言われないのです。マルタの言葉に対する答えとしては曖昧な言葉です。24節「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」とのマルタの言葉から、マルタが復活を信じていることが分ります。しかし「今」とは思っていない。この問答は、マルタを信仰告白へと導くための主の言葉なのです。 25節「わたしは復活であり、命である」と主イエスは言われます。この言葉は愛宕町教会墓地の墓碑に刻まれている言葉です。主を信じる者として先に召された信仰の友は「今、甦りの命を生きている」ことを信じ言い表す、愛宕町教会の信仰の言葉でもあります。主イエス・キリストは甦られた方、この方を信じるならば、キリストと共に「永遠の命」に生きる。主イエス・キリストは、私どもの甦りを宣言し約束してくださっているのです。ですから、私どもは死の支配の下にあるのではありません。主イエス・キリストの甦りの命の下に既にあるのです。 27節「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、マルタは主イエスに対する信仰を言い表しております。マルタは信仰を認められた幸いな人です。この言葉で、マルタは「全て」を知ったのです。ラザロが既に「永遠の命」のうちにあることを確信したのです。ですから、敢えてこれ以上のことを主に尋ねる必要はありませんでした。 私どもが信仰を言い表すとき、私どもは既に、キリストと共なる「永遠の命」のうちにあるのだということを覚えたいと思います。 |
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28節、マルタは主に対する信仰告白をし、家に帰り、マリアに「主がお呼びです」と耳打ちします。 では、なぜ主イエスはマリアを呼ばれたのでしょうか。なぜ主イエスの方からマリアのもとに行ってくださらなかったのでしょうか。普通であれば、悲しみの中にある者を呼びつけるなど、心無いことと非難されることでしょう。 その主イエスに対し、マルタは望みをおき、マリアは望みを失って弟の死に留まっているのです。この違いは大変大きいものです。もし主イエスが「復活の主」でなかったらなら、マリアを呼び出すなどもってのほかのことでしょう。しかし主イエスは、死に勝利された方、その方が呼んでくださるのです。死に囚われている者を「永遠の命」へと呼び出してくださる。主の呼び出しは、死の淵から永遠の命へ導く招きなのです。復活の主がマリアを呼び出し、招いてくださっている。主に呼ばれて初めて「救い」へと至るのだということを覚えたいと思います。ヨハネによる福音書は「主の呼び出し」を「救い」そのものと語ります。死の現実から永遠の命へ導き出してくださる、私どもの「救い」がかかっている呼び出しなのです。 主イエスの呼び出しにより、マリアは立ち上がって主のもとに行きます。しかし、マリアは呼び出しの理由を理解してはおりません。 32節の「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」というマリアの言葉は、21節のマルタの言葉と同じです。そしてマルタにはこの先に、主イエスに望みをおく言葉がありました。 33節「心に憤りを覚え、興奮して」、主は憤りを覚え怒っておられる。それは神への望みを失って、死に囚われ死に敗れ去っていることへの怒りなのです。 どうして主イエスに呼び出されたのか、わからないマリアです。しかし、立ち上がり主のもとに歩き出すとき、マリアは既に主の導きのもとに、救いの御業のうちにあるのです。 マリアと同じように、私どもにも主の呼び出しがあることを、救いへの導きがあることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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いよいよラザロの復活の場面です。 39節、生死を区切る石が墓に置かれております。主イエスは言われます「石を取りのけなさい」と。マルタは「四日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。マルタは先に主への信仰を告白いたしました。しかし、だからと言ってラザロの死と復活について理解してはいないのです。ここで覚えたい。「信仰告白」できるということは、自ら信じ得ないことを言い表す「神の恵みの出来事」だということを。神の導きに従うことです。そこに神が働いてくださる、だから告白し得るのだということです。それが信仰にある恵みです。 マルタの言葉通り、ラザロの肉体はもはや腐敗しているのです。40節、しかし主イエスはマルタに言ってくださる「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と。「信じるなら、ラザロは復活する」とはおっしゃらない。「信じる」とは「神の御業を見る」こと、そこに神が臨んでくださっていることを知ることです。単に奇跡を見ることではありません。人間に視点を置くことではないのです。奇跡は、神の臨在を示し神の栄光を現す業です。 41節「天を仰いで言われた」これは祈りです。それは「ラザロを生き返らせてください」という願いの祈りでしょうか。そうではありません。「父よ、感謝します」と、すでに願いが聞かれていることを感謝する祈りです。主イエスは父なる神と一つなる方として思いも一つです。ですから主イエスは何も特別に願う必要はないでのす。 43節「ラザロ、出て来なさい」、主イエス・キリストの言葉は「命の言葉」ゆえに力があり、人に命を与えるのです。私どもがその言葉に従うとき、恵みが満ちあふれるのです。大声で叫ばれる声は、死んだ者にも届くのです。 44節「行かせなさい」という言葉が意味することは何でしょう。それは「日常生活に戻される」ということです。人にとって大事なことは、神の恵みに生かされて日常を生きることです。平安を生きることです。神の恵みのうちにあることを知るとき、私どもは平安のうちに日常を生きるのです。 |
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