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31節「上から来られる方」とは、主イエス・キリストを指します。神から遣わされた者として全てのものの上におられるのです。全てのもの、それは神の創られた被造物です。主イエス・キリストはこの世に、神として、全てに勝ってお出でくださったのです。 32節「見たこと、聞いたことを証しされる」、それは主イエスが父なる神を証ししておられるということです。神を明らかにしてくださるのです。私どもがどこで神を知るか、そのことと関係するのです。私どもは主イエス・キリストにおいて神に出会うのです。私どもは神に耐えない者であって、神に直接聞くことはできません。ただ主イエス・キリストに聞くことで、神に聞くということが起こるのです。 33節、しかし人の思いでは証しを受け入れることができません。聖霊の働きによって初めて救い主を受け入れることができるのです。聖霊により、神の真実を確認するのです。 34節、聖霊は御言葉と共に働くのです。「神が真実であることを知る」ことは信仰に至る道なのであり、したがって信仰は聖霊の働きにより与えられるのです。聖霊を受け信じた者が、神が真実であることを知るのです。 35節、父なる神は、全権を御子イエス・キリストに委ねられました。 36節、御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を得ているのです。終りの日の救いが、既に今、与えられているのです。死が臨んでなお、死で終わらない、死を超えて生きる者として、「永遠の命」を既に受けているのです。 |
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1節「さて、」と、話を新しく展開させています。 主イエスが洗礼を授けておられることの注意書きとして2節、洗礼を授けていたのは弟子たちであったことが記されております。つまり、弟子たちによる洗礼は主イエスの洗礼なのであります。「弟子たち」とは「教会」を示します。ですから、今日教会での私どもの洗礼は、まさしく主イエスご自身がなしてくださっているものなのです。「洗礼」とは、キリストのものとなる、しるしを受けることです。そこに主イエスご自身が働いてくださるということは、キリストの恵みに与ることそのものなのであり、教会が洗礼の業をさせていただくということは光栄この上ないことなのです。 3節、ファリサイ派の反発を知り、主イエスがユダヤを去られたと記されます。そこで4節、サマリアを通ることはガリラヤへの近道でありました。しかし、ユダヤ人は一般的にサマリアを避けるのです。それは、歴史的な経緯により、ユダヤ人はサマリア人と交わりを持たない、口も利かない程憎んでいるからでした。サマリア人は、かつて北イスラエル・南イスラエル陥落時、バビロン捕囚に前後して、地に残された信仰的に弱い人々が他宗教と混合して起こった民なのであり、戦いにより互いに神殿を傷つけ合うような間柄であったからです。 6節「イエスは旅に疲れて…」、主イエスは私どもと同じく、「疲れる者」となってくださり、私どもの疲れを知っていてくださるのであります。 主イエスと会話により、サマリアの女は人としての存在が与えられました。主イエスの言葉を与えられることは、私どもを豊かにし生かしてくれる恵みなのです。 主イエスの「水を飲ませてください」という一言が、主イエスのみ言葉が、私どもに交わりを、人格を、必要な存在としての人の尊厳を与えてくださるのであります。 |
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今日は、主イエスとサマリアの女との会話に聴いていきたいと思います。 「水を飲ませてください」に始まる主イエスとサマリアの女の問答です。「どうしてサマリアの女の私に頼むのか」という問いに対する主イエスの答えは、サマリアの女に「主イエスへの驚きと興味」を与えるものでした。10節の主の答えは、その問いに対する答えとしては納得できない、想定外のものであると言えます。しかしこの問いかけを好機としてサマリアの女は「神の賜物があるのだよ。主を知るチャンスがここにあるのだよ」と招かれているのです。この女が知らなければならないこと、すなわち神の賜物、主イエスとはどういう方か、生ける水とは何か、その3つの答えが、主イエスとの会話を通して示されるのであります。 11節「水をくむものを持っていない。井戸は深い」など、サマリアの女は新たにトンチンカンな問いを発します。しかし「問い」にあることは既に導きのうちにあるのです。主イエスを「主よ」と呼んでいるように、内容はトンチンカンなものであっても、主イエスを、自分の問いに答えてくださる方、導き手であると感じているのです。 12〜14節、「生きた水はどこにあるのか。あなたはヤコブより偉いのか」と、サマリアの女は分からないなりに新たな問いを発します。