聖書のみことば/2007.12
2007年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
12人の選び」 12月第1主日礼拝 2007年12月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章66〜71節

6章<66節>このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。<67節>そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。<68節>シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。<69節>あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」<70節>すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」<71節>イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

アドヴェント(待降節)から教会の1年が始まります。どういう意味があるのでしょうか。
 まず一つ、御子イエス・キリストの誕生を待ち望む、それは即ち「救いの到来」を待つのです。その「待望の信仰」によって、終りの日(終末)の救いの完成をも覚えて待つのです。
 もう一つは、救いの到来を「ふさわしく迎える準備する」のです。「ふさわしく」とは「悔い改めて」ということです。もう一度、神へと向きを変えて、神の恵みを覚え、自らを顧み、整えて、新しい一年を始めるのです。

今日の御言葉から聞きます。66節「主の肉を食べる」という言葉が多くの弟子たちをつまずかせ、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」というのです。それは無理からぬことでした。「主の肉を食べる」ことは「主イエスの十字架・復活・こう去」を示すことであることを信じられなかったからです。「共に歩まなくなった」ということは、信じられなかったということなのです。信仰とは「主イエス・キリストと共に歩むこと」です。自らの信念に生きることではありません。「主と共に歩む」という「行為」あってこそ信仰なのです。そして「主と共に歩む」とは「礼拝する」ということです。主イエス・キリストを救い主として崇め、ひざまずくのです。それは、この世に対して「この方こそ救い主」と証しすることです。「主を主として表す」、それが私どもの「行為」であり信仰です。

67節、12人の弟子に主イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と問われます。68節、これに対しペトロは12人を代表して、「主イエスは永遠の言葉なる方、神の聖者と信じている」と答えます。この問いと答えで示されることを、私どもは深く受け止めなければなりません。主イエスから去る人がいます。主イエスは、信じられない者を何とか信じさせよう、思い止まらせようと努力することを命じてはおられません。主イエスは「あなたもそうしたいのか」と、残っている者に問われます。残っている人に、その信仰を明確にするようにと問うてくださるのです。背景には、ヤムニア会議でキリスト教が異端とされたことによる教会の動揺がありました。そこで多くの者が教会を去ったのです。そういうところで、「あなたの信仰は大丈夫か」と問うてくださるのです。「あなたはどちらに向いているのか」と問うてくださるのです。それは、残った者が「主イエス以外に救いはないと信じきれているか」と、その信仰を明確にするための問いなのです。多くの者が、人に、事柄につまずき去って行く、このことを深く痛むことは大事ですが、しかしそれ以上に「主イエス以外に救いはないのだということを言い表しているか?」ということが問われているのです。
 忘れてはならないことは「主のみ私どもの救い、そこに帰る以外にない」ということです。このことを明確にするために、主は問うてくださるのです。主から離れた者に対して、私どもがなすべきこと、それはその人が神へと向かうように聖霊の導きを祈るのみです。

ペトロは「永遠の命の言葉は主イエスにしかない」と言い表しました。「永遠の命(神との永遠の交わり)」とは「救い」です。(「神との永遠の交わり」は大和言葉では「やわらぎ」という言葉です)。主イエスの言葉は命の言葉、ですから主イエスに従うところに救いがあるのです。主イエスが十字架・復活・こう去により私どもの罪を終わりにし神との永遠の交わりへと至らせてくださったのだということが、この「命の言葉」で示されていることです。
 「神の聖者」という言い方は、旧約の伝統に添った言い方であり、ここでは敢えて使っております。それは、主イエスが明らかに旧約に言われていた「聖者・神の人・救い主」なのだということを示すためです。キリスト教が異端とされたことを背景に、主イエスこそが正統、旧約の成就であることを鮮やかに示しているのです。

