聖書のみことば/2007.5
2007年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主イエスの言葉を聞く」 5月第1主日礼拝 2007年5月6日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章39〜42節

4章<39節>さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。<40節>そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。<41節>そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。<42節>彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

39節「さて、」と始めて、38節までの主イエスと弟子たちのやりとりから、4章の初めの「サマリア」というところに話を戻しております。
 サマリア人はサマリアの女の証言により主イエスを信じたとあります。人間関係に破れ、共同体から疎外されたこの女が、町に戻って証言したとは驚くべきことです。主イエスと出会ったことにより、この女は変えられたのです。交わりを失っていた者が、交わりを作り出す者、語る者となったのです。「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」。実際に主イエスがそこにいるわけではないのに、「この方」と言うことにより、「わたしのことを全て言い当てた方がおられる」ことを強調しております。すなわち「この方」は「人のすべてを言い当てることのできる方、全知全能の方」だと証ししているのです。すべてを知り、知った上で語らい、向き合い、受け止めてくださった主イエス。知り尽くすことのできる方であるからこそ「受容する」ことができるのです。
 私どもは、知ったからと言って相手を受容しきることはできません。人は他者に頼らざるを得ず、丸ごと寄りかかって依存し共倒れしてしまう。人が自立することは難しいことなのです。人には人を担いきれないことを知らなければなりません。
 「私のすべてを知っている方、受容していてくださる方」、これは信仰告白です。主に受容されることは、自分自身を受容できる者となることです。そのとき、自分自身を生きることができるようになるのです。そういう恵みであることをこのサマリアの女の出来事は示しております。主イエス・キリストに出会うということは、自分を受容し自立した者となるということです。

「救いはユダヤ人から」と言われながらユダヤ人は信じませんでした。サマリア人は、本当には救いから遠い異邦人であるにも拘らず、信じる恵みに与ったのです。知っているから信じるわけではありません。異邦人は知らないから神に出会うのです。

39節「証言した女の言葉によって」41節「イエスの言葉を聞いて」とあるように「言葉」によって信じたことを強調しています。信仰は「み言葉を聴く」ことにより起こるのです。ではなぜ言葉を聴くことが信じることになるのでしょうか。それは「み言葉と共に聖霊が働く」からです。

40節「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」とあります。「とどまる」とは、ヨハネによる福音書では好んで使われる言葉なのですが「関わり」を意味します。ですから、単に泊まってくれということでなく、2日間一緒にいて、より主イエスとの交わりを深くすること、主イエスとの懇ろな交わりを通し主から直接み言葉をいただくことを示すのです。
 主のみ言葉は「命(いのち)」です。信仰生活とは、み言葉に聴く生活であることを覚えたいと思います。

42節「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と言われます。「サマリアの女の証言を聴いて信じること」と「主の言葉を自分で聴いて信じること」には違いがあるのでしょうか。
 私どもが信じるに至るのは、確かに誰かの言葉(牧者の説き明かし、キリスト者の証し、書物など)を聞いて導かれ、信仰を告白するようになるのです。けれど、それだけでは十分ではありません。信仰が根づくためには、証言を聞いて信じることにとどまらず、自分自身が主の言葉を親しく聞く、つまり聖書を読み、そのみ言葉をキリストの言葉として聴くことが大事なのです。自分の主体性を持ってみ言葉を聴かなければ、信仰が確かなものとされないのです。単に証言として聞くのではなく、み言葉をキリストの言葉として、キリストが語りかけてくださるものとして聴く、そこにこそ確かさがあるのであり、信仰の成長がある、そのことをこのところは示していると思います。
 そして、キリストの言葉を主体性を持って聞くとき、私どもは「主イエス・キリストこそ、すべての者の救い主である」ということを知るに至るのです。
 礼拝、それはまさに主イエスとの親しい交わりをいただくときです。聖書を読むとき、牧師が語るとき、祈るとき、そこに聖霊が働き、キリストが関わってくださるのです。「主イエスの言葉を聞く」、キリストが語ってくださる言葉を「聴く」という信仰を聖霊により与えられていることを覚え、キリストがいつも語りかけていてくださることを感謝したいと思います。

主の前に喜ぶ」 5月第2主日礼拝 2007年5月13日 
小島 章弘 牧師(聴者/古屋)
聖書/詩編 第96編 第1〜13節、マタイによる福音書 第4章4節

詩編96編<1節>新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。<2節>主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。<3節>国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。<4節>大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。<5節>諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ<6節>御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。<7節>諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。<8節>御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り<9節>聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。<10節>国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。<11節>天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ<12節>野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え<13節>主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。

マタイによる福音書 第4章<4節>イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

今日は、詩編96編、マタイによる福音書4章4節のみ言葉から聴きたいと思います。

詩編96編は、93編などと同様に王の即位の際に詠まれた詩です。バビロン捕囚後、6世紀頃のもので、第2イザヤの影響を受けており、内容的には大変他のものからの借り物の多い寄せ集めのような詩でありますが、同時に他所にも多く引用されております。
 詩編96編は大きく3つに分けることができます。1〜6節には「神を讃美することへの招き」、7〜9節には「主に帰せよ」との力強い呼びかけ、10〜13節には「裁き」を語り、全体として「神が公平な裁きをなさる方であることを知り、神の御前に喜ぼう」と詠っております。

