聖書のみことば/2007.7
2007年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
ベトザタ」 7月第1主日礼拝 2007年7月1日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章1〜9節

5章<1節>その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。<2節>エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。<3節>この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。<3b‐4節><底本に節が欠けている個所の異本による訳文>彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。<5節>さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。<6節>イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。<7節>病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」<8節>イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」<9節>すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

1節「その後」とは、舞台が転換して、主イエスがエルサレムに行かれたことを強調しています。ここでイエスは、ユダヤ人の祭りを覚えて、子どもの頃からの宗教的な義務習慣を守っておられます。信仰の習慣を守ることは大切なことです。信仰的な感性、信仰心が育くまれるからです。宗教離れの甚だしい昨今ですが、信仰心を持つことを大切にしていかなければなりません。畏敬の心が養われなければ、人は自らを高ぶらせるのです。また、信仰を同じくする営みを持つということは心を一つとすることです。そうでなければ共存・共生という共同体制を失うのであり、それは「孤独=死」でしかなくなるのです。

2節、羊の門の傍らに「ベトザタ」という池があったと記されております。「ベトザタ」とは「恵みの家」という意味があります。病気で苦しんでいる人々がその周りに横たわっている。挫折、あきらめの内にある人々です。生まれつきの病なら尚さらに、世にある不条理、惨めさを感じる人々が横たわっているのです。彼らは「恵みの家」で、救い・恵みを欲しながら、しかし恵みから遠いがゆえにそこにいるのです。

3節b「水が動くのを待っていた」とは、天使が沐浴するのを待っていたのです。天使が水から出るとき、天使の力が水に残り、一番最初に入る者が癒されると考えられていたのでした。彼らは「真先に」「一番に」なることが求められています。競争に勝たなければ癒しの恵みに与れないという、この世の過酷な競争原理が語られている、悲しいできごとです。痛み傷つく者に「なおもっと」努力する者になれと強いている。それがこの世だと考えさせられるのです。
 残念なことに、信仰においても、この世の宗教は競い合う宗教だと言わざるを得ません。信仰においても熱心さを競い合うという現実です。私どもは、自らの熱心さで救われるのではありません。まさに救いようのない者が、ただ神の憐れみにより、救われるのです。常に神の前にひざまずき、聴き続けることの大切さを覚えたい。ついつい競ってしまう罪深い者です。宗教において「競う」と「すがる」の 違いが異端と正統ということです。

5節、その人は38年も病気で苦しんでいるのです。人生の大半を患って、病のうちに「煩って」過ごしていることを示しています。イエスさまは、この人の長い煩いを知っていてくださいました。主イエスは、その人の抱えている重さ・課題、求めていることを知っていてくださる方です。私どもの思い煩いを知り、見抜いていてくださり、声をかけてくださるお方なのです。

6節、主イエスはあえて、「良くなりたいか」と問うておられます。良くなりたいに決まっているのに、そう問うのです。
 7節、答えは何でしょうか。その人は「良くなりたい」と言い出せないで、「良くなれない」と言うのです。彼は救われたいという気持ちを率直に言えない、もはや救いがたい自分であるとあきらめているのです。しかし主イエスは、今、彼がどういう思いでいるかを知っていてくださるからこそ、その本当の思いを言い表せるようにと導いてくださっているのです。主イエスの言葉は、単なる慰めや優しさなのではない。主イエスの言葉は、その人の本質を表すべく語られる言葉なのです。主イエスは、人の思いをその人以上に知っていてくださる。自分を言い表せない者が言い表せるようになるように、御言葉をくださるのです。

この人は「運命」とあきらめている、煩いの現実を受容している、滅びに徹することに身を任せている姿です。じたばたと醜態を見せるのではなく、そこに殉ずるという美しさ、これは日本人の宗教観と共通することです。
 しかし主イエスは、そういう虚しさを知り、その姿をあらわにして、その上でなお御言葉をくださるのです。
 主イエスの言葉は力です。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉(力)をいただいて、立ち上がる者とされるのです。そして与えられている課題を担い、自らを生きる者となることができるのです。
 主イエスの言葉は力です。それは聖霊を伴う力です。人の力ではない、神の力が主イエスの御言葉と共に働くのです。

