聖書のみことば/2007.8
2007年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
永遠の命」 8月第1主日礼拝 2007年8月5日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章19〜30節

5章<19節>そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。<20節>父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。<21節>すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。<22節>また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。<23節>すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。<24節>はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。<25節>はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。<26節>父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。<27節>また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。<28節>驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、<29節>善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。<30節>わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

今日は21節〜25節までとしたいと思います。

20節の「父が子に示された驚くべき業」とは「死者の復活」です。人には決してなし得ないことであり、それは本来、父なる神にしかできない業です。その業をなす力を、父なる神は御子キリストにお与えになりました。

21節「子も、与えたいと思う者に命を与える」。「永遠の命」は与えられるものなのであって、自らの力で獲得するものではありません。人間の側の働きによらない、ただ主イエスの御心によるのです。

22節に「裁き」が語られますが、これは「永遠の命」と対の出来事として、父なる神はその一切を御子に任せておられます。御父はその全権(権能)を御子キリストに託しておられる。ですから、主イエスは神の力(全権)を託された、神と等しい方として、私どもに臨んでくださる。私どもは、主イエス・キリストを通して神と出会うことが許されているのです。

「永遠の命」と「裁き」の権能は、23節「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」に与えられています。

「裁き」ということについて、ヨハネによる福音書では厳しく示されております。3章18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と記されておりますが、「裁き」とは罪を断罪することなのではなく、滅びの中に既にあるということなのです。「裁き」とは、孤独なままに放置されることです。すなわち、信じることは救い(永遠の命に与ること)ですが、信じないことは裁き(死=永遠の命に与れない)なのです。
 「永遠の命」は、主イエスの十字架と復活によって与えられました。罪が贖なわれ罪が終わる、もはや死を見ない、神との永遠の交わりをいただくのです。
 聖書における「死」とは、神との交わりを失っている状態を意味します。神との交わりの中にあるからこそ、人はいきいきと生きるのです。
 私どもは、幸いなことに、御子イエス・キリストを信じることによって救われるのであり、救いの道は既に開かれているのです。

23節に「神を敬い、子を敬う」とありますが、「敬う」とは「礼拝すること、神を神として尊ぶこと」です。このことが「救いと裁き」を通して覚えられるべきことです。私どもの心の平安のために神が在るのではありません。「神を敬う、誉め讃える」ために、私どもが在るのです。これは神の創造の御業に通じることです。人が創られたのは何故か、神を賛美するためなのです。従って、本来のあり方を生きること、それが「救い」なのです。主イエスをキリスト(神の御子)として礼拝する、それが「子を敬う」ことです。

24節は21節を受けている言葉であり、21節の内容を言い換えております。「主イエスを信じる者には復活の命である『永遠の命』が与えられる」と示されております。地上の命は死をもって終わるものです。しかし主イエスの復活により、死の力は破られ、もはや死の支配を受けることはありません。主イエスを信じるとき、私どもは死を超えた命を生きる者として、神との尽きない交わりのうちに生きるのです。

「信じる」というとき、そこに錯覚があります。「信じる」ことの主体は「わたし」ではないのです。「与えたいと思う者に命を与える」とあるように、私どもは、ただ、主イエスの御心によって救いに与る者なのです。「信じる」ことすらも自分が主体となるほどに、私どもは危うい者です。主イエスこそ「私どもの救いの主体」であることを覚えたいと思います。

「主イエスのみ言葉を聞いて信じる」とはどういうことでしょうか。プロテスタント教会においては「信仰義認」ということが言われます。すなわち「信仰によって義とされる=神との交わりに入れられる」のであり、「信仰によって」とは「神の恵みによって」と言い換えることができるのです。人が信仰に至るのは、神の恵みが先立ってあるのだということを覚えたいと思います。
 神の恵みに応える「恵みへの応答」として、「信仰」があるのです。恵みを知ることによって初めて、信じることが起こるのです。そのことが、今日のこの箇所に言われていることの内容でもあります。
 続きは次週といたします。

