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39節「さて、」と始めて、38節までの主イエスと弟子たちのやりとりから、4章の初めの「サマリア」というところに話を戻しております。 「救いはユダヤ人から」と言われながらユダヤ人は信じませんでした。サマリア人は、本当には救いから遠い異邦人であるにも拘らず、信じる恵みに与ったのです。知っているから信じるわけではありません。異邦人は知らないから神に出会うのです。 39節「証言した女の言葉によって」41節「イエスの言葉を聞いて」とあるように「言葉」によって信じたことを強調しています。信仰は「み言葉を聴く」ことにより起こるのです。ではなぜ言葉を聴くことが信じることになるのでしょうか。それは「み言葉と共に聖霊が働く」からです。 40節「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」とあります。「とどまる」とは、ヨハネによる福音書では好んで使われる言葉なのですが「関わり」を意味します。ですから、単に泊まってくれということでなく、2日間一緒にいて、より主イエスとの交わりを深くすること、主イエスとの懇ろな交わりを通し主から直接み言葉をいただくことを示すのです。 42節「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と言われます。「サマリアの女の証言を聴いて信じること」と「主の言葉を自分で聴いて信じること」には違いがあるのでしょうか。 |
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今日は、詩編96編、マタイによる福音書4章4節のみ言葉から聴きたいと思います。 詩編96編は、93編などと同様に王の即位の際に詠まれた詩です。バビロン捕囚後、6世紀頃のもので、第2イザヤの影響を受けており、内容的には大変他のものからの借り物の多い寄せ集めのような詩でありますが、同時に他所にも多く引用されております。 今日は7節以下を重点的に聴きたいのです。「主に帰せよ」すなわち「最後には神に委ねよう」との呼びかけです。このことは頭では理解出来ても、実際にはとても難しいことです。私どもは、いつの間にか神とは別の所に居場所を見つけてしまうのです。 しかし、この詩編に示されていることは、「神に帰る以外ない」ということなのです。バビロン捕囚後のぼろぼろの状態のイスラエルの民は、そのままの姿で「神に帰す」のであります。 10節以下に「喜び踊れ」と記されております。私どもは「公平な裁きのあるところ」において、心から安心して喜ぶことができるのです。本当の裁き主、神の前で、心から喜ぶことができるのであります。 マタイによる福音書4章には、主イエスさまが荒野でサタンの誘惑を退けられたことが記されております。「誘惑」とは「人を神から引き離そうとする力」です。私どもも、この誘惑に取り巻かれた中で生きているのです。主イエスでさえも、その悪の力と常に戦っておられたのであります。 「神の裁きの公平さを信じ、常に神に帰ること」が私どもに求められております。 |
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サマリア人の町で2日間滞在し、主イエスはお言葉をくださった。サマリアで「主イエスこそ、この世の救い主」という信仰の告白を受けて出発された。 ガリラヤは主イエスの故郷、そのガリラヤの人たちは主イエスを歓迎したのか。44節の「故郷」はガリラヤを指すのか。45節の「歓迎」とはどういうことか。 果たして生まれ故郷とはどこを指しているのか。ヨハネによる福音書1章11節「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書かれている。自分の属する者のところ、主イエスが属する者たちとは、エルサレムを中心としたイスラエルのユダヤ人たちである。その者たちはイエスを受け入れず十字架につける。 主イエスが救い主として来られたのに、多くの人が奇跡行為者としてとらえた。主が「神の子メシアとして奇跡を行うことができる」という根底を思わずに。 ヨハネによる福音書1章10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。この世は主に属するものであるのに、主に敵対した。エルサレムは主を受け入れなかった。エルサレムにとどまらず、「この世」とはユダヤ人たち。故郷の拒否とは、この世の拒否である。この世、すなわち私どもが主イエスを救い主と認めない。 「私どもの救い」ということを、より深くさせてくれる問であった。 もろもろの支配の上に主を十字架につけてしまった私どもに、命、血潮まで捧げてくださった主イエス。ただ十字架の主のみ、私どもの力。その恵みに私どもは日々生かされている。それを日々思い起こす恵み、それが「み言葉に聴く」ということである。 |
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「聖霊の注ぎ」ということを、ヨエル書のみ言葉から聴きたいと思います。 1節「その後」と言われています。新共同訳の3章はユダヤ人の聖書の区切りに合わせたもので、口語訳では2章の終わりに続いています。 3章はこの2章の「祝福の約束」のあとで、さらなる約束、それは人間の及びもつかない遥か遠い未来にも恵みが与えられていることを示す言葉です。今の祝福だけに止まらない、神は終りの日の約束まで与えていてくださる。なぜなら神は恵み深く、慈しみ深い方だからです。 1節「わが霊を注ぐ」と言われます。古代の人々は「神の霊」を吹きすさぶ「嵐」と表し、神の絶大な、圧倒する力を示しました。神の霊とは「神の力」を表すのです。「わが霊を注ぐ」とは、神の圧倒する力が臨むということです。 神の霊を注がれることは、神の言葉をいただき、神の言葉を語る者となること(預言)であり、夢・幻(神の啓示の手段であり、神が意を示してくださる)を見るのであり、そしてそれはすべての者に与えられます。それは「すべての者が神との交わりをいただく」ことを意味しています。神との交わりは「命」ということです。主の名を呼び求める者は誰でも、神の霊を注がれ、神との生ける交わりの命をいただき神との交わりに入れられる、すなわち終わりの日の救いの完成の実現を意味しています。 私どもは、この世の支配を打ち破る神の力をいただいて、終りの日を生きています。この世に生きていますが、終末を生きている、それが教会の姿です。「主の名を呼び求める者はすべて救われる」ことを覚え、信ずる者として、主の名を呼ぶ者でありたいと思います。 私どもの人生には、さまざまな出来事があり、翻弄されるのです。しかし、変わらないものがある。それは終りの日の救いの約束です。主の名を呼ぶ時、終わりの日の祝福を先取りして生きるという、確かな保証いただいて生きることができるのです。神は私どもの存在の全てを保証してくださるお方であることを覚え、感謝したいと思います。 |
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