自虐的な虚しさを生きるのではなく神のものとされ神と共に生きる、大いなる力(御言葉)をいただいていることを、今、覚えたい。主イエスのみが救い主であってくださることを覚えたいと思います。

主イエスを知らせる」 7月第2主日礼拝 2007年7月8日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章9〜18節

5章<9節>すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。<10節>そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」<11節>しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。<12節>彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。<13節>しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。<14節>その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」<15節>この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。<16節>そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。<17節>イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」<18節>このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

38年間寝たきりの人が、主イエスの言葉により立ち上がり、床を担いで歩くことができるようになりました。主イエスの言葉は力であり聖霊が臨むのです。
 その日は安息日でした。安息日規定では労働は禁止です。ですからユダヤ人たちは「床を担ぐこと」も労働とみなして「律法で許されていない」と言うのです。
 しかし本来、安息日は、神の創造の御業を覚え(申命記)、救い出して下さったことを覚える(出エジプト記)日。「安息日を覚えて聖とせよ」とは義務なのではなく「神の恵みを覚えればそうするでしょう、そうならざるえませんね」ということです。ですから「休む」とは、自分の鋭気を養うためではなく、神に良しとされた被造物として神を誉め讃え礼拝するために休むのであり、それが安息日なのです。恵みを覚えてのことです。
 しかし、ここで「律法違反だ」と言うユダヤ人たちは「律法を守ること」を第一とするのです。重要な点は、ユダヤ人たちは安息日を「神の恵みを感謝する日としてでなく、自分はこんなに守っているよと自らを誇る日」にすり替えてしまったということです。
 労働について、神は、6日間自分のために働くことを禁じてはおられません。聖書では肯定的です。神が労働を祝してくださっているからこそ、7日目を神を覚えて「神が全てとなる日」とすることによって1週間が完結するのです。7日目をまったく神のみとする、そのことで6日間が意味あるものとなり完成する。7日目がなければ、私どもはこの世の6日間に埋没し、汚れ、存在を失ってしまうのです。そういうことを背景にして律法があったにもかかわらず、律法主義に陥ることは本末転倒です。安息日は自分の日としてはならないのです。律法主義になると自分の日に転換してしまい「神がすべてとなる日」ではなくなるのです。

この癒しの出来事は、人の思いを超えた聖霊の御業なのであり、人の労働と見るのはおかしいのです。まさに神の御業を見たのですから、恵みを言い表すべき、神に栄光あれと言い表すべきでした。ユダヤ人たちは律法の精神から外れたのです。
 今日、この事は人道主義にもとるとも見られ、宗教はおかしいと思われる所以です。杓子定規に自らの正しさを主張し異なる価値観を裁くのです。
 神が癒してくださったことを共々に喜ぶことが本来あるべき姿でした。それなのに裁く者に変わってしまった。自らを誇り、他者を裁く者になっているのです。彼らは罪を追求していますが、罪の追求には許しがない。人は、他者の罪を追求すればするほど許せなくなるのです。罪は糾弾され裁かれなければなりませんが、それは人にではなく、神にだけ出来ることです。自ら神になってしまう、そこに許しなどないのです。神のみが罪を裁く方であり、赦す方でもあります。そして、その権能が教会に託されている。赦しの宣言が託されているのです。裁きを神に任せる、それが信仰のあり方です。裁きを神に委ねたとき、神からの平安があるのです。私どもは、神に信頼し任せる時にしか平安がないのです。