神の子の声を聞く」 8月第2主日礼拝 2007年8月12日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章25〜30節

5章<25節>はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。<26節>父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。<27節>また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。<28節>驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、<29節>善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。<30節>わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

25節「はっきり言っておく」と宣言されます。主イエスが自ら「神の子」と言い表しているのです。それは、主イエスが神より全権を委ねられた神と等しい者として、私どもに臨んでいてくださることを示しております。
 「死んだ者が神の声を聞く」とは「再臨の時」を思い起こさせる言葉ですが、ここでは再臨のことを言っておりません。なぜなら「今やその時」と言っているからです。終末とは、今とは何なのか。終末を含んで「今この時」なのです。
 ユダヤ人にとって神の国の到来は終末が来たことを意味しておりました。神の国とは、神の支配が全てとなるところです。主イエス・キリストが地上においでくださったことにより終末は始まった、終末は既に来ている、ということを示しております。私どもと主イエスとでは終末観、時間・空間の概念が違うのです。私どもは時間を曲げることも変えることも出来ない、私どもは時間・空間に支配される者です。時間・空間は神に支配されているのです。「本来終末に起こることが、既に今ここにある」と主イエスはおっしゃるのです。神は時間や空間に支配されていません。このことは大事です。 今この時点ですべての時間を見ることが出来る。主イエスは時空を超え、終末と今を一つにすることのおできになる方です。この礼拝の出来事においても、時空を超えて主の臨在に与っているのです。
 主を信ずるということは終りの日の救いに「既に与っていること」だと、ヨハネによる福音書では強調しております。これからやってくる救いではない。救いを先取りして既にいただいているのです。

「死んだ者」とは誰か。この世の生涯を終えた者については、28節以下で語られております。「死んだ者」とは「今この世に生きている者」のことです。神により頼まず、自力で生きている者全てを指すのです。神との交わりを見い出さない者、失っている者のことです。
 時間に追われるということは自分が主体になっていない、時間が主体になっているのです。そのように束縛されて生きていることは、本当に生きていることにならない、神との交わりを失っているのです。

「神の声を聞く」とは、「告知(宣言)を受ける」ということです。すべて神を信ずる者が、神の子の「あなたは生きる。あなたは罪赦された、永遠の命をいただいている」との宣言を聞くことです。その宣言は、教会に、主より託された権能であります。教会で洗礼、説教・聖餐に与ることは、「救いの宣言」を受けていることです。 礼拝ごとに、私どもは「神の子の声」を聞くのです。救いの宣言は「神の子・主イエス」を信じる者に与えられております。終りの日の救いを既に与えられているという恵みの出来事に与る、それが礼拝に集うことの意味なのです。

私どもが地上の生涯を終えるときに覚えたいこと、それは「死を超えて既に今、永遠の命、救いの恵みを与えられている」ということです。この世の終わりをもって終わるのではない、地上の死を迎える前に、既に、終りの日の救いの出来事に与っているのです。ですから、もはや死を恐れる必要はないのです。

26節、ここで更に主は言われます。神にある永遠の命を主イエスも持っておられるのです。

26節まで「神の子」と言われていた言葉は、27節から「人の子」と言われます。「神の子」は「罪の赦しの宣言」にかかわり、「人の子」は「裁きを行う権能」にかかわるのです。29節に言われる「裁き」は審判ですが、27節の「裁き」は「分割」という言葉が元で、「分ける」という意味です。「救い」と「滅び」に分けられるのです。主イエス・キリストの到来によって起こったこと、それは、ある者は救いへ、ある者は滅びへと、自ずと分けられるということです。
 では、滅びへと分けられた者に救いはないのでしょうか。そうではありません。今この時も、主イエスは私どもに「救いの宣言」をしてくださっているのです。ですから、今、その主の宣言を受けるかどうかが大事なのです。私どもが「信じるかどうか」です。
 ヨハネによる福音書は「今」を強調しております。「今、信じるか」が問われているのです。主イエスが「今やその時、今ここに」と言ってくださることの恵みを覚えたいと思います。今こそ信じるべき時なのです。

