聖書のみことば/2007.3
2007年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
証しを受け入れる」 3月第1主日礼拝 2007年3月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章31〜36節
3章<31節>「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。<32節>この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。3章<33節>その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。<34節>神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。<35節>御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。<36節>御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

31節「上から来られる方」とは、主イエス・キリストを指します。神から遣わされた者として全てのものの上におられるのです。全てのもの、それは神の創られた被造物です。主イエス・キリストはこの世に、神として、全てに勝ってお出でくださったのです。
 主イエス・キリストは天に由来する方なのであって、地に根拠はないのです。「地に属する者として語る」とは、地について語るのです。すなわち人(地に属する者)は、自らを語り、自らに属するものについて語るのです。そこに人の限界と罪があります。自分を語る他なく、自分を離れて語れないからです。主イエスは神を語っているのであって、そこに人との大きな違いがあります。

32節「見たこと、聞いたことを証しされる」、それは主イエスが父なる神を証ししておられるということです。神を明らかにしてくださるのです。私どもがどこで神を知るか、そのことと関係するのです。私どもは主イエス・キリストにおいて神に出会うのです。私どもは神に耐えない者であって、神に直接聞くことはできません。ただ主イエス・キリストに聞くことで、神に聞くということが起こるのです。
 私どもの証しは、ここに神が居られる、ここに救いありと指し示すものですが、主イエスの証しは神の臨在を示す(神の自己啓示)のです。
 主イエスを見る、聞くことによってこの世は神を見る、聞くのです。しかし、主の証しを誰も受け入れないと記されます。主の証しは天に属するものであって、人は地に属するがゆえに受け入れることが出来ないのです。天と地は全く相容れないものであります。「天からの証しを受け入れない」それは「罪」です。
 「遣わされた方」ということを理解しておきたいと思います。地が証しを受け入れないにも拘らず、天の方から一歩を踏み出して地にまで進み出てくださった、ここに神の愛の出来事があるのです。たとえ地が証しを受け入れない者でも、神は身捨てず、慈しんでくださる、ゆえに踏み出してくださるのです。
 主イエス・キリストの到来は、この世の闇を示すのです。誰も証しを受け入れなかったということは、罪深さゆえに、地には全く救いがないということを鮮やかにしているのです。ですから、救いの恵みを語る前に、罪の深さを思うべきなのです。深い罪、それにもかかわらず神は臨んでくださるのです。人に救いが無いがゆえに、主イエスは十字架につかれたのです。私どもの神を受け入れられない罪深さが、主のご受難と十字架の出来事なのだということを覚えたいと思います。
 罪が鮮やかになり、救い難さが明らかになることを通して、初めて人は救いの恵みを知り、救いへと至るのです。従って、罪が明らかにされることは、既に恵みなのであります。

33節、しかし人の思いでは証しを受け入れることができません。聖霊の働きによって初めて救い主を受け入れることができるのです。聖霊により、神の真実を確認するのです。

34節、聖霊は御言葉と共に働くのです。「神が真実であることを知る」ことは信仰に至る道なのであり、したがって信仰は聖霊の働きにより与えられるのです。聖霊を受け信じた者が、神が真実であることを知るのです。
 神が神として、この世に対しどこまでも神として臨んでくださって初めて、人は神を神とし、真実として知るのです。あくまでも神は把握しがたいもの、人は神を自分の方へ引き寄せ、救いを自分の思いに転嫁してしまう罪を持っています。それほどに、神を神とすることには難しさがあるのです。しかし神は神として、私どもに臨んでくださる。神が神であるからこそ、罪がわかるのです。
 人は、真実に人であることはなかなか出来ません。人はすぐ神になる、自分が第一になるのです。ですから、人が人であることは難しいのです。そこに人の真実の無さが明らかなのだということを知らなければなりません。人は自らを第一とし、神を失い真実を失っているのです。
 人が真実であり得るには、ひたすら神を神として崇めるしかないのです。人の真実は、神を神として拝することにあります。神を礼拝するとき、人としての真実を見るのです。礼拝、そこでこそ人は人であり、神は神なのです。礼拝をしない、祈りを失っているところには真実はありません。闇であり滅びでしかないのです。御言葉を聞く、そこに神の霊が働きます。神が生きて働いてくださることなくして、人は真実たりえないのです。

35節、父なる神は、全権を御子イエス・キリストに委ねられました。

36節、御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を得ているのです。終りの日の救いが、既に今、与えられているのです。死が臨んでなお、死で終わらない、死を超えて生きる者として、「永遠の命」を既に受けているのです。

