聖書のみことば/2007.4
2007年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
イスラエルの王」 棕櫚の主日礼拝 2007年4月1日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章12〜19節

12章<12節>その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、<13節>なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」<14節>イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。<15節>「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」<16節>弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。<17節>イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。<18節>群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。<19節>そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。

今年はヨハネによる福音書からみ言葉を聴き、受難週を覚えたいと思います。

12節「祭り」とは過越祭です。ユダヤ人にとってはイースターだというのです。過越祭は、まさしく「罪の赦しと救い」により神の民とされた(出エジプト)ことを記念する祭りだからでしょう。

今日の聖書箇所の前、11章55〜56節によりますと、主イエスがエルサレムに来られることを心待ちにしていた人々がいたことがわかります。
 13節「なつめやしの枝を持って迎えに出た」とは、喜びを表しているのです。「なつめやし」は「棕櫚」、イスラエルの人々には大切な木です。実を結ぶまでには40年かかりますが、150年にわたって実をつけるのです。なつめやしは「勝利の印」、王の勝利の凱旋を迎えるために用いられました。ですからここで言われていることは、主イエスのエルサレム入城は、人々の待ち焦がれていた勝利の王の凱旋であることを表しているのです。
 「ホサナ」とは本来「助けてください」という叫びです。群集の「ホサナ」という神の助けを求める言葉は、神への賛美の言葉となりました。「助けを求めること」それは、助けがそこにあるということを知っているということです。ホサナは助けを見たものの歓声なのです。私どもが助けを求め得るのは「神がそこにいますことを知らされている」からです。求めることができるのは恵みの出来事です。祈れることは恵み、助けを求めることは恵みなのです。「助けてください」と言い表すことは、「神は助けてくださる方」であるということを言い表すことなのです。
 「主の名によって来られる方」とは、神の臨在を告げる言葉です。まさに主の御名をいただいている(知る)ことは神の臨在にあずかる恵みなのです。
 「祝福」とは、私どもにとっては恵みを受けることですが、「キリストへの祝福」とは、キリストの御名を大きくすることです。主を大きくし、自らは小さくなる、キリストを賛美することであることを覚えなければなりません。神が大きくされることなのです。

14節、賛美を受けながら主イエスがなさることは、「ろばの子」を見つけてお乗りになったというのです。敢えて「ろばの子」を探してお乗りになった。勝利者の凱旋であれば名馬といわれるものに乗るでしょう。主イエスを喜んで迎えた人々はどんな思いで見たでしょうか。人々から見れば似つかわしく思わなかったでしょう。しかしここは、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の預言の成就なのです。他の福音書では「柔和の王」として言い表しています。「柔和の王」それは弱々しい姿、見栄えのしない王としての姿で勝利の凱旋をされたということです。人々の求める「イスラエルの王」は政治上の王として、ローマ支配からの解放、そして全世界を武力をもって支配・君臨する王を考えていたでしょう。
 しかし「ろばの子」が表す王の姿とは、人々の弱さを担ってくださる王、無力さ(罪による)・罪を負う者としておいでくださった王の姿なのです。ヨハネによる福音書では「柔和の王・平和の王」ということを記しません。

15節「シオン」はエルサレム、「娘」はエルサレムの人々です。「ろばの子に乗って」「勝利の王としてのエルサレム入城」とは何を示すのでしょうか。
 16節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき…」とあるように、まず弟子たちには分からなかったのです。「主の栄光のとき」とは、昇天され神の右に座されるときです。そのとき、主イエスは弟子たちに「聖霊」を送ってくださることを約束してくださいました。「聖霊」は「救いの出来事を知らせる神の力」であります。主イエスの十字架の出来事、復活され昇天されたことは、聖霊によらなければ知ることはできないことを覚えなければなりません。主イエス・キリストの出来事を知らせる力が与えられる、それが聖霊を受けるということです。

