聖書のみことば/2007.10
2007年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
恐れることはない」 10月第1主日礼拝 2007年10月7日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章16〜21節

6章<15節>イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。<16節>夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。<17節>そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。<18節>強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。<19節>二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。<20節>イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」<21節>そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

15節からお話したいと思います。主イエスを自分たちの王としようとした民衆の求めを、主イエスは否とされ、ひとりで山に退かれるのです。
 ローマ支配を打ち破る政治的・軍事的な王を熱狂的に求めたメシア運動に対しても主イエスは否とされます。熱狂は反乱を生み、弾圧をもたらす。信仰とは熱狂ではないのです。熱狂は狂気となり、叶わなければ絶望ともなります。
 しかし信仰は神を見ることであり、それは「熱き理性」です。困難の中でなお神を見、失望せず、そこに自らを認めて生きる、全ての出来事を客観的に見、相対化できるのです。
 現代は、理性を失って、熱狂しやすく絶望しやすい、狂気の時代とも言えます。信仰がないことこそが狂気なのです。信仰が狂気と言われがちですがそうではありません。信仰は理性なのです。そのことを覚えなければなりません。
 そして信仰は「熱き理性」です。冷たく突き放すことではない、関わることです。関わりの中で、自分も他者も愛することなのです。ですから、信仰こそ真実な理性なのです。
 ここで、主イエスがユダヤ人の王ではないと決めつけてはなりません。主イエスは民衆が期待する王ではないということです。主イエスはメシアとして、全ての人の王なのです。
 なぜ「メシア」が「王」なのでしょうか。メシアとは「油注がれた者」であり、神に仕える者として聖別されるのです。メシアには3つの職務があります。1つ目は祭司として神と人との執り成しをする。2つ目は預言者として神の言葉を預かって伝える。3つ目は王として、神の代理として神の支配を行うのです。ですからメシアは王なのです。
 そして主イエスはメシアとして、まさに3つの内容を持っておられる方です。1.十字架と復活による贖いによって、神との執り成しをなす方。2.神の言葉そのものを現実化している方。3.王として救いを示してくださる方。まさに十字架と復活の贖いを通しての神の支配は、主イエスと共に到来するのです。ですから主イエスこそ真の王です。そこでこそ人々は自ら進んで、神に喜んで従うのです。力による支配によっては憎しみしか生まれません。赦されているという恵みの中にあってこそ、真の平和があるのです。

16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」。夜の山は不安な場所です。カファルナウムはガリラヤであり、主イエスの宣教の本拠地、そこへ舟で帰ろうとしたのです。17節「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」、暗さの中で、主イエスが共にいてくださらなければならないことを示しております。暗さの中で、私どもは主イエスを必要としていることを暗示しているのです。この世を暗黒と見る、それがこの福音書の世界観です。その暗さを打ち破る、光としての主イエスをヨハネによる福音書は強調しています。
 主イエスのいない闇は、真実に、深刻に、深い闇に覆い尽くされていることを覚えなければなりません。人の闇は、主イエスがいないことにあるのです。その闇のただ中では、弟子たちの船乗りとしての能力や経験も力を合わせることも必要とはされません。それでは闇の中にある恐れの現実は一掃されないのです。命に係わる恐怖に、経験も知恵も何の役にも立っていないのです。闇を持つ者にとって必要なのは、光である主イエス・キリストのみであります。人間の持つ暗闇(罪)は命の危うさや不安・恐怖を生むのです。その暗闇を打ち破り、神との交わりによって命の充実と平安をもたらすのは神の御子・主イエスのみです。

暗さの中にあることは人に恐怖を与えます。光がなければ闇の中に埋没してしまうのです。19節、主イエスが湖を歩いてきて舟に近づくときに、弟子たちは更に恐怖を覚えます。主イエスが傍らに立っておられるのに主イエスを認めない、主イエスを見い出すことができない、そこで恐怖に支配されてしまうのです。存在を失う危うさを感じて恐れるのです。
 主イエスを見い出すこと、それは存在を得ることです。主がどこまでも私どもの命そのものであってくださることを知ることで、私どもの存在が与えられるのです。ですから主イエスを認められなくなった時、私どもは危ういのです。
 私どもは様々な困難に遭います。その困難の中で、主が傍らにあることを覚え、主を見い出せれば、私どもは存在の確かさの中で生きることができるのです。人の命の確かさは主イエス・キリストのみにあることを覚えたいと思います。

