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アドヴェント(待降節)から教会の1年が始まります。どういう意味があるのでしょうか。 今日の御言葉から聞きます。66節「主の肉を食べる」という言葉が多くの弟子たちをつまずかせ、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」というのです。それは無理からぬことでした。「主の肉を食べる」ことは「主イエスの十字架・復活・こう去」を示すことであることを信じられなかったからです。「共に歩まなくなった」ということは、信じられなかったということなのです。信仰とは「主イエス・キリストと共に歩むこと」です。自らの信念に生きることではありません。「主と共に歩む」という「行為」あってこそ信仰なのです。そして「主と共に歩む」とは「礼拝する」ということです。主イエス・キリストを救い主として崇め、ひざまずくのです。それは、この世に対して「この方こそ救い主」と証しすることです。「主を主として表す」、それが私どもの「行為」であり信仰です。 67節、12人の弟子に主イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と問われます。68節、これに対しペトロは12人を代表して、「主イエスは永遠の言葉なる方、神の聖者と信じている」と答えます。この問いと答えで示されることを、私どもは深く受け止めなければなりません。主イエスから去る人がいます。主イエスは、信じられない者を何とか信じさせよう、思い止まらせようと努力することを命じてはおられません。主イエスは「あなたもそうしたいのか」と、残っている者に問われます。残っている人に、その信仰を明確にするようにと問うてくださるのです。背景には、ヤムニア会議でキリスト教が異端とされたことによる教会の動揺がありました。そこで多くの者が教会を去ったのです。そういうところで、「あなたの信仰は大丈夫か」と問うてくださるのです。「あなたはどちらに向いているのか」と問うてくださるのです。それは、残った者が「主イエス以外に救いはないと信じきれているか」と、その信仰を明確にするための問いなのです。多くの者が、人に、事柄につまずき去って行く、このことを深く痛むことは大事ですが、しかしそれ以上に「主イエス以外に救いはないのだということを言い表しているか?」ということが問われているのです。 ペトロは「永遠の命の言葉は主イエスにしかない」と言い表しました。「永遠の命(神との永遠の交わり)」とは「救い」です。(「神との永遠の交わり」は大和言葉では「やわらぎ」という言葉です)。主イエスの言葉は命の言葉、ですから主イエスに従うところに救いがあるのです。主イエスが十字架・復活・こう去により私どもの罪を終わりにし神との永遠の交わりへと至らせてくださったのだということが、この「命の言葉」で示されていることです。 70節、主は更に言われます「12人は、わたしが選んだのではなかったか。その中の一人が裏切る」と。12人が弟子であることの主体は主イエスです。信仰の出来事は「神の選びの出来事」なのです。神の一方的な恵みの出来事です。主の選びの基準は力ある者、優秀な者なのではありません。人々から価値の無い者と言われている者、神の恵みを汚す者をも、主イエスは弟子として選ばれました。裏切りさえも知りつつ、選んでくださるのです。裏切る者はユダだけなのではありません。ペトロもそうでした。主の選びは絶大、恵み深く、私どもを存在たらしめ、成すべきこと・使命を与えてくださるのです。主に託された使命を果たすにはあまりにも欠け多く感情的な者であるにも拘らず、主は選んでくださるのです。 裏切る者があることを語り、最初の問いに戻っていきます。たった一つの答え、それは「主イエス以外に私どもの救いはない」これ以外にないのです。主の問いが、そこに、私どもを立ち帰らせてくださるのです。 |
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1節「イエスはガリラヤを巡っておられた」とは、ガリラヤに留まっておられたということです。ユダヤ人たちが主イエスを殺そうと狙っていたので、ユダヤ(エルサレム)には行かれなかったのです。 2節「仮庵祭」とは、収穫祭であり、ユダヤ人にとって喜び楽しみな祭りです。 6節「わたしの時はまだ来ていない」との主イエスの答えは、弟たちの「エルサレムに行け」という言葉を否定するものです。なぜか。わたしの時、即ち十字架の時とはユダヤ人に殺される時であり、それは今ではない、だから今はエルサレムに行かない、ということなのです。また、主イエスがエルサレム行かれるのは祭りのためではなく、十字架にかかりに行くのだ、ということをも、この言葉は示しております。 信じられない者たちは、主イエスに反感を持ち、殺意まで持つのです。主イエスの到来は、この世がいかに罪深いかを明らかします。 この世こそ、主イエスによってしか救われないのです。信じられない者を救える方は、主イエス・キリストの他にはいないのです。 |