70節、主は更に言われます「12人は、わたしが選んだのではなかったか。その中の一人が裏切る」と。12人が弟子であることの主体は主イエスです。信仰の出来事は「神の選びの出来事」なのです。神の一方的な恵みの出来事です。主の選びの基準は力ある者、優秀な者なのではありません。人々から価値の無い者と言われている者、神の恵みを汚す者をも、主イエスは弟子として選ばれました。裏切りさえも知りつつ、選んでくださるのです。裏切る者はユダだけなのではありません。ペトロもそうでした。主の選びは絶大、恵み深く、私どもを存在たらしめ、成すべきこと・使命を与えてくださるのです。主に託された使命を果たすにはあまりにも欠け多く感情的な者であるにも拘らず、主は選んでくださるのです。
 私ども自身が選んだのではない。選びは神の憐れみの出来事です。主に見い出された者、主の恵みをいただいた者だからこそ、弟子なのです。
 裏切る者をも、主イエスは知っていてくださいます。ですから、私どもは裏切る者を責めてはならないのです。何らかをするのは主であって、私どもが責めることではありません。私どもも裏切る者にすぎないのです。だからこそ、そこで「あなたの信仰は大丈夫か」と主イエスは問うてくださるのです。

裏切る者があることを語り、最初の問いに戻っていきます。たった一つの答え、それは「主イエス以外に私どもの救いはない」これ以外にないのです。主の問いが、そこに、私どもを立ち帰らせてくださるのです。

殺意ある人々」 12月第2主日礼拝 2007年12月9日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋
聖書/ヨハネによる福音書 第7章1〜9節

7章<1節>その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。<2節>ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。<3節>イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。<4節>公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」<5節>兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。<6節>そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。<7節>世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。<8節>あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」<9節>こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

1節「イエスはガリラヤを巡っておられた」とは、ガリラヤに留まっておられたということです。ユダヤ人たちが主イエスを殺そうと狙っていたので、ユダヤ(エルサレム)には行かれなかったのです。
 なぜユダヤ人は主イエスを殺そうとまで思っていたのでしょうか。それは5章に記されているベトサダでの主イエスの癒しの出来事に端を発しています。癒しの業を行ったことによって、主イエスが安息日に労働を禁じる律法に違反したというのです。たとえ戦いを挑まれたとしても安息日には戦わずして負けたという歴史もあるように、安息日律法はユダヤ人が命を賭けても守るべき律法でした。また、主イエスがご自身の労働の根拠を神とし(17節)、御自身を神と等しい者とされたことを神への冒涜とみなして、まさしくイエスは死刑に値すると考えたのでした。
 しかし、主イエスがエルサレムに行かれなかった理由はそれだけではありません。「人を恐れて」という理由ではなく、6節「わたしの時はまだ来ていない」からなのです。「わたしの時」とは、「十字架の時」です。ユダヤ人の殺意を受ける覚悟はできている、しかしまだその時ではない、だからガリラヤに留まられるのです。
 私どもは「時」に流されてしまいがちですが、「時を知る」ということは大事なことです。時を定めることは自分の存在を確かめることにつながるのです。

2節「仮庵祭」とは、収穫祭であり、ユダヤ人にとって喜び楽しみな祭りです。
 3節「イエスの兄弟たち」とは主イエスの肉親の弟たちのことです。聖書の記述で、主イエスが時には家族と一緒に行動しておられたということがわかります。「あなたのしている業」とは「奇跡」のことです。当時、奇跡はメシアのしるしと考えられており、神からの力です。弟たちもイエスのなさった業を見ていたのであり、その力を示したらどうかと言っているのです。「ひそかに行動する」とは、ガリラヤでの行動を指しており、ガリラヤのような田舎だけでは公には認められない、神の都エルサレムへ行くべきだと言っているのです。祭りの時は人も集まる時なので、絶好の時だと弟たちは考えたのでした。また、4節の「自分を世にはっきり示しなさい」という言葉は、弟たちも、イエスが本当にメシアであるかどうかをはっきり知りたい、という思いがあることを示しております。ここに大きな間違いがあります。人々から公に認められればはっきりする、という思いは人の姑息な思いに過ぎません。主イエスがメシアであることは、はっきりしているのです。ただ5節「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」、信じていなかったから、はっきりしないのです。主イエスがメシアであるかどうかは、人が認めることではありません。主イエスがメシアである根拠は神にあるということを忘れているのです。「はっきりすれば信じられる」と思いがちですが、そうではありません。人の心は揺れ動くものです。揺れ動くものが、自身ではっきりさせることは不可能なことです。「信じる」ならば、全てのことははっきりするのです。
 「神を根拠とする」ことによってのみ、全てがはっきりするのです。自分の存在がいかなるものか、如何に神から遠い者であるか。そして神の救い無しには生きられない者であることがはっきりするのです。
 自分の態度をはっきりさせることも、信じることからしかあり得ないのです。信じることによって初めて、認識し、行動することができるのです。

