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1月6日、今日は公現日です。教会では12月25日〜1月6日をクリスマス期間としております。公現日とは主イエス・キリストが公に現される日であり、その聖書箇所が今日の箇所です。東の方から学者たちが来たことから、東方教会が公現日を定めました。主イエスがキリストとしての栄光を闇の世に現されたことを祝うのです。公現日には諸説ありますが、アウグスティヌスが主イエスの誕生より13日目と定めました。 1節、ヘロデ王はエルサレム神殿を立て直した有能な人でした。パレスチナはローマの属国でしたが、ヘロデ王がパレスチナ全土を治めていたことから、ローマの信頼が厚かったことが窺えます。パレスチナ全土を支配する王はダビデ王以来であり、優れた王でした。 2節、なぜ東方から学者はやって来たのでしょうか。それは当時、全世界を治め全世界に黄金時代をもたらす王が西に生まれるという期待があったからです。世界が待ち望む「メシア」を表す星を見た、というのです。偉大なヘロデ王が既にいる時代、そこに新たな、メシアなる王が誕生するというのです。 3節、東方の学者たちは、王は王宮に誕生すると思いましたから、ヘロデ王の宮殿に行ったのです。学者の話を聞いてヘロデ王は不安を抱き、同様にエルサレムの人々も不安を抱いた、とあります。ここに人々が「神の子の到来」を恐れていることが示されております。自己保身の者には神は邪魔なのです。神の前には身を低くしなければならない、自分を第一とできないからです。それは、神抜きで生きている者の不安です。不安は「神なし」ということ、「神なし」に生きるということです。頼むべき方を持たないということです。神を信じられないから、人には不安があるのです。この不安を人々は覚えたのです。 4節、ヘロデ王は真相を突き止めようとして預言を調べさせます。そして「ベツレヘムにメシアが生まれる」という預言を知りますが、自ら進んでメシアのもとに行こうとはしないのです。 9節、学者たちがベツレヘムで主イエスに出会えたのは、星の導きによるのです。言葉を変えれば、「人は神の導きによって主イエス(救い主)に出会う」ということです。自らの知識によるのではなく、神の導き・聖霊の働きによるのです。 11節「救い主に出会う」、そこに起こることは「キリストをわたしの救い主として礼拝する者になる」ということです。 このクリスマスに「奉仕・仕える」ということに対する気付きが与えられました。それは「私どものする奉仕は全てキリストに対する奉仕である」ということです。いかなる奉仕もキリストが覚えていてくださる業だということです。いかなる奉仕も、主がご自分のものとして顧みてくださるということです。それが神に対してなしたことでなくても、また心ならざる業であったとしても、主イエスはその奉仕を御自分になしたものとして受け止め顧みてくださるのです。 主イエスご自身が私どもに仕える者となってくださいました。その主イエスを仰ぎ見つつ歩む者でありたいと思います。 |
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19節「あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか」と主イエスが言われることの前提は、ユダヤ人が律法を盾に取って主イエスを殺そうとしているということです。自らは律法違反をしておきながら、なぜ安息日に病人を癒した律法違反者としてわたし(イエス)を殺そうとするのかと問うておられるのです。 そして、主イエスを殺そうとすることは、この律法のあり方に反することです。律法は裁きではありません。 20節「あなたは悪霊に取りつかれている」とは、あなたは被害妄想だと言っているのです。主イエスをキリスト(救い主)と知ることは、聖霊の働きによるのであり、自らの思いでは知り得ないのです。自分の思いが何にも勝っていること、それが「悪霊に取りつかれている」ことなのです。神以外のものを表すものが悪霊なのです。悪霊は、自分自身のうちにあるのだということを忘れているから、このように言うのです。 22節「あなたたちは安息日にも割礼を施している」、割礼は生後8日目と決まっており、安息日を避けることはできません。ですから主イエスのこの言葉は皮肉なのです。割礼は肉体の一部を傷つけることによって神の印とする、なぜ全身の癒しによって神を表すことがだめなのか、と。 24節「うわべの裁き」とは、自らの思いを満たそうとする裁き、自らの正しさを示そうとする裁きです。そこには、罪を犯した者への思い、愛はありません。 |
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10節、主イエスは「御国の到来」を祈ることを教えてくださいました。「御国の到来」とは「終末の到来」ということです。それは「全世界に対する神の完全な支配」を意味します。 「御国が来ますように」との祈りは、神の憐れみが全世界を覆い尽くしますように、との祈りです。教会のなすべきことは、神より与えられた権能によって「罪の赦しの宣言」をすることです。罪の赦しの力(権能)を頂いている者として、教会は、罪の赦しがこの世界に現実のものとなるようにと祈らざるを得ない、いや祈ることを求められているのです。 「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」、ここに「真実な人間とはいかなる者か」ということが示されております。真実な人間、それは神の御心を行う者です。神に創られた者は、神の御心を行うのです。人は、神の御心を行うべくして創られているのです。 この世にあって他者のために働く者であったとしても、まず何よりも神の御心に従う者でなければ、真実に他者に仕えることにはならないのだということを覚えたいと思います。 |
