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今日は、先週の続きで37節後半からです。 38節はユダヤ人には聞き捨てならない言葉です。ユダヤ人が聖書の言葉を覚えていないということはないからです。「自分の内に父のお言葉をとどめていない」とは、ユダヤ人が神の言葉を聞いていながら、主イエス(御子)を信じないからだというのです。それは、39節後半にあるように「聖書は主イエス・キリストを証しするもの」だからです。好んで御言葉を覚えても、主イエス・キリストを信じなければ、御言葉を受け止めてはいない、御言葉が自分の内にとどまっていないのです。 「主イエスを信ずる」そこに聖霊が働くとき、私どもが知ることは、「十字架の主イエスそこに救いがある、復活の主イエスそこに救いがある」ということです。主イエスは私どもの罪のために死に、私どもの罪を贖い、神との和解を与え、もはや決して失われることのない神との永遠の交わりを与えてくださいました。信ずるところで「罪の赦し、神との交わり、永遠の命」が与えられるのです。 40節「わたしのところへ来ようとしない」、ここで示されていることは「あなたたちは命を得るために私のもとに来なさい」との、主イエスの招きの言葉であることを覚えたいと思います。 |
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人間は根本的にはどういう状態におかれているのでしょうか。 今日の聖書箇所である創世記3章では、人間というのは楽園にいる存在ではなく「楽園を追われた存在」であると記されています。楽園を追われる状態に置かれることは、だれもが経験することです。辛いことがあるのは誰も免れられません。理解しがたい悲惨な状況に直面することもあります。また、人間同士の対立もあります。これらはまさしく楽園から追われた姿であります。今、地球上の争いはどうでしょうか。イラン、パレスチナ、東チモール、アイルランド、キプロス、スーダン、チベット、スリランカ等々争いは絶えません。この状況に、まさしく人類が楽園を追われたことを見ることができます。 この楽園追放の問題がどう解決されるのか、これは人間生活の根本問題であります。楽園を追われた理由は何でしょうか。それは「人間の根源にあるゆがみ」は「神に対する反逆」にあるということです。自分はまるで神であるかのように振る舞い、自分が神の被造物であることを受け入れないのであります。これこそ罪の姿です。この創世記の記述は人間の根源を語っており、楽園を追われた状態、今の社会にある私どももその状態にあるのです。 では、このような現実の中で人間はどのように生きられるのでしょうか。アダムは楽園追放の直前に、共に生きる者である女に「エバ」という名前を付けたとあります。その名の意味は「命」と言う意味です。これは「生きる」という言葉と音が似ているという説があり、同時に、主がシモンにペトロ(岩=教会)と名付けたように、聖書において人に名を付けることは信仰を表しています。名付けた者の思い、信仰が表されるのです。このことは楽園追放の中においても人間(アダム)が「命を肯定した」ことを示しています。そのことを神に許されたのであります。生きて良いと。労苦を負って生きて良いと。命を生きることの素晴らしさを「生きて良い」とされたのであります。このように「エバ」との名付けの中に、楽園追放を生きる人間の信仰が表されているのです。 「命あるものの母」とあります。これは、楽園追放の記事の中で、神が命を守ってくださっていることを示し、産みの苦しみを与えたという意味では、言い難い労苦も肯定したということであります。 21節「主なる神」とあります。この「主」は、神聖4文字「YHWH」で表され、十戒の、みだりに唱えてはならない「神の名」であります。「主」と神の名を呼んでいる、これこそ「主なる神」を信じる信仰が表されております。 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。ここでの「作る」は、神が天と地を創造されたの「創る」とは異なる言葉です。天地創造の「創る」は誰にも真似のできない、ただ神のみの行為ですが、ここでの「作る」は人間が真似ることの出来る「作る」、つまり手作業の「作る」という意味であり、神が手ずから作ってくださいました。母・人が、神に真似てできることとして、命を守るために衣を作ってくださったのです。このように、神の愛には、母の愛、人間の愛の起源があります。 楽園追放は「命の木」に人間が手を出さないために行われました。