6節「わたしの時はまだ来ていない」との主イエスの答えは、弟たちの「エルサレムに行け」という言葉を否定するものです。なぜか。わたしの時、即ち十字架の時とはユダヤ人に殺される時であり、それは今ではない、だから今はエルサレムに行かない、ということなのです。また、主イエスがエルサレム行かれるのは祭りのためではなく、十字架にかかりに行くのだ、ということをも、この言葉は示しております。
 「十字架の時」という言葉はギリシャ語で「カイロス」という言葉で、この世の時間の流れの中の、特別な時として定められた時を表しております。神がこの世にピンポイントで介入なさった時を示すのです。そこで主イエスが成し遂げられたことが、私どもの救いの出来事なのです。主イエス・キリストによって私どもの罪は終わりとされました。私どもは常に過ぎ行く時の中にある者です。しかし、主イエスの十字架の時は、ただ一度だけの時なのです。
 ヨハネによる福音書においては、十字架は始まりの出来事と捉えます。十字架(贖い)の時よりも、復活を経て、こう去され、神の子の栄光の時を強調しております。滅びに過ぎない私どもが、信じることによって主イエスと共に神の栄光を表す者とされる、今の姿が私どもの姿なのではなく、神の栄光の姿に変えられるのだという神学なのです。

信じられない者たちは、主イエスに反感を持ち、殺意まで持つのです。主イエスの到来は、この世がいかに罪深いかを明らかします。
 弟子たちも、この世も主イエスを信じられませんでした。このことが明らかになった上で、しかし主イエスは十字架にかかってくださいました。
 主イエスの十字架は、信じられない者の救いのための死なのです。信仰のない者たちの救い、それが主イエスの十字架の出来事であることを覚えたいと思います。

この世こそ、主イエスによってしか救われないのです。信じられない者を救える方は、主イエス・キリストの他にはいないのです。

夜はふけ、
   日が近づいている」
12月第3主日礼拝 2007年12月16日 
小島章弘 牧師(聴者/清藤)
聖書/創世記 第1章1〜5節、ローマの信徒への手紙 第13章11〜14節

創世記第1章<1節>初めに、神は天地を創造された。<2節>地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。<3節>神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。<4節>神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、<5節>光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
ローマの信徒への手紙第13章<11節>更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。<12節>夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。<13節>日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、<14節>主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

ローマの信徒への手紙のこの箇所は有名な箇所で、アウグスチヌスが改心の時に示された言葉だとも言われています。また、この箇所はパウロの手紙の中でも、人間の生き方の基本を示された一つでもあります。

