聖書のみことば/2008.1
2008年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
学者たちの献物」 1月第1主日礼拝 2008年1月6日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第2章1〜12節
2章<1節>イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、<2節>言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」<3節>これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。<4節>王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。<5節>彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。<6節>『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」<7節>そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。<8節>そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。<9節>彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。<10節>学者たちはその星を見て喜びにあふれた。<11節>家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。<12節>ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

1月6日、今日は公現日です。教会では12月25日〜1月6日をクリスマス期間としております。公現日とは主イエス・キリストが公に現される日であり、その聖書箇所が今日の箇所です。東の方から学者たちが来たことから、東方教会が公現日を定めました。主イエスがキリストとしての栄光を闇の世に現されたことを祝うのです。公現日には諸説ありますが、アウグスティヌスが主イエスの誕生より13日目と定めました。

1節、ヘロデ王はエルサレム神殿を立て直した有能な人でした。パレスチナはローマの属国でしたが、ヘロデ王がパレスチナ全土を治めていたことから、ローマの信頼が厚かったことが窺えます。パレスチナ全土を支配する王はダビデ王以来であり、優れた王でした。

2節、なぜ東方から学者はやって来たのでしょうか。それは当時、全世界を治め全世界に黄金時代をもたらす王が西に生まれるという期待があったからです。世界が待ち望む「メシア」を表す星を見た、というのです。偉大なヘロデ王が既にいる時代、そこに新たな、メシアなる王が誕生するというのです。
 ヘロデ王は有能・偉大ではありましたが、疑心暗鬼の王でもありました。力ある者ほど自分を凌ぐ者の出現を恐れ、不安を抱くのです。ヘロデ王は、ねたみと自己保身の者です。それと対比するかのように主イエスは、幼子として、無力な者として自己犠牲(十字架)なる方としておいでくださいました。このように、ヘロデ王の人物像を語ることにより、主イエス・キリストが指し示されているのです。
 主イエス・キリストは「人を生かす者」としておいでくださいました。自分が低くならなければ人を生かすことはできません。主イエスは低き者としておいでくださいました。

3節、東方の学者たちは、王は王宮に誕生すると思いましたから、ヘロデ王の宮殿に行ったのです。学者の話を聞いてヘロデ王は不安を抱き、同様にエルサレムの人々も不安を抱いた、とあります。ここに人々が「神の子の到来」を恐れていることが示されております。自己保身の者には神は邪魔なのです。神の前には身を低くしなければならない、自分を第一とできないからです。それは、神抜きで生きている者の不安です。不安は「神なし」ということ、「神なし」に生きるということです。頼むべき方を持たないということです。神を信じられないから、人には不安があるのです。この不安を人々は覚えたのです。
 主イエス・キリストの誕生は「不安なる者の救い」のための誕生です。「神なし」は「罪」。その罪を清算し、神に信頼して生きる「神あり」の生活へと変えられる、それが主イエス・キリストの誕生であり救いの出来事なのです。私どもが信仰を頂いている、それは平安を頂いているということです。

4節、ヘロデ王は真相を突き止めようとして預言を調べさせます。そして「ベツレヘムにメシアが生まれる」という預言を知りますが、自ら進んでメシアのもとに行こうとはしないのです。
 「信仰」とは、心に思っているだけではなく、「行為」が必要なのです。信仰の行為とは「神を崇める。神を第一として礼拝する」ことに他ならないことを忘れてはなりません。

9節、学者たちがベツレヘムで主イエスに出会えたのは、星の導きによるのです。言葉を変えれば、「人は神の導きによって主イエス(救い主)に出会う」ということです。自らの知識によるのではなく、神の導き・聖霊の働きによるのです。
 では、私どもにとって「聖霊の導き」とは何でしょうか。それは「御言葉」です。聖霊は御言葉と共に働くのです。御言葉に聴くことは聖霊を受けることに他なりません。そこで主に出会い、礼拝することが出来るのです。
 そして、聖霊の出来事として教会が言い表している業は「洗礼」です。水によるのではなく、主イエスの御名による洗礼、そこに聖霊が臨んでくださるのです。洗礼は聖霊をいただく出来事なのです。そこでまさに主を拝し、救いの恵みにあずかるのです。御言葉をいただき洗礼にあずかる、そこでこそ主イエス・キリストの救いに至るのです。心の中で受け入れていればよいということではないのです。

