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36節「しかし」と主イエスはおっしゃるのです。話の流れを中断して語られます。26節の言葉を受け、改めて「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と繰り返されます。「あなたがた」とは、主のもとに集う人々のことであり、ここでの「群衆」だけのことを言っているのではなく、私どもをも含めております。 「主イエスは裁かない」とすれば、「滅び(裁き)」とは何なのでしょうか。主イエスが「信ぜよ」と迫っていてくださることに対し、信仰告白を拒否することが裁きなのです。ですから「滅び」は神に責任があるのではありません。自ら裁きを選び取る、人自身にあるのです。せっかく「信ぜよ」とおっしゃってくださっているのに、自らが信じることを選び取れなかった、自業自得のことです。 37節「父がわたしにお与えになる人」と言われます。主イエスを信じる者を、主イエスに属する者(永遠の命に生きる)として、この世に属する者(過ぎ行き、消え行く)と区別してくださるのです。永遠の神との交わりに生きる者とされるのです。「キリストの所有とされる」とは、信じる者に与えられている恵みです。そして麗しいみ言葉が記されます。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。どんな恩知らずでも見捨てない、見放したりはしないと、十字架の主イエスは言ってくださるのです。忍耐にも愛することにも、私どもには限界があるのです。しかし主イエスは、主イエスを裏切る者でしかない、そういう私どもをキリストの者とし続けてくださるというのです。主の忍耐に限りはありません。御心に限りはありません。主イエスを信じる者を、主は決して見捨てないのです。主の業に限界はありません、ありがたいことです。 愛するというとき、人の愛には限界があります。人は、深く愛せば愛すほどに、その愛に破れたときには憎しむのです。人の愛は見返りを求めるのです。しかし、主イエスの愛に憎しみはありません。なぜ主イエスは十字架についてくださったのでしょうか。私どもを愛して、私どもを「信じる」に至らせるためです。人は愛すれば愛するほど、愛されることを求めるのです。しかし、主イエスは自らが愛されることを初めから望んではおられないのです。 主イエスの救いに限界はありません。信じて洗礼を受けた者を、キリストがしっかりと掴んでいてくださいます。 38節「神の御心」とは何でしょうか。全ての者が終りの日の復活の命(永遠の命)を得ることです。このことが繰り返し語られております。 |
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41節、ユダヤ人たちはつぶやきます。主イエスがご自身を「天からのパン」と言われことを信じられなかった、受け入れがたかったのです。そのつぶやきの理由は、イエスの父ヨセフ・母マリアを知っているということでした。イエスを知っている人は、つぶやかざるを得ません。何故ならイエスのルーツを知っているからです。人は、知っている・理解しているつもりになっていると、つまずかざるを得ないことを示しております。彼らは、イエスは「天からのパン」であろうはずがない、あり得ないということを知っているのです。 主イエスを天からのパンであると知るためには、44節「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」、神がその人を引き寄せてくださるから、人は信じる者になると言っているのです。信じることは人の思いではない、神が働きかけてくださるから信じる者となるのです。それを聖霊の働きというのです。自分の思いが優先していたならば、神に自らを明け渡すことはできない、信じられないのは当然のことです。人の思いではあり得ない。神が捕らえて引き寄せてくださるから、信じる者となるのです。 47節「信じる者は永遠の命を得ている」、主イエスを信じる者は終りの日に復活(永遠の命)するとの宣言をいただいております。この保証は、先の約束なのではなく、今ここで永遠の命が与えられているのだと語ります。それがヨハネによる福音書の特徴でもあります。「永遠の命を今ここで既に与えられている」、これは幸いなことです。皆さんの「死に場所」はどこでしょうか? 私どもは「死に場所」を知っておかなければなりません。昔は家庭で死を迎えることができました(共同体の受容)。しかし今は、孤独に死ななければならないという現実があります。私どもは「幸いな死」を必要としているのです。「幸いな死に場所」それは「キリスト」です。「キリストが死に場所」とはどういうことでしょうか。キリストにあっては死と生は一つであって、死ぬとは永遠に生きるということです。永遠の命(終わりの日の復活)を与えられているとは、私どもが今生きている現実は終末であるということです。復活の命を生きる者として、今まさに終末を生きているのです。終りの日の救いが既にある、終りの日の永遠の命を既に与えられて生きている、そのことを感謝したいと思います。今一生懸命生きれば、終わりの日は大丈夫ということではないのです。 48節「わたしは命のパンである」と改めて語られます。命のパンとは、52節からは「聖餐」の出来事として語っております。聖餐に与ることによって、主イエスの贖いの命(十字架)と永遠の命(復活)に与るのです。命のパンとはそういうことです。 |
