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46節「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」。ガリラヤのカナは、以前主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡をなさった場所です。 47節、役人は主イエスのもとに直接行き、息子の病気の癒しを願います。息子が死にかかっているから、切実に願ったのです。地位の高い者がプライドをかなぐり捨ててまで主に頼んでいる。人にはプライドがあり、自分のことでは他者に頭を下げません。しかし、親は子のためには頭を下げるものなのです。 48節、この切実な願いに対し、優しく同情を込めて答えてもよさそうなものですが、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、突き放しておられます。しかも、何を言われているのか解らないような答えなのです。しかし優しさは人を救うでしょうか。人は、どこまでも弱くて傲慢なものです。ですから同情は難しい。同情は依存を招きます。結果、人は他者の痛みを担いきれなくなるのです。 49節「子供が死なないうちに、おいでください」、何故子供のところに行かなければならないのでしょうか。それは当時、癒しは触れることだと考えられていたからです。触れることによって力が与えられるのです。ですから家に早く来て、息子に触ってほしいと願ったのでした。 50節、必死に願う者に「命令と宣言」がなされます。「帰れ、息子は生きる」と。力ある神の言葉として真実な言葉として宣言されるとき、その言葉は現実になるのです。人は自分の内に救いの確証はありません。しかしキリスト者は、洗礼により救いの宣言をいただいています。洗礼は、教会に与えられた、神より託された権能なのです。 52節、息子の病気が治ったことを知らせに僕たちがやって来ます。息子の病気はいつ治ったのかと聞いた時刻は、主イエスの「帰れ、息子は生きる」との宣言の時刻でした。息子の癒しは、触れて癒されたのではない、主イエスのみ言葉により癒されたのでした。 |
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28節「彼らの議論」とは、28節以前に記されている、死者の復活についてのサドカイ派と主イエスとの問答を指しています。律法学者はユダヤ教の律法の専門家ですが、前述の議論を通して、主イエスになら律法について問う価値があると思って尋ねるのです。「どれが第一の掟か」と問うていますが、ここでは優先順位が問題なのではなく、律法の中心精神、つまり「神の御心は何か」ということを問うています。律法学者は、死んだ者をも生かすことのできる「神は生きておられる方」であるという主イエスの信仰に感銘を受けたのであり、ここでは「私どもが生きるとはどういうことか」が問われているのです。 29節「唯一の主である」とは朝に夕に唱えられる「シェーマー イスラエル」というイスラエルの信仰告白の言葉で、律法の中心となる言葉です。神が私どもの主であってくださるからこそ、私どもの存在の全てをもって神を愛するのです。 私どもが「神を主である」と言い得るのは、「神が主となってくださった」という恵みの出来事です。神の方から為してくださったことです。この神の御業に対して、どのようにお応えすればよいのか、そのために与えられたものが律法でありました。神の救いの出来事に対して、日々悔い改め、感謝をもって「全身全霊をもって神を愛する」ということが、律法の真髄、中心精神なのです。 31節「隣人を自分のように愛しなさい」と言われます。まず覚えるべきことは、自分だけではなく、この世のすべての者が神の憐れみを受けている者であるということです。そして「神を愛する」ことは、「自分を愛する」こと、「隣人を愛する」ことと一つのことだということです。 34節、適切な答えができた律法学者です。彼は律法の中心精神を知っていたのでした。しかし、知っていただけでは「神の国から遠くない」ところに止まるのです。 |
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43節「隣人を愛し、敵を憎め」とは、人の常の(自然な)思いです。それが「命じられている」とあります。「隣人を愛せよ」という言葉はレビ記に記されており、神の民としてその共同体を守るために互いに愛しあうことが勧められておりますが、「敵を憎め」という言葉は、必ずしも律法にはない言葉です。旧約の預言者エレミヤも、捕囚の民に対して「敵を愛せよ」と勧めております。 「愛」と「憎しみ」は相反するもののように思われがちですが、そうではありません。「愛」と「憎しみ」は一つの概念であり、「愛」の反対語は「無関心」なのです。愛のないところに憎しみは生まれません。したがって、愛は人の思いのままであれば、いつでも憎しみに変わってしまうものなのです。 44節、主イエスは、この、人の自然な思いを前提に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっております。この言葉は、神よりの恵みの言葉です。なぜ恵みの言葉なのか。その根拠は何か。 45節「天の父の子となるため」と記されております。