聖書のみことば/2007.2
2007年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
天に上ったもの」 2月第1主日礼拝 2007年2月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章1〜15節
3章<1節>さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。<2節>ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」<3節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」<4節>ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」<5節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。<6節>肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。<7節>『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。<8節>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」<9節>するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。<10節>イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。<11節>はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。<12節>わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。<13節>天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。<14節>そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。<15節>それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

今日は10節以下を学びたいと思います。

8節に言われる「風は思いのままに吹く」とは、「神の御心」を示しております。ニコデモは主イエスのおっしゃること、「新しく生まれること」を理解出来ませんでした。そういうニコデモに対して主イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われます。これは、「イスラエルの教師」を「神を求める者」と認めて、どこまでも「公に信ずる者になるように」という招きの思いで言ってくださっている言葉です。主イエスは決して見捨てないのです。

11節「わたしたち、あなたがた」と複数形が使われています。「あなたがた」は単にニコデモだけではない「信じる人々」を指しています。「わたしたち」は主イエスと聖霊を受けた弟子たち、すなわち、キリストを知り、キリストを証しする者=教会を指しています。教会は主イエスを救い主と証しするのです。人の思いによる証しではなく、神の霊によって証しするのです。人はどこで救い主に出会うのでしょうか。それは教会の宣教の業によるのです。

12節、主イエスは「地上のこと、天上のこと」を語られます。天と地、これは主イエスにおいてのみ結びつく言葉です。主イエスの言う「地上のこと」とはなんでしょうか。それは「新たに生まれる」ということです。新たに生まれることにより神の国に入るのです。霊によって、神の子として生まれるのです。「地上のこと」は「神の子として生まれること」なのです。これは即、天上に繋がるのです。ですから、洗礼を受ける(新たに生まれる)ことは天上に結びつくのです。地上で洗礼を受けることは天上に結び合わされる出来事なのです。人が新しくなるのは、自分の思いを変えることではない、ただ神の聖霊により、神の力により変えられるのです。

13節「天から降って来た者」は「神が人となった」のです。そして「すでに天に上った者」として主イエスのことを聞くのです。天上にすでにある方として、地上を共に歩んでくださる。ヨハネによる福音書は、地上においでくださった主イエスは天に上られることをくり返し述べ、十字架以上に「天に上られた方」としての主イエスを強調しています。
 「人の子」とは、人の子となってくださった神の子です。神の子が人となる、神の愛の出来事として語っています。「愛する」とは自分でない者になる、相手と同じ者になることです。神は私どもと同じになってくださった、それが主イエスの誕生なのです。ですから私どもは孤独ではないのです。私どもの存在が神に受け止められていることを知るのです。

14節「モーセが荒れ野で蛇を上げた…」とは、民数記21章に記されていますように、蛇にかまれたイスラエルの民が、モーセが旗竿の先に掲げた青銅の蛇を見上げることで命を得たという記述によります。ですから主イエスが十字架に上げられることにより人は救われる、すなわち十字架を意味する内容でもあるのです。主イエスが十字架に上げられることによって救われることは、「天に上げられること」と一つのこととして述べている、これもヨハネによる福音書の特徴です。
 十字架は罪の贖い(あがない)です。そのことで天に繋がっている、すなわち永遠の命に生きる恵みの出来事だということを覚えたいと思います。罪赦されることに終わらない、もはや決して失われることのない神との交わりに生きることなのです。
 私どもが洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。まさに新しく生まれ、天に上げられ、神との永遠の交わりに移されること、天上に生きる恵みにほかならないのです。

独り子をお与えくださる神」 2月第2主日礼拝 2007年2月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章16〜21節
3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。<17節>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。<18節>御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。<19節>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。<20節>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。<21節>しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

マルティン・ルターは、この16節を小福音書と呼びました。大変多くの人に親しまれている聖書箇所です。
 しかし、ヨハネによる福音書全体から見ますと、16節だけ、少し内容が違っていることが分かります。ヨハネによる福音書全体は「御子は私どものところにおいでくださった方」として語っているのに対して、ここ16節では「御子は、神によって与えられた者」だと語っています。「与えられた」という言い方はヨハネによる福音書では一般的ではないのです。「与える」ということは「死にわたす」という意見合いがあり、それは「十字架の贖い」につながります。したがって16節は、ヨハネによる福音書の中で独自の意味を持つのです。
 また「独り子」という言い方も独特です。聖書では3ヶ所しか出てこない言葉です。では「独り子」とはどういう内容か。独り子を父なる神が「誰よりも愛しておられる」ことが強調されているのです。それほどまでに愛している者を、最愛の者を犠牲にしてまで十字架に…という思いが込められている。それほどまでに、神はこの世を大切に思ってくださり愛していてくださっているのだということが、この言葉に示されているのです。

