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今日は10節以下を学びたいと思います。 8節に言われる「風は思いのままに吹く」とは、「神の御心」を示しております。ニコデモは主イエスのおっしゃること、「新しく生まれること」を理解出来ませんでした。そういうニコデモに対して主イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われます。これは、「イスラエルの教師」を「神を求める者」と認めて、どこまでも「公に信ずる者になるように」という招きの思いで言ってくださっている言葉です。主イエスは決して見捨てないのです。 11節「わたしたち、あなたがた」と複数形が使われています。「あなたがた」は単にニコデモだけではない「信じる人々」を指しています。「わたしたち」は主イエスと聖霊を受けた弟子たち、すなわち、キリストを知り、キリストを証しする者=教会を指しています。教会は主イエスを救い主と証しするのです。人の思いによる証しではなく、神の霊によって証しするのです。人はどこで救い主に出会うのでしょうか。それは教会の宣教の業によるのです。 12節、主イエスは「地上のこと、天上のこと」を語られます。天と地、これは主イエスにおいてのみ結びつく言葉です。主イエスの言う「地上のこと」とはなんでしょうか。それは「新たに生まれる」ということです。新たに生まれることにより神の国に入るのです。霊によって、神の子として生まれるのです。「地上のこと」は「神の子として生まれること」なのです。これは即、天上に繋がるのです。ですから、洗礼を受ける(新たに生まれる)ことは天上に結びつくのです。地上で洗礼を受けることは天上に結び合わされる出来事なのです。人が新しくなるのは、自分の思いを変えることではない、ただ神の聖霊により、神の力により変えられるのです。 13節「天から降って来た者」は「神が人となった」のです。そして「すでに天に上った者」として主イエスのことを聞くのです。天上にすでにある方として、地上を共に歩んでくださる。ヨハネによる福音書は、地上においでくださった主イエスは天に上られることをくり返し述べ、十字架以上に「天に上られた方」としての主イエスを強調しています。 14節「モーセが荒れ野で蛇を上げた…」とは、民数記21章に記されていますように、蛇にかまれたイスラエルの民が、モーセが旗竿の先に掲げた青銅の蛇を見上げることで命を得たという記述によります。ですから主イエスが十字架に上げられることにより人は救われる、すなわち十字架を意味する内容でもあるのです。主イエスが十字架に上げられることによって救われることは、「天に上げられること」と一つのこととして述べている、これもヨハネによる福音書の特徴です。 |
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マルティン・ルターは、この16節を小福音書と呼びました。大変多くの人に親しまれている聖書箇所です。 この世に対する愛の根拠は、神御自身にあるのであって、人間の側に根拠はないのです。「世」といわれている言葉は、ある意味内容を持っております。神の領域に対立するものとして「世」と用いるのです。神に対立する勢力として語られています。この世は神に敵対しているにもかかわらず、神はこの世を裁くのではなく、愛する御子を十字架につけるほどに愛したというのです。愛の根拠は神にある、だからこそ「救い」が起こるのです。 16節の後半、十字架の贖いのキリスト(独り子)は「永遠の命」を与えてくださると言われます。一般的に「十字架」は「罪の赦し」と語られますが、ヨハネによる福音書では「十字架」を「永遠の命」と語るのです。「罪の赦し」は「永遠の命」にあずかることだということを示しています。「永遠の命」とは「神との決して損なわれることのない交わり」に入れられることです。それが「救い」です。 そして「永遠の命」は「礼拝」に、「祈り」にあります。なぜなら、そのところで私どもは「神との交わり」にあずかっているからです。そこにこそ命があり、自分自身を見い出すことができ、慰めを受けるのです。自らの尊厳を回復するのです。この世においては、他者に自らの尊厳を、権利として求めるということが起こってきました。そのことは、得られたとしてもその場かぎりです。そこに神はないからです。 |
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17節、主イエスがこの世に遣わされた目的は、「世を裁くためではなく、救うためだ」と言っています。神がこの世を「救いの対象」としてくださっていることが示されています。 キリスト教は「救い・恵み」が先行します。旧約聖書に記される「出エジプト」の出来事はどうでしょうか。神の救いの業が先行しています。そして、その神の恵みに応えて生きるために与えられたものが「律法・十戒」でした。救いの先行なのです。神は、相手を脅して従わせる・支配するのではありません。神は、私どもの弱さを知り、憐れみ、慰め、恵みに応える生き方を示してくださるのです。神はまず裁きでなく、救いを成してくださいました。信仰とは、救いを、恵みを受けて、それに相応しく、恵みに応えて生きることであります。 ヨハネによる福音書においての「救い」は、「罪からの救い」とは違い「永遠の命を得ること」です。 18節「裁き」とは何でしょう。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とあります。「信じないこと」そのものが「裁き」なのです。自らの思いのままに放置されることが裁きなのです。すなわち、この世(信じない者)は既に滅びの中にあるということなのです。 19節、聖書では「光と闇」について語っています。「闇」とは神に対して自らを閉ざすことです。自分しかいない、神なしに自分自身で存在しているという思い。この欲望、これが「悪い行い」です。それは孤独であると同時に、平安のない不安の状態でしかありません。これこそが裁きなのです。 20節、人は闇に生き、自ら光のもとに行って自らの罪を鮮やかにすることを望まないものです。神の導き、赦しが無ければ、自ら求めて光のもとに来る者はありません。 私どもには与えられた課題があります。それは祈ることです。ペンテコステの出来事が語るように、既に聖霊を受けた者として、家族や友人のために、まだ信仰に無い者たちのために祈ることです。祈るところに聖霊が働かれます。聖霊がとりなしてくださるのです。祈りは何より大事な業なのです。 |
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主イエスがニコデモに対し「水と霊とによって新しく生まれなければならない」と示されたことを受けて、22節「その後」、主イエスによる洗礼へとつながっていきます。 23節、主イエスの洗礼に対して、バプテスマのヨハネは水の豊かなアイノンで洗礼を授けていたとあります。本来ならバプテスマのヨハネの洗礼が終わってから主イエスの洗礼が始まると考えるところですが、どういうことでしょうか。「主イエスが洗礼を授ける、しかもバプテスマのヨハネと同時に」これはヨハネによる福音書にだけある記述です。 27節、しかしヨハネは「主イエスの洗礼は天に由来するものであって、私(ヨハネ)に由来するものではない」と明言しています。 28節、ヨハネは、自分はメシアではなく「主を証しする者」であることを強調し、更に弟子たちに対して「ヨハネについて証しすることによって、主イエスを証しせよ」と勧めています。主の弟子とは何か、主の証し人となることです。「このわたしを救ってくださった」と言い表すことです。 29節「花婿」はキリスト。「介添人」は友、ヨハネ、キリストの友です。 メシアの到来とともに新しい時が始まった。神の支配が始まったことを証しするのです。証し人にとっては、主イエス・キリストが全てです。栄光を表す、それはキリストが全てとなることです。 |
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