聖書のみことば/2007.9
2007年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
聖書は主を証しする」 9月第1主日礼拝 2007年9月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章37〜40節

5章<37節>また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。<38節>また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。<39節>あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。<40節>それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

今日は、先週の続きで37節後半からです。
 「まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」、父とは神、人は直接神との交わりができないと言われております。罪なる私どもは神の前に立つことには耐えられない存在なのです。創世記3章(蛇の誘惑、楽園からの追放)にあるように、人は自ら神の言葉に反し、自分本意に生きる者となりました。人の方から神との交わりを絶ったのであり、それは裁きの対象であり滅びでしかないのです。人は楽園から追放されます。しかしそれは裁きではありませんでした。実は神は、直接の交わりから人を遠ざけてくださいました。そこに恵みがあるのです。そこに救いの糸口があるのです。楽園からの追放は苦しみだと考えがちですが、そうではありません。神は、人が罪に滅ぶことから守ってくださったのです。神は罪人の滅びを望んではおられないのです。
 罪ゆえに、人は苦しまなければなりません。しかし苦しむことによって、そこで初めて人は神を思い起こします。苦しむがゆえに、神に向かうのです。人が真実に神に向かうのは苦しみゆえです。
 人が罪に苦しむとは、自分本位がゆえの苦しみです。他者との交わりにおいて自分本意な者同志がぶつかり、結果、苦しまざるを得ないのです。本来、人は交わりに生きる者として創られました。しかし根本の交わりである「神との交わり」を失っているがゆえに、低き者であることを忘れ、自分本意であるがゆえに他者の上に立って交わろうとする。人は罪なるがゆえに苦しまざるを得ないのです。
 けれども神は、人が苦しみに合う時に、なお神の名を呼ぶことを良しとしていてくださっております。そこに神の救いが既に用意されているのです。神が配慮してくださっていること、それは私どもの慰めです。

38節はユダヤ人には聞き捨てならない言葉です。ユダヤ人が聖書の言葉を覚えていないということはないからです。「自分の内に父のお言葉をとどめていない」とは、ユダヤ人が神の言葉を聞いていながら、主イエス(御子)を信じないからだというのです。それは、39節後半にあるように「聖書は主イエス・キリストを証しするもの」だからです。好んで御言葉を覚えても、主イエス・キリストを信じなければ、御言葉を受け止めてはいない、御言葉が自分の内にとどまっていないのです。
 私ども「日本キリスト教団信仰告白」の第一に告白されていることは、「旧・新約聖書はキリストを証ししている」ということです。
 「聖書の中に永遠の命があるのではない」と、主イエスは言われます。ユダヤ人は聖書を研究し、その言葉を実践することによって救いに至ると信じておりました。実践は自分の義を示すことであり、すなわち律法主義なのです。しかし主イエスは「律法主義によっては救われない」と言われます。プロテスタント教会では実践による信仰を「功績主義」と言いました。それは実存のかかった真剣な取り組みであり、敬意に値するほどのものでもあるのです。しかし、そこには救いはありません。
 多くを知る必要はないのです。救いはただ、証しされていることを受け入れ、「主イエスをキリスト、救い主と告白する」ことにより与えられるのです。そして信じることができたなら、それは聖霊の働きによるのです。神がその人に臨んでいるからこそ、信じることができるのです。だからこそ「信ずる者は救われる」と言われるのです。

「主イエスを信ずる」そこに聖霊が働くとき、私どもが知ることは、「十字架の主イエスそこに救いがある、復活の主イエスそこに救いがある」ということです。主イエスは私どもの罪のために死に、私どもの罪を贖い、神との和解を与え、もはや決して失われることのない神との永遠の交わりを与えてくださいました。信ずるところで「罪の赦し、神との交わり、永遠の命」が与えられるのです。

40節「わたしのところへ来ようとしない」、ここで示されていることは「あなたたちは命を得るために私のもとに来なさい」との、主イエスの招きの言葉であることを覚えたいと思います。

生命愛(ヴァイオフィリア)の神」 9月第2主日礼拝 2007年9月9日 
近藤勝彦 先生/東京神学大学教授
(聴者/清藤)
聖書/創世記 第3章20〜24節、ヨハネの黙示録 第22章1〜5節

創世記3章<20節>アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。<21節>主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。<22節>主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」<23節>主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。<24節>こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

ヨハネの黙示録22章<1節>天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。<2節>川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。<3節>もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、<4節>御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。<5節>もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