13節〜、その人は主イエスによって立つことができました。ユダヤ人の「『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」との問いに「しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。
 主イエスは何も示さず立ち去られました。それは、私どもが認めようが認めまいが「主イエスは神の御子」であることを示しています。
 主イエスは人に認めてもらう必要のない方です。しかし私どもにとっては「イエスを神の子キリスト」と認めることが大事です。私どもの救いは、主イエス・キリストを認める、信じるところにあるからです。認めることこそ我々に必要なこと。それしかない、そこに救いがかかっているからです。
 私どもは、神に拠り頼んでこそ自立出来る、存在を確かにする者です。人は交わりに生きる、それは神に信頼すること、神との交わりに生きることです。

14節、その後、この人は主に出会います。いえ、主イエスが出会ってくださいました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」とは、「癒しは罪のゆるしと一体である」ことを示しています。主の救いをいただいた者として主を信じるのです。「罪を犯すな」とは、主イエスを信じるということです。主イエスを拒むことが罪だということです。主イエスが救い主であることを認めないこと、信じないこと、それは永遠の滅びに定められることです。

時間がなくなりました。続きは次週といたします。

神と等しい者」 7月第3主日礼拝 2007年7月15日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章9〜18節

5章<9節>すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。<10節>そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」<11節>しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。<12節>彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。<13節>しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。<14節>その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」<15節>この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。<16節>そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。<17節>イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」<18節>このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

38年間患っていた人は、主イエスに出会い、癒されました。主イエスの方から出会ってくださったのでした。
 そして15節、自分を癒したのはイエスだとユダヤ人に知らせた、とあります。考えてみますと、13節で「癒してくれた人はだれか知らない」と言った時点でこの話は終わってもよかったのです。にもかかわらず、わざわざ「イエス」と、この人はなぜ言いに行ったのでしょうか? 14節の「罪を犯してはいけない」との主イエスの言葉と重ねあわせて考えると「自分に起こった癒しは罪の赦し・救いのしるしだった」と言いに行ったのではない。「主イエスこそ救い主」というのではなく、実は密告しに行ったのです。「律法違反をさせたのはイエスだ」と、自分の身の安全を確保するために言ったのです。なぜか?
 彼は主イエスの癒しを受けながらも、これから先、どの社会に身を置こうとしたでしょうか。彼はユダヤ人です。ユダヤ人社会で生きることを選択し、それゆえに、ユダヤ人に密告することによりユダヤ社会の一員として認めてもらおうとしたのです。私どもの内にもそのような思いがあり、いたしかたないとも思います。しかし主イエスの恩に応えない行いであることは確かです。自分を救い出してくださった主イエスに対し罪を犯すことにほかならないのです。主の恵みによって立つという前提を崩し、自分を否定することになる。「罪を犯す」とは、どんな悪いことをしたかではなく、主イエスを救い主として言い表さなかった、認めなかったということです。
 私どもは主イエスの十字架と復活によってのみ贖われ救われた者として「主イエスをキリストと言い表す」ことこそが一番大事なことです。この人のように自分の生活を第一にして、主をないがしろにすることは恩を仇で返すことです。

16節、ユダヤ人はこのことからイエスを迫害し始めました。迫害の理由は「安息日規定・律法違反」をしたということです。18節の「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」の「殺意」と、この「迫害」とは意味が違うのです。迫害は主を律法違反者として排斥することを意味します。ここは行間に説明を必要とする箇所ですが、ユダヤ教が主イエスを信じる者・教会をユダヤ社会から閉め出すことを目的とした言葉だったことを読みとってよいのです。

17節、ここでは「律法違反したのはなぜか?」という問いが隠されており、主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とお答えになっています。神の慈しみに富んだ働きがあるからこそ今がある。一瞬たりとも、全世界は神の働きなくしては存在しない、存在を失ってしまうのです。神が働いていてくださるからこそ、私どもは賛美するのです。
 神の憐れみ、慈しみを覚えるために安息日を守るのです。ですから安息日の癒しは本来の目的に適っていることです。ユダヤ人は、安息日の癒しを神の出来事として賛美するべきでした。安息日を自らの義務を果たす日とすることは、自らの義を表すことにほかなりません。律法を守る人の業を認めるのではない、神の御業を認め、ただただ憐れみの神の前にひれ伏すこと、それが正しい在り方なのです。