主の言われるまま問うているのです。主イエスの答えは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それは「永遠の命の水」すなわち「救い、永遠に絶えることのない神との交わり」だと言うのです。 16節、主イエスは女に「夫を連れてきなさい」と言います。女は「夫はいない」と率直に答えます。主イエスはそのことを誉めてくださるのです、「ありのままを言った」と。彼女は取り繕うこともできたのに取り繕うことをしませんでした。5人の夫をもつというサマリアの女は、真実の愛になく、愛に破れ、かりそめの愛に生きていた人です。そんな彼女が「ありのまま」に言えるのは、主がありのままを引き受けてくださるからであります。決して「ありのまま」が良いわけではありません。キリストなしのありのままは、ただの傲慢に過ぎません。ありのままを赦された者であるからこそ、恵み深いのです。 19節、サマリアの女は、主イエスを神からの者と感じたのでした。人は主イエスとの会話のなかで自分自身を素直にできるのであり、自分のありのままを受容し言い表せるのです。ただ、主が受け入れてくださるからです。 |
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16節「その水をください」というサマリアの女の言葉を受けて、主イエスは言われます、「夫をここに呼んで来なさい」と。女は率直に「夫はいません」と答えます。それに対しイエスは「あなたはありのままを言ったわけだ」と言われます。主イエスは既に、この女の全てを知っておられるのです。知っておられるがゆえに声をかけ、女が何を本当に必要としているか、そこへ導いておられるのです。 「5人の夫」というのは、何かを象徴していると考える説があります。アッシリアの占領により5つの都市から来た移民を表し、夫は偶像であって、偶像礼拝しつつ、今6番目の夫としてイスラエルの神を信仰している、そういう有力な解釈があります。しかしここでは、女が正式な結婚をしないで男と住んでいる、みだらな女であることを印象づけていると考えてよいのです。昼間に水を汲みに行くということは、この女がサマリアの共同体からはじきだされている存在だということです。 19節、女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と、主イエスを「神からの人」として見ています。20節の「この山」とはゲリジム山のことで、サマリア人の神殿がありました。しかしユダヤ人はエルサレム神殿以外を認めず、サマリア人を憎んでおりました。サマリアの女は礼拝へと思い至ります。そして主イエスを、全てを知っている方と信じ、正しい礼拝はどこで行われるべきかを問うたのです。それに対し主イエスは「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。「どこで礼拝するかは問題ではない、主を信じることが何よりも大切だ」とおっしゃったのです。誰を信じて礼拝しているかが大事だとおっしゃったのです。場所ではなく「誰を」ということです。このことは、私どもにとっても大切なことです。主イエスは、場所を特定せず、今ここで為されている礼拝を良しとしてくださるということだからです。 21節〜「わたしを信じなさい」と命じられた主は、主イエスを信じることは「父なる神を信じる」ことだと言い直し語られます。「主イエスを神のみ子、救い主として信じる」ことが求められているのです。イエスをキリスト(救い主)と信じて礼拝することが「まことの礼拝」なのであり、それは父なる神を信じることなのです。 ここで振り返ってみますと、「永遠の命に至る水をください」という問いに対する答えとして、「まことの礼拝」へと導びかれるのです。「永遠の命に至る水」はまことの礼拝を通して与えられるのであります。主イエスをキリストとして信じるがゆえに礼拝にあずかること、それは「決して失われることのない神との交わり」を受けていることです。終わりの日の永遠の命にあずかる恵みを、礼拝により、聖霊という形でいただいているのです。礼拝により、永遠の命にあずかるのだということを覚えたいと思います。 23節「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と言われます。主イエスをキリスト(救い主)として礼拝する、それが「まことの礼拝」です。主イエスをキリストと信じることは「聖霊の働き」によるのであり、主イエスをキリストと信じることこそが「真理」です。「あなたも主イエスをキリストとして信じなさい」、今がその時だ、その時が礼拝の時なのだということを鮮やかに示しております。 26節、ここで「主イエスを信じること」が求められております。これが、主イエスを神からの人と信じたサマリアの女に求められていることなのです。 |
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