17節「ラザロを死者の中からよみがえさせたイエス」と「イエスのエルサレム入城」とが結びつけて語られているのがヨハネによる福音書の特徴です。ヨハネによる福音書では、主イエスが政治的な勝利の王としてではなく、死の支配からの解放者、勝利者、勝利の王として来てくださったということが中心に語られます。主イエスが復活してくださったことによって、誰もが最後には支配を受ける「死」からの解放、勝利を与えてくださったと述べているのです。それは、主イエスを信ずる者に与えられる勝利です。
 「永遠の命」をヨハネによる福音書は強調します。主イエスは死に打ち勝ってくださいました。私どもも主イエスを信じることにより死に打ち勝つ者とされ、永遠の命が与えられるのです。死でしかない者が、永遠の命に至る者とされるのです。「永遠の命」とは「決して絶えることのない神との生ける交わり」です。神との尽きない交わりを私どもに与えるために、主イエスが来てくださったことを覚え感謝する者でありたいと思います。

我が主よ、我が神よ」 イースター礼拝 2007年4月8日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第20章24〜29節

20章<24節>十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。<25節>そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」<26節>さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<27節>それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」<28節>トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。<29節>イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

週の初めの日の朝、復活の主がマグダラのマリアに臨んでくださったことが20章1節以降に記されております。そのマリアの証言にも拘らず、弟子たちは鍵をかけて引きこもっていたのでした。主イエスを十字架にかけたユダヤ人を恐れたからです。しかしそんな弟子たちの真ん中に主イエスはお立ちになり、「あなたがたに平和があるように」と言われ、彼らの恐れを取り除いてくださいました。
 主イエスは、私どもの現実の問題を担ってくださり、平安を与えてくださる方です。様々な事柄に恐れるがゆえに引きこもってしまう。現代社会の複雑さに、心がついていけない。しかしそのような困難さの中にあって、主イエス・キリストが臨んでくださるからこそ、私どもは平安を得るのです。

25節、「主を見た」という証言にも拘らず、信じるに至らなかったトマス。トマスは囚われていたのです、主の十字架の死に。「主は十字架に死んだ、復活は信じられない」との思いは無理からぬものでありました。「釘の跡」「わき腹」とトマスは言います。死をまざまざと見たのです。真実そんなこと(復活)はありうるはずがないから、信じられない、それがトマスの思いです。
 「復活の主」は、自らの思いで信じることができるものではないのです。トマスを頂点として他の弟子もマリアも同様でした。私どもは信じるに至らないのです。信仰とは、神の救いのみ業を知ることです。それは地上の出来事ではない。地上の認識ではない。神から示されてあり得る、認識することなのです。私どもの現実は「知り得ない、悟りきれない」のです。まさに神による認識です。聖霊(神の力)による出来事、それが信仰です。

トマスの言葉は一つの現実を示しています。「確かに主は死んだのだ」と。「確かに主は死んだのだ」と証ししているのです。死を信じる。しかし復活を信じられない不信仰、そこに示されることは「私どもの内に救いはない」ということです。信じられない私どもに、だからこそ神にしか救い得ないことを暗示している。「神にしか救いがない」ことを示すために、不信仰という証しを立てているのです。大切なことは、自ら信じることではありません。私どもは信じられない者なのです。主はそんな「信じられない者のために」甦られました。主イエスの復活の命は、自ら信じられない者のための命です。ですから私どもは、信じられない時も、暗に主を証ししているのです。「信じられない者の救い、罪なる者の救い」が、そこに語られているのです。それゆえ、主の十字架と復活は、この世の全ての者の救いなのです。

26節、19節にも言われるように「イエスが来て真ん中に立ち」ということが強調されております。信じられない者の中心に、主イエスはいてくださる。十字架に死んだ方が、確かに私どもに臨んでくださっていることを示しています。そして「平安あれ」とのみ言葉をいただくのです。

27節、トマスは十字架そのものを目の当たりにします。トマスは、もはや主の御傷の穴に手を入れる必要はありませんでした。十字架の死を目の当たりにし、主の臨在に圧倒されるのです。そこでトマスは告白せざる得ません「わたしの主、わたしの神よ」と。この言葉は、初代教会の最も短い信仰告白と言われます。

29節「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とは、トマスにのみ言われているのではありません。私どもに言ってくださる言葉でもあります。「見ないのに信じる人は、幸いである」。宣べ伝えられたみ言葉を信じる恵みを、私どもはいただいているのです。聖霊はみ言葉と共に働いてくださるのです。み言葉に聴くとき、私どもは信じる者とされ、罪をあがなわれ永遠の命にあずかっているということを知るのです。主のみ言葉の恵みに与る者=私どもこそ幸いなのです。ただ「我が主よ、我が神よ」と、主の恵みに感謝し信仰告白するのみです。