11節「救い主に出会う」、そこに起こることは「キリストをわたしの救い主として礼拝する者になる」ということです。
 学者たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。キリストに仕え、献げる、ということが起こるのです。

このクリスマスに「奉仕・仕える」ということに対する気付きが与えられました。それは「私どものする奉仕は全てキリストに対する奉仕である」ということです。いかなる奉仕もキリストが覚えていてくださる業だということです。いかなる奉仕も、主がご自分のものとして顧みてくださるということです。それが神に対してなしたことでなくても、また心ならざる業であったとしても、主イエスはその奉仕を御自分になしたものとして受け止め顧みてくださるのです。
 他者のため、家族のために仕えることに厳しさを覚えるとき、どんなに辛い思いの中でなされた奉仕でも、義務としてなされるものであっても、主はご自分のものとして覚えてくださる、恵みの主であることを覚えたいと思います。

主イエスご自身が私どもに仕える者となってくださいました。その主イエスを仰ぎ見つつ歩む者でありたいと思います。

うわべの裁き」 1月第2主日礼拝 2008年1月13日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章19〜24節
第7章<19節>モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」<20節>群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」<21節>イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。<22節>しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。ーもっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだがーだから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。<23節>モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。<24節>うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

19節「あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか」と主イエスが言われることの前提は、ユダヤ人が律法を盾に取って主イエスを殺そうとしているということです。自らは律法違反をしておきながら、なぜ安息日に病人を癒した律法違反者としてわたし(イエス)を殺そうとするのかと問うておられるのです。
 ユダヤ人は律法を守らないわけではありません。むしろパリサイ派の人々は、命じられたこと以上に厳格に律法を守ろうとしたのです。しかしその厳格さは、自分の正しさを示すものでした。
 律法とは何か。律法は神を表すものです。そして律法は守ることを目的としていないのです。守ることが目的なら、自らの正しさを表すことになるのです。
 モーセがイスラエルに与えた律法に「十戒」があります。「十戒」は神が与えてくださった10の言葉であって、人が守るべき「戒め」なのではありません。十戒の前文は「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」です。まず、あなたを憐れみ、導き出した(救い出した)という、神の一方的な恵み、救いが示されているのです。また、実際の言葉は命令形ではなく、神の恵みによって救われた者であれば「〜するでしょう」というニュアンスです。ですから、十戒、律法は、神の恵みに生かされた者にふさわしいあり方・生き方が示されている言葉なのです。
 最近思い直したことがあります。それは「神の恵み」を示す言葉はやはり「恩寵・恩」の方がふさわしいのではないかということです。私どもは救われた者として、神のご恩に応えて、自ら喜び集い礼拝するのです。恩を感じれば、敢えて命じられなくてもよいのです。律法は守るべき戒めなのではない、本来人を生かすものとして、神の恵み(恩)に応えて生きられるように与えられているものであることを、改めて覚えたいと思います。