この世に対する愛の根拠は、神御自身にあるのであって、人間の側に根拠はないのです。「世」といわれている言葉は、ある意味内容を持っております。神の領域に対立するものとして「世」と用いるのです。神に対立する勢力として語られています。この世は神に敵対しているにもかかわらず、神はこの世を裁くのではなく、愛する御子を十字架につけるほどに愛したというのです。愛の根拠は神にある、だからこそ「救い」が起こるのです。
 私どもの愛は、求める愛です。それは人を生かさず束縛する、更には裁くものであって、そこには本当に愛するということは起こらない。神に基づかないと、愛は起こってこないのです。御子をささげることは、神御自身に傷みが伴うのです。神御自身が傷ついてまで…すなわち自己犠牲の愛です。それは強いられてすることではなく、おのずからの思いからすることです。
 「愛は自己犠牲」と言うと、私ども人間は「あなたもそうしなければならない」と、他者に自己犠牲を強いるのです。他者を裁き君臨するのです。「良きこと」として、他者に強要する罪深さがあることを忘れてはなりません。神は自ら進んで御子・御自身をささげられたのです。神は他者に対して自己犠牲を求めてはおられません。愛とは、おのずと動かされる出来事であるからです。
 神に敵対する「この世」に御子を与えてくださることによって、この世は「神の愛の対象」とされました。私どもを「愛する対象」としてくださったということです。本当は愛に値しない、対象外なのに「あなたこそ私の愛の対象だ」と言ってくださっているのです。神は誰一人として御自身の愛の対象から外してはおられません。神は御自身のすべてをかけて、私どもを愛してくださっているのです。神は、力を持つがゆえに君臨するのではなく、自らをささげることによって、ご自身を示してくださったのです。

16節の後半、十字架の贖いのキリスト(独り子)は「永遠の命」を与えてくださると言われます。一般的に「十字架」は「罪の赦し」と語られますが、ヨハネによる福音書では「十字架」を「永遠の命」と語るのです。「罪の赦し」は「永遠の命」にあずかることだということを示しています。「永遠の命」とは「神との決して損なわれることのない交わり」に入れられることです。それが「救い」です。
 「滅び」とは神との交わりを失うことです。「交わり」が「命」なのです。交わりが人を人たらしめるのです。交わりを失うことは孤独です。

そして「永遠の命」は「礼拝」に、「祈り」にあります。なぜなら、そのところで私どもは「神との交わり」にあずかっているからです。そこにこそ命があり、自分自身を見い出すことができ、慰めを受けるのです。自らの尊厳を回復するのです。この世においては、他者に自らの尊厳を、権利として求めるということが起こってきました。そのことは、得られたとしてもその場かぎりです。そこに神はないからです。
 ただ神によってこそ、人が人としての尊厳を回復するのです。

裁きとは」 2月第3主日礼拝 2007年2月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章16〜21節
3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。<17節>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。<18節>御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。<19節>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。<20節>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。<21節>しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

17節、主イエスがこの世に遣わされた目的は、「世を裁くためではなく、救うためだ」と言っています。神がこの世を「救いの対象」としてくださっていることが示されています。
 しかし、ここに日本人との感性の違いがあります。日本人の行動の基準は、相手がどう思うかに重きを置きます。したがって、日本人の信仰・宗教は、裁き(神の怒り)を基準とするのです。悪霊信仰、地鎮祭がそうであるように、神の怒りを鎮めるというあり方です。ですから、キリスト教のように「救いが先行する」あり方は日本人には馴染みの無いものなのです。

キリスト教は「救い・恵み」が先行します。旧約聖書に記される「出エジプト」の出来事はどうでしょうか。神の救いの業が先行しています。そして、その神の恵みに応えて生きるために与えられたものが「律法・十戒」でした。救いの先行なのです。神は、相手を脅して従わせる・支配するのではありません。神は、私どもの弱さを知り、憐れみ、慰め、恵みに応える生き方を示してくださるのです。神はまず裁きでなく、救いを成してくださいました。信仰とは、救いを、恵みを受けて、それに相応しく、恵みに応えて生きることであります。

ヨハネによる福音書においての「救い」は、「罪からの救い」とは違い「永遠の命を得ること」です。
 「永遠の命を得る」とは「尽きる事のない神との交わりを得ること」です。神との交わりに生きることを赦されるということです。人は神との交わりによってはじめて人となるのです。神との交わりを失う時、人は自らを神としてしまいます。そこに救いはありません。

18節「裁き」とは何でしょう。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とあります。「信じないこと」そのものが「裁き」なのです。自らの思いのままに放置されることが裁きなのです。すなわち、この世(信じない者)は既に滅びの中にあるということなのです。

19節、聖書では「光と闇」について語っています。「闇」とは神に対して自らを閉ざすことです。自分しかいない、神なしに自分自身で存在しているという思い。この欲望、これが「悪い行い」です。それは孤独であると同時に、平安のない不安の状態でしかありません。これこそが裁きなのです。
 聖書においては罪、裁き、罰は一つのことです。罪自体がすでに裁きをもっているのです。身勝手な生き方は、慰めなく平安はないのです。神を拒み、欲することを欲するままに行っている状況そのものが裁きなのです。苦しみは、他からふりかかってくるのではない、自分自身の内にある。これこそ厳しい裁きなのです。このような「裁きでしかない状況に生きている者を救う」、それが神のあり方です。