恐怖のただ中で20節、「わたしだ。恐れることはない」と主イエスは言ってくださいます。「わたしだ」とは、主の臨在を示す言葉です。その言葉が人を力づけるのです。人が力を得るのは、神の臨んでおられることを知るからです。
 礼拝は、神が今ここに在すという「神の臨在」の出来事です。

21節、弟子たちは主イエスが臨在してくださったことにより、目的地に着きました。「イエスを舟に迎え入れようとした」、主イエスが舟に乗られたかどうかは問題ではありません。主がそこに臨在してくださることによって、行くべき地に着くのです。
 私どもは、さまざまな困難の中で、本来目指す所を見失ってしまいます。ただ主が臨んでくださって、本来行くべき所にたどり着くのです。それは神のみもとです。ここに15節の完結があります。
 神の支配とは、神が臨んでおられる所、十字架と復活による神の憐れみのある所です。「わたしだ」と言ってくださる主イエスが、今ここに臨んでいてくださることを覚え、感謝したいと思います。

神の国を求めなさい」 10月第2主日礼拝 2007年10月14日 
田邉良三 神学生(聴者/清藤)
聖書/ルカによる福音書 第12章22〜34節

12章<22節>それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。<23節>命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。<24節>烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。<25節>あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。<26節>こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。<27節>野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。<28節>今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。<29節>あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。<30節>それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。<31節>ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。<32節>小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。<33節>自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。<34節>あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

今日、10月第2週は「伝道献身者奨励日」です。わたしの多くの仲間も今日、神の導き・お支えにより教会の説教の場に立っております。献身者は、必ずしも知恵ある者ではありません。しかし、こうして今この時を迎えることが許されています。神が献身者を用いてくださる、あえて欠けのある者を用いてくださるのです。献身者として立つことを許されているのです。
 また献身は伝道者に限ったことではありません。キリスト者は、主イエス・キリストを信じた時、教会につながり、生活の全てを神に委ねる、それは献身と言わなければなりません。しかし自分の全生活を神に捧げる、そのためには障害が多いのです。
 ですから、そのことを今日、主イエスは言われます「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と。どんな人でも、どんな場所に住む人でも、またキリスト者でも同じく「思い悩む」のです。それはなぜでしょうか。衣・食は私どもにとって無視出来ない日常です。私どもは「生きるために」食べ、「身体を守るために」着るのです。そういうことを長年続けているのです。しかし、それが逆転してくる。「食べるために」「着るために」生活する、そんなことが私どもの生活に入り込んでくるのです。
 かつて、わたしが出会った御婦人のことをお話ししますと、その方は身体に着けられるだけの宝石を全て身に着けておりました。手は何のためにあるのでしょうか。10本の指全てに指輪をしているために、手で何も掴めないのです。その方は宝石が好きでした。だからいつも身体中に宝石を着けておりました。しかしわたしは、その姿を醜く思いました。
 お金の有る無しにかかわらず、大なり小なり、私どもも過度の欲求に囚われることはないでしょうか。飾ること・食べること・持つこと、そうしたことに囚われる存在であることを、私どもは知らなければなりません。
 私どもの身体・命は神様がくださったものです。ですから自分だけのために用い、自分だけに目を向けることは間違いです。私どもが自由に、したいように使うというものではないのです。自分のものであって自分のものではない。神のものであることを覚えなければなりません。
 本来私どもが求めなければならないものは何なのでしょうか。なぜ私どもの身体は大切なのでしょうか。それは、命・身体は神様から与えられたものだからです。しかし、神様のものだということを忘れてしまうのです。最近は自殺者が多いと思いますが、私どもが自由に自らの命を落としてよいのでしょうか。そうではありません。私どもの身体は、神様が望まれる形で、神様の栄光のために用いられるべきなのです。