まことの礼拝」 4月第3主日礼拝 2007年4月15日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章16〜26節

<16節>イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、<17節>女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。<18節>あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」<19節>女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。<20節>わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」<21節>イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<22節>あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。<23節>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<24節>神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」<25節>女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」<26節>イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

今日の箇所は、宣教のことば、ヨハネの神学として知られているところです。

21節「わたしを信じなさい」とあります。「信頼してほしい」ということですが、「信じる」と「信頼」は同じなのでしょうか。ここでは、行きつく先は「メシア(救い主)」、「イエスをメシアと信ぜよ」ということです。「信ぜよ」ということによって、イエスを単に信頼すべき人とするのではなく、「イエスは救い主」という信仰の告白に導かれているのです。
 メシアであるイエスさまの到来によって、真実の礼拝が起こるのです。ヨハネによる福音書は「イエスをキリストと信じるように」と、強く迫っています。
 エルサレムでもゲリジム山でもない所での礼拝、「わたしたちは知っているものを礼拝している」と言われます。エルサレム神殿での礼拝、ゲリジム山での礼拝の時は終わり、霊と真理(まこと)をもって礼拝する時が来ていると強調しています。これは、AC80年、ヤムニア会議によってキリスト教は異端とされエルサレム神殿と完全に袂を分かったという、はっきりとした時代背景があって語られていることです。ですから、「わたしたちが知っているもの」とは、イエスさまを信じる者全て、すなわち教会が「イエスはキリストだということを知っている」のです。

23節「霊と真理をもって父を礼拝する」とは、本来、終末の時のことです。希望としての約束の出来事が、終りの日の礼拝を先取りして「今ここに起こっている」と強調しています。
 「霊と真理」とは何なのでしょうか、同じなのでしょうか。
 このことは、三位一体を語らなければなりませんので難しい表現になってしまいますが、敢えて語りますと、「霊」とは「人格的存在としての神」、聖書では「人格」を言っています。「神への執り成し」が霊の働きなのです。執り成しがなければ、人と神との交わりは起こりません。神は霊として、人との取り次ぎをなさってくださっているのです。神が霊として働きかけてくださって、私どもを新しく生まれさせてくださるのです。神に背く滅びの子でしかない私どもが、霊の働きによって神の子とされるのです。まさに聖化です。人が神の子として、神との交わりに生きるということが起こる、すなわち霊は人格にかかわってくださるのです。
 霊の働きにより、人は初めて人格者になるのです。それは礼拝によって起こることです。「人格者である」とは「立派な人」ということではありません。「神との交わりに生きる」ということなのです。すなわち「人格者」は「礼拝者」なのです。
 今、この世にあって、人は人格の大切さを思い、人格になることを求めています。しかし、人格が神との交わりにおいて起こるのだということを知りません。実は、人は知らず知らずのうちに神を求めているのです。

では真理(まこと)とは何なのでしょうか。それは「神の認識可能性」ということです。「初めにことばがあった。光があった」とヨハネによる福音書の最初に出てきますが、それはすなわち、「神が認識可能なものであってくださる」ということです。神を、わけの分からない存在としてではなく、「認識できるもの」として礼拝できるということです。イエス・キリストを通して、「ああ、このわたしを愛していてくださる神である」ことを認識するのです。

今日のこの礼拝も、終りの日の礼拝を先取りした形でいただいているのです。神を礼拝する、すなわち永遠の生命にあずかっていることを覚えたいと思います。

実を集める」 4月第4主日礼拝 2007年4月22日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章27〜30節

4章<27節>ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。<28節>女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。<29節>「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」<30節>人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

27節「主イエスがサマリアの女と話しておられることに弟子たちは驚いた」とあります。この「驚き」は戸惑い、それも否定的な戸惑いです。言葉も無かった。この事態を受け止められない、圧倒的驚きで言葉を失っていたのです。ここに一つのことが示されています。当時、ユダヤ人がサマリア人と話すことはあり得ないことでした。親しく交わりがあってはならなかったのです。しかし、あり得ないことを敢えて主イエスはなさってくださいました。これは、罪人の救いに通じる恵みの出来事です。何故ならば罪人の救いは、本来あり得ないことだからです。

