聖書のみことば/2007.6
2007年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
あなたの息子は生きる」 6月第1主日礼拝 2007年6月3日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章46〜54節

4章<46節>イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。<47節>この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。<48節>イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。<49節>役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。<50節>イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。<51節>ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。<52節>そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。<53節>それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。<54節>これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

46節「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」。ガリラヤのカナは、以前主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡をなさった場所です。
 「奇跡」の意味は何でしょうか。「奇跡」は、「主イエスは神の子、救い主であることのしるし」です。主イエスは奇跡を行うために来たのではない、救いのために来られたのです。しかし、当時の人々の思いでは「主イエスは奇跡を行う人」という理解が前提です。
 「カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった」と記されております。この王の役人は、ヘロデ王に仕える役人で、ユダヤ人の高官であったろうと思われます。他の福音書によりますと、王の役人は「百人隊長」と記されており、それは異邦人なのです。しかし、ヨハネによる福音書では、もはやユダヤ人でも異邦人であることにも、こだわっておりません。

47節、役人は主イエスのもとに直接行き、息子の病気の癒しを願います。息子が死にかかっているから、切実に願ったのです。地位の高い者がプライドをかなぐり捨ててまで主に頼んでいる。人にはプライドがあり、自分のことでは他者に頭を下げません。しかし、親は子のためには頭を下げるものなのです。

48節、この切実な願いに対し、優しく同情を込めて答えてもよさそうなものですが、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、突き放しておられます。しかも、何を言われているのか解らないような答えなのです。しかし優しさは人を救うでしょうか。人は、どこまでも弱くて傲慢なものです。ですから同情は難しい。同情は依存を招きます。結果、人は他者の痛みを担いきれなくなるのです。
 「しるしや不思議な業を見なければ…」この言葉は、信じることから遠いことを示しております。主イエスが望んでおられること、それは「人が信じるに至ること」です。実は、人が本当に至るべきところは何かを、この言葉は率直に示しているのです。人が本当に求めているものは何か、それは「信じる」ことです。しかし人には分からない。この役人にも理解できないのです。主イエスは、人の理解を求めてはおられません。

49節「子供が死なないうちに、おいでください」、何故子供のところに行かなければならないのでしょうか。それは当時、癒しは触れることだと考えられていたからです。触れることによって力が与えられるのです。ですから家に早く来て、息子に触ってほしいと願ったのでした。
 私どもも、聖書のみ言葉に聞くことを通し主イエスに出会い(触れる)、主イエスの臨在を得るのです。

50節、必死に願う者に「命令と宣言」がなされます。「帰れ、息子は生きる」と。力ある神の言葉として真実な言葉として宣言されるとき、その言葉は現実になるのです。人は自分の内に救いの確証はありません。しかしキリスト者は、洗礼により救いの宣言をいただいています。洗礼は、教会に与えられた、神より託された権能なのです。

52節、息子の病気が治ったことを知らせに僕たちがやって来ます。息子の病気はいつ治ったのかと聞いた時刻は、主イエスの「帰れ、息子は生きる」との宣言の時刻でした。息子の癒しは、触れて癒されたのではない、主イエスのみ言葉により癒されたのでした。
 しかし「癒し」とは一時的なものでしかなく、決して死を克服できるものではありません。主イエスが「信ぜよ」とおっしゃるとき、それは死を超えた永遠の交わりを約束してくれることです。ですから、主イエスを「癒し主」とすることと、「救い主」とすることでは大きな違いがあるのです。53節「彼もその家族もこぞって信じた」との「信じた」は、主イエスの言葉が真実な命の言葉であることを彼も家族も共に信じたのです。先の50節「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」の「信じた」は単に「癒し」を信じたのですが、53節では「主イエスのみ言葉が真実だ」ということを信じたのです。この癒しが、主イエスがメシアであることのしるしであることを知って信じたのです。
 「信じる」とは、主イエスを「私の救い主」と信じることです。地上を越えた恵みを与えられることを信じるのです。信じるとき、永遠の命の約束をいただいて生きるのです。それは、過ぎ去る命ではない、永遠の命です。主の言葉こそ真実、力です。「信じる」ことをこそ、主イエスは求めておられるのです。