人間は根本的にはどういう状態におかれているのでしょうか。

今日の聖書箇所である創世記3章では、人間というのは楽園にいる存在ではなく「楽園を追われた存在」であると記されています。楽園を追われる状態に置かれることは、だれもが経験することです。辛いことがあるのは誰も免れられません。理解しがたい悲惨な状況に直面することもあります。また、人間同士の対立もあります。これらはまさしく楽園から追われた姿であります。今、地球上の争いはどうでしょうか。イラン、パレスチナ、東チモール、アイルランド、キプロス、スーダン、チベット、スリランカ等々争いは絶えません。この状況に、まさしく人類が楽園を追われたことを見ることができます。

この楽園追放の問題がどう解決されるのか、これは人間生活の根本問題であります。楽園を追われた理由は何でしょうか。それは「人間の根源にあるゆがみ」は「神に対する反逆」にあるということです。自分はまるで神であるかのように振る舞い、自分が神の被造物であることを受け入れないのであります。これこそ罪の姿です。この創世記の記述は人間の根源を語っており、楽園を追われた状態、今の社会にある私どももその状態にあるのです。

では、このような現実の中で人間はどのように生きられるのでしょうか。アダムは楽園追放の直前に、共に生きる者である女に「エバ」という名前を付けたとあります。その名の意味は「命」と言う意味です。これは「生きる」という言葉と音が似ているという説があり、同時に、主がシモンにペトロ(岩=教会)と名付けたように、聖書において人に名を付けることは信仰を表しています。名付けた者の思い、信仰が表されるのです。このことは楽園追放の中においても人間(アダム)が「命を肯定した」ことを示しています。そのことを神に許されたのであります。生きて良いと。労苦を負って生きて良いと。命を生きることの素晴らしさを「生きて良い」とされたのであります。このように「エバ」との名付けの中に、楽園追放を生きる人間の信仰が表されているのです。

「命あるものの母」とあります。これは、楽園追放の記事の中で、神が命を守ってくださっていることを示し、産みの苦しみを与えたという意味では、言い難い労苦も肯定したということであります。

21節「主なる神」とあります。この「主」は、神聖4文字「YHWH」で表され、十戒の、みだりに唱えてはならない「神の名」であります。「主」と神の名を呼んでいる、これこそ「主なる神」を信じる信仰が表されております。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。ここでの「作る」は、神が天と地を創造されたの「創る」とは異なる言葉です。天地創造の「創る」は誰にも真似のできない、ただ神のみの行為ですが、ここでの「作る」は人間が真似ることの出来る「作る」、つまり手作業の「作る」という意味であり、神が手ずから作ってくださいました。母・人が、神に真似てできることとして、命を守るために衣を作ってくださったのです。このように、神の愛には、母の愛、人間の愛の起源があります。

楽園追放は「命の木」に人間が手を出さないために行われました。もし、罪のまま、命の木の実を食べたらどうなるでしょうか。命の木の実を食べることは「永遠に生きる者となる」ことです。ですから、人間は心がゆがんだまま、争い続けながら、永遠に生きることになるでしょう。これでは何の救いにもなりません。ですから楽園追放は、人間が争うことを継続させない、罪を継続させないための、神の守りでもあったのです。

さて、この「命の木」については、聖書の最後に出てきます。ヨハネの黙示録22章1節〜5節、神の国の到来の時、「命の木」が出てくるのです。ここに「命の木の実は諸国の民の病を治す」とあります。神の国の完成の中に「命の木」があるのです。また、そこには「神と小羊の玉座」があったとあります。小羊とは主イエス・キリストのことです。贖いのために捧げられた小羊としての主イエスがいらっしゃるのです。
 命の木に至るには「主イエスの贖い」がなければだめなのです。私どもは主イエス・キリストの贖いにより、初めて、罪赦された者として命の木に与るのです。楽園追放から終わりの日の命の木との間に、贖いの小羊(主イエス・キリスト)が必要なのです。

神は、私どもに皮の衣を作って着せてくださり、命を肯定してくださり、主イエスの贖いにより神との和解を打ち立ててくださいました。不信仰な者であるにもかかわらず、信じる者としてくださったのです。

初めのころの愛」 9月第3主日礼拝 2007年9月16日 
小島章弘 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネの黙示録 第2章1〜7節

2章<1節>エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。<2節>「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。<3節>あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。<4節>しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。<5節>だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。<6節>だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。<7節>耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』