今日は7節以下を重点的に聴きたいのです。「主に帰せよ」すなわち「最後には神に委ねよう」との呼びかけです。このことは頭では理解出来ても、実際にはとても難しいことです。私どもは、いつの間にか神とは別の所に居場所を見つけてしまうのです。
 今の日本を見ますと、戦後60年が経ち、何事にも「臭い物には蓋」というような解決方法しか見い出せない問題が山積しております。また、日本人の感性として「自然に帰る」ということがありますが、環境問題においても「故郷を失っている」現状です。まさに逃げ場を失っている。子どもたちも、居場所がないと訴えているのです。

しかし、この詩編に示されていることは、「神に帰る以外ない」ということなのです。バビロン捕囚後のぼろぼろの状態のイスラエルの民は、そのままの姿で「神に帰す」のであります。
 私どももこのイスラエルの民と同様に、様々な重荷を引きずったまま、この「礼拝」の場において、神の許に帰るのです。「本当に困った時には教会にも行けない…」とのつぶやきを聞くことがありますが、しかしそれは違います。私どもは礼拝において、初めて自分の中心ができる、居場所(自分が自分でいられる場所)を見つけることができるのです。ですから、神を礼拝することができることは、何にも勝る大いなる恵みの出来事なのであります。

10節以下に「喜び踊れ」と記されております。私どもは「公平な裁きのあるところ」において、心から安心して喜ぶことができるのです。本当の裁き主、神の前で、心から喜ぶことができるのであります。

マタイによる福音書4章には、主イエスさまが荒野でサタンの誘惑を退けられたことが記されております。「誘惑」とは「人を神から引き離そうとする力」です。私どもも、この誘惑に取り巻かれた中で生きているのです。主イエスでさえも、その悪の力と常に戦っておられたのであります。

「神の裁きの公平さを信じ、常に神に帰ること」が私どもに求められております。
 私どもは、ともすると多くの偶像を自ら造るものです。ディートリッヒ・ボンフェッファは「礼拝とは、偶像から解放される時である」と語っております。
 真の神に支えられていることを知り、公平な裁きをなされる神の前に身を置きひれ伏す、礼拝の生活を守る者でありたいと思います。

主イエスを歓迎する」 5月第3主日礼拝 2007年5月20日 
北 紀吉 牧師(聴者/北(ま))
聖書/ヨハネによる福音書 第4章43〜54節

4章<43節>二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。<44節>イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。<45節>ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。<46節>イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。<47節>この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。<48節>イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。<49節>役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。<50節>イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。<51節>ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。<52節>そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。<53節>それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。<54節>これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

サマリア人の町で2日間滞在し、主イエスはお言葉をくださった。サマリアで「主イエスこそ、この世の救い主」という信仰の告白を受けて出発された。

ガリラヤは主イエスの故郷、そのガリラヤの人たちは主イエスを歓迎したのか。44節の「故郷」はガリラヤを指すのか。45節の「歓迎」とはどういうことか。
 ガリラヤの人たちが主イエスを歓迎した理由は、エルサレム神殿で主イエスが奇跡を行われたからである。どんな人として歓迎したのか。それは「奇跡を行う人」としてである。サマリアの人たちはそうではなく「救い主」として信じた。

果たして生まれ故郷とはどこを指しているのか。ヨハネによる福音書1章11節「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書かれている。自分の属する者のところ、主イエスが属する者たちとは、エルサレムを中心としたイスラエルのユダヤ人たちである。その者たちはイエスを受け入れず十字架につける。
 事柄を複眼的に見ると、違う方向から見ることによって、より深めて受け取ることができる。

主イエスが救い主として来られたのに、多くの人が奇跡行為者としてとらえた。主が「神の子メシアとして奇跡を行うことができる」という根底を思わずに。
 主は、この世の様々なものに支配されている人々を悪霊の支配から解き放ってくださった。様々なものに捕われ苦しんでいる者を憐れんでくださったメシアである。神を指し示す奇跡の業は、神の憐れみでなくては意味がない。
 私どもを解き放つ主の御業、私どもを主のものとして主が覚えていてくださる。
 神の憐れみを思い出すこと、救い主を見るとは主を敬うことである。

ヨハネによる福音書1章10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」。この世は主に属するものであるのに、主に敵対した。エルサレムは主を受け入れなかった。エルサレムにとどまらず、「この世」とはユダヤ人たち。故郷の拒否とは、この世の拒否である。この世、すなわち私どもが主イエスを救い主と認めない。
 私どもの罪が主を十字架につけている。この私の罪のために主が十字架につけられた。救い主として主を崇めず、十字架につけた張本人の私どもの贖いのために、十字架についておられる主。私どもの罪がそこに歴然としている主の十字架。赦された罪人である私どもの罪が無くなったのではない。私どもの罪の痛み、苦しみがない限り、主の十字架は贖いとして響かない。