自分を愛するとは」 6月第2主日礼拝 2007年6月10日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/マルコによる福音書 第12章28〜34節

12章<28節>彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」<29節>イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。<30節>心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』<31節>第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」<32節>律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。<33節>そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」<34節>イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

28節「彼らの議論」とは、28節以前に記されている、死者の復活についてのサドカイ派と主イエスとの問答を指しています。律法学者はユダヤ教の律法の専門家ですが、前述の議論を通して、主イエスになら律法について問う価値があると思って尋ねるのです。「どれが第一の掟か」と問うていますが、ここでは優先順位が問題なのではなく、律法の中心精神、つまり「神の御心は何か」ということを問うています。律法学者は、死んだ者をも生かすことのできる「神は生きておられる方」であるという主イエスの信仰に感銘を受けたのであり、ここでは「私どもが生きるとはどういうことか」が問われているのです。

29節「唯一の主である」とは朝に夕に唱えられる「シェーマー イスラエル」というイスラエルの信仰告白の言葉で、律法の中心となる言葉です。神が私どもの主であってくださるからこそ、私どもの存在の全てをもって神を愛するのです。
 「主」とは「主人」です。私どもは主である神に従う者です。しかし、神から遠い者にとっては、主人は神ではなく自分自身なのです。神より低い者として「従う」ことがなくなると、人は自己中心となり、他者を理解したり、受け止めることはできなくなるのです。それは交わりの断絶、喪失を招き、孤独を生み出します。孤独は人の心を蝕む、空しい生き方です。他者を踏みつけても自己実現しようとする、自意識過剰(或いは卑屈)になるのです。このことが神無き時代の問題と言えます。
 人が人として低くなり、神を主として従うとき、初めて人は、等しく人となることができます。それは「礼拝」において現実のものとなるのです。一人の人として神を崇めるとき、人の思いは様々であっても、神の前には等しく、神を主として聴き従う者でしかないからです。ですから、神を礼拝するとき、人は等しくなるのです。
 「唯一の神、神の他に主としない」という言葉で言い表されていることは、16〜20世紀、自由と平等を生み出した社会的な中心原理であった大切な信仰告白でもあります。この世の一切の力、支配(お金、仕事、趣味等々)を良しとせず、神のみを支配者とすること、そこでこそあらゆる支配から解き放たれ自由となるからです。

私どもが「神を主である」と言い得るのは、「神が主となってくださった」という恵みの出来事です。神の方から為してくださったことです。この神の御業に対して、どのようにお応えすればよいのか、そのために与えられたものが律法でありました。神の救いの出来事に対して、日々悔い改め、感謝をもって「全身全霊をもって神を愛する」ということが、律法の真髄、中心精神なのです。
 しかし、私どもの守るべき「礼拝」は、律法化してしまうと「守らなければならないこと、守れたこと」として、人は自らの功績としてしまいます。そうではなく「礼拝」は、ただただ神の恩寵に対し、感謝をもって応えることです。

31節「隣人を自分のように愛しなさい」と言われます。まず覚えるべきことは、自分だけではなく、この世のすべての者が神の憐れみを受けている者であるということです。そして「神を愛する」ことは、「自分を愛する」こと、「隣人を愛する」ことと一つのことだということです。
 私どもは、愛されることを知っているから、愛することができます。自分を愛することなく、他者を愛することはできません。「自分」というとき、それは自分に関わりのあるすべてが自分です。家庭も学校も、置かれた場所、他者との関係をも含めて、すべてが自分であることを覚えたいと思います。
 真実の愛に出会うことなく、愛することはできないのです。真実なる方、それは神です。神が私どもを真実に愛するがゆえに、主イエス・キリストの十字架と復活があるのです。「神に愛されている」がゆえに、私どもは自らを愛し、隣人を愛することになるのです。
 私どもの「生きている実感」は、まさに「自分を愛する」ことにあります。生ける神が私の主であると言えるとき、自分の存在を喜び、自分を愛するのです。
 孤独の中で、人は決して自分を愛することはできません。自分は見捨てられていない、神に愛されていることを知るとき、本当の慰めを受け、生きる者となるのです。