神は、どんな者(悪人・善人)にも、等しく太陽の下に生きる場を与え、恵みの雨を与えてくださる方だというのです。悪人が自ら光を避けて生きるということはあります。しかし、神が人から光を取り除くことは決してないのです。もし、神が悪人と善人を区別するというのなら、誰もが恵みをいただけなくなるのではないでしょうか。ですから、私どもが悪人か善人かが問題なのではなく、神が与えてくださるこの恵みをどう受け取るか、が問題なのです。感謝をもって受け取ることができるかどうか、ということです。 私どもの愛は、一歩間違えば憎しみに変わってしまう愛でしかありません。しかし、神の愛は私どもを圧倒する恵みの愛であります。「神の愛のうちにある」からこそ、私どもは愛することができるのです。 神は、私どもが愛することを「神の愛に応えた」として、大いに報いてくださる方です。感謝のほかありません。 |
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7節「愛する者たち」と言われます。これは、キリスト者・信徒に対する呼びかけの言葉です。「信徒」とは、神の愛の内にある者・兄弟姉妹なのです。「愛する者たち」の集うところ、それが教会です。教会を形成するものは何か、それは「愛」であることが示されております。 キリスト教は「愛の宗教」と言われますが、愛の概念がきちんと理解されていなければ、それは正しい表現ではありません。「愛の宗教」と言うがゆえに、却ってつまずきをもたらすのです。キリスト教は「イエスをキリスト(救い主)と信じる宗教」です。救いは、「愛によって」ではなく、「キリストの十字架の出来事によって」語られるべきことです。「救いがあってこそ、愛がある」ことをまず覚えなければなりません。信仰なくして愛はないのです。 今日、時代のテーマは「愛」なのではないでしょうか。恋愛、親子愛、ひいては仕事愛、組織愛と、愛は実に一般化されております。そして一様に、愛は素晴らしいこと、良いこととして受け止められているのです。 「愛は神から出るもの」と示されております。愛は、自らの思いから出るものと私どもは思っていますが、そうではありません。「愛」とは「神の愛」のことを言っているのです。「真実の愛」とは「神の愛」のことです。「神を知る」ことが「愛を知る」ことなのです。このことは、神を思わない今の時代に、大いなる心のギャップをもたらすことです。つまり現代は、愛を求めているにもかかわらず、愛のない時代であるからです。 9節に「神の愛とは何か」ということが示されております。「神の愛」とは、「神が御子イエス・キリストを私どもの救いのために遣わしてくださったこと」です。神に背を向け敵する罪人(私ども)の救いのために、神ご自身が傷んでまでも為してくださった十字架の出来事、これが神の愛なのです。 人には完全な愛はありません。完全な愛を成し遂げてくださる方として、愛の神が私どもに臨んでいてくださる、その神の圧倒する恵みのうちにあるからこそ、私どもは「愛する」ことができるのです。 愛を問わざるを得ない今日は、まさに神の愛を求めざるを得ない時代なのです。私どもが必要としているのは愛、すなわち神です。その神を信じること「信じることなくして愛することはできないのだ」ということを覚えたいと思います。 そして私どもが愛すると言うとき、自分だけではなく、相手をも「神の内にある者、神の執り成しの内にある者」として見る者でありたいと思います。 |
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24・25節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」、この箇所はローマの信徒への手紙の頂点です。 15節「自分のしているいることが分かりません」とは自己弁護のために言っているのではありません。一生懸命やっているのに、わけも分からず、罪深い者になっていると言うのです。 15節以前には「律法における罪について」語られております。罪の頂点がわかるために「律法」が必要だったというのです。 律法の復権は、宗教改革者によりもたらされました。ルターは「罪の自覚」を強調し、カルヴァンは「救いの恵みへの応答」として、各々「十戒」を礼拝式に用いました。 このように律法は恵みの出来事、律法は霊的なもの、聖なるものであることを十分に知った上で、しかし「律法を厳格に守る」ということによって罪が深くなったと、ここでパウロは言うのです。神を必要としなくなり自分を表す、人には「律法を一生懸命守ることで自己を誇るようになる罪深さ」があるのです。フィリピの信徒への手紙3章5節でパウロは「律法を行うことに落ち度がなかった。が、それゆえに神を迫害する者であった。深い罪人であった」と語っています。そしてその罪深さは、キリストの福音に照らされなければわからなかったと言うのです。 罪の法則とは自分を誇ってしまうことです。それは律法を守ることに限りません。「私は……だ」ということに誇りを持つならば、同じことなのです。ここまで言われたらどうでしょう。どこにも救いを見い出せなくなるのではないでしょうか。救い難さの極み、そこで万感の思いをもって「ああ、なんと惨めな人間なんだろう」という言葉となるのです。 |
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