そして、主イエスを殺そうとすることは、この律法のあり方に反することです。律法は裁きではありません。
 今、世の中は、より厳しく罰して欲しいという思いが強くなりました。法の裁きによって自らの思いを晴らそうとするのです。しかし、法は本来、罪を贖わせ(罪を終わりにする)、罪の呪縛から解き放って新しく生きることを得させるものです。今、この法に対する姿勢が変わりつつあります。また、そうならざるを得ないほどに深い罪、罪の意識のない犯罪が多発し、制裁を加えざるを得ないというところがあるのです。罪を痛む心を失った現実、罪を終わりに出来ない世界は、罪ある者にとって生きにくい社会なのです。
 罪なき者は誰一人おりません。ですから、罪に対する意識、罪を罪とする心を取り戻さなければなりません。宗教が必要なのです。罪を自覚することによって、人は生きる者となる。そうでなければ、罪の意識のないまま裁き合う、殺し合うのです。
 また、今は「恩」の感性を失った時代です。親にも教師にも、尊敬はあっても「恩」を感じないのです。「恩」の喪失は、生かされていることの喪失に繋がります。人は、神の大恩を感じることにより、生かされ励まされ、慰めを受けるのです。人が無力になっているのはどうしてでしょうか。それは、自分の弱さを補ってくださる恵み、神の恩を見い出せなくなってしまったために、自らの弱さに埋没してしまうからです。
 エジプトの奴隷から解放してくださった神の恵み、恩。私どもの罪の一切を贖ってくださった主イエス・キリスト、その圧倒する神の愛。神の言葉は、大恩ある方の言葉、その言葉によって私どもは力づけられ慰められるのです。ですから、私どもが求めるべきは、人ではなく、神です。

20節「あなたは悪霊に取りつかれている」とは、あなたは被害妄想だと言っているのです。主イエスをキリスト(救い主)と知ることは、聖霊の働きによるのであり、自らの思いでは知り得ないのです。自分の思いが何にも勝っていること、それが「悪霊に取りつかれている」ことなのです。神以外のものを表すものが悪霊なのです。悪霊は、自分自身のうちにあるのだということを忘れているから、このように言うのです。

22節「あなたたちは安息日にも割礼を施している」、割礼は生後8日目と決まっており、安息日を避けることはできません。ですから主イエスのこの言葉は皮肉なのです。割礼は肉体の一部を傷つけることによって神の印とする、なぜ全身の癒しによって神を表すことがだめなのか、と。
 主イエスは、自らの正当性を表すために癒しの業をなされたのではありません。主イエスの癒しは、神の恵み、救い、ご恩がいかなるものかを示すためになされた業なのです。

24節「うわべの裁き」とは、自らの思いを満たそうとする裁き、自らの正しさを示そうとする裁きです。そこには、罪を犯した者への思い、愛はありません。
 正しい裁きには「赦し」があるのです。赦しなき裁きは偽りの裁きであり、終わらない裁きとなるのです。
 正しい真実の裁きは、主イエス・キリストの十字架の裁きのみです。そして私どもは、主イエス・キリストの十字架によって、真実に裁かれた者なのです。
 人の裁きでは「裁き切る」ことはできないのです。にもかかわらず、私どもは人を許さず、裁こうとする者なのです。
 人を裁くことしかできない、そのような私どもを、なお、憐れみ、救ってくださる主イエス・キリストの大恩を、改めて覚えるものでありたいと思います。

御国が来ますように」 1月金曜礼拝 2008年1月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜15節
6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』<14節>もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。<15節>しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

10節、主イエスは「御国の到来」を祈ることを教えてくださいました。「御国の到来」とは「終末の到来」ということです。それは「全世界に対する神の完全な支配」を意味します。
 教会は、今、この世にあって「終末」を目指しているものです。それゆえ、自らの思いを満たすことではなく、「全世界に神の御心が行われること」を祈るのです。「神の御心がこの地上に成ること」、それが「神の圧倒する完全な支配」ということです。
 そして「神の御心がこの地上に成ること」とは、「罪の贖い」なのです。それは、神の国の到来を示す生涯を送られた主イエス・キリストの、十字架と復活によって初めて示されることです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の憐れみ・罪の赦しが現実のものとなるのです。
 それゆえ、神の支配は人々を屈服させる支配なのではありません。神の憐れみを知った者は自らの罪を悔い改め、神の支配を求めるのです。