サマリアの女」 3月第2主日礼拝 2007年3月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章1〜15節
4章<1節>さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、<2節>ー洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちであるー<3節>ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。<4節>しかし、サマリアを通らねばならなかった。<5節>それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。<6節>そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。<7節>サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。<8節>弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。<9節>すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。<10節>イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」<11節>女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。<12節>あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」<13節>イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。<14節>しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」<15節>女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

1節「さて、」と、話を新しく展開させています。

主イエスが洗礼を授けておられることの注意書きとして2節、洗礼を授けていたのは弟子たちであったことが記されております。つまり、弟子たちによる洗礼は主イエスの洗礼なのであります。「弟子たち」とは「教会」を示します。ですから、今日教会での私どもの洗礼は、まさしく主イエスご自身がなしてくださっているものなのです。「洗礼」とは、キリストのものとなる、しるしを受けることです。そこに主イエスご自身が働いてくださるということは、キリストの恵みに与ることそのものなのであり、教会が洗礼の業をさせていただくということは光栄この上ないことなのです。

3節、ファリサイ派の反発を知り、主イエスがユダヤを去られたと記されます。そこで4節、サマリアを通ることはガリラヤへの近道でありました。しかし、ユダヤ人は一般的にサマリアを避けるのです。それは、歴史的な経緯により、ユダヤ人はサマリア人と交わりを持たない、口も利かない程憎んでいるからでした。サマリア人は、かつて北イスラエル・南イスラエル陥落時、バビロン捕囚に前後して、地に残された信仰的に弱い人々が他宗教と混合して起こった民なのであり、戦いにより互いに神殿を傷つけ合うような間柄であったからです。
 したがって、7節で主イエスがサマリアの女に親しみをもって語りかけられたことは、とても考えられないことであります。また、水を飲まれたと記されていないことからも、サマリアに来られたことは、水を飲むことを目的としていなかったことが窺えます。では何故サマリアを通られたのか。4章の後半に記されますように、サマリヤはこの「サマリアの女」の出来事をきっかけにして、主イエスの宣教の地となるのです。主イエスは「ファリサイ派を恐れて…」という形をとって、これを好機として用いて、本来は救いの対象と考えられない人々までも救いの対象としてくださったのであります。
 人は、他者の怒りの前に救いを見ることはできません。しかし主イエスは、本来何者をも恐れる必要のない方であるにも拘らず、人の恐れをもご自分のものとしてくださいました。そして主の救いの業は広められるのであります。まさに私どもの思いを超えた主の豊かな力、主の救いの豊かさ、有り難さを改めて覚えたいと思います。

6節「イエスは旅に疲れて…」、主イエスは私どもと同じく、「疲れる者」となってくださり、私どもの疲れを知っていてくださるのであります。
 それは「正午ごろのこと」と記されます。正午ごろ、水を汲みに来ることは尋常なこととは言えません。水汲みは女の仕事ですが、時間は朝夕の2度であり、一番暑い真昼に水を汲むことは、本来ないのであります。ここに、このサマリアの女が、村という共同体から疎外されている日陰者であり、水を汲むにも人目を避けなければならない状況にあることがわかります。
 しかし、主イエスはその全てを知っておられた上で、声をかけられるのであります。しかも「なぜ、昼間に水を汲むのか?」とは問わないのです。「水を飲ませてください」と頼むことで、サマリアの女が素直に語れるようにしてくださるのです。「主が願い出てくださる」ことは、彼女にとってどれほど大きな驚きであり喜びであったことでしょう。誰にも必要とされない者、人々から汚らわしいとされた者を、主は必要な者として呼びかけてくださったのであります。
 人は、いつしか誰からも必要とされなくなる時が来ることを覚えたいと思います。しかし、主は私どもを愛し、慈しむがゆえに、必要な者としていてくださるのです。
 主の招きの言葉があるからこそ、人は心を開くことができ、素直になることができるのであります。

主イエスと会話により、サマリアの女は人としての存在が与えられました。主イエスの言葉を与えられることは、私どもを豊かにし生かしてくれる恵みなのです。

主イエスの「水を飲ませてください」という一言が、主イエスのみ言葉が、私どもに交わりを、人格を、必要な存在としての人の尊厳を与えてくださるのであります。

永遠の命に至る水」 3月第3主日礼拝 2007年3月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章7〜26節
4章<7節>サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。<8節>弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。<9節>すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。<10節>イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」<11節>女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。<12節>あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」<13節>イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。<14節>しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」<15節>女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」<16節>イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、<17節>女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。<18節>あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」<19節>女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。<20節>わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」<21節>イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<22節>あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。<23節>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<24節>神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」<25節>女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」<26節>イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