11節「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」という書き出しです。「時を知る」ということは、簡単なようで簡単なことではありません。人によって、時を長く感じたり短いと感じたりと感覚が違うのです。時を感じる感性はおもしろいものです。皆さんにとって、この一年はいかがだったでしょうか。
 「時」をギリシャ人は「クロノス」という言葉で表しました。これはギリシャ神話に出て来る怪物の名前ですが、クロノスは毎日、子供が生まれるたびに子供を食べ尽くすことを繰り返す怪物です。考えてみますと、私どもも一日の全ての時間を食べ尽くしております。死に至るまで時を食べ続ける、そのように私どもは年月を生きるのであります。
 ギリシャ語にはもう一つ「時」を表す言葉があります。「カイロス」という言葉です。これは聖書の中で大切に扱われる言葉で、「救い」「主イエスの来臨」を表す特別な「時」に使われています。まさに「今がどんな時であるか」の「時」に使われております。「クロノス」の「時」は量的に増えていく、しかし「カイロス」の「時」は質的なものです。流れる時だけを生きることは虚しいことです。そんな量的な時に意味付けを与える時が「カイロス」の時なのです。
 カイロスの時を知らなければ、私どもの一生はただ過ぎる時を生きるのです。カイロスの時を知ることは、生きていることの意味を知ることです。
 私どもには「クリスマスの時」が与えられております。私どもの時の中に、「光」「救い」が与えられている、それは神が私どもに与えてくださった意味ある出来事なのだということを受け止めることが大事です。

「私には死ぬという仕事がある」、これは晩年の三浦綾子さんの言葉です。三浦綾子さんがこのように言い切れたのはなぜでしょうか。救い主(イエス・キリスト)が私どものために生まれてくださった、そのことの故に、死の中にも意味を見い出せたからです。クロノスの時を生きる中でカイロスの時を知ることは、この世の不条理の中でも、キリストが私どものためにお生まれくださったことによって、それらを深く受け止めることができる、生き方を変えることができるのであります。

クリスマスの出来事の中で、三人の博士たちは星に導かれて、主イエスの誕生に会い、帰りは異なる道を通って帰りました。クリスマスを迎えた者は、それまでとは異なった道、新しい道を歩むのです。それは、私どもの日常の単調な道のりを意味のあるものと深く覚えさせられることです。
 パウロは示します「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と。せっかくクリスマスが近づいているのに、私どもは眠っているのかもしれません。クリスマスを迎える時、私どもは目覚めるべき時、救いの日は近づいていることを受け止めたいと思います。

12節「夜は更け、日は近づいた」と言われます。創世記1章には「夕べがあり、朝があった」と記されております。朝になる直前は、最も闇が深くなるのです。時だけではない、この世に深い闇があります。しかし現代の闇が深ければ深いほど、眠りから覚める時が来ていると勧めているのです。
 「光の武具を身に着けましょう」とは、「日中を歩むように、品位をもって歩みなさい」(13節)ということです。そこで、3つのことが示されております。
 1「酒宴と酩酊」:自分を失うことに対しての警告です。酔うことは自分を失うことです。うっかりすると自分を失ってしまう、気づいたら自分を失っている、私どもはそんな時代に生きております。
 2「淫乱と好色」:今の時代にこのことは深刻な問題です。性秩序が失われていることは、国の存亡の危機です。
 3「争いとねたみ」:交わりの喪失が共同体を壊すのです。自己中心の自我があるだけ、他者を思いやる気持ちがどんどんやせ細っている、その基が争いねたみです。心が消耗し、気持ちが荒むのです。

「品位をもって歩もうではありませんか」、一人一人が美しく信仰にある行き方を生きていくことです。14節「主イエス・キリストを身にまといなさい」、肩をいからせるのではなく、神に創られたままに、赦されたままに、慎ましく生きていくこと、それが「キリストを身にまとって生きる」キリストと共に生きる生き方です。

今クリスマスを待つ時、クリスマスは年中行事ではありません。
 新しい自分に変わる時、それがクリスマスです。

長子を世に送る」 12月第4主日礼拝 2007年12月23日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヘブライ人への手紙 第1章1〜6節

1章<1節>神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、<2節>この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。<3節>御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。<4節>御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。<5節>いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。<6節>更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。

近年は宗教に無関心の時代でした。しかし今年は違うように感じております。今人々は、人間のあり方に行き詰まりを感じている、そしてそれを打破する外からの変革(力)を求める時代となったのです。外からの力、その一つに神(への礼拝)もあると思います。行き詰まりの中で、神の方から私どもに臨んでいてくださる、それがクリスマスの出来事でもあります。