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25節からの人々の言葉は、前節までの主イエスの行動や言動に対する人々の反応です。 主イエスは、御自分は神から遣わされた者、律法の心は神の慈しみを表すこと、ご自身が律法を体現する者だということを公然と語られました。これらはユダヤ人には承服しがたいことであり、律法に反し死に値すると思ったのです。彼らの思いの前提は、主イエスはメシアではないということです。自分たちの思いが前提になっているのです。メシアであっても、自分の思いに叶ったメシアかどうかが大切なのです。 27節、人々は言います「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」と。彼らは確かに主イエスの出所を知っていますが、主イエスの秘義(真実)=主イエスはメシアである、ということを知らないのです。 28節「イエスは、大声で言われた」とあります。大声というのは「宣言された」ということです。ご自分は「真実なる方(神)のもとから来た、その神から遣わされた者である」ということを宣言なさっているのです。このように「宣言された」ことが大切なのです。宣言されることによって、自分の思いに勝って、宣言されたことが現実のものとなるのです。 私どもは、主イエスが神から遣わされた方であることを知ることにより、神を知るのです。十字架の主イエスによって、神が私どもを愛し罪の赦しを与えてくださったことを知る、神こそ私の救いだと知るのです。神が私どもを救うために主イエスをお遣わしくださったことを知る、それが「本当に神を知る」ということなのです。神に救いを見る、それは私どもの喜びです。人の喜びは、人を知ることでは得られません。私どもは、私どもを救ってくださる神を見い出し、喜びを与えられるのです。そこでこそ、人は、共に罪赦された者として一つなのだと知るのです。共に罪なる者として、神の恵みに与っている者として、赦しあい、受け入れあうことができるのです。 31節「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて」と言われます。十分に理解し得ない、しかしそこに、信じる者が起こされるのです。 |
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32節「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした」、「ささやき」の内容は31節の「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」ということです。群衆は主イエスのなさった奇跡を、メシア(救い主)のしるしと考えたのでした。 このメシアへの期待は、しかし、メシアを誤って理解することにつながっております。本当のメシアは、人の思いを叶えるために来られたのではありません。メシアは「人の思いを救うために」来られたのです。 地域・家庭・血縁関係のさまざまところで交わりの崩壊が起こっている今、この時代に、神との交わりの回復こそが急務です。今こそ世界は主イエスを必要としている。主イエス・キリストは全世界の救いを担っておられる方です。 ファイサイ派と祭司たちは、群衆のささやきを、主イエスがメシアである理由にはならないと受け止めました。メシアであれば奇跡は起こる。しかし奇跡が起こるからと言ってメシアだとは限らない、という見解です。奇跡がメシアのしるしだという証明にはならないという彼らの考え方は正しいのです。奇跡を見てメシアと判断することは間違いであることを覚えたいと思います。しかし、ファリサイ派と祭司たちは、主イエスを邪魔者とし殺意をもって見ている、それは間違いなのです。下役たちはファリサイ派から遣わされて、イエスを捕らえるためにやってきました。そこで主イエスが自分に敵意を持つ者に対して示されたことは33、34節「いずれ地上からいなくなる」ということでした。しかしそれは、殺意に満ちた者たちの思いにより実現するものではないのです。神が定められた時、良しとされた時に「イエスを捕える」ことが起きることを示しているのです。人の思いによってなされるのではない。主の許可・ご意志がなければ、主イエスを捕らえることは出来ないのです。 「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」、主イエスの十字架は天に行かれること、ご自分の使命を全うされることです。主の十字架は、人の目からは敗北です。しかし主の十字架は勝利なのです。人の罪の救いを成し遂げる出来事、勝利なのです。罪に対する勝利です。救いの遂行がなされることです。 35節は、主イエスの言葉を誤解して聞いているのですが、彼らは意図せず、この言葉によって、ユダヤ人だけではなくギリシャ人(異邦人)にも救いが広がることを暗に示しております。 メシア(救い主)は、私どもの願望を叶えるものではなく、私どもの根本のあり方を変えてくださる方であることを聴きました。私どもは、神との交わりに生きる者として、終わりの日の救いの完成を目指して生きるのです。 |
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