ヨハネの黙示録は新約聖書の最後に記されています。そして目立つことは、怪物が出てきたり、違った世界を描いていたり、数字が多かったりということです。たとえば「666」という数字はは皇帝ネロを表している暗号のようなものです。
 黙示文学は、2200年前頃、100年あまりの間に盛んに書かれた文学形態で、ダニエル書などが代表的です。ヨハネの黙示録は、1世紀末後、ローマの力が強大になり皇帝礼拝の強制や迫害が起こる中、終末を考えるような不安な時代に書かれました。迫害の中にあって「キリストは必ず勝利に導かれる」という激励を記したものです。ですからよく読んでみますと、私どもへの大きな励ましが書かれているのであり、今のような時代の曲がり角に読む時には非常に意味があります。

今日の箇所は、7つの教会に宛てた手紙の最初の手紙で、エフェソの教会に宛てた手紙です。エフェソは都会的雰囲気の教会でした。イエスの母マリアも出入りしたと言われています。
 「右の手に七つの星を持つ方」とは、7つの教会を守ってしっかり掴んでいる方、すなわちイエス・キリストを表しています。「七つの金の燭台の間を歩く方」とは、7の金の燭台=7つの教会を、迫害にある人々を、キリストはただ見ているというのではなく、教会の間を歩き回って守っていてくださることを示すのです。

この手紙では、最初にエフェソの教会に対して賞賛を贈っています。
 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており」、労苦・忍耐とは「迫害」、行いとは「キリストに対する奉仕」、それらを知っていると言うのです。7つの教会を回り、その業を知っていてくださるのです。
 今の時代、迫害はありません。すこし生ぬるくなっていると思います。しかし当時は苦しみの中で忍耐しておりました。「苦しみは、人の生活に色彩を添える。苦しみは、深みをもたらす」。パウロは「苦しみを喜びとする」とすら言いました。苦しいということは辛いことかもしれませんが、そのことにより、エフェソの教会は信仰が深められ、強くされたのです。
 エフェソの教会に、もう一つ誉められることがありました。それは「偽物と本物が見分けられたこと」です。イエス・キリストの福音の本質を守る戦いを、この教会はしていたのです。

このように、エフェソの教会は賞賛に値することもありましたが、そうでないこともありました。教会とは、パーフェクトなものを持っているわけではないのです。4節「初めのころの愛から離れてしまった」と言われます。
 「愛」とは「キリストを愛する愛」と「隣人愛」の二つを一つのものとして考えるのです。「キリストを愛する愛」とは、自分が罪赦され、こんなちっぽけな者でも生きて良いとしてくださるキリストの愛であり、そこから離れてしまった(落ちた)と言われることは、大変ショックなことです。
 I am thinking of you(あなたのことを想っている)。私どもは、神に期待しなくなったらおしまいです。私どもは何かをいつも神に期待し、神に期待されているということから離れてしまっては、どんなに良いこと、業をしても、ただの業でしかないのです。

「初めのころの愛に立ち戻れ」、そこで3つのことが語られます。
 1「どこから落ちたかを思い起こせ」。迫害のみに集中し、キリストを置き去りにしてしまったのです。ですから、初めの愛に帰りなさいとは、十字架の愛に立ち返ることです。「本物を見続けていれば偽物がわかる」のですから、常に本物を見ていなければならない。そうでないと偽物に引きずられてしまうのです。
 2「悔い改めなさい」。自分の生き方を方向転換しなさいということです。神様との結び付きをいつも確認し、時に立ち止まり自分の奥底を見ることです。ただただ時間に追われる現代においては、ちょっと立ち止まり退くことで、悔い改めに導かれるのではないでしょうか。
 3「初めのころの行いに心を向ける」。十字架による罪の赦しにいつも心を向けていることです。ほんの小さな「ずれ」でも、とんでもないところに行ってしまうのです。

そして「警告」がなされます。「悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と。それは教会が教会でなくなることです。教会はキリストのご支配のうちにあるもの。人の思いであるのではありません。

最後に「大きな約束」が告げられております。「勝利を得る者には神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」、それは永遠に生きるということ、それは肉体は滅びても、神との関係は不滅であることの約束なのです。

人の誉れは受けない」 9月第4主日礼拝 2007年9月23日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章41〜47節

5章<41節>わたしは、人からの誉れは受けない。<42節>しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。<43節>わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。<44節>互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。<45節>わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。<46節>あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。<47節>しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