神様がどんなに私どもを愛していてくださるのか、カラス、野の花のことから主イエスは話しておられます。カラスはイスラエルでは汚れた鳥とされておりました。そのカラスを神様は養っておられる。そのカラスに比べて、どれほどあなたがたは価値ある者か。主イエスは私どもを永遠の命に導き入れてくださる方です。私どもは自分では寿命を延ばすことは出来ない、しかし神様には出来るのです。主イエスを救い主と信じることにより、永遠に生きることができるのです。また、野の花の装いは、栄華を極めたソロモンでさえも及ばないのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われます。
 ですから、何を食べようか、何を飲もうかということに目を向ける、いや自分のことにだけに目を向けることは、真実の神を知らない異邦人がすることだと言われます。それは、キリスト者であっても同じです。「信仰の薄い者たちよ」と、主イエスは厳しく、しかし暖かい言葉をかけてくださいます。神を忘れ自分を第一としてしまうような者を、もう一度神様の方へ引き戻そうと言葉をかけてくださるのです。
 私どもの必要なものは神様が全てご存知です。「神の国を求める」とは、神様に従い、神様の栄光を表すために用いられて生きることです。それは自分の力ではできません。神の恵みを喜びをもって受け取らせていただく、徹頭徹尾、受動的なことなのです。主イエスの十字架と復活を信じるときに神の国が約束されるのです。求める私どもに「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、大きな勇気を与える言葉をくださる。主イエスは、求める者に与えると約束していてくださるのです。
 この世を神の国を求める者として生きるためには、どうするべきでしょうか。それは、富を神の栄光のために用いることです。自分のためにではない。神を神とし、それと共に兄弟のためにも用いることです。神を第一とすることは兄弟(隣人)を大事にすることです。
 私どもの宝は神のもとにある、心は天にあると言ってくださいます。私どもが神の国を求める者とされるとき、私どもはこの世の煩いから解き放たれるのです。神様の力により、主イエスの導きによって神の国を求める者とされる、私どもの全生活が神様に従うことができるように力づけ整えられる。神に従う者として整えてくださると約束していてくださるのです。
 神は無理難題を押し付けているのではありません。日々祈り求めるとき、必ず求める者に与えるとイエスさがおっしゃっていてくださいます。

新しい週も、この世の生活が私どもを待っています。なお異邦人の道にそれることなく、神の約束を信じて、神の国を求めて生きる日々でありたいと思います。

永遠の命に至る食物」 10月第3主日礼拝 2007年10月21日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章22〜33節

6章<22節>その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。<23節>ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。<24節>群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。<25節>そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。<26節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。<27節>朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」<28節>そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、<29節>イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」<30節>そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。<31節>わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」<32節>すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。<33節>神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

22節「その翌日」と言われています。5千人を満腹にした翌日です。このことを通して群衆は、主イエスを王・メシア(救い主)ではないかと期待しましたが、その期待に反して主イエスは山へ退かれました。今日の22節以下は上記を受けて、「主イエスとは、どういう方か」という問いに対する答えが示された箇所です。

23節〜、5千人の群衆は、不思議にも「数そうの小舟」で対岸に渡ることができました。人の理解では不可能ですが、つまり「主イエスを追いかけた人々は対岸に渡ることができた」ということなのです。それも神の働きでありました。人の分析では捕らえられない出来事もあるのです。それが神の働き・導きです。
 25節、カファルナウムに弟子も主イエスも行かれたのです。そこで群衆は主イエスを見つけ「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問います。主イエスは群衆の予測通りそこにおられたわけですから、どうしてこのような問いを発したか、ということには神学的意味があります。それは主イエスが「神から来られた方」であることを示すために、敢えて「おいでになる(来る)」という言葉によって暗示しているのです。「主イエスは誰なのか、どこから来られた方なのか」を示す問いなのです。
 それに対する主イエスの答えは「人の子であり、神が認証している者」というものでした(27節)。群衆に対し主イエスは「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言われます。5千人の給食は、まさしく「主イエスがメシアであるしるし」であったにも拘らず、群衆はパンで満腹したことによって主イエスを預言者(メシア)と思ったのです。それは、主イエスをメシアと認めて崇めるのではなく、自らの欲望を満たすメシアとして認めたに過ぎません。
 信仰は人の欲望を満たすものではないことを覚えなければなりません。信仰は、神をあらわす出来事です。信仰によって私どもには、喜びという益が与えられることは確かです。しかし私どもの益が目的なのではありません。26節は、群衆が単に御利益を求めていることにほかならないことを示しております。