主イエス・キリストこそ神の憐れみそのものです。神にとって罪人は、裁かれなければならない者であって、同時に赦さざるを得ない存在であります。今日いかに人は他者を厳罰をもっても裁ききれず、赦せないかを思います。人には裁ききることなど出来ない、故に赦せないのです。裁ききることの出来る方、ただ神の前にへりくだってこそ、赦しの出来事が起こるのです。
 なぜ裁くのか、それは罪を終わりにするためです。赦し無き裁きに平安はありません。私どもの罪の贖いのために十字架にかかられた主イエス・キリストこそ、罪を終りとする神の憐れみそのものです。「裁きと赦し」は、主イエス・キリストによって神のなされた恵みの出来事なのです。

弟子たちは「主イエスとサマリアの女の語らい」につまずきます。弟子でありながら主を身近な存在としていないのです。にも拘らず主は、弟子たちを誰よりも身近な者としていてくださることを覚えたいと思います。「主が」弟子としてくださるからであります。
 私どもがキリスト者であることも、自らの思いなのではなく、主の十字架と復活の出来事によってキリスト者で有り得るのです。ですから、私どもがどこでつまずき倒れようとも、私どもはキリスト者をやめることはできません。それは、私どもにキリスト者である根拠はないからです。根拠は主にあるのです。
 弟子たちには分からない、しかしそれにも拘らず、主は弟子たちを最も身近な者としていてくださっているのです。

キリスト者とされた者のふさわしい在り方とは何でしょうか。キリスト者はキリストを表す、指し示すことが、キリスト者として神の恵みに応えることです。それが行きつく目的です。私どもは、わけもわからずキリスト者であります。神の慈しみによってキリスト者であります。ですから神を賛美する者です。神を礼拝することが麗しい姿です。「わたしを救ってくださったキリストがいます」ことを表し賛美する、礼拝することが、あるべき姿で主を証しすることなのです。礼拝は、私どもの存在が確かなものとされる時でもあります。キリスト者にとって自らの存在を確かにするのは礼拝でしかないのです。

28節「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」とあります。水がめに水を満たしておくことは生活に必要な水を用意することです。それが水も汲まずに町へと戻っていった。そこに水以上に大切なものを見い出したからです。しかも自分を疎外している人々のところに行ったのです。それらの人々にも語らずにはいられない。全ての者に大切なもの、与えられているものであることを伝えずにはいられないのです。最も大切なものを見つけた人は、もはや何も恐れないのです。人目を恐れ隠れていた者が語る者となり、自分を蔑んでいた人々に、「さあ、見てください」と指し示す、彼女が指し示すものは「主イエス・キリスト」です。
 そして言うのです、主イエス・キリストを「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人」であると。「人の思いと行いの全てをご存知で、それを言い表すことのできるお方である」ことを示しています。それは人間の業ではないのです。人は、自分の思いを完全に言い表すことはできません。それが出来るのは神のみなのです。主イエスは神の力を宿す方であることを、サマリアの女は示したのです。
 人は自分の全てを理解し言い表すことはできません。人は、神にあって理解される者なのです。神は人の全てを知る方ゆえに救い得るお方なのです。
 自分を言い表せない、自分自身を十分把握できず語れない。それは現代人の苦しみです。人を恐れている。自分自身を言い表し得ないがゆえに自分を人から遠ざけるしかない。引きこもりが起こるのです。しかし全てを知っていてくださる神に向い、自分自身を言い表わせるようになるとき、人は慰められるのです。神に向かうしか自分を解き放つところはないのです。
 「わたしの全てを言い当てた方」という言葉は彼女の信仰告白であり、ヨハネによる福音書の真髄です。私どもの言い表すこのできない自分自身の奥深くにある思い、けれど主はご存じでいてくださり、主は受け入れていてくださり、主の方で私どもをキリスト者としていてくださる。私どもは「主に知られている、受け入れられている者」なのです。率直に、主にすがりつく以外に救いは無いのです。主に知られ受け入れられている者として、自らの存在を確かにし、自らを愛する力を与えられているのです。

労苦の実にあずかる」 4月第5主日礼拝 2007年4月29日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章31〜38節