41節、主イエスは「人からの誉れは受けない」と言われました。父なる神が主イエスに誉れをくださるのです。神が証しし神が誉れをくださるので、主イエスに人からの誉れは必要ないのです。
 人は、自分を証ししてくれる人、誉めてくれる人を求めます。しかし真実な誉れは神からのみ与えられるのだということを覚えたいと思います。人は、どのようなことで誉れを受けたいでしょうか。「優れている」ということで誉れを求めるのです。しかしどんなに優れていても、それは消え失せるもの、一時的なものに過ぎません。では、人は神からの誉れを頂くことができるのかと問えば、本来誉れを頂くには程遠い存在です。
 誉れを受けるとはどういうことでしょうか。「誉れ」は「栄光」ということです。主イエスの栄光とは「十字架、復活」「召天、聖霊の降臨」を意味します。神からの誉れは「十字架、復活」において表され、主イエスは「救い主」としての栄光を示されるのです。主イエスは「人に君臨する」という形ではなく、「十字架で死なれ、甦られた」ことによって栄光を表されました。それは人の思いを超えたものです。神から聖霊をいただいて初めて知り得ることです。
 人が神から与えられる誉れとは「主イエスの十字架と復活による救いを信じる」ことで与えられる誉れです。どれほど役立つ人間かということで与えられるのではない。ただ神の恵みによって与えられる栄光なのです。神からの恵みの出来事なのです。人は神により、救われた者として証しされるのです。それは天上に通づる誉れであり、永遠に続くのです。忘れ去られ消え去る地上の誉れとは違うのです。
 人の人生は過ぎ行くもの、そして人は他者との関係の中で生きる者です。他者との関わりの中では移ろいざるを得ない、相手が変われば自分も変わるのであって、自分はいつも確かというわけにはいきません。そこで揺るぎなく立つ事が出来るのは「揺るぎなき神に根拠を置くとき」のみです。私どもはどこに属するのか、天に、神に属するのです。そのことに根拠を見い出す時、その人は自分をきちんと位置づけることができます。揺るぎなき方(神)に信頼し自分を預けることができるときに「平安」があるのです。私どもが神から誉れを頂くのは「神をわたしの救い主と信じるとき」なのです。

42節「神を愛する」とは「神が全てとなる」ということです。「神への愛がない」とは、神を思わず自己愛なのであり、十字架と復活の神の恵みが受け入れられないことです。主イエスは「十字架の死」によって神への全き従順を示されました。その「十字架」と「復活」こそ、神の愛そのものです。

43節「自分の名によって来る」とは、ユダヤ人を念頭において語られているのであって、厳格に律法を守っていると自他共に思っているということです。それは、最近の宗教の傾向でもあり律法主義も同じですが、「もっと、もっと」と信仰を数値化して行いの量によってレベルアップを求める姿です。信仰とは、神からの溢れる恵みに満たされることなのであって、信仰は量をもって測るものではありません。この身のすべてが神に向かっているかどうかなのです。量をもって測るとは「功績主義」です。どれだけ「やったか、やれたか」ということで自らを義としようとする功績主義。信仰の恵みとは、そのような自らにこだわる生き方、閉塞感からの解放・自由なのです。神の恵みに委ねることにより、神の恵みのうちに生かされている中にあってこそ、人は自らを失わずに生きることができるのです。

45節、主イエスは訴える者ではなく、赦す者、和らぎとしてこの世に来られました。律法こそ裁くものなのです。律法を頼りにしているが、その律法が人を行き詰まらせているのです。
 自分自身を行き詰まらせ、苦しめるのは自分自身に他なりません。人は苦しみに耐えられないから他人に当たりちらし責任転嫁するのです。そのような自らのあり方が自分自身を裁くことになるのだということです。
 律法主義、律法厳守は「こだわり」なのです。それは日本人の信仰観に通づるものがあります。自らの生き方にこだわり、自らへの執着、そのこだわりを美しいとする生き方です。しかしそのような自らへの執着は、やがて行き詰まり、開き直りになってしまう、それが私どもの現実なのです。生活の全てにおいて、こだわればこだわるほど、自分自身を受け止められなくなるのです。

そのような私どものために、主イエスは十字架についてくださいました。「十字架と復活の主イエスを見上げる」、そこでこそ、私どもは解き放たれるのです。がんじがらめの中から解き放たれるのです。