1節、ヘブライ人への手紙は、手紙であるにも拘らず、挨拶から始まっておりません。「神は」から始まっております。聖書は「神が第一となって働いておられること」が中心なのです。「私が」の世界ではない、自分が第一ではないのです。
 「私が」と、人間が第一になると行き詰まらざるを得ません。孤独か孤立か虚しさを味わうしかないのです。かつては村社会で、人々は横並びでした。しかし現代は個を尊重するのです。それは一歩間違えば「私が」第一となり、他者を認めないのです。「個」であっても「共にある私」でなければなりません。
 プロテスタント教会は、近代に対して「平等・自由」という重要な考え方を提示しました。何をもって平等としたか、それは「神の前に平等」なのです。神の前に相対化された中での平等でした。それがいつしか神抜きに平等を語るようになってしまいました。経済力、能力、個性の違う中にあっては、それらを超えた基準で相対化しない限り、真に平等・自由ではあり得ないのです。
 聖書は自明なこととして「神は」と語ります。「神は」と言う時、私どもは神の前に相対化され、そこで初めて他者も共に自分と同じ者に過ぎないことを知るのです。ですから、神を知ることは、自分を知ることです。しかし、それは自力ではなし得ないことです。「神が」私どもに語りかけてくださる、だから私どもは神を知るのです。相手が語りかけてくれなければ、相手を知ることはできません。大切なことは、神自らが私どもに語ってくださることなしに、私どもは神を知り得ないということです。

1節に「神は、かつて預言者たちによって」と言われているように、かつて神は預言者を通して語ってくださっておりました。神の言葉を預かって、それを民に語る、それが預言者です。神に選ばれた民イスラエルは預言者を通して聴いたことを自らの誠実さによって行うことを求められましたが、結果は、自らの誠実さをもっては神の言葉に従い得ませんでした。人間は誠実でありたいと思っても、誠実でありきれない存在です。真実を、と問われても真実であり得ない、もどかしさの中にあるのです。

2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と言われております。「御子」とは「イエス・キリスト」であり、「キリスト」は救い主を表す言葉です。以前は預言者を通して語られましたが、それでは不十分でした。御子の到来によって終わりの日が来る、御子(イエス・キリスト)によって神がご自身を表してくださっているということです。預言の時代は終わり、主イエス・キリストを通して、この世は完成を迎えるのです。
 「終わり」と言うとき、日本人と聖書では感覚が違います。聖書の語る「終り」は完成を表すのです。完成し、新しいステップへ行くのです。自分自身では完成できなくても、神が満たし完成させてくださって、そして新しいステップへ行けるのです。神にあってこそ、私どもは自らを完成させることができるのです。

神はご自身を、御子イエス・キリストによって完全な形でお語りくださいました。それ故、クリスマスの出来事は大きいのです。この世においでくださったキリストに出会う、それによって神に出会うことが赦されているからです。
 「御子を通して神を知る」とは、神が御子を相続者と定められた故に、この世の全てが神の支配にある、神のものであり、神の創られたものであることを知るのです。「創る」ということには創ったものの意志が働いております。私どもの存在は、神が意図しての存在だということです。意味をもって存在しているということです。私どもは自分が何者であるかを知りません。しかし神に創られた存在であることを知るとき、自らの存在の貴さを知るのです。そしてそれは、神ご自身が語ってくださることによって知ることなのです。
 何故神は自ら語らなければならなかったのでしょうか。それは私どもが、自らの力では知り得ない、自ら信仰者足り得ないからです。

3節、預言者を通しては知り得なかったことを、なぜ御子を通して知ることができるのでしょうか。それは、御子が神と本質を同じくするものだからです。栄光を表すとは、神がご自分の存在を現されるということです。
 神が地上においでくださった、それがイエス・キリストです。キリストは「人々の罪を清め」天に昇られました。「清め」とは、消し去るということではありません。「罪」とは神との関係を表しているのです。神を第一としないこと、それが罪です。罪の結果は死(孤独)なのです。関係を失うことです。人は交わりを失ってはやっていけないのです。しかし自力では関係を回復することは出来ません。
 罪を清算される、それが「清め」という言葉です。清算には代価が必要、その代価となってくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストの到来、それは私どもの罪を終りとし、神との関係を回復させ、もう一度神との交わりに生きる者としてくださるということです。