もし、罪のまま、命の木の実を食べたらどうなるでしょうか。命の木の実を食べることは「永遠に生きる者となる」ことです。ですから、人間は心がゆがんだまま、争い続けながら、永遠に生きることになるでしょう。これでは何の救いにもなりません。ですから楽園追放は、人間が争うことを継続させない、罪を継続させないための、神の守りでもあったのです。 さて、この「命の木」については、聖書の最後に出てきます。ヨハネの黙示録22章1節〜5節、神の国の到来の時、「命の木」が出てくるのです。ここに「命の木の実は諸国の民の病を治す」とあります。神の国の完成の中に「命の木」があるのです。また、そこには「神と小羊の玉座」があったとあります。小羊とは主イエス・キリストのことです。贖いのために捧げられた小羊としての主イエスがいらっしゃるのです。 神は、私どもに皮の衣を作って着せてくださり、命を肯定してくださり、主イエスの贖いにより神との和解を打ち立ててくださいました。不信仰な者であるにもかかわらず、信じる者としてくださったのです。 |
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ヨハネの黙示録は新約聖書の最後に記されています。そして目立つことは、怪物が出てきたり、違った世界を描いていたり、数字が多かったりということです。たとえば「666」という数字はは皇帝ネロを表している暗号のようなものです。 今日の箇所は、7つの教会に宛てた手紙の最初の手紙で、エフェソの教会に宛てた手紙です。エフェソは都会的雰囲気の教会でした。イエスの母マリアも出入りしたと言われています。 この手紙では、最初にエフェソの教会に対して賞賛を贈っています。 このように、エフェソの教会は賞賛に値することもありましたが、そうでないこともありました。教会とは、パーフェクトなものを持っているわけではないのです。4節「初めのころの愛から離れてしまった」と言われます。 「初めのころの愛に立ち戻れ」、そこで3つのことが語られます。 そして「警告」がなされます。「悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と。それは教会が教会でなくなることです。教会はキリストのご支配のうちにあるもの。人の思いであるのではありません。 最後に「大きな約束」が告げられております。「勝利を得る者には神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」、それは永遠に生きるということ、それは肉体は滅びても、神との関係は不滅であることの約束なのです。 |
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41節、主イエスは「人からの誉れは受けない」と言われました。父なる神が主イエスに誉れをくださるのです。神が証しし神が誉れをくださるので、主イエスに人からの誉れは必要ないのです。 42節「神を愛する」とは「神が全てとなる」ということです。「神への愛がない」とは、神を思わず自己愛なのであり、十字架と復活の神の恵みが受け入れられないことです。主イエスは「十字架の死」によって神への全き従順を示されました。その「十字架」と「復活」こそ、神の愛そのものです。 43節「自分の名によって来る」とは、ユダヤ人を念頭において語られているのであって、厳格に律法を守っていると自他共に思っているということです。それは、最近の宗教の傾向でもあり律法主義も同じですが、「もっと、もっと」と信仰を数値化して行いの量によってレベルアップを求める姿です。信仰とは、神からの溢れる恵みに満たされることなのであって、信仰は量をもって測るものではありません。この身のすべてが神に向かっているかどうかなのです。量をもって測るとは「功績主義」です。どれだけ「やったか、やれたか」ということで自らを義としようとする功績主義。信仰の恵みとは、そのような自らにこだわる生き方、閉塞感からの解放・自由なのです。神の恵みに委ねることにより、神の恵みのうちに生かされている中にあってこそ、人は自らを失わずに生きることができるのです。 45節、主イエスは訴える者ではなく、赦す者、和らぎとしてこの世に来られました。律法こそ裁くものなのです。律法を頼りにしているが、その律法が人を行き詰まらせているのです。 そのような私どものために、主イエスは十字架についてくださいました。「十字架と復活の主イエスを見上げる」、そこでこそ、私どもは解き放たれるのです。がんじがらめの中から解き放たれるのです。 信仰は、神の恵みにより覆い尽くされているということです。自らのこだわり・執着から解き放たれ、神の恵みに生きるということです。 |