20節、人は闇に生き、自ら光のもとに行って自らの罪を鮮やかにすることを望まないものです。神の導き、赦しが無ければ、自ら求めて光のもとに来る者はありません。
 21節「真理」とは、「キリストが救い主であること」です。このことは聖霊の働きによって初めて知ることができることです。信仰の根拠は私どもにあるのではありません。聖霊の働きによるのです。聖霊なる神の導き無くしては信仰はありえません。

私どもには与えられた課題があります。それは祈ることです。ペンテコステの出来事が語るように、既に聖霊を受けた者として、家族や友人のために、まだ信仰に無い者たちのために祈ることです。祈るところに聖霊が働かれます。聖霊がとりなしてくださるのです。祈りは何より大事な業なのです。

洗礼を授ける」 2月第4主日礼拝 2007年2月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章22〜30節
3章<22節>その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。<23節>他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。<24節>ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。<25節>ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。<26節>彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」<27節>ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。<28節>わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。<29節>花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。<30節>あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

主イエスがニコデモに対し「水と霊とによって新しく生まれなければならない」と示されたことを受けて、22節「その後」、主イエスによる洗礼へとつながっていきます。
 「洗礼」とは何か。それは「新しく生まれる」すなわち「神の国に入る者とされる」ことを意味しています。そして「神の国に入る」それは「永遠の命をいただく」ことです。それが救いに至るということです。
 ここで、主イエスが「弟子たちと一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」とは、洗礼が「弟子たちと一緒になされた業」であったことを示しています。「授けておられた」と訳されたギリシャ語は「かつて行われていたことが終わることなく、今も続いている」ことを示す特別な言葉で、それは今もなお続いていることを暗示しています。主の業が、弟子たちを通して今も成されているということです。「弟子たち」とは「教会」を意味するのです。教会において成されていることを示しています。
 教会は「この世にない恵みの業」を行っている、させていただいているのです。それは「他にはない力」です。恵みは力なのです。「力=洗礼を授けること」は、教会だけが成せることであり、成せること自体が有り難い、与えられた恵みであって、教会の喜びなのです。教会は、この世を救う力、この世に勝るものとして立てられていると言ってよいのです。この世の力に圧倒されがちなこの頃ですが、教会には、この世に対して救いの宣言をする大いなる力が与えられていることを覚えたいと思います。

23節、主イエスの洗礼に対して、バプテスマのヨハネは水の豊かなアイノンで洗礼を授けていたとあります。本来ならバプテスマのヨハネの洗礼が終わってから主イエスの洗礼が始まると考えるところですが、どういうことでしょうか。「主イエスが洗礼を授ける、しかもバプテスマのヨハネと同時に」これはヨハネによる福音書にだけある記述です。
 25節、ヨハネの弟子たちがユダヤ人と論争していた「清め」とは、「洗礼」のことでありましょう。「水による清め」つまり「罪が洗われる」ことを論じていたのでしょう。しかし「洗礼」とは、単に「罪を洗い清める」ことではありません。水に沈めることによって、一度、古き自分に死に新しき神の人に生きること、全く新しくされるということです。
 しかし26節、ヨハネの弟子たちは、主イエスの洗礼の出来事をヨハネの洗礼と同列にみているのです。「元々ヨハネが始めたことなのに…」と、主イエスの洗礼の由来をヨハネにみて、主イエスに嫉妬しているのでした。

27節、しかしヨハネは「主イエスの洗礼は天に由来するものであって、私(ヨハネ)に由来するものではない」と明言しています。
 ヨハネの洗礼は人間の側の出来事であって、人を悔い改めへ、神へと、方向を示すものでした。それに対して主イエスの洗礼は人間に由来するようなものでない、天からの出来事、救いの宣言なのであって、敢えて優位を示す必要もないのです。

28節、ヨハネは、自分はメシアではなく「主を証しする者」であることを強調し、更に弟子たちに対して「ヨハネについて証しすることによって、主イエスを証しせよ」と勧めています。主の弟子とは何か、主の証し人となることです。「このわたしを救ってくださった」と言い表すことです。

29節「花婿」はキリスト。「介添人」は友、ヨハネ、キリストの友です。
 ヨハネの福音書は証しが中心として成り立っています。証し人はキリストの友として、自分が前もって証ししたことが現実のものとなって成就したから喜ぶのです。証しは喜びになるのです。証し人は、救いの恵みを見出しているからこそ、喜びに満ち溢れるのです。

メシアの到来とともに新しい時が始まった。神の支配が始まったことを証しするのです。証し人にとっては、主イエス・キリストが全てです。栄光を表す、それはキリストが全てとなることです。