信仰は、神の恵みにより覆い尽くされているということです。自らのこだわり・執着から解き放たれ、神の恵みに生きるということです。

人々に分け与える」 9月第5主日礼拝 2007年9月30日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章1〜15節

6章<1節>その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。<2節>大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。<3節>イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。<4節>ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。<5節>イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、<6節>こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。<7節>フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。<8節>弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。<9節>「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」<10節>イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。<11節>さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。<12節>人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。<13節>集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。<14節>そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。<15節>イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

1節「その後」と始まります。5章の「主イエスが父なる神の子としておいでになったのに、それを人々は受け入れなかった」ことを受けて続くのです。「主イエスを受け入れない=主イエスを信じることができない」人々(ユダヤ人)から、主イエスは少し距離をとって、祈るため、向こう岸に、そして山へ行かれました。

「向こう岸」とは「異邦人の地」を示す言葉です。「ユダヤ人の拒否」の出来事から、主イエスの福音が異邦人にも広げられていくことを意味すると考えれば「拒否もまた良し」と言えます。しかし、拒否にもかかわらず、2節「大勢の群衆が後を追った」ということですから「異邦人の地」でないとも考えられます(ユダヤ人が異邦人の地に立ち入ることは決してないので)。群衆は「しるし=癒し」を求めて追ってきました。しかし「癒し」は主イエスをメシアであることを「しるしづける」ことであり、それ自体が目的なのではありません。主イエスは癒すためでなく、救うために来られました。なのに人々は「主イエスを救い主として信じることは出来ない、けれど、癒しを求めて」追って来るのです。そんな者たちを、しかし主イエスは切り捨てることなく受け入れてくださいました。麗しいことです。自らの思いによっては信じきれない者にも、望みが与えられているのです。「自分を拒む者を受け入れる」ことは、主イエスこその御業です。向こう岸がどこであったとしても、主の恵み深さを味わったらよいのです。

3節、主イエスは山での祈りの場に弟子たちを同席させておられます。主イエスと父なる神との親しい交わりの中に、弟子たちを入れてくださるのです。私ども人間は罪によって神との深い断絶の中にあるにも拘らず、このように主イエスが共にあってくださるからこそ、神との緊密な祈りの交わりの中に入れていただくことができるのです。

4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。わざわざ「ユダヤ人の祭り」と解説していることにより、ヨハネによる福音書が読まれた対象が、ユダヤ人でなく異邦人を中心とした教会であったことを示しております。そして、なぜこのことを記す必要があるのかと言えば、それはヨハネによる福音書が、この「5千人の給食の出来事」は過越の食事にかかわることなのだということを印象づけたいからです。

5節「フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」とあります。このように主イエスからの問いかけが記されているのは、ヨハネによる福音書だけです。「どこでパンを買えばよいだろうか」とは、正確には「どこから買ってくればよいか」という意味なのであり、すなわち主イエスは「命のパンはどこからくるのか?」と問うておられるのです。「パンは人からくるのではない」、そのことを自覚させるために主イエスは問われるのです。

そして11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。「感謝の祈りをもって分け与える」この食事の出来事は、明らかに神の恵みの「聖餐」を示しております。10節「人々を座らせなさい」と主イエスは言われ、緑の草に人々は座ります。主の恵みの聖餐にあずかる群として集められているのです。

「過越」とは出エジプトにおいて、鴨居に塗られた子羊の血によって、初子が打たれるという災いを「過ぎ越した」神の救いの出来事です。この「5千人の給食(聖餐)」の記事は、主イエスの十字架の前ではありますが、過越、つまり主イエスが自分の命をもって罪を贖われることを暗示しております。「聖餐」は「全ての者の罪の贖い」、聖餐(主イエスの食卓)はすなわち「救い」なのです。
 聖餐はまた、主イエスの復活により永遠の命を受け継ぐ者としての希望が与えられることを示しており、終りの日の神との交わりの食卓に、約束として、私どもが既に与っていることをも示しております。

13節「十二の籠がいっぱいになった」、そこで恵みが満ちあふれたのです。

14、15節、主イエスは「預言者」と言われることによって、政治的な王と誤解されることを避けるために、再び山に退かれました。

私どもの勝手な思いでメシア(救い主)を思い描くのではなく、主イエスが私どもの罪の贖いのために来られたメシア(救い主)であることを深く覚え、ただ神の御子・主イエスにすがり、罪赦されて生きることを味わい知る者でありたいと思います。