34節、適切な答えができた律法学者です。彼は律法の中心精神を知っていたのでした。しかし、知っていただけでは「神の国から遠くない」ところに止まるのです。
 律法を完全になし遂げることのできる唯一の方、主イエス・キリストを信じること、そこでこそ「今あなたはパラダイスにいる」との真実の救いに与ることができるのです。

敵を愛す」 6月 金曜礼拝 2007年6月15日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/マタイによる福音書 第5章43〜48節

5章<43節>「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。<44節>しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。<45節>あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。<46節>自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。<47節>自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。<48節>だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

43節「隣人を愛し、敵を憎め」とは、人の常の(自然な)思いです。それが「命じられている」とあります。「隣人を愛せよ」という言葉はレビ記に記されており、神の民としてその共同体を守るために互いに愛しあうことが勧められておりますが、「敵を憎め」という言葉は、必ずしも律法にはない言葉です。旧約の預言者エレミヤも、捕囚の民に対して「敵を愛せよ」と勧めております。
 「憎しみ」とは、交わりを破壊するもの、分裂を生み、憎しみは憎しみを生むものです。

「愛」と「憎しみ」は相反するもののように思われがちですが、そうではありません。「愛」と「憎しみ」は一つの概念であり、「愛」の反対語は「無関心」なのです。愛のないところに憎しみは生まれません。したがって、愛は人の思いのままであれば、いつでも憎しみに変わってしまうものなのです。

44節、主イエスは、この、人の自然な思いを前提に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっております。この言葉は、神よりの恵みの言葉です。なぜ恵みの言葉なのか。その根拠は何か。

45節「天の父の子となるため」と記されております。神は、どんな者(悪人・善人)にも、等しく太陽の下に生きる場を与え、恵みの雨を与えてくださる方だというのです。悪人が自ら光を避けて生きるということはあります。しかし、神が人から光を取り除くことは決してないのです。もし、神が悪人と善人を区別するというのなら、誰もが恵みをいただけなくなるのではないでしょうか。ですから、私どもが悪人か善人かが問題なのではなく、神が与えてくださるこの恵みをどう受け取るか、が問題なのです。感謝をもって受け取ることができるかどうか、ということです。
 神は、神に敵する者(神から目を背ける、神から遠い者)までも愛して憐れんでくださる方です。神こそ、敵(罪人)を赦し、敵(罪人)を愛してくださった方なのです。
 そしてここで覚えるべきことは、「罪人」とは自分のこと、「敵」とは私ども自身なのだ、ということです。本来、神とも人とも麗しい関係を持ち得ない私どもです。このような、赦されざる罪人を救うために、主イエス・キリストの受肉、十字架と復活の出来事があるのです。十字架の出来事そのものが、私どもが「神の愛をいただいている」ことにほかなりません。これこそ「敵を愛せ」と言われることの根拠です。

私どもの愛は、一歩間違えば憎しみに変わってしまう愛でしかありません。しかし、神の愛は私どもを圧倒する恵みの愛であります。「神の愛のうちにある」からこそ、私どもは愛することができるのです。

神は、私どもが愛することを「神の愛に応えた」として、大いに報いてくださる方です。感謝のほかありません。
 ただ「神の愛に応えて生きる」、そこでこそ、私どもは「完全な者とされる」のだということを覚えたいと思います。

愛を知る」 6月第3主日礼拝 2007年6月17日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネの手紙一 第4章7〜12節