今日は、主イエスとサマリアの女との会話に聴いていきたいと思います。

「水を飲ませてください」に始まる主イエスとサマリアの女の問答です。「どうしてサマリアの女の私に頼むのか」という問いに対する主イエスの答えは、サマリアの女に「主イエスへの驚きと興味」を与えるものでした。10節の主の答えは、その問いに対する答えとしては納得できない、想定外のものであると言えます。しかしこの問いかけを好機としてサマリアの女は「神の賜物があるのだよ。主を知るチャンスがここにあるのだよ」と招かれているのです。この女が知らなければならないこと、すなわち神の賜物、主イエスとはどういう方か、生ける水とは何か、その3つの答えが、主イエスとの会話を通して示されるのであります。
 サマリヤの女に驚きと興味を起こさせた主イエスの答え。そのことにより神の恵みを知る者へと導かれるのです。改めて確認しておきたいことですが、主イエスの答えは一見トンチンカンと思えるものですが、相手に驚きと興味が沸き上がるように意図されているのです。
 「会話」の中で大事なのは、真実に(先入観なく)言われていることを聴き取ることです。普通に会話をする場合、自分を中心に会話してしまう、自分の思いを確認するものになってしまうものです。しかし、主イエスとの会話は、その人に納得を与えるのではなく「驚きと興味」を起こさせるのです。そしてそのことは、相手に「問い」を起こさせるのであります。「問い」を持つことは「知ること」への導きであることを忘れてはなりません。主イエスとの会話により、驚きと興味が与えられ、主が用意してくださる答えへと導かれるのです。それは恵み深いことです。

11節「水をくむものを持っていない。井戸は深い」など、サマリアの女は新たにトンチンカンな問いを発します。しかし「問い」にあることは既に導きのうちにあるのです。主イエスを「主よ」と呼んでいるように、内容はトンチンカンなものであっても、主イエスを、自分の問いに答えてくださる方、導き手であると感じているのです。

12〜14節、「生きた水はどこにあるのか。あなたはヤコブより偉いのか」と、サマリアの女は分からないなりに新たな問いを発します。主の言われるまま問うているのです。主イエスの答えは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それは「永遠の命の水」すなわち「救い、永遠に絶えることのない神との交わり」だと言うのです。
 15節、このことについても女は言います「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と。日中の水くみは重労働です。できれば、もう来たくないのです。彼女の思いは主との会話で率直なものとされている、これは大事なことです。人は率直にならない限り慰めを得られないからです。人は人との対話によっては率直になれません。この女こそ率直になれない現実の状況にあるにもかかわらず、主イエスとの会話によって率直になれたのです。なぜでしょうか、主イエスとの会話の中で、主が自分を受け止めていてくださることを知ったからです。素直になれることは慰め深い、大いなる恵みです。まさしく私どもに何が必要なのかが示されています。主と対話することで、主が私どもを受け入れて下さる、引き受けていてくださる恵みを知るのです。サマリアの女は「生ける水は何か」を理解したわけではありません。しかし理解することが大事なのではなく、こんな自分を受け入れていてくださる、その主がいますことを知ることが大事なのです。

16節、主イエスは女に「夫を連れてきなさい」と言います。女は「夫はいない」と率直に答えます。主イエスはそのことを誉めてくださるのです、「ありのままを言った」と。彼女は取り繕うこともできたのに取り繕うことをしませんでした。5人の夫をもつというサマリアの女は、真実の愛になく、愛に破れ、かりそめの愛に生きていた人です。そんな彼女が「ありのまま」に言えるのは、主がありのままを引き受けてくださるからであります。決して「ありのまま」が良いわけではありません。キリストなしのありのままは、ただの傲慢に過ぎません。ありのままを赦された者であるからこそ、恵み深いのです。

19節、サマリアの女は、主イエスを神からの者と感じたのでした。人は主イエスとの会話のなかで自分自身を素直にできるのであり、自分のありのままを受容し言い表せるのです。ただ、主が受け入れてくださるからです。
 私どもが素直になれるのは、主との語らいの中にあってのことです。日々の生活の中で、御言葉に聴きつつ主との語らいのときを大事にしたいと思います。