6節「神はその長子をこの世界に送る」と言われます。イエス・キリストは長子となってくださいました。それは主イエス・キリストの贖いによって、私どもも神の子とされる、その恵みをいただいたということです。主イエスが長子となってくださった故に、私どもは神を「父」と呼ぶことが赦されているのです。
 そして、神の子とされた者として神を呼ぶ、それが「礼拝」ということです。神の名を呼ぶ、それは神を神とすることです。そこに祈り、礼拝があるのです。

人々のささやき」 12月第5主日、歳晩礼拝 2007年12月30日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第7章10〜24節

7章<10節>しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。<11節>祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。<12節>群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。<13節>しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。<14節>祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。<15節>ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、<16節>イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。<17節>この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。<18節>自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。<19節>モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」<20節>群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」<21節>イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。<22節>しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。ーもっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだがーだから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。<23節>モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。<24節>うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

10節、仮庵の祭りは喜びの多い祭りでした。人々はエルサレムに集まってくるのです。

1〜9節では、主イエスは「まだ私の時が来ていない」と言い、ガリラヤにとどまられたとあります。しかし10節には「人目を避けてエルサレムに上られた」と書かれております。これは十字架の時がまだ来ていないという意味です。これ以後、活動がガリラヤからエルサレムに移ったことが示されております。
 関連して言うならば、イエスの兄弟の思惑で上って行くのでもないのです。その思惑とは「お前がメシアだと言うなら、人々に奇跡を見せて認めてもらったらどうか」ということでした。ですから、兄弟とは時をずらして行かれたのです。
 主イエスは、奇跡をもって人に認めてもらう必要のない方です。人が認めるか否かではない。いや、人が認めることが出来なかったにもかかわらず、それでも「主イエスは私どもの救い主」なのだと示されるのです。主イエス以外に、人の救いはありません。「信じないなら滅びますよ、だから信じなさい」と言う必要はないのです。滅びるも良し、滅びないも良し、神に任せればよいのです。「救いはこの方以外にない」と言うだけです。人々が信じることを願うだけです。信じることを強制・脅迫するものではないのです。救いを望むか望まないか、それは本人次第です。自らの責任で担わざるを得ないのです。

11節、群衆は「あの男はどこに行ったのか」と主イエスを探しました。たとえ主イエスを拒む者であっても、主イエスを意識せざるを得なかったのです。群衆は、本当は主イエスを必要としているのです。

12節「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた」と言われております。しかし主イエスが望んでいることは、人々が主を救い主であると認めることです。
 キリストの救いを指し示す者がキリスト者です。良い人になるために信仰をもつのではありません。「良い人」として、目的を表す必要はないのです。
 どうして人々は神を信じることができないのでしょうか。人々は主イエス以外のものを恐れているから信仰に至れないのです。さまざまなもの、社会通念(習慣)、個人的つながり、自分のプライド・見栄ゆえに信じることができないのです。それが「公然に」(13節)という意味です。
 この世のさまざまな囚われに行き詰まり、そこから解き放たれたい、それが信仰の糸口になるのです。私どもはいろいろなものに取り憑かれて(支配されて)おります。お金でしょうか・・・・・ 今、自分が取り憑かれているものは何なのか、考える必要があります。信仰の出来事は「囚われなき生活ができること」です。様々な囚われから解き放たれる、それは罪赦され、自らが自由になるということです。

今改めて覚えてほしいと思います。神にある自己解放とは、自分自身を自らでは赦せないにもかかわらず、自分を受容して生きることができるということです。そしてそれは、一方的に、神によって、していただいたことなのだということを覚えたい。本当に私どもを自由にしてくれるのは、神の憐れみのみであることを覚えたいと思います。