突風を静める」 8月第3主日礼拝 2007年8月19日 
北村 誠 神学生(聴者/清藤)
聖書/マルコによる福音書 第4章35〜41節

4章<35節>その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。<36節>そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。<37節>激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。<38節>しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。<39節>イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。<40節>イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」<41節>弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

弟子たちは主イエスを知っている者たちです。しかし41節にあるように、主イエスの御業に恐れををいだき、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言うのです。それが私どもの現実でしょう。「この方はどなたなのか」と毎日思わされるのではないでしょうか。弟子たちのこの問いを通し、私どもは改めて「まさしく主イエスこそキリストである」と確信し、キリストへと向き直させられるのです。私どもは、どこまでも主に受け入れられているという事実を忘れてはなりません。受け入れられているからこそ、信仰が与えられているのです。

湖のほとりで教えておられた主イエスは、おびただしい群衆のため、沖を離れて舟の上で語られました。舟は教会を象徴します。
 主イエスは多くの「たとえ話」をされますが、それは天国を、神の国を語っております。今日の箇所も、たとえ話をされた直後の出来事であり、神の国と密接につながりがあるのです。

35節「その日の夕方になって…」と始まります。向こう岸に渡ろうと沖の方に漕ぎ出します。夕方に舟を漕ぐことはあまりしないことであり、弟子達は不安でした。しかし、主イエス御自身も乗っておられるのです。弟子だけではありません。主イエスを乗せた舟=教会には、主イエスが共にいてくださるのです。
 湖・水は、この世の社会・死や混沌を象徴します。教会という舟は、主イエスが共におられるという平安があれば大丈夫なはずなのです。なんの怖れがありましょう。しかし、激しい突風が起こるのです。地理的に言えばこの地域にはあり得ない突風とも言われております。つまり突風は、通常ではない出来事を示しております。激しい荒波に舟はひとたまりもありません。波が荒れ狂い襲いかかるのです。その中で、平安でいることができるでしょうか。

38節「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」というのです。艫とは、舟の後方であり、舵のあるところです。主イエスが行き先を決定し、舵取りをなさっているということです。目的地に向かっているのです。それはどこでしょうか。神の国です。主イエスの舵とりであれば、神の国に確実に到達できるのだという確信を示しているのです。主イエスは嵐の中で、どうして眠っていることができたのでしょうか。それは舵取りに何の心配も無いことを示しております。どんな嵐であろうと平安であることを、確かさは揺るぎないことを示しているのです。
 私どもは、目に見える現実が全てと思ってしまう者です。人間の限界を思わざる得ません。主が導いていてくださるとしても、怖れを感じる現実があるのです。
 目の前の現実に耐えられない弟子たちは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と主イエスに訴えます。「おぼれる」とは「滅ぶ、失う」を意味します。私どもの命が奪われ、教会がなくなってもよいのですか、といことです。なぜ知らない振りをして眠っているのですか、と主を非難するのです。
 私どもは、神にそのような祈りをしないようにしようと努力していると思うのですが、突風を前にしては、そのような自分勝手な祈りが出てくるのではないでしょうか。自分の思いから離れることができない、目の前の現実しか見えない、私どもの罪の現実がつきつけられるのです。
 しかし、そんな私どもに主はお答えくださいます。弟子たちの思いを受け止めてくださり、嵐を静めてくださるのです。主イエスが共にあってくだされば、本来「嵐を静める」必要はありません。にもかかわらず、自分自身しか顧みない罪の現実を主イエスは受け入れて下さっているのです。その憐れみを思います。罪赦されている恵みを感じます。私どもは、受け止められた時に自分の罪深さを知るのです。
 出来事だけに目を奪われる私どもです。しかし主イエスは真実に目を向けさせてくださるのです。「この方はどなたなのか」、「主こそキリスト、救い主」であることを知らなければなりません。ただ主イエスの憐れみにより、主へと心が向けさせられ、信仰が与えられるのです。主イエスの贖いに招かれるのです。このことにより、私どもは罪から解放され、恐れは喜びに変えられ、主を礼拝し賛美せざる得ないのです。