メシアはこのわたし」 3月第4主日礼拝 2007年3月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章16〜26節
<16節>イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、<17節>女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。<18節>あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」<19節>女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。<20節>わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」<21節>イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<22節>あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。<23節>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<24節>神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」<25節>女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」<26節>イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

16節「その水をください」というサマリアの女の言葉を受けて、主イエスは言われます、「夫をここに呼んで来なさい」と。女は率直に「夫はいません」と答えます。それに対しイエスは「あなたはありのままを言ったわけだ」と言われます。主イエスは既に、この女の全てを知っておられるのです。知っておられるがゆえに声をかけ、女が何を本当に必要としているか、そこへ導いておられるのです。
 人間は自分が何を求めているか分からないのです。しかし主イエスは私どもの全てをご存知で、私どもに何が必要であるか、主イエスのみ知っていてくださるのです。この女以上にこの女の全てを御存じで、会話を通して、求めるところに導いておられる。「永遠の命に至る水」を必要としている、そのところに導き、「その水をください」と自ら求めるまでに導いておられる、切実な求めにまで導いておられる。主イエスは、女の本心を衝きながら導いておられるのです。そして、女は自らのありのままを言い表すまでになりました。

「5人の夫」というのは、何かを象徴していると考える説があります。アッシリアの占領により5つの都市から来た移民を表し、夫は偶像であって、偶像礼拝しつつ、今6番目の夫としてイスラエルの神を信仰している、そういう有力な解釈があります。しかしここでは、女が正式な結婚をしないで男と住んでいる、みだらな女であることを印象づけていると考えてよいのです。昼間に水を汲みに行くということは、この女がサマリアの共同体からはじきだされている存在だということです。

19節、女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と、主イエスを「神からの人」として見ています。20節の「この山」とはゲリジム山のことで、サマリア人の神殿がありました。しかしユダヤ人はエルサレム神殿以外を認めず、サマリア人を憎んでおりました。サマリアの女は礼拝へと思い至ります。そして主イエスを、全てを知っている方と信じ、正しい礼拝はどこで行われるべきかを問うたのです。それに対し主イエスは「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。「どこで礼拝するかは問題ではない、主を信じることが何よりも大切だ」とおっしゃったのです。誰を信じて礼拝しているかが大事だとおっしゃったのです。場所ではなく「誰を」ということです。このことは、私どもにとっても大切なことです。主イエスは、場所を特定せず、今ここで為されている礼拝を良しとしてくださるということだからです。
 「主を信じること」は「主を礼拝すること」だということを忘れてはなりません。信仰は自分の心の問題、慰めではないのです。「信じる」とは「礼拝」を意味するのです。心の中で信じていればよいのではなく、教会のこの場で共に礼拝することがあって初めて、神の民の共同体が形づくられ、その一員とされるのです。

21節〜「わたしを信じなさい」と命じられた主は、主イエスを信じることは「父なる神を信じる」ことだと言い直し語られます。「主イエスを神のみ子、救い主として信じる」ことが求められているのです。イエスをキリスト(救い主)と信じて礼拝することが「まことの礼拝」なのであり、それは父なる神を信じることなのです。

ここで振り返ってみますと、「永遠の命に至る水をください」という問いに対する答えとして、「まことの礼拝」へと導びかれるのです。「永遠の命に至る水」はまことの礼拝を通して与えられるのであります。主イエスをキリストとして信じるがゆえに礼拝にあずかること、それは「決して失われることのない神との交わり」を受けていることです。終わりの日の永遠の命にあずかる恵みを、礼拝により、聖霊という形でいただいているのです。礼拝により、永遠の命にあずかるのだということを覚えたいと思います。

23節「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と言われます。主イエスをキリスト(救い主)として礼拝する、それが「まことの礼拝」です。主イエスをキリストと信じることは「聖霊の働き」によるのであり、主イエスをキリストと信じることこそが「真理」です。「あなたも主イエスをキリストとして信じなさい」、今がその時だ、その時が礼拝の時なのだということを鮮やかに示しております。

26節、ここで「主イエスを信じること」が求められております。これが、主イエスを神からの人と信じたサマリアの女に求められていることなのです。
 ヨハネによる福音書は「わたしを信じなさい。わたしがメシア(救い主)である」と強調し、くり返しくり返し語っております。主イエスが私どもに「信じなさい」と命じておられる。信じるしかないのです。主がおっしゃってくださるから、主の言葉には力があるから、です。「信じなさい」と言ってくださる主のみ言葉に励まされて信じることができるのだということを覚えたいと思います。