「御国が来ますように」との祈りは、神の憐れみが全世界を覆い尽くしますように、との祈りです。教会のなすべきことは、神より与えられた権能によって「罪の赦しの宣言」をすることです。罪の赦しの力(権能)を頂いている者として、教会は、罪の赦しがこの世界に現実のものとなるようにと祈らざるを得ない、いや祈ることを求められているのです。
 教会は、地上において、世界の先駆けとなって神の国(神の慈しみの支配)を表しております。教会の「罪の赦しの宣言」によって、ここに既に「神の赦し」が起こっているからです。

「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」、ここに「真実な人間とはいかなる者か」ということが示されております。真実な人間、それは神の御心を行う者です。神に創られた者は、神の御心を行うのです。人は、神の御心を行うべくして創られているのです。
 人が本来の姿を失うとはどういうことでしょうか。それは自分が神となることです。自分が神となることは、他者に対して優位になろうとすることです。そのように自分本位に生きることは、人の本来の姿ではないのです。神の御心を行ってこそ、人は人となるのです。

この世にあって他者のために働く者であったとしても、まず何よりも神の御心に従う者でなければ、真実に他者に仕えることにはならないのだということを覚えたいと思います。

主は遣わされた方」 1月第3主日礼拝 2008年1月20日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章25〜31節
7章<25節>さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。<26節>あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。<27節>しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」<28節>すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。<29節>わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」<30節>人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。<31節>しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

25節からの人々の言葉は、前節までの主イエスの行動や言動に対する人々の反応です。
 主イエスは逃げ隠れする方ではありません。人の思惑で動く方でもありません。ただ「父なる神に従う者」であられます。
 人を求める者に平安はないのです。神にのみ平安があることを覚えなければなりません。今、行き場を失った人々が多くあります。人々は行き場を求めております。私どもの行き場は神の身許しかありません。ただ神のみ、拠り所なのです。

主イエスは、御自分は神から遣わされた者、律法の心は神の慈しみを表すこと、ご自身が律法を体現する者だということを公然と語られました。これらはユダヤ人には承服しがたいことであり、律法に反し死に値すると思ったのです。彼らの思いの前提は、主イエスはメシアではないということです。自分たちの思いが前提になっているのです。メシアであっても、自分の思いに叶ったメシアかどうかが大切なのです。
 自分の思いが全てとなることは、現実をも曲げてしまうことです。人の思いのみが事実となってしまうからです。人にとっての事実とはどのようなものでしょうか。人は一つの事柄を受け止めるとき、意味づけをして受け止める、ですからその事柄は人の思いに左右されるのです。同じ出来事でも、人によって事実は異なるのです。人の事実は、真実ではありません。ですから人と人が事実を争っても、虚しい、無駄であり、苛立つのです。決して相手と折り合えない、一致はないのです。自分が受け入れられないと思う他なくなるのです。ですから、自分を拠り所としているところに一致はありません。ユダヤ人にとっての事実は、主イエスはキリストではない、ということなのです。
 しかし私どもにとって、自らの事実が大切なのではありません。大切なのは「真実」なのです。「真実」、それは神のみ、主イエス・キリストのみであることを覚えなければなりません。人は自らの事実に依り頼んで生きたとしても、決して平安にはならない。受け入れられることも、受け入れることもできない。ただ十字架の主イエス・キリストによってのみ罪を赦され、受け入れられるのです。神から離れて自らの事実に依り頼むことは、苦しく、淋しく、孤独で切ないことだということを覚えたいと思います。

27節、人々は言います「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」と。彼らは確かに主イエスの出所を知っていますが、主イエスの秘義(真実)=主イエスはメシアである、ということを知らないのです。
 どうして主イエスが神の子であると知り得るでしょうか。人は神の秘義を知り得るものではありません。神が人として生まれる、このことは人の理解を超えているのです。ただ神からの示しによってのみ知るのです。秘儀を知らされることによってのみ、知り得るのです。聖霊が働いてこそ知り得るのです。人の知恵や力によっては、主イエスを救い主と知り得ない。主イエスを救い主と知ることは、ただただ神の導きによる恵みなのです。