父による証」 8月第4主日礼拝 2007年8月26日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章31〜40節

5章<31節>「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。<32節>わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。<33節>あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。<34節>わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。<35節>ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。<36節>しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。<37節>また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。<38節>また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。<39節>あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。<40節>それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

「証し」とは、「主イエスがキリスト(救い主)である」ことを告げることです。
 しかし、自らを「キリスト(救い主)」と言うと、それは怪しいのです。けれども案外、人はそれを信じないわけでもありません。そのように語って、人々を誤らせた人もたくさんおります。
 現代は「確信」を見失っている時代と言えます。ですから、自らを「メシア(救い主)」とする者に、人は案外惑わされるのです。「自分はメシアである」という主張、自らに確信する者になびいてしまう、それほどまでに「確かさ」を必要としている時代なのです。

31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言われておりますが、それは「主イエスが真実ではない」ということなのではなく、主イエスは自称する必要はない、人の証言を必要としないということです。
 人には「真実」がないのです。人には「確かさ」がないので、何か「確かなもの」に惹かれてしまうのだ、ということを覚える必要があります。しかしその「確かなもの」が真実かどうかが問題です。
 現代において、何故このように「不確かさ」がはびこってしまったのでしょうか。それは「共同体性を失ってしまったこと」にあると言えます。共同体性を失うことは基盤を失うことであり、個々人で立つより他なく、結果として不安が蔓延するのです。「確かさ」とは、拠り所を持つことです。共同体形成がなされない限り、この課題を克服することは出来ません。
 「信仰」は個人の心の問題と考えがちですが、そうではありません。「共同体の信仰」がなければ、確かさを持つことは出来ないのです。私どもキリスト者にとって、信仰の共通の基盤=根底にある真実は「主イエスがキリスト(救い主)である」ということです。

32節「主イエスについて証しする方は神」です。神ご自身の証しであるが故に、その証しは真実なのです。神は根源、究極であられる方です。人の証言は、それが確かかどうか問わなければならないものですが、神にはその必要はありません。
 人に確かさはない、ただ神にのみ確かさがあります。ですから不確かに過ぎない人間が確かになるためには、神により頼む以外にないのです。救いは、神によってのみある。信仰とは、自らを確かにすることなのではなく、神に自らの救いの確かさを見ることです。

33節には、バプテスマのヨハネの証しについて語られております。「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」とありますが、人はバプテスマのヨハネの証しによっては信じるに至れなかったのです。
 バプテスマのヨハネの証しは「導きの証し」として、教会の証しに通じます。人は導かれ、それからキリストご自身の言葉が与えられてこそ、救いが起こるのです。救いは聖霊による、すなわち神による恵みの出来事であることを覚えたいと思います。バプテスマのヨハネの、教会の証しは、過渡的な証しなのです。聖霊によって初めて、自らの思いをもって信じるということが起こるのです。

36節、主イエスの行われる業、それこそが「主イエスがキリストであること」の証しだというのです。それは癒し・奇跡を示しますが、究極的には「主イエスの十字架の贖いと復活」を示すのです。私どもはただ「主イエスの十字架の贖いと復活」により、キリストのものとされる恵みを知るに至るのです。
 主イエスがキリスト(救い主)であると知ることは、人の力では出来ないことです。全く神からの証しによって知る、神からの一方的な示しによって知るのです。ただ神の恩寵によってのみ知るのです。信仰とはそういうことです。
 繰り返しますが、信仰は個人の心の問題なのではありません。信仰とは「神の恵みそのものである」ということを覚えたいと思います。