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52節、主イエスの話にユダヤ人たちは激しく議論し始めたとあります。なぜイエスの肉を食べることがパンを食べることであるのかと。主イエスの言われたことは、実際の肉、実際のパンではなく、神からの恵みとしてのパン、永遠の命の食べ物としてのパンを言い表し、パンと肉との関係は主イエスの言葉を信じることを示しているのですが、彼らはそのようには受けとめることができませんでした。 さて「従う」とは、主イエスのみ言葉を自分自身のこととして受け止めるということです。4章のサマリヤの女はこのように従ったのでした。従うという時、自分自身の力をもって従うのではありません。求めることを許してくださるということがあるのです。信じるということの中に、主イエスを求めて良いという恵みの出来事があるということです。主イエスが言ってくださったことがこの身に起こるように求めて良いということ、これが実は信じるということなのです。あくまでも、信じると言うとき、主イエスご自身が信じるようにと導いておられることを忘れてなりません。では、このユダヤ人たちはどうでしょうか。本当はこう言って良かったのです。「それでは、永遠の命に至るあなたの肉をいただきたい」と。サマリヤの女がそう言ったように。それが従うということなのです。しかし、彼らは主イエスが命のパンであるということを認められなかったのです。 私どもは、全てのことを理解し尽くせるものではありません。たとえ主イエスのことばであろうと、私たちは自分の納得するかたちで受け入れることはできないのです。しかし、主イエスの言われていることをこの身に求めることが許されていることの大切さを知らなければなりません。主イエスの言葉に従うとは、主イエスの言葉に身を預けることなのです。 53節、主は言います。肉を食べ、更に血を飲まなければならないと。主の肉、主の血とは、実は聖餐に与ることを意味しています。聖餐に言い表されている恵みに与ることを意味しています。聖餐によって私どもは、罪の贖いとしての十字架、甦られた主の体、罪の赦しを思い起こすのです。また、血は、かつて神に犠牲として捧げられたように、神の契約に与ることを意味しており、私どもが神の許に買い取られたこと、新しく神の民とされたことを思い起こすのです。聖餐こそが主イエスを信じることにより与えられている恵みなのです。私どもは聖餐によって十字架と復活の主イエスを信じ、罪の赦しと永遠の命に与るのです。カトリック教会はミサ(聖餐)を行います。なぜ、私どもプロテスタント教会では聖餐を毎週しないのでしょうか。それは、御言葉の説教を神の言葉として聴くことによって主イエスの十字架の恵み、復活の命に与っていると信じているからです。御言葉に与ることは実は聖餐に与ることと一つなのです。聖餐によって示されている十字架と復活が御言葉を聴くことで毎週起こっているということです。主日毎に御言葉を聴き、十字架の贖いと主イエスの復活の命に与っていることを覚えるのです。私どもの主日毎の礼拝、それは無くてはならないものです。礼拝抜きで恵みはないのです。 聖餐はだれが与るべきでしょうか。十字架の主イエス、復活の主イエスを信じることは信仰の出来事です。聖餐は信仰をもって与るべきことであって、信じ告白すること無くして聖餐に与ることはできません。聖餐に主の復活の恵みがあると信じるから聖餐に与るのです。 55〜56節、聖餐・御言葉に与るとは「キリストが共におられる」ことに他なりません。私に恵みが与えられているのだということを実感し想起することが聖餐であり、み言葉に与るということなのです。 |
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今日は、主の弟子の「つまずき」について語ります。この箇所のように「つまずき、主イエスから離れ去った」とまで語るのは、ヨハネによる福音書独特の表現です。背景には、ヤムニア会議によって、キリスト教が異端とされたことによるユダヤ人キリスト者の動揺があるのです。 60節「これを聞いて」とは、主イエスがご自身を「天から降って来たパン、このパンを食べるなら永遠の命を得る」とおっしゃったことです。「天からのパン」は「実にひどい話」であり、「肉を食べよ」など「聞いていられない」と、弟子たちはつぶやき、つまずいたのです。主イエスがご自身を「命の糧である」と明らかにされ、主イエスを信じる者に与えられる「永遠の命」を信じるようにと招かれているのですが、弟子たちは信じられませんでした。 62節、つまずいている弟子たちに主イエスが言われたことは「人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」ヨハネによる福音書では、「人の子」を「天(もともと居られた所)に帰られる神の御子」であることを強調します。「……。」に示されることは、そのことを見ても信じられないでしょう、つまずくでしょうということです。十字架・復活以上に「天に帰られる」ことを強調するヨハネ福音書は、ここで、主イエスと共に私どもも天に帰ることを信じるのです。私どもはもはや地上に属さない、「天に属する者である」ということを表しております。 63節、主イエスの言葉は霊であり命であると言われます。「聖霊」とは「真理の霊」です。「主イエスとはいかなる方か」という主の真相は、聖霊の働きなしには分からないのです。聖霊による(イエス・キリストの御名による)洗礼を受けなければ、主イエスを理解することは出来ません。洗礼を受けることは、主イエスが救いなる方だと知り、言い表す(告白)ことを伴う聖霊の出来事なのです。主イエスを信じることは、聖霊による恵みの出来事であることを覚えたいと思います。 もう一つ、考えなければならないことがあります。64節、主イエスは「信じない者、裏切る者を知っておられた」のです。私どもは自らを戒めなければなりません。それは「主イエスだけが」知っておられることなのです。それで十分なのです。私どもがなんらかのこと(他者を裁く)をするのでなく、それは主に任せればよいのです。 |
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