ヤムニア会議で、ユダヤ教はキリスト教を異端としました。異邦人キリスト者が多くなるにつれて律法厳守が重んじられなくなったからです。律法厳守ではなく「ただ恵みによって救われる」ことが第一ということからすれば、ユダヤ教がキリスト教を排斥するのは当然の成り行きでした。
 では安息日の精神は失われたかといいますと、そうではありません。「ただ恵みによって救われる」ことを第一とし神のみ名をほめたたえたる、このことこそが安息日の本来の精神を表しているのです。「神の恵みによってのみ」という中心を覚えなければななりません。

18節、17節の「だから、わたしも働くのだ」という主イエスの言葉が問題となったのでした。主イエスが、御自身を「神と等しい者」としたという「神への冒涜」に対して殺意を抱いたのです。
 ヨハネによる福音書の大きな特徴は、主イエスが「わたしは神と等しい、わたしは神だ」と言ったことです。ユダヤ人にとって「メシア」ということは問題ではありません。メシアは現れることが預言されているからです。しかし、主イエスが御自身を「神と等しい者」と言い表されたことは大きな驚きであり、死に値すると考えられたのです。

教会は「主イエスは神そのものだ」と言い表しております。主イエスは今も働いておられることを示しているのです。私どもは「主イエスを誰と告白するか」が問われています。「主イエスを神と等しい者」と告白することが問われている。主イエスを神なる方と認めない、それは滅びなのです。「主イエスこそ神」と認めることによってのみ、神の交わりに入れられていることを覚えたいと思います。

エリコの盲人」 7月第4主日礼拝 2007年7月22日 
北村 誠 神学生(聴者/清藤)
聖書/マルコによる福音書 第10章46〜52節

10章<46節>一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。<47節>ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。<48節>多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。<49節>イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」<50節>盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。<51節>イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。<52節>そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

エリコの盲人であったバルティマイの癒しは、マルコによる福音書に記された主イエスの最後の奇跡です。
 主イエスの一行はエルサレムに向かう途上でした。それはまさに主イエスの十字架への道であり、「エリコに着いた」ということは、エルサレムはもうすぐなのです。

8章では、ベトサイダで盲人を癒された奇跡が記されていますが、この時には主イエスは盲人の目に唾をつけ両手をで触れ、次第に見えるようになったとあります。しかしバルティマイの癒しでは、主イエスは彼に触れず「何をしてほしいのか」と尋ねるのみであり、また直ちに癒されます。そして、バルティマイは主に従う者となるのです。

ここでは「主イエスに従う」とはどういうことかを示しています。
 バルティマイは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と精一杯叫び続けたとあります。主イエスは立ち止まり「あの男をよんできなさい」と言われます。人々が「安心しなさい。立ちなさいと」と彼に言うのですが、この言葉は他の箇所では主イエスが使われた言葉です。
 50節「上着を脱ぎ捨て」とは、バルティマイが自分のこれまでの生活、過去・現在を脱ぎ捨てて、踊り上がって主イエスのところに来たということです。縛りつけられていたものから自由になって、喜んで飛んできたのです。

51節「何をしてほしいのか」その答えは「目が見えるようになりたい」のです。バルティマイは癒され、見えるようになり、そして主に従う者となりました。

このバルティマイに私どもを重ねあわせてみることができます。
 バルティマイは信仰があったわけでもない、正しい者であったわけでもない。しかし藁をもつかもうと叫んだのです。バルティマイは自分が見えない者であることを知っていましたが、私どもは自分の目が見えないことにも気が付かないような者です。しかし「安心しなさい。立ちなさい、お呼びだ」、その言葉に目が開かれるのです。主の恵みの内に罪が赦され自由を得るのです。