4章<7節>愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。<8節>愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。<9節>神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。<10節>わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。<11節>愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。<12節>いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

7節「愛する者たち」と言われます。これは、キリスト者・信徒に対する呼びかけの言葉です。「信徒」とは、神の愛の内にある者・兄弟姉妹なのです。「愛する者たち」の集うところ、それが教会です。教会を形成するものは何か、それは「愛」であることが示されております。

キリスト教は「愛の宗教」と言われますが、愛の概念がきちんと理解されていなければ、それは正しい表現ではありません。「愛の宗教」と言うがゆえに、却ってつまずきをもたらすのです。キリスト教は「イエスをキリスト(救い主)と信じる宗教」です。救いは、「愛によって」ではなく、「キリストの十字架の出来事によって」語られるべきことです。「救いがあってこそ、愛がある」ことをまず覚えなければなりません。信仰なくして愛はないのです。

今日、時代のテーマは「愛」なのではないでしょうか。恋愛、親子愛、ひいては仕事愛、組織愛と、愛は実に一般化されております。そして一様に、愛は素晴らしいこと、良いこととして受け止められているのです。
 一昔前には、愛という言葉は、日本人にはなかなか使えない言葉でした。日本人は、「恋人」には清く美しいイメージ、「愛人」にはどろどろとした汚れたイメージというように、自分の思いの中で、相手を美しいものとして見るというような感性がありました。しかし、今は現実的です。愛という言葉は自然になり、実存としてストレートに関わることを良しとするのですが、愛の概念を知らないまま愛と向き合わなければならないとすれば、これは難しいことです。
 ですから、そんな時代に生きるキリスト者として、わたしどもは「真実の愛とは何か」ということについて、きちん理解し、答える責任があると言えます。

「愛は神から出るもの」と示されております。愛は、自らの思いから出るものと私どもは思っていますが、そうではありません。「愛」とは「神の愛」のことを言っているのです。「真実の愛」とは「神の愛」のことです。「神を知る」ことが「愛を知る」ことなのです。このことは、神を思わない今の時代に、大いなる心のギャップをもたらすことです。つまり現代は、愛を求めているにもかかわらず、愛のない時代であるからです。
 人の愛は、自ずからの思いのままであれば、愛するがゆえに相手を束縛し、支配し、ひいては憎しみに変わってしまうという、歪みを生む愛になってしまいます。今の時代の大きな問題は、「決して相手を許さない」ということです。人の愛は許しを伴わないがゆえに、相手をも自分をも苦しみから解放されることはないばかりでなく、却って罪深いのです。

9節に「神の愛とは何か」ということが示されております。「神の愛」とは、「神が御子イエス・キリストを私どもの救いのために遣わしてくださったこと」です。神に背を向け敵する罪人(私ども)の救いのために、神ご自身が傷んでまでも為してくださった十字架の出来事、これが神の愛なのです。
 それは、私どもの思いを遥かに超えた、神の在り方です。

人には完全な愛はありません。完全な愛を成し遂げてくださる方として、愛の神が私どもに臨んでいてくださる、その神の圧倒する恵みのうちにあるからこそ、私どもは「愛する」ことができるのです。
 「私どもは愛されている」、何にもまして第一に神に愛されております。その神の圧倒する愛の恵みにより、私どもはまったく自由な者となり、自分の限界からも解き放たれるのです。

愛を問わざるを得ない今日は、まさに神の愛を求めざるを得ない時代なのです。私どもが必要としているのは愛、すなわち神です。その神を信じること「信じることなくして愛することはできないのだ」ということを覚えたいと思います。

そして私どもが愛すると言うとき、自分だけではなく、相手をも「神の内にある者、神の執り成しの内にある者」として見る者でありたいと思います。

なんと惨めな人間か」 6月第4主日礼拝 2007年6月24日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ローマの信徒への手紙 第7章15〜25節

