聖書のみことば/2007.11
2007年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
父なる神の御心とは」 11月第1主日礼拝 2007年11月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章38〜40節

6章<36節>しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。<37節>父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。<38節>わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。<39節>わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。<40節>わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

36節「しかし」と主イエスはおっしゃるのです。話の流れを中断して語られます。26節の言葉を受け、改めて「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と繰り返されます。「あなたがた」とは、主のもとに集う人々のことであり、ここでの「群衆」だけのことを言っているのではなく、私どもをも含めております。
 ここで受け止め直すべきことがあります。「主イエスを見ている」とはどういうことでしょうか。「しるし」を見聞きするとは、主イエスの姿形を見ることではなく、主イエス・キリストが証しされていることを見るのです。そして、主イエス・キリストを証しするものが聖書全体であり福音書です。聖書によって私どもは、単に主イエスの教えを聞くのではありません。聖書は「主イエスはキリスト(救い主)」であることを描き出している、それを見るのです。「主イエスがキリストである」その出来事を見るということです。すなわちそこで、キリストに出会い、信じることが起きるのです。「聖書に聴く」とは「キリストを見る」ことなのです。ですから「聖書に聴く」というとき、私どもがキリストを見ているか、問われざるを得ません。「見ているのに信じない」という主イエスの言葉は、私どもに対しても突きつけられている言葉です。
 礼拝における「説教」とは、御言葉に基づいて「キリストを鮮やかに描き出すこと」です。主イエスの教えを訓示するということではないのです。「信じる」ということは自らの思いで成し得ることではありません。神の働きによるのです。同様に、語ることも聖霊の働きを信じて語るのです。したがって、聖霊の働きなくして説教はあり得ない。聖霊の働きにより、私どもは説教を聴くことができるのであり、キリストを見ることができるのです。
 このように聖書が与えられ、主イエスの証しを聴いているのに「なぜ信じないのか」と問われております。主イエスが「信じない」と言われるときの「信じない」とは何を意味するのでしょうか。それは「裁き(信じないから裁かれよ)」ではないのです。裁きではなく「信じなさい」と言っておられる。信じられない者であるがゆえに、自らを明け渡し、聖霊の働きを願うよう祈りを促しておられるのです。ここに異端信仰との違いがあります。異端信仰は「信じられないあなたは滅びる」と宣言し裁く、人を滅びに定めてしまうのです。しかし主イエスは、人を滅びに定めておられない。敢えて話を中断してまで「あなたがたは信じない」と言い、「信じる」ことへと招いていてくださるのです。主イエスは、私どもが信じきれない者であることを明らかにし、罪なる私どものために「救い主として来た」ことを示してくださっております。自力では信じられない者、罪でしかない者が、「ただキりストにすがるよりない」ことへと招くために「あなたがたは信じない」と言ってくださっているのです。

「主イエスは裁かない」とすれば、「滅び(裁き)」とは何なのでしょうか。主イエスが「信ぜよ」と迫っていてくださることに対し、信仰告白を拒否することが裁きなのです。ですから「滅び」は神に責任があるのではありません。自ら裁きを選び取る、人自身にあるのです。せっかく「信ぜよ」とおっしゃってくださっているのに、自らが信じることを選び取れなかった、自業自得のことです。
 私どもは、ある意味、裁かれた方が楽です。裁く者に責任を持たせればよいからです。しかし神は、敢えて責任を他者に任せることを良しとされませんでした。それは、私どもが神の問いに応えることのできる存在として尊重してくださってのことです。ですから、滅びに対し、神が直接、手を下す必要はないのです。神無き者は滅びざるを得ないのです。
 或いは神が裁かれるとしても、信じない者は裁きにも服しません。人はどこまでも罪深いのです。主イエスは、私どもがいかに救いから遠いかをご存知でいてくださり、罪を鮮やかに示してくださる方、私どもの救いなのです。