私どももまた、バルティマイと同様に、主イエスが歩まれる道の道端に、ただ座っているだけの者です。しかし主イエスは、そんな私どもを招き、道の真ん中に導いてくださるのです。神の一方的な恵みにより、神の者とされていることを覚えたいと思います。

復活して命を受ける」 7月第5主日礼拝 2007年7月29日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第5章19〜30節

5章<19節>そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。<20節>父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。<21節>すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。<22節>また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。<23節>すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。<24節>はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。<25節>はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。<26節>父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。<27節>また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。<28節>驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、<29節>善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。<30節>わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

19節「彼らに」とは、前述のユダヤ人です。ユダヤ人は、自らを「神と等しい者」としたイエスを、神を冒涜する者として非難し、イエスに殺意を抱いたのでした。
 19節に示されていることは、主イエスは「父なる神の思うこと、なさること以外はしない」ということであり、「神の子として、父なる神と一つなる方である」ということです。

主イエスの言葉として「はっきり言っておく」と、19節、24節、25節に記されております。これは「アーメン、アーメン…」という言葉で、「まことに、まことに、我汝らに次ぐ」という意味であり、主イエスの宣言の言葉です。自らの弁明のための言葉なのではなく、「宣言」なのです。ですから後は、私どもがその宣言を受け止めるかどうかが問われているのです。

ここで「アーメン」について、少し触れたいと思います。「アーメン」は祈りのときや讃美歌の後に言われる言葉です。祈りのときには「そのようになりますように」と、その祈りが真実になることを願って唱えます。交わりの中で共に祈る、その祈りは力となるのです。ホーリネスの流れをくむ愛宕町教会では、しばしば祈りの途中に間の手(あいのて)のように「アーメン」が唱えられることがあります。それは、日本の教会が育んできた信仰の敬虔さを表す事柄でもあります。
 ところが昨今、「讃美歌21」などにも見られるように、「アーメン」を敢えて唱えないという風潮があるのです。それは、礼拝の中で既に敬虔な中にあって、敢えて「アーメン」を唱える必要はないという考え方です。しかし、このことは宗教性を失った今の社会にどこか迎合しているような危機感を覚えるのです。
 今の世の中は宗教性を喪失した社会です。祈りを失っている。つまり「畏敬」「尊ぶ」ことがない社会は「敬虔さ」を失っているのです。敬虔さを失った社会では、人は傲慢になり、人間関係は争いになるのです。人は自分の存在を超えたところに価値を置かなければ、自分の命・存在の大切さを見失ってしまいます。
 宗教を持っていることは一見不自由に思われますが、そうではありません。自らの存在に対する確かな根拠があってこそ、人は尊厳と自由を得ることができるのです。敬虔さは、自らをわきまえ知ることです。敬虔さを失っている社会にあるからこそ、敬虔さを受け継いで来た教会が「アーメン」を証ししていくべきなのです。

19節に戻りましょう。ここで主イエスはご自身を「父なる神に依存させておられる」ことがわかります。信仰のあり方は、「より頼む、すがりつく、依存する」というあり方です。そこでこそ、神の憐れみが絶大なのであり、神にしか救いがないことが表されるからです。
 私どもは、なかなか「依存しきる」ことはできない者です。しかし、主イエスはまったく神に依存することによって、まったく神と一体となっておられるのです。「神に依存する」、それは自分の存在を確かにすることに他なりません。

私どもは様々なものに依存します。お金、仕事などなど。私どもは何に依存しているでしょうか。それは地上とともに終わるものであって、永遠に続くものではありません。ただ神にのみ依存するところで、私どもはこの世にあって、まったく自由な者として生きることができるのだということを覚えたいと思います。

19節は「主イエスの神に対する従順」が示されております。
 20節「最も大いなる業」は死者の復活であると記されております。それは地上にない業、神のみ成し得る業なのです。そして21節、主イエスは、その復活の命を私どもに与えてくださると示されております。22節、主イエスは命の権能も裁きの権能も共に神より与えられた方なのです。

時間がなくなりました。続きは次週といたします。