28節「イエスは、大声で言われた」とあります。大声というのは「宣言された」ということです。ご自分は「真実なる方(神)のもとから来た、その神から遣わされた者である」ということを宣言なさっているのです。このように「宣言された」ことが大切なのです。宣言されることによって、自分の思いに勝って、宣言されたことが現実のものとなるのです。
 教会は洗礼式において「罪の赦しの宣言」をいたします。教会のなす宣言は、やみくもなものではありません。神から託された部分においてなすべきものです。教会は、罪の赦しの権能を神から託されているのです。
 主イエスは「わたしは自分勝手に来たのではない」と言われます。主イエスは神の御意志で来られました。自分の思いをなすためではなく、神の御意志をなすために来られたのです。
 私どもは自らの思いによってキリスト者になったわけではありません。自らの思いによって礼拝出来るのではないのです。ただ神の憐れみ、神の御意志によってキリスト者とされ、礼拝する者として集められているのです。キリスト者は、神の御意志がなることを願い、神の御意志に従うのです。

私どもは、主イエスが神から遣わされた方であることを知ることにより、神を知るのです。十字架の主イエスによって、神が私どもを愛し罪の赦しを与えてくださったことを知る、神こそ私の救いだと知るのです。神が私どもを救うために主イエスをお遣わしくださったことを知る、それが「本当に神を知る」ということなのです。神に救いを見る、それは私どもの喜びです。人の喜びは、人を知ることでは得られません。私どもは、私どもを救ってくださる神を見い出し、喜びを与えられるのです。そこでこそ、人は、共に罪赦された者として一つなのだと知るのです。共に罪なる者として、神の恵みに与っている者として、赦しあい、受け入れあうことができるのです。

31節「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて」と言われます。十分に理解し得ない、しかしそこに、信じる者が起こされるのです。
 私どもが真実に主イエスを証しするとき、そこに信じる者が起こされることを覚えたいと思います。キリスト者として、ただただ主を真実に証しする、それが伝道です。

主イエスを探す」 1月第4主日礼拝 2008年1月27日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章32〜36節
7章<32節>ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。<33節>そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。<34節>あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」<35節>すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。<36節>『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

32節「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした」、「ささやき」の内容は31節の「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」ということです。群衆は主イエスのなさった奇跡を、メシア(救い主)のしるしと考えたのでした。
 人に何かを「伝える」というとき、伝える者の意図が働くのです。それは、相手に取り入る、あるいは心理的圧迫を与えるものです。
 「ささやき」はいかなるものでしょうか。「ささやき」は無責任で阻止することも難しいのです。「悪魔のささやき」と言われます。その背後にあることは、人の弱点を突くということです。人は、自分の思いのあるところを突かれると弱いのです。たとえばお金、健康、美しさなど、これをすればそうなると言われると乗ってしまうのです。自らが欲することを「ささやかれる」とたまらないということです。「ささやき」によって、人が何を求めているかが明らかになるのです。ですから、ここでは「群衆はメシア(救い主)を求めている」ということなのです。

