|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
今日は21節〜25節までとしたいと思います。 20節の「父が子に示された驚くべき業」とは「死者の復活」です。人には決してなし得ないことであり、それは本来、父なる神にしかできない業です。その業をなす力を、父なる神は御子キリストにお与えになりました。 21節「子も、与えたいと思う者に命を与える」。「永遠の命」は与えられるものなのであって、自らの力で獲得するものではありません。人間の側の働きによらない、ただ主イエスの御心によるのです。 22節に「裁き」が語られますが、これは「永遠の命」と対の出来事として、父なる神はその一切を御子に任せておられます。御父はその全権(権能)を御子キリストに託しておられる。ですから、主イエスは神の力(全権)を託された、神と等しい方として、私どもに臨んでくださる。私どもは、主イエス・キリストを通して神と出会うことが許されているのです。 「永遠の命」と「裁き」の権能は、23節「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」に与えられています。 「裁き」ということについて、ヨハネによる福音書では厳しく示されております。3章18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と記されておりますが、「裁き」とは罪を断罪することなのではなく、滅びの中に既にあるということなのです。「裁き」とは、孤独なままに放置されることです。すなわち、信じることは救い(永遠の命に与ること)ですが、信じないことは裁き(死=永遠の命に与れない)なのです。 23節に「神を敬い、子を敬う」とありますが、「敬う」とは「礼拝すること、神を神として尊ぶこと」です。このことが「救いと裁き」を通して覚えられるべきことです。私どもの心の平安のために神が在るのではありません。「神を敬う、誉め讃える」ために、私どもが在るのです。これは神の創造の御業に通じることです。人が創られたのは何故か、神を賛美するためなのです。従って、本来のあり方を生きること、それが「救い」なのです。主イエスをキリスト(神の御子)として礼拝する、それが「子を敬う」ことです。 24節は21節を受けている言葉であり、21節の内容を言い換えております。「主イエスを信じる者には復活の命である『永遠の命』が与えられる」と示されております。地上の命は死をもって終わるものです。しかし主イエスの復活により、死の力は破られ、もはや死の支配を受けることはありません。主イエスを信じるとき、私どもは死を超えた命を生きる者として、神との尽きない交わりのうちに生きるのです。 「信じる」というとき、そこに錯覚があります。「信じる」ことの主体は「わたし」ではないのです。「与えたいと思う者に命を与える」とあるように、私どもは、ただ、主イエスの御心によって救いに与る者なのです。「信じる」ことすらも自分が主体となるほどに、私どもは危うい者です。主イエスこそ「私どもの救いの主体」であることを覚えたいと思います。 「主イエスのみ言葉を聞いて信じる」とはどういうことでしょうか。プロテスタント教会においては「信仰義認」ということが言われます。すなわち「信仰によって義とされる=神との交わりに入れられる」のであり、「信仰によって」とは「神の恵みによって」と言い換えることができるのです。人が信仰に至るのは、神の恵みが先立ってあるのだということを覚えたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
25節「はっきり言っておく」と宣言されます。主イエスが自ら「神の子」と言い表しているのです。それは、主イエスが神より全権を委ねられた神と等しい者として、私どもに臨んでいてくださることを示しております。 「死んだ者」とは誰か。この世の生涯を終えた者については、28節以下で語られております。「死んだ者」とは「今この世に生きている者」のことです。神により頼まず、自力で生きている者全てを指すのです。神との交わりを見い出さない者、失っている者のことです。 「神の声を聞く」とは、「告知(宣言)を受ける」ということです。すべて神を信ずる者が、神の子の「あなたは生きる。あなたは罪赦された、永遠の命をいただいている」との宣言を聞くことです。その宣言は、教会に、主より託された権能であります。教会で洗礼、説教・聖餐に与ることは、「救いの宣言」を受けていることです。 礼拝ごとに、私どもは「神の子の声」を聞くのです。救いの宣言は「神の子・主イエス」を信じる者に与えられております。終りの日の救いを既に与えられているという恵みの出来事に与る、それが礼拝に集うことの意味なのです。 私どもが地上の生涯を終えるときに覚えたいこと、それは「死を超えて既に今、永遠の命、救いの恵みを与えられている」ということです。この世の終わりをもって終わるのではない、地上の死を迎える前に、既に、終りの日の救いの出来事に与っているのです。ですから、もはや死を恐れる必要はないのです。 26節、ここで更に主は言われます。神にある永遠の命を主イエスも持っておられるのです。 26節まで「神の子」と言われていた言葉は、27節から「人の子」と言われます。「神の子」は「罪の赦しの宣言」にかかわり、「人の子」は「裁きを行う権能」にかかわるのです。29節に言われる「裁き」は審判ですが、27節の「裁き」は「分割」という言葉が元で、「分ける」という意味です。「救い」と「滅び」に分けられるのです。主イエス・キリストの到来によって起こったこと、それは、ある者は救いへ、ある者は滅びへと、自ずと分けられるということです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
弟子たちは主イエスを知っている者たちです。しかし41節にあるように、主イエスの御業に恐れををいだき、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言うのです。それが私どもの現実でしょう。「この方はどなたなのか」と毎日思わされるのではないでしょうか。弟子たちのこの問いを通し、私どもは改めて「まさしく主イエスこそキリストである」と確信し、キリストへと向き直させられるのです。私どもは、どこまでも主に受け入れられているという事実を忘れてはなりません。受け入れられているからこそ、信仰が与えられているのです。 湖のほとりで教えておられた主イエスは、おびただしい群衆のため、沖を離れて舟の上で語られました。舟は教会を象徴します。 35節「その日の夕方になって…」と始まります。向こう岸に渡ろうと沖の方に漕ぎ出します。夕方に舟を漕ぐことはあまりしないことであり、弟子達は不安でした。しかし、主イエス御自身も乗っておられるのです。弟子だけではありません。主イエスを乗せた舟=教会には、主イエスが共にいてくださるのです。 38節「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」というのです。艫とは、舟の後方であり、舵のあるところです。主イエスが行き先を決定し、舵取りをなさっているということです。目的地に向かっているのです。それはどこでしょうか。神の国です。主イエスの舵とりであれば、神の国に確実に到達できるのだという確信を示しているのです。主イエスは嵐の中で、どうして眠っていることができたのでしょうか。それは舵取りに何の心配も無いことを示しております。どんな嵐であろうと平安であることを、確かさは揺るぎないことを示しているのです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
「証し」とは、「主イエスがキリスト(救い主)である」ことを告げることです。 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言われておりますが、それは「主イエスが真実ではない」ということなのではなく、主イエスは自称する必要はない、人の証言を必要としないということです。 32節「主イエスについて証しする方は神」です。神ご自身の証しであるが故に、その証しは真実なのです。神は根源、究極であられる方です。人の証言は、それが確かかどうか問わなければならないものですが、神にはその必要はありません。 33節には、バプテスマのヨハネの証しについて語られております。「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」とありますが、人はバプテスマのヨハネの証しによっては信じるに至れなかったのです。 36節、主イエスの行われる業、それこそが「主イエスがキリストであること」の証しだというのです。それは癒し・奇跡を示しますが、究極的には「主イエスの十字架の贖いと復活」を示すのです。私どもはただ「主イエスの十字架の贖いと復活」により、キリストのものとされる恵みを知るに至るのです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||