27節「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われます。一時の欲望を満たすだけのものではなく、本当に命満たすものが、人には必要なのです。
 「働きなさい」と言われたことにより、群衆は働き=神の業と捉えて、28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うのです。「働く」とは「信じる」ということです。「信じる」、そこに神が働かれるのです。信じることは神の業です。現代は信じない時代、信じないことが自然になっていますが、本来は、人は「信じる者」なのです。信仰なき者とは、神無しに生きる者です。信仰なき者、つまり神を信じない者に、何かを「信じる」ということが有り得るでしょうか。有り得ません。神ですら信じない者が、人を信じられるはずがなく、何ものをも信じることは出来ないのです。神を信じられる者だけが、真実に愛することが出来る。裏切る存在でしかない他者をも信頼できるのは、神の愛を見るからです。信じられないことを当然としていることは、人の本来の生き方を失っていることです。
 そのような「信仰なき者」に「信じる」ことが起こったとすれば、それは神の御業(働き)にほかなりません。私どもに神が働いていてくださる、だから信じられない者が信じる者となることができるのです。信じられない者のために、神は主イエスの十字架という犠牲を払ってくださいました。
 人には、神を見い出すことなくして本当の平安はありません。何も信じられないのですから平安があるわけがないのです。ですから「信じる」ということは平安を与えられる出来事です。不安・混乱の渦巻く神なき現代、このただ中で、私どもが主イエスを救い主とする信仰が与えられることは奇跡の出来事です。私どものなせることではない、神が私どもに働いてくださる恵みの出来事なのです。ですから、29節「信じる」こと以外に、私どもの働きはないのです。

30節「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」、29節の主イエスの答えの内容を群衆は理解できないのです。31節「天からのパン(マンナ)が与えられた」ことに対し主イエスは、32節「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」とお答えになりました。これは、群衆がイエスにモーセのような者であることを示せと言ったことに対し、ご自分はモーセを超える者であることを示された主イエスの答えなのです。永遠のパンを与えてくださるのは神です。そして主イエスは、モーセのような、神のパンを取り次ぐ者なのではありません。主イエスは「神からの永遠のパン」そのものであられるのです。「主イエスとは、どういう方か」。主イエスこそ永遠の命を与えてくださる神のパンなのです。

このヨハネによる福音書が強調していることは、永遠のパンである主イエスを「信じなさい」ということです。「信じること」、それは神の御業であります。その神の働きに委ねる、お任せする、私どもにはそれ以外にないのだということを覚えたいと思います。

しるしを求める」 10月第4主日礼拝 2007年10月28日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第6章30〜37節

6章<30節>そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。<31節>わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」<32節>すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。<33節>神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」<34節>そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、<35節>イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。<36節>しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。<37節>父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

30〜33節は先週と重なりますが、先週は神の御業を中心に話しました。今日は命のパンということについて話したいと思います。

群衆は「しるし」を求めるのです。6章2節には「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とありますし、また5千人の給食というしるしを群衆は既に経験しております。「見た、経験した」にも拘らず、なおしるしを求める、ここには、どこまでもしるしを求める危うさ、罪深さが示されております。常に満足せず、自分が納得できるかどうかが第一の関心事で、神の業が第一ではないのです。自己満足を求める、それは神から遠い姿です。
 信仰とは、神が、主イエス・キリストが第一になることです。信じることを求めながら、なお、しるしを求めるとすれば、それは自分第一ということです。不信仰とは神を信じないことと思いがちですが、そうではありません。自らを第一とすることが不信仰の姿です。それは自分を神とするということです。
 私どもは、「日々新たに」と思っていても、現実には日々古くなり滅びに向かっている存在です。しるしを求めるのは滅びに向かっているからと言わざるを得ません。「日々新たに」から遠い私どもが、本当に新しくなるためには、神に全てをあずける以外にない。十字架と復活により罪を終りとされ、神の子とされる恵みの内に生きることです。それはただ神により与えられることです。