<31節>その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、<32節>イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。<33節>弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。<34節>イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。<35節>あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、<36節>刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。<37節>そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。<38節>あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

31節「その間に」と言われています。それは、サマリアの女が町へ行き、サマリアの女の証言によってサマリアの人々がイエスのところにやってくる(30節)までの「間」です。食糧の買い出しに行って戻って来た弟子たちは、その間に主イエスに食事を勧めている。主イエスを指導者として尊敬し、敬意をもちながら食事を勧めているのです。しかしこれに対して主イエスは、感謝を表すどころか、労う言葉でもなく、意外にも「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)と言われます。弟子たちは「だれかが食べ物を持ってきたのだろうか」と大騒ぎになります。弟子たちにはまったく理解できず、自分で納得する言葉を探すのです「だれかが持ってきたのか…」と。実はこのことは「その間」と関係するのです。買い出しに行っていた弟子たちは、主イエスとサマリヤの女との会話の場面に居合わせませんでしたから、知らなくて当然です。いえ、誰にも主のおっしゃったことは分からないのです。私どもには、神の子主イエスの思いを知り切ることなど出来ないのです。私どもは「主の思いを知り得ない者」として、だからこそ主に聴くことが大事なのです。知らないからこそ、主の言葉をいただくことができるのです。ですから、厳しい主の言葉も、聴く姿勢を起こさせてくださる主の恵み、慈しみなのです。

34節「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と主イエスは言われます。その「成し遂げる」とは、「主の十字架」を意味するのです。ヨハネによる福音書では、19章28節の主の十字架の場面でこの「成し遂げる」という言葉が使われているのですが、「成し遂げる」とは父なる神の御心を行うこと、すなわち「十字架」なのです。ですから「主イエスの食べ物」とは、「十字架において成し遂げてくださった私どもの救い」を意味するのです。「私どもの救い」そのことが、「主イエスの最も欲すること、喜び」であることを教えています。主イエスは私どもの救いのためにおいでくださり、救いを完結してくださるのです。
 生命の充実は、たくさん食べることによって与えられるのではありません。自ら成すべきことをどのように成してきたかが重要なのです。「食べる」ということを考えるとき、飽食は命を縮めることを覚えなければなりません。「生命の充実」は生きるべきを生きる、自分の分を、自分自身を生きることです。主イエスは私どもの救いを現実のものとするために御業を成し遂げてくださった、そこに主イエスの充実があるのです。一体何をすべきかを見い出せないという現実に、私どもの空しさがあります。まさに主は、自分の使命を生きる時に生命の充実があることを私どもに示してくださっているのです。
 本当に自分自身を生きているかどうか。神の前に自分がいかなる者であるかを知り、神の御心に生きる、その上で何を成すべきかを見い出すことです。
 弟子たちは主を理解し得ない者です。しかし、主の弟子であることは主の憐れみです。分からない者を、主が、弟子としていてくださるからです。

35節「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか」とは、収穫までには時間があるということです。「わたしは言っておく」とは、大事なことを言う時の枕言葉です。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」、主イエスの目には「色づいて刈り入れを待っている」と言うのです。そこにサマリヤの人々の救いを見ているからです。知っているからです。主イエスはサマリヤの人々の救いまで見ていたのです。弟子には種を蒔いたばかりの荒涼とした畑にしか見えない、しかし主イエスは刈り入れ時、人々の救いを見ているのです。
 ここに神と私どもの驚くべき相違があります。「主が」救いを見ていてくださる。そこに確かさがあるのです。私どもが救いを見い出せない時にも、主は救いを見ていてくださる。そこに確かさがあるのです。主の目の確かさが私どもの救いの確かさなのです。
 そして、私どもの救いは、主である神の喜びなのです。それが神のあり方です。

37節、あなたがたを種を蒔くために遣わすのではなく、収穫のために遣わすと言ってくださるのです。私どもを主の救いのために用いてくださり、救いの業にあたらせてくださるのです。刈り入れのために、私どもも遣わされているのです。
 弟子たちは食事のために仕えようとしておりました。しかし主は、救いの御業のために遣わしていてくださるのです。「収穫のために遣わす」という言葉で表されていることは「伝道」です。伝道の業は、主の業として、主が私どもに委ねていてくださる奉仕なのであり、喜びの業なのです。感謝したいと思います。