37節「父がわたしにお与えになる人」と言われます。主イエスを信じる者を、主イエスに属する者(永遠の命に生きる)として、この世に属する者(過ぎ行き、消え行く)と区別してくださるのです。永遠の神との交わりに生きる者とされるのです。「キリストの所有とされる」とは、信じる者に与えられている恵みです。そして麗しいみ言葉が記されます。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。どんな恩知らずでも見捨てない、見放したりはしないと、十字架の主イエスは言ってくださるのです。忍耐にも愛することにも、私どもには限界があるのです。しかし主イエスは、主イエスを裏切る者でしかない、そういう私どもをキリストの者とし続けてくださるというのです。主の忍耐に限りはありません。御心に限りはありません。主イエスを信じる者を、主は決して見捨てないのです。主の業に限界はありません、ありがたいことです。

愛するというとき、人の愛には限界があります。人は、深く愛せば愛すほどに、その愛に破れたときには憎しむのです。人の愛は見返りを求めるのです。しかし、主イエスの愛に憎しみはありません。なぜ主イエスは十字架についてくださったのでしょうか。私どもを愛して、私どもを「信じる」に至らせるためです。人は愛すれば愛するほど、愛されることを求めるのです。しかし、主イエスは自らが愛されることを初めから望んではおられないのです。
 人は愛するために生まれたのではありません。信じるために生まれたのです。愛することが救いなのではなく、信じることに救いがあるのです。人は「愛されて生まれた」ということです。「信じるために生まれてきた」のです。

主イエスの救いに限界はありません。信じて洗礼を受けた者を、キリストがしっかりと掴んでいてくださいます。

38節「神の御心」とは何でしょうか。全ての者が終りの日の復活の命(永遠の命)を得ることです。このことが繰り返し語られております。

主は命のパン」 11月第2主日礼拝 2007年11月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章41〜51節

6章<41節>ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、<42節>こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」<43節>イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。<44節>わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。<45節>預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。< 46節>父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。<47節>はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。<48節>わたしは命のパンである。<49節>あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。<50節>しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。<51節>わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

41節、ユダヤ人たちはつぶやきます。主イエスがご自身を「天からのパン」と言われことを信じられなかった、受け入れがたかったのです。そのつぶやきの理由は、イエスの父ヨセフ・母マリアを知っているということでした。イエスを知っている人は、つぶやかざるを得ません。何故ならイエスのルーツを知っているからです。人は、知っている・理解しているつもりになっていると、つまずかざるを得ないことを示しております。彼らは、イエスは「天からのパン」であろうはずがない、あり得ないということを知っているのです。
 しかし「あり得ない」ことが起こっている、それが大事なのです。本来不可能なことが、主イエスにおいて起こっているのです。母マリアから人の子としてお生まれになった、神でありながら人となられた、それはあり得ない出来事です。私どもの認識では「人から生まれたのに、何故神か?」と考えるでしょう。このことは人に理解できることではないのです。
 しかし、人間には不可能でも神には可能なのです。このあり得ない出来事は、私どもの救いそのものです。私どもの日常は神にふさわしいとは言えない、神から遠い罪人です。そして罪人は滅ぶ、それが本来の筋道です。そんな罪人にどうして救いがあるのでしょうか。この「あり得ないこと」を、神はあり得ない方法(神が人となって誕生する)で成し遂げてくださったのです。罪人の救いとは、神の不可能を可能にする業です。それが神の愛ということです。「あり得ない」と思えていることは、とても大事であることを覚えてもよいのです。
 ユダヤ人たちは「知っている」から信じませんでした。「知っている」から「信じられる」わけではありません。「知っている」と、自分の思いが第一になり、神の出来事を第一にしないのです。「知っている」ということが信じることから人を遠ざけるのです。ですから「分かっているつもり」が一番だめなのです。進歩のある人には問いがあるのです。問いがあるからこそ、より深くものを知ることが出来る。問いが無くなったら人としての前進はないことを覚えたいと思います。「知っている」ということは停滞し、自分の殻に閉じこもるのです。