31節、群衆は「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」とマナの奇跡を持ち出し、主イエスに「どのようなことをしてくださいますか」と問います。主イエスをモーセのような指導者と受け止めているのです。しかし、指導者が大事なのではなく、天からのパンそのものが大事なのです。32節、主イエスはモーセに目を向けるのではなく、天からのパンに目を向けるようにと言われます。天からのパンが与えられている、それは主イエスご自身、世に救いをもたらす真の命のパンだと。
 しかしそのことを理解せず、34節、繰り返し与えられることを群衆は望みます。命のパンは一度きり、それで全てとなるのです。食物のパンのように繰り返し与える必要のないものです。何が大切か。私どもの命のパンとして、主イエスが来てくださったことの大切さを思わなければなりません。この世は、命のパン(救い=主イエス)を必要としているのです。孤独を破り、神との交わりを回復してくださる方、主イエス・キリストが必要なのです。私どもの必要はただ一つ、キリストであるということを認識していない私どもは、多くのものを求めてしまいます。教会の中でも、人間的なノウハウや配慮などが私どもを危うくすることがあります。それは神を曇らせてしまうのです。必要なのは配慮ではなく、主イエス・キリストであることを覚えたいと思います。主イエス・キリストが見えなくなる時、私どもの存在は危ういのです。

主イエスの言葉を群衆は全く理解できません。主イエスの出来事、それは、人の理解を超えた出来事だからです。神でありながら人として生まれ、罪人の救いのために十字架で死に復活された方、主イエス・キリスト。完全な神が不完全な人になること自体、不可能なことです。罪人のために十字架にかかる、自分に敵する者のために十字架にかかることなどあり得ないことです。そして、復活も理解を超えたことです。しかしそれを人が理解しようとするならば、それは甚だ傲慢で罪深いのです。ただ聖霊が私どもに臨んでくださるから、アーメン、そうだと言い得るのです。神が人になってくださった。私どもの罪のため十字架かかり、永遠の命のために復活された、そのことを信じられるとすれば、それは聖霊の働きによるのだということを忘れてはなりません。

パンとは主食、地上の肉体を保つのに必要不可欠なものです。しかしそれに勝って、私どもの命にとって決して失ってはならないもの、それは主イエスなのです。私どもは、さまざまな問題を抱えております。ごまかしたり、向き合わず見ないようにする、他者に責任転嫁する、しかしそれらの問題は、突き詰めてみれば自分の問題となるのです。そうであれば救いが必要です。根底に罪があるからです。私どもは救いを必要としている。救いという主イエスを必要としているのです。私どもは、主イエスなくしては済まされないのです。それが、この命のパンという言葉に託されていることです。
 まさしく、全ての人にとって必要なのは主イエス・キリストなのです。ここに「伝道」ということの根拠が示されております。伝道は、一つは「神の命令」としてなすべきことです。しかしここで示されることは、全ての人にとって主イエスが必要、主イエスなくして救いはない、主イエスを必要としている、だから主イエスを宣べ伝えなければならない、それが私どものあり方だということです。
 私どもにとって隣人とは誰か。その人にとって一番必要なものを知っている人です。親切にする人が隣人なのではないのです。その人の必要を、救いの恵みを宣べ伝えることこそ、本当の隣人になるということでしょう。ただ主イエス・キリストを示すこと、それこそ隣人の最も求めていることなのです。

35節「主イエスを信じる」そのことによって、私どもは既に主イエスの身許にあるのです。主イエスを第一と見い出すとき、私どもは既に主の身許にあるのです。「渇くことも飢えることもない」終わりの日の永遠の命が、今ここに与えられていると宣言されているのです。「主イエスを信じる」、そこで私どもは、決して失われることのない神との交わりに、今、既に入れられているのだということを覚えたいと思います。