7章<15節>わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。<16節>もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。<17節>そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。<18節>わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。<19節>わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。<20節>もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。<21節>それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。<22節>「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、<23節>わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。<24節>わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。<25節>わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

24・25節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」、この箇所はローマの信徒への手紙の頂点です。
 「ああ、なんとわたしは惨めなのでしょう」とは、罪の赦しを感じ、救いの恵みに圧倒されているからこそ、万感をこめて言える言葉です。

15節「自分のしているいることが分かりません」とは自己弁護のために言っているのではありません。一生懸命やっているのに、わけも分からず、罪深い者になっていると言うのです。

15節以前には「律法における罪について」語られております。罪の頂点がわかるために「律法」が必要だったというのです。
 12、14、16節には、「律法」は霊的なもの、良いもの、聖なるもの、神のものだと語られています。律法が与えられていることによって罪を知るのです。それが律法の働きです。律法無くして罪を知らない、戒めがあることによって罪の自覚が与えられるのです。
 しかし本来、律法は単に罪を明らかにするためにあるのではありません。律法は恵みの出来事なのです。出エジプトの際に、耐えられず呻き苦しむイスラエルの有象無象の民を、神は「神の民」としてくださり、「神を礼拝する民」としての生き方を示すために、神自らが与えてくださったものが十戒(律法)でした。救われた民が、神の恵みにどう応えて生きればよいのかを示したものが律法なのです。それは「積極的」に「神にふさわしい者として生きるため」に与えられたものです。神がこうして生きるのだよと示してくださった、ありがたい恵みなのです。「神に従う」、そこに律法の力点があるのです。「喜びをもって従うこと」が重要なのであって、「律法を守ること」に重点をおくのではないのです。
 「律法は神の恵みである」、にも拘らず「従い得ない」という罪の自覚、それゆえ罪を知ったのです。恵みに応えるということがあって初めて、罪の自覚があるのです。

律法の復権は、宗教改革者によりもたらされました。ルターは「罪の自覚」を強調し、カルヴァンは「救いの恵みへの応答」として、各々「十戒」を礼拝式に用いました。

このように律法は恵みの出来事、律法は霊的なもの、聖なるものであることを十分に知った上で、しかし「律法を厳格に守る」ということによって罪が深くなったと、ここでパウロは言うのです。神を必要としなくなり自分を表す、人には「律法を一生懸命守ることで自己を誇るようになる罪深さ」があるのです。フィリピの信徒への手紙3章5節でパウロは「律法を行うことに落ち度がなかった。が、それゆえに神を迫害する者であった。深い罪人であった」と語っています。そしてその罪深さは、キリストの福音に照らされなければわからなかったと言うのです。
 「まじめさ、やさしさ、敬虔深さ」が「罪深さ」になるのです。それは、自らを良しとしてしまうからです。そこに罪深さがあります。非のうちどころなく律法を守ったパウロだからこそ、福音の恵みに与ったとき、これほどまでに深く罪を知ったのです。神に従う生き方ではなく、自らを義とする生き方、それが律法主義なのであり、律法を守ることの問題点だということです。

罪の法則とは自分を誇ってしまうことです。それは律法を守ることに限りません。「私は……だ」ということに誇りを持つならば、同じことなのです。ここまで言われたらどうでしょう。どこにも救いを見い出せなくなるのではないでしょうか。救い難さの極み、そこで万感の思いをもって「ああ、なんと惨めな人間なんだろう」という言葉となるのです。
 このことは、十字架の福音なくしては分からないことです。まじめさ、敬虔さ、やさしさの故に罪を知る、そのような救いなき者のために、十字架があるのです。「なんと惨めな人間だろう」と言えるほどにキリストの十字架の福音・恵みがパウロを圧倒しているのです。パウロはこの言葉に落ち込んいるのではありません。「なんと惨めな人間だろう」と言えることが感謝なのです。
 自らの罪を本当の罪と自覚するほどに、神の圧倒する恵みにつつまれ赦されていることを覚えたいと思います。