主イエスを天からのパンであると知るためには、44節「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」、神がその人を引き寄せてくださるから、人は信じる者になると言っているのです。信じることは人の思いではない、神が働きかけてくださるから信じる者となるのです。それを聖霊の働きというのです。自分の思いが優先していたならば、神に自らを明け渡すことはできない、信じられないのは当然のことです。人の思いではあり得ない。神が捕らえて引き寄せてくださるから、信じる者となるのです。
 信仰とは、自分を第一にすることではなく神を第一にすることです。しかし、私どもの日常は自分が第一なのです。自分が第一であることは、現実を受け止めきれない私どもにとっては、実は大変辛いことです。ところが、この礼拝の場では神が第一に働いていてくださるのです。私どもが神を第一とするのではない、神が第一となって働いていてくださるのだから神の御支配に任せていればよいのです。ありがたいことです。自分の思いを第一にすることから解き放たれることは、どんなに幸いなことでしょうか。神が、主イエスが、私どもにとっての第一であることを知ったとき、私どもは慰められるのです。私どもは自分の思いを第一にしない時を持つことを、この礼拝において許されているのです。なんと幸いなことでしょうか。私どもがどのように思おうと神は第一となって働いていてくださる、そこに私どもは招かれているのです。

47節「信じる者は永遠の命を得ている」、主イエスを信じる者は終りの日に復活(永遠の命)するとの宣言をいただいております。この保証は、先の約束なのではなく、今ここで永遠の命が与えられているのだと語ります。それがヨハネによる福音書の特徴でもあります。「永遠の命を今ここで既に与えられている」、これは幸いなことです。皆さんの「死に場所」はどこでしょうか? 私どもは「死に場所」を知っておかなければなりません。昔は家庭で死を迎えることができました(共同体の受容)。しかし今は、孤独に死ななければならないという現実があります。私どもは「幸いな死」を必要としているのです。「幸いな死に場所」それは「キリスト」です。「キリストが死に場所」とはどういうことでしょうか。キリストにあっては死と生は一つであって、死ぬとは永遠に生きるということです。永遠の命(終わりの日の復活)を与えられているとは、私どもが今生きている現実は終末であるということです。復活の命を生きる者として、今まさに終末を生きているのです。終りの日の救いが既にある、終りの日の永遠の命を既に与えられて生きている、そのことを感謝したいと思います。今一生懸命生きれば、終わりの日は大丈夫ということではないのです。

48節「わたしは命のパンである」と改めて語られます。命のパンとは、52節からは「聖餐」の出来事として語っております。聖餐に与ることによって、主イエスの贖いの命(十字架)と永遠の命(復活)に与るのです。命のパンとはそういうことです。
 51節「わたしの肉」とは、1章で「言(ことば)が肉となった」というヨハネによる福音書独特の言い方で「受肉」の出来事を言い表しております。主イエスは「言(ことば)なる方」、神の言葉、神の啓示そのものであられるのです。神の言葉をいただいて、私どもは救いを知るに至る。その神の言葉が肉となる、救いが、永遠の命が肉となる。私ども人間の言葉のうちに神が入ってくださる、私どもの言葉を通して救いに至ることができる。人間の言葉を通してキリストが語り出されるのです。どんなにつたない言葉でも、神がわたしどもの言葉に働いてくださって、御自身を現してくださるのです。そのことが「ことばが肉となる」という言葉に含まれている内容です。「ことばが肉をとられる」ことを信じることは、人間のつたない言葉にも神が働いてくださることを信じることです。神が人の言葉を通して働いてくださることを信じ伝道する、それがプロテスタント教会の姿です。

主の肉、主の血」 11月第3主日礼拝 2007年11月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章52〜59節

6章<52節>それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。<53節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。<54節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。<55節>わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。<56節>わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。<57節>生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。<58節>これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」<59節>これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

