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1節「その後」とは、舞台が転換して、主イエスがエルサレムに行かれたことを強調しています。ここでイエスは、ユダヤ人の祭りを覚えて、子どもの頃からの宗教的な義務習慣を守っておられます。信仰の習慣を守ることは大切なことです。信仰的な感性、信仰心が育くまれるからです。宗教離れの甚だしい昨今ですが、信仰心を持つことを大切にしていかなければなりません。畏敬の心が養われなければ、人は自らを高ぶらせるのです。また、信仰を同じくする営みを持つということは心を一つとすることです。そうでなければ共存・共生という共同体制を失うのであり、それは「孤独=死」でしかなくなるのです。 2節、羊の門の傍らに「ベトザタ」という池があったと記されております。「ベトザタ」とは「恵みの家」という意味があります。病気で苦しんでいる人々がその周りに横たわっている。挫折、あきらめの内にある人々です。生まれつきの病なら尚さらに、世にある不条理、惨めさを感じる人々が横たわっているのです。彼らは「恵みの家」で、救い・恵みを欲しながら、しかし恵みから遠いがゆえにそこにいるのです。 3節b「水が動くのを待っていた」とは、天使が沐浴するのを待っていたのです。天使が水から出るとき、天使の力が水に残り、一番最初に入る者が癒されると考えられていたのでした。彼らは「真先に」「一番に」なることが求められています。競争に勝たなければ癒しの恵みに与れないという、この世の過酷な競争原理が語られている、悲しいできごとです。痛み傷つく者に「なおもっと」努力する者になれと強いている。それがこの世だと考えさせられるのです。 5節、その人は38年も病気で苦しんでいるのです。人生の大半を患って、病のうちに「煩って」過ごしていることを示しています。イエスさまは、この人の長い煩いを知っていてくださいました。主イエスは、その人の抱えている重さ・課題、求めていることを知っていてくださる方です。私どもの思い煩いを知り、見抜いていてくださり、声をかけてくださるお方なのです。 6節、主イエスはあえて、「良くなりたいか」と問うておられます。良くなりたいに決まっているのに、そう問うのです。 この人は「運命」とあきらめている、煩いの現実を受容している、滅びに徹することに身を任せている姿です。じたばたと醜態を見せるのではなく、そこに殉ずるという美しさ、これは日本人の宗教観と共通することです。 自虐的な虚しさを生きるのではなく神のものとされ神と共に生きる、大いなる力(御言葉)をいただいていることを、今、覚えたい。主イエスのみが救い主であってくださることを覚えたいと思います。 |
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38年間寝たきりの人が、主イエスの言葉により立ち上がり、床を担いで歩くことができるようになりました。主イエスの言葉は力であり聖霊が臨むのです。 この癒しの出来事は、人の思いを超えた聖霊の御業なのであり、人の労働と見るのはおかしいのです。まさに神の御業を見たのですから、恵みを言い表すべき、神に栄光あれと言い表すべきでした。ユダヤ人たちは律法の精神から外れたのです。 13節〜、その人は主イエスによって立つことができました。ユダヤ人の「『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」との問いに「しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。 14節、その後、この人は主に出会います。いえ、主イエスが出会ってくださいました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」とは、「癒しは罪のゆるしと一体である」ことを示しています。主の救いをいただいた者として主を信じるのです。「罪を犯すな」とは、主イエスを信じるということです。主イエスを拒むことが罪だということです。主イエスが救い主であることを認めないこと、信じないこと、それは永遠の滅びに定められることです。 時間がなくなりました。続きは次週といたします。 |