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1節「その後」と始まります。5章の「主イエスが父なる神の子としておいでになったのに、それを人々は受け入れなかった」ことを受けて続くのです。「主イエスを受け入れない=主イエスを信じることができない」人々(ユダヤ人)から、主イエスは少し距離をとって、祈るため、向こう岸に、そして山へ行かれました。 「向こう岸」とは「異邦人の地」を示す言葉です。「ユダヤ人の拒否」の出来事から、主イエスの福音が異邦人にも広げられていくことを意味すると考えれば「拒否もまた良し」と言えます。しかし、拒否にもかかわらず、2節「大勢の群衆が後を追った」ということですから「異邦人の地」でないとも考えられます(ユダヤ人が異邦人の地に立ち入ることは決してないので)。群衆は「しるし=癒し」を求めて追ってきました。しかし「癒し」は主イエスをメシアであることを「しるしづける」ことであり、それ自体が目的なのではありません。主イエスは癒すためでなく、救うために来られました。なのに人々は「主イエスを救い主として信じることは出来ない、けれど、癒しを求めて」追って来るのです。そんな者たちを、しかし主イエスは切り捨てることなく受け入れてくださいました。麗しいことです。自らの思いによっては信じきれない者にも、望みが与えられているのです。「自分を拒む者を受け入れる」ことは、主イエスこその御業です。向こう岸がどこであったとしても、主の恵み深さを味わったらよいのです。 3節、主イエスは山での祈りの場に弟子たちを同席させておられます。主イエスと父なる神との親しい交わりの中に、弟子たちを入れてくださるのです。私ども人間は罪によって神との深い断絶の中にあるにも拘らず、このように主イエスが共にあってくださるからこそ、神との緊密な祈りの交わりの中に入れていただくことができるのです。 4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。わざわざ「ユダヤ人の祭り」と解説していることにより、ヨハネによる福音書が読まれた対象が、ユダヤ人でなく異邦人を中心とした教会であったことを示しております。そして、なぜこのことを記す必要があるのかと言えば、それはヨハネによる福音書が、この「5千人の給食の出来事」は過越の食事にかかわることなのだということを印象づけたいからです。 5節「フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」とあります。このように主イエスからの問いかけが記されているのは、ヨハネによる福音書だけです。「どこでパンを買えばよいだろうか」とは、正確には「どこから買ってくればよいか」という意味なのであり、すなわち主イエスは「命のパンはどこからくるのか?」と問うておられるのです。「パンは人からくるのではない」、そのことを自覚させるために主イエスは問われるのです。 そして11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。「感謝の祈りをもって分け与える」この食事の出来事は、明らかに神の恵みの「聖餐」を示しております。10節「人々を座らせなさい」と主イエスは言われ、緑の草に人々は座ります。主の恵みの聖餐にあずかる群として集められているのです。 「過越」とは出エジプトにおいて、鴨居に塗られた子羊の血によって、初子が打たれるという災いを「過ぎ越した」神の救いの出来事です。この「5千人の給食(聖餐)」の記事は、主イエスの十字架の前ではありますが、過越、つまり主イエスが自分の命をもって罪を贖われることを暗示しております。「聖餐」は「全ての者の罪の贖い」、聖餐(主イエスの食卓)はすなわち「救い」なのです。 13節「十二の籠がいっぱいになった」、そこで恵みが満ちあふれたのです。 14、15節、主イエスは「預言者」と言われることによって、政治的な王と誤解されることを避けるために、再び山に退かれました。 私どもの勝手な思いでメシア(救い主)を思い描くのではなく、主イエスが私どもの罪の贖いのために来られたメシア(救い主)であることを深く覚え、ただ神の御子・主イエスにすがり、罪赦されて生きることを味わい知る者でありたいと思います。 |
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