「私どもの救い」ということを、より深くさせてくれる問であった。

もろもろの支配の上に主を十字架につけてしまった私どもに、命、血潮まで捧げてくださった主イエス。ただ十字架の主のみ、私どもの力。その恵みに私どもは日々生かされている。それを日々思い起こす恵み、それが「み言葉に聴く」ということである。

わが霊を注ぐ」 聖霊降臨日主日礼拝 2007年5月27日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨエル書 第3章1〜5節、使徒言行録 第2章1〜4節

ヨエル書2章<12節>主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。<13節>衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。<14節>あるいは、主が思い直され/その後に祝福を残し/あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を/残してくださるかもしれない。

ヨエル書2章<25節>わたしがお前たちに送った大軍/すなわち、かみ食らういなご/移住するいなご、若いいなご/食い荒らすいなごの/食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。<26節>お前たちは豊かに食べて飽き足り/驚くべきことを/お前たちのために成し遂げられた主/お前たちの神なる主の御名を/ほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。<27節>イスラエルのうちにわたしがいることを/お前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。

ヨエル書3章<1節>その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。<2節>その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。<3節>天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。<4節>主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。<5節>しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

使徒言行録2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

「聖霊の注ぎ」ということを、ヨエル書のみ言葉から聴きたいと思います。

1節「その後」と言われています。新共同訳の3章はユダヤ人の聖書の区切りに合わせたもので、口語訳では2章の終わりに続いています。
 2章12節以下では、今こそ神に立ちかえれと「心からの悔い改め」が勧められています。そして苦しみの中で心から悔いる者に、神は下した災いを悔いてくださるというのです。憐れみ・恵みに富んだ神だから、慈しみの神であるからこそ、悔いてくださるのです。
 神が下した災いとは何か。2章25節にあるように、いなごの大軍が作物を食い尽くしたことによる飢饉が幾年も襲ったのです。にもかかわらず14節「主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない」とは、神の憐れみにより収穫(食べ物)を得る、つまり神によって生かされる祝福を示しています。幾年もの損害の中で、悔い改める者に与えられる豊かな祝福とは、すなわち「神を神として知る恵みに至る」(27節)ということです。

3章はこの2章の「祝福の約束」のあとで、さらなる約束、それは人間の及びもつかない遥か遠い未来にも恵みが与えられていることを示す言葉です。今の祝福だけに止まらない、神は終りの日の約束まで与えていてくださる。なぜなら神は恵み深く、慈しみ深い方だからです。

1節「わが霊を注ぐ」と言われます。古代の人々は「神の霊」を吹きすさぶ「嵐」と表し、神の絶大な、圧倒する力を示しました。神の霊とは「神の力」を表すのです。「わが霊を注ぐ」とは、神の圧倒する力が臨むということです。
 士師記には、サムソンに再三再四、主の霊が激しく下ったと記されています。旧約聖書の意味するところの「霊が下る」とは、神の絶大な力を表すのです。また、エゼキエル書37章5節「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」とあるように、神の霊をいただくことにより、命をが与えられることを示しております。死した者が命を与えられるのです。また、新約聖書の使徒言行録でも「嵐」として霊が注がれることが記されており、それは神の圧倒する力です。「炎のような舌」で表されることは、熱くされる、つまり「命に満たされる」ことです。
 それはまた「すべての人に」与えられると言われております。聖霊は「息子、娘、老人、若者、奴隷」にと、何人も区別されることなく与えられ、力ある生き生きと命満ちあふれる者にされるのです。

神の霊を注がれることは、神の言葉をいただき、神の言葉を語る者となること(預言)であり、夢・幻(神の啓示の手段であり、神が意を示してくださる)を見るのであり、そしてそれはすべての者に与えられます。それは「すべての者が神との交わりをいただく」ことを意味しています。神との交わりは「命」ということです。主の名を呼び求める者は誰でも、神の霊を注がれ、神との生ける交わりの命をいただき神との交わりに入れられる、すなわち終わりの日の救いの完成の実現を意味しています。
 そしてそれは、主イエス・キリストの十字架の出来事を通し、すでに起こっている、それが聖霊降臨であります。教会は、神の言葉をいただき、語るものとして、神の絶大な力を与えられているのです。終りの日の救いの出来事(祝福)が今ここに現実となって表されている、それが教会です。教会は、今ここにある恵みを示すだけではない、終わりの日の恵みをも表しているのです。

私どもは、この世の支配を打ち破る神の力をいただいて、終りの日を生きています。この世に生きていますが、終末を生きている、それが教会の姿です。「主の名を呼び求める者はすべて救われる」ことを覚え、信ずる者として、主の名を呼ぶ者でありたいと思います。

私どもの人生には、さまざまな出来事があり、翻弄されるのです。しかし、変わらないものがある。それは終りの日の救いの約束です。主の名を呼ぶ時、終わりの日の祝福を先取りして生きるという、確かな保証いただいて生きることができるのです。神は私どもの存在の全てを保証してくださるお方であることを覚え、感謝したいと思います。