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ローマの信徒への手紙のこの箇所は有名な箇所で、アウグスチヌスが改心の時に示された言葉だとも言われています。また、この箇所はパウロの手紙の中でも、人間の生き方の基本を示された一つでもあります。 11節「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」という書き出しです。「時を知る」ということは、簡単なようで簡単なことではありません。人によって、時を長く感じたり短いと感じたりと感覚が違うのです。時を感じる感性はおもしろいものです。皆さんにとって、この一年はいかがだったでしょうか。 「私には死ぬという仕事がある」、これは晩年の三浦綾子さんの言葉です。三浦綾子さんがこのように言い切れたのはなぜでしょうか。救い主(イエス・キリスト)が私どものために生まれてくださった、そのことの故に、死の中にも意味を見い出せたからです。クロノスの時を生きる中でカイロスの時を知ることは、この世の不条理の中でも、キリストが私どものためにお生まれくださったことによって、それらを深く受け止めることができる、生き方を変えることができるのであります。 クリスマスの出来事の中で、三人の博士たちは星に導かれて、主イエスの誕生に会い、帰りは異なる道を通って帰りました。クリスマスを迎えた者は、それまでとは異なった道、新しい道を歩むのです。それは、私どもの日常の単調な道のりを意味のあるものと深く覚えさせられることです。 12節「夜は更け、日は近づいた」と言われます。創世記1章には「夕べがあり、朝があった」と記されております。朝になる直前は、最も闇が深くなるのです。時だけではない、この世に深い闇があります。しかし現代の闇が深ければ深いほど、眠りから覚める時が来ていると勧めているのです。 「品位をもって歩もうではありませんか」、一人一人が美しく信仰にある行き方を生きていくことです。14節「主イエス・キリストを身にまといなさい」、肩をいからせるのではなく、神に創られたままに、赦されたままに、慎ましく生きていくこと、それが「キリストを身にまとって生きる」キリストと共に生きる生き方です。 今クリスマスを待つ時、クリスマスは年中行事ではありません。 |
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近年は宗教に無関心の時代でした。しかし今年は違うように感じております。今人々は、人間のあり方に行き詰まりを感じている、そしてそれを打破する外からの変革(力)を求める時代となったのです。外からの力、その一つに神(への礼拝)もあると思います。行き詰まりの中で、神の方から私どもに臨んでいてくださる、それがクリスマスの出来事でもあります。 1節、ヘブライ人への手紙は、手紙であるにも拘らず、挨拶から始まっておりません。「神は」から始まっております。聖書は「神が第一となって働いておられること」が中心なのです。「私が」の世界ではない、自分が第一ではないのです。 1節に「神は、かつて預言者たちによって」と言われているように、かつて神は預言者を通して語ってくださっておりました。神の言葉を預かって、それを民に語る、それが預言者です。神に選ばれた民イスラエルは預言者を通して聴いたことを自らの誠実さによって行うことを求められましたが、結果は、自らの誠実さをもっては神の言葉に従い得ませんでした。人間は誠実でありたいと思っても、誠実でありきれない存在です。真実を、と問われても真実であり得ない、もどかしさの中にあるのです。 2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と言われております。「御子」とは「イエス・キリスト」であり、「キリスト」は救い主を表す言葉です。以前は預言者を通して語られましたが、それでは不十分でした。御子の到来によって終わりの日が来る、御子(イエス・キリスト)によって神がご自身を表してくださっているということです。預言の時代は終わり、主イエス・キリストを通して、この世は完成を迎えるのです。 神はご自身を、御子イエス・キリストによって完全な形でお語りくださいました。それ故、クリスマスの出来事は大きいのです。この世においでくださったキリストに出会う、それによって神に出会うことが赦されているからです。 3節、預言者を通しては知り得なかったことを、なぜ御子を通して知ることができるのでしょうか。それは、御子が神と本質を同じくするものだからです。栄光を表すとは、神がご自分の存在を現されるということです。 6節「神はその長子をこの世界に送る」と言われます。イエス・キリストは長子となってくださいました。それは主イエス・キリストの贖いによって、私どもも神の子とされる、その恵みをいただいたということです。主イエスが長子となってくださった故に、私どもは神を「父」と呼ぶことが赦されているのです。 |
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10節、仮庵の祭りは喜びの多い祭りでした。人々はエルサレムに集まってくるのです。 1〜9節では、主イエスは「まだ私の時が来ていない」と言い、ガリラヤにとどまられたとあります。しかし10節には「人目を避けてエルサレムに上られた」と書かれております。これは十字架の時がまだ来ていないという意味です。これ以後、活動がガリラヤからエルサレムに移ったことが示されております。 11節、群衆は「あの男はどこに行ったのか」と主イエスを探しました。たとえ主イエスを拒む者であっても、主イエスを意識せざるを得なかったのです。群衆は、本当は主イエスを必要としているのです。 12節「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた」と言われております。しかし主イエスが望んでいることは、人々が主を救い主であると認めることです。 今改めて覚えてほしいと思います。神にある自己解放とは、自分自身を自らでは赦せないにもかかわらず、自分を受容して生きることができるということです。そしてそれは、一方的に、神によって、していただいたことなのだということを覚えたい。本当に私どもを自由にしてくれるのは、神の憐れみのみであることを覚えたいと思います。 |
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