52節、主イエスの話にユダヤ人たちは激しく議論し始めたとあります。なぜイエスの肉を食べることがパンを食べることであるのかと。主イエスの言われたことは、実際の肉、実際のパンではなく、神からの恵みとしてのパン、永遠の命の食べ物としてのパンを言い表し、パンと肉との関係は主イエスの言葉を信じることを示しているのですが、彼らはそのようには受けとめることができませんでした。
 「信じる」とは「従う」ことを意味しますが、「議論」とは受け入れ従うことから程遠いことです。議論するとは自分が理解することであり、自分が優先する出来事です。主イエスを論ずるとは、主イエス・キリストよりも自分が上に立つということになります。議論をすることでは自分を表せても主イエスを表わすことはできないのです。
 余談ですが、このことから日本基督教団が戒めなければならないことを思わされます。教団は議論してしまいました。議論の末に、宣教の力、伝道の力が衰退してしまいました。激しい議論は何だったのでしょうか。キリストの栄光をあらわすこと、神を神、主を主とすることからかけ離れていたのです。そして、今、畏敬の念の回復に労しているのです。

さて「従う」とは、主イエスのみ言葉を自分自身のこととして受け止めるということです。4章のサマリヤの女はこのように従ったのでした。従うという時、自分自身の力をもって従うのではありません。求めることを許してくださるということがあるのです。信じるということの中に、主イエスを求めて良いという恵みの出来事があるということです。主イエスが言ってくださったことがこの身に起こるように求めて良いということ、これが実は信じるということなのです。あくまでも、信じると言うとき、主イエスご自身が信じるようにと導いておられることを忘れてなりません。では、このユダヤ人たちはどうでしょうか。本当はこう言って良かったのです。「それでは、永遠の命に至るあなたの肉をいただきたい」と。サマリヤの女がそう言ったように。それが従うということなのです。しかし、彼らは主イエスが命のパンであるということを認められなかったのです。

私どもは、全てのことを理解し尽くせるものではありません。たとえ主イエスのことばであろうと、私たちは自分の納得するかたちで受け入れることはできないのです。しかし、主イエスの言われていることをこの身に求めることが許されていることの大切さを知らなければなりません。主イエスの言葉に従うとは、主イエスの言葉に身を預けることなのです。

53節、主は言います。肉を食べ、更に血を飲まなければならないと。主の肉、主の血とは、実は聖餐に与ることを意味しています。聖餐に言い表されている恵みに与ることを意味しています。聖餐によって私どもは、罪の贖いとしての十字架、甦られた主の体、罪の赦しを思い起こすのです。また、血は、かつて神に犠牲として捧げられたように、神の契約に与ることを意味しており、私どもが神の許に買い取られたこと、新しく神の民とされたことを思い起こすのです。聖餐こそが主イエスを信じることにより与えられている恵みなのです。私どもは聖餐によって十字架と復活の主イエスを信じ、罪の赦しと永遠の命に与るのです。カトリック教会はミサ(聖餐)を行います。なぜ、私どもプロテスタント教会では聖餐を毎週しないのでしょうか。それは、御言葉の説教を神の言葉として聴くことによって主イエスの十字架の恵み、復活の命に与っていると信じているからです。御言葉に与ることは実は聖餐に与ることと一つなのです。聖餐によって示されている十字架と復活が御言葉を聴くことで毎週起こっているということです。主日毎に御言葉を聴き、十字架の贖いと主イエスの復活の命に与っていることを覚えるのです。私どもの主日毎の礼拝、それは無くてはならないものです。礼拝抜きで恵みはないのです。

聖餐はだれが与るべきでしょうか。十字架の主イエス、復活の主イエスを信じることは信仰の出来事です。聖餐は信仰をもって与るべきことであって、信じ告白すること無くして聖餐に与ることはできません。聖餐に主の復活の恵みがあると信じるから聖餐に与るのです。

55〜56節、聖餐・御言葉に与るとは「キリストが共におられる」ことに他なりません。私に恵みが与えられているのだということを実感し想起することが聖餐であり、み言葉に与るということなのです。

つまずき」 11月第4主日礼拝 2007年11月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章60〜66節

6章<60節>ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」<61節>イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。<62節>それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。<63節>命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。<64節>しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。<65節>そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」<66節>このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

今日は、主の弟子の「つまずき」について語ります。この箇所のように「つまずき、主イエスから離れ去った」とまで語るのは、ヨハネによる福音書独特の表現です。背景には、ヤムニア会議によって、キリスト教が異端とされたことによるユダヤ人キリスト者の動揺があるのです。