このメシアへの期待は、しかし、メシアを誤って理解することにつながっております。本当のメシアは、人の思いを叶えるために来られたのではありません。メシアは「人の思いを救うために」来られたのです。
 人の思いは身勝手です。そこに人の限界があり、罪があるのです。人々はメシアを必要としていますが、自分本位のメシア、自分に都合の良いメシアを求めているに過ぎません。それは救いにはならないのです。
 日本はこれまで豊かさを求めてきて、今は物質的には豊かです。しかし逆に、魂の飢えを感じるようになっております。物質的な豊かさは慰めにはならないのです。それほどに人は、自分の深い思い、求めを知らない存在です。そして自分本位であればあるほど、人は孤独となり、交わりを失って死へと向かうのです。
 主イエス・キリストは、そのように孤独な、死の状況にある者、自分本位な者を救ってくださる方なのです。
 交わりを失うことは、人間性(人格)を失うことです。他者との関わりに生きるということは、自分本位では出来ないことなのです。そういう意味で、自分の思いを叶えるのではなく人格ある者となる、それは他者との交わりに生きることです。人は、交わりなく生きることは出来ない、だから愛する者を求め、家族を求め、友を求め、交わりの中で生きる実感を得るのです。
 人は、神との交わりが無ければ孤独です。神が私どもを交わりの相手としてくださることを実感することによって、他者との交わりに大切さを覚え喜びを見い出すことが出来るのです。人と人との関係だけでは、上下関係になってしまいます。自らが低くなり、相手を尊い者と思わなければ、交わりの喜びは生まれません。
 このように自分本位な、自分勝手な私どもの罪を終わりとしてくださり、救いを与えてくださる方、それが主イエス・キリストです。神との交わりを回復させてくださる救いを、主イエスは十字架という犠牲をもってなしてくださったのです。この恩寵を知ることによって初めて、低き者となることができる、上に引き上げられているという「低さを知る者」となることができるのです。神がいてくださるからこそ、人と人との等しい、恵みとしての交わりが成り立つのです。
 ここに大きな転換があります。自分本位に生きていた者が、主イエスの十字架と復活によって、神との交わりに生きる者と変えられるという根本的な転換があるのです。ただ神によってのみ、人は根本的に変わるのです。根本のあり方が変えられる、それが救いということです。

地域・家庭・血縁関係のさまざまところで交わりの崩壊が起こっている今、この時代に、神との交わりの回復こそが急務です。今こそ世界は主イエスを必要としている。主イエス・キリストは全世界の救いを担っておられる方です。
 そして、その主イエスから「罪の赦しの宣言の権能」を委託されている教会こそ、今この世界に必要とされているのです。教会は忠実に福音伝道に励まねばなりません。

ファイサイ派と祭司たちは、群衆のささやきを、主イエスがメシアである理由にはならないと受け止めました。メシアであれば奇跡は起こる。しかし奇跡が起こるからと言ってメシアだとは限らない、という見解です。奇跡がメシアのしるしだという証明にはならないという彼らの考え方は正しいのです。奇跡を見てメシアと判断することは間違いであることを覚えたいと思います。しかし、ファリサイ派と祭司たちは、主イエスを邪魔者とし殺意をもって見ている、それは間違いなのです。下役たちはファリサイ派から遣わされて、イエスを捕らえるためにやってきました。そこで主イエスが自分に敵意を持つ者に対して示されたことは33、34節「いずれ地上からいなくなる」ということでした。しかしそれは、殺意に満ちた者たちの思いにより実現するものではないのです。神が定められた時、良しとされた時に「イエスを捕える」ことが起きることを示しているのです。人の思いによってなされるのではない。主の許可・ご意志がなければ、主イエスを捕らえることは出来ないのです。
 主イエスの十字架は、人の殺意を用いて、主ご自身のご意志によってなされることです。殺意が(人が)勝利するのではないのです。

「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」、主イエスの十字架は天に行かれること、ご自分の使命を全うされることです。主の十字架は、人の目からは敗北です。しかし主の十字架は勝利なのです。人の罪の救いを成し遂げる出来事、勝利なのです。罪に対する勝利です。救いの遂行がなされることです。
 ですから、主イエスを信じる者は、死をもって終わるのではありません。主イエスと共に十字架に死に、主イエスと共に天に帰るのです。

35節は、主イエスの言葉を誤解して聞いているのですが、彼らは意図せず、この言葉によって、ユダヤ人だけではなくギリシャ人(異邦人)にも救いが広がることを暗に示しております。

メシア(救い主)は、私どもの願望を叶えるものではなく、私どもの根本のあり方を変えてくださる方であることを聴きました。私どもは、神との交わりに生きる者として、終わりの日の救いの完成を目指して生きるのです。