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38年間患っていた人は、主イエスに出会い、癒されました。主イエスの方から出会ってくださったのでした。 16節、ユダヤ人はこのことからイエスを迫害し始めました。迫害の理由は「安息日規定・律法違反」をしたということです。18節の「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」の「殺意」と、この「迫害」とは意味が違うのです。迫害は主を律法違反者として排斥することを意味します。ここは行間に説明を必要とする箇所ですが、ユダヤ教が主イエスを信じる者・教会をユダヤ社会から閉め出すことを目的とした言葉だったことを読みとってよいのです。 17節、ここでは「律法違反したのはなぜか?」という問いが隠されており、主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とお答えになっています。神の慈しみに富んだ働きがあるからこそ今がある。一瞬たりとも、全世界は神の働きなくしては存在しない、存在を失ってしまうのです。神が働いていてくださるからこそ、私どもは賛美するのです。 ヤムニア会議で、ユダヤ教はキリスト教を異端としました。異邦人キリスト者が多くなるにつれて律法厳守が重んじられなくなったからです。律法厳守ではなく「ただ恵みによって救われる」ことが第一ということからすれば、ユダヤ教がキリスト教を排斥するのは当然の成り行きでした。 18節、17節の「だから、わたしも働くのだ」という主イエスの言葉が問題となったのでした。主イエスが、御自身を「神と等しい者」としたという「神への冒涜」に対して殺意を抱いたのです。 教会は「主イエスは神そのものだ」と言い表しております。主イエスは今も働いておられることを示しているのです。私どもは「主イエスを誰と告白するか」が問われています。「主イエスを神と等しい者」と告白することが問われている。主イエスを神なる方と認めない、それは滅びなのです。「主イエスこそ神」と認めることによってのみ、神の交わりに入れられていることを覚えたいと思います。 |
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エリコの盲人であったバルティマイの癒しは、マルコによる福音書に記された主イエスの最後の奇跡です。 8章では、ベトサイダで盲人を癒された奇跡が記されていますが、この時には主イエスは盲人の目に唾をつけ両手をで触れ、次第に見えるようになったとあります。しかしバルティマイの癒しでは、主イエスは彼に触れず「何をしてほしいのか」と尋ねるのみであり、また直ちに癒されます。そして、バルティマイは主に従う者となるのです。 ここでは「主イエスに従う」とはどういうことかを示しています。 51節「何をしてほしいのか」その答えは「目が見えるようになりたい」のです。バルティマイは癒され、見えるようになり、そして主に従う者となりました。 このバルティマイに私どもを重ねあわせてみることができます。 私どももまた、バルティマイと同様に、主イエスが歩まれる道の道端に、ただ座っているだけの者です。しかし主イエスは、そんな私どもを招き、道の真ん中に導いてくださるのです。神の一方的な恵みにより、神の者とされていることを覚えたいと思います。 |
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19節「彼らに」とは、前述のユダヤ人です。ユダヤ人は、自らを「神と等しい者」としたイエスを、神を冒涜する者として非難し、イエスに殺意を抱いたのでした。 主イエスの言葉として「はっきり言っておく」と、19節、24節、25節に記されております。これは「アーメン、アーメン…」という言葉で、「まことに、まことに、我汝らに次ぐ」という意味であり、主イエスの宣言の言葉です。自らの弁明のための言葉なのではなく、「宣言」なのです。ですから後は、私どもがその宣言を受け止めるかどうかが問われているのです。 ここで「アーメン」について、少し触れたいと思います。「アーメン」は祈りのときや讃美歌の後に言われる言葉です。祈りのときには「そのようになりますように」と、その祈りが真実になることを願って唱えます。交わりの中で共に祈る、その祈りは力となるのです。ホーリネスの流れをくむ愛宕町教会では、しばしば祈りの途中に間の手(あいのて)のように「アーメン」が唱えられることがあります。それは、日本の教会が育んできた信仰の敬虔さを表す事柄でもあります。 19節に戻りましょう。ここで主イエスはご自身を「父なる神に依存させておられる」ことがわかります。信仰のあり方は、「より頼む、すがりつく、依存する」というあり方です。そこでこそ、神の憐れみが絶大なのであり、神にしか救いがないことが表されるからです。 私どもは様々なものに依存します。お金、仕事などなど。私どもは何に依存しているでしょうか。それは地上とともに終わるものであって、永遠に続くものではありません。ただ神にのみ依存するところで、私どもはこの世にあって、まったく自由な者として生きることができるのだということを覚えたいと思います。 19節は「主イエスの神に対する従順」が示されております。 時間がなくなりました。続きは次週といたします。 |
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