60節「これを聞いて」とは、主イエスがご自身を「天から降って来たパン、このパンを食べるなら永遠の命を得る」とおっしゃったことです。「天からのパン」は「実にひどい話」であり、「肉を食べよ」など「聞いていられない」と、弟子たちはつぶやき、つまずいたのです。主イエスがご自身を「命の糧である」と明らかにされ、主イエスを信じる者に与えられる「永遠の命」を信じるようにと招かれているのですが、弟子たちは信じられませんでした。
 「信じる」とは、私どもの思いが先立ってあるのではなく、主イエスがご自身を示してくださったことに応答するがゆえにあるのです。「主の働きかけに応えること」それが「信仰」であることを忘れてはなりません。主が御言葉をもって示されたことを信じるのであって、自らの思いで信じるのではないのです。主が御言葉をもって示されたこと、それに応答するかたちで礼拝があるのです。
 「信仰は御言葉に応えること」それは神と人との呼応関係であり、即ち人格性を表すのです。ですから「信じないこと」は「人が人でないこと」です。「人格」という言葉は当たり前に使われる言葉ですが、実はキリスト教が入ってきて初めて言われるようになった言葉です。神と人との呼応関係があってこそ使われる言葉なのです。人は、神の呼びかけに応えるものとして創造されました。そこに人格があるのです。人が本当に「存在」としてあるのは神の前にあってです。人が人となる、人格となるのは、神の呼びかけに応えて、なのです。
 人が人格を持つということは、信じる者であるということです。ですから信仰は本当の意味で人間が人間となることなのです。信仰は人間だけに与えられている恵みです。動物は信仰を持ちません。
 人が人としての確かさを見い出すのは、神の前にあってです。神無しでは、自らを見い出せない、虚しい、孤独であって、存在が不確かなのです。
 ですから、神抜きの人間関係は危ういと言わねばなりません。互いに相対化できず、他者と比べ上下関係を作る、優位に立つか屈辱によるのです。人は神の前にあってこそ、自らも他者も相対化できる。キリスト教においてこそ、規範となるべき人間関係が示されているのです。
 信仰を失っている世界では、人が人として尊ばれなくなるという危うさがあります。現代のグローバル化で表れることは、力ある者が支配するということ。大きな力を容認し、弱き者への慈しみ、愛を失ってしまうのです。私どもは今、神を見い出せない危うさの中にあるのです。

62節、つまずいている弟子たちに主イエスが言われたことは「人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」ヨハネによる福音書では、「人の子」を「天(もともと居られた所)に帰られる神の御子」であることを強調します。「……。」に示されることは、そのことを見ても信じられないでしょう、つまずくでしょうということです。十字架・復活以上に「天に帰られる」ことを強調するヨハネ福音書は、ここで、主イエスと共に私どもも天に帰ることを信じるのです。私どもはもはや地上に属さない、「天に属する者である」ということを表しております。

63節、主イエスの言葉は霊であり命であると言われます。「聖霊」とは「真理の霊」です。「主イエスとはいかなる方か」という主の真相は、聖霊の働きなしには分からないのです。聖霊による(イエス・キリストの御名による)洗礼を受けなければ、主イエスを理解することは出来ません。洗礼を受けることは、主イエスが救いなる方だと知り、言い表す(告白)ことを伴う聖霊の出来事なのです。主イエスを信じることは、聖霊による恵みの出来事であることを覚えたいと思います。

もう一つ、考えなければならないことがあります。64節、主イエスは「信じない者、裏切る者を知っておられた」のです。私どもは自らを戒めなければなりません。それは「主イエスだけが」知っておられることなのです。それで十分なのです。私どもがなんらかのこと(他者を裁く)をするのでなく、それは主に任せればよいのです。
 主は、私どもがいかなる者であるかを知っていてくださる方です。私どもは「主に知られている者である」ことを覚えたいと思います。良いも悪いも含めて、裏切る者も、遠くに離れる者も、私どもの全てを知っておられる。主が私どもを知っていてくださるからこそ、十字架・復活・永遠の命が与えられているのです。神に知られていること以上に、畏るべきことはありません。ただその神に、私どもの全てを明け渡すほかないのです。