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15節からお話したいと思います。主イエスを自分たちの王としようとした民衆の求めを、主イエスは否とされ、ひとりで山に退かれるのです。 16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」。夜の山は不安な場所です。カファルナウムはガリラヤであり、主イエスの宣教の本拠地、そこへ舟で帰ろうとしたのです。17節「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」、暗さの中で、主イエスが共にいてくださらなければならないことを示しております。暗さの中で、私どもは主イエスを必要としていることを暗示しているのです。この世を暗黒と見る、それがこの福音書の世界観です。その暗さを打ち破る、光としての主イエスをヨハネによる福音書は強調しています。 暗さの中にあることは人に恐怖を与えます。光がなければ闇の中に埋没してしまうのです。19節、主イエスが湖を歩いてきて舟に近づくときに、弟子たちは更に恐怖を覚えます。主イエスが傍らに立っておられるのに主イエスを認めない、主イエスを見い出すことができない、そこで恐怖に支配されてしまうのです。存在を失う危うさを感じて恐れるのです。 恐怖のただ中で20節、「わたしだ。恐れることはない」と主イエスは言ってくださいます。「わたしだ」とは、主の臨在を示す言葉です。その言葉が人を力づけるのです。人が力を得るのは、神の臨んでおられることを知るからです。 21節、弟子たちは主イエスが臨在してくださったことにより、目的地に着きました。「イエスを舟に迎え入れようとした」、主イエスが舟に乗られたかどうかは問題ではありません。主がそこに臨在してくださることによって、行くべき地に着くのです。 |
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今日、10月第2週は「伝道献身者奨励日」です。わたしの多くの仲間も今日、神の導き・お支えにより教会の説教の場に立っております。献身者は、必ずしも知恵ある者ではありません。しかし、こうして今この時を迎えることが許されています。神が献身者を用いてくださる、あえて欠けのある者を用いてくださるのです。献身者として立つことを許されているのです。 神様がどんなに私どもを愛していてくださるのか、カラス、野の花のことから主イエスは話しておられます。カラスはイスラエルでは汚れた鳥とされておりました。そのカラスを神様は養っておられる。そのカラスに比べて、どれほどあなたがたは価値ある者か。主イエスは私どもを永遠の命に導き入れてくださる方です。私どもは自分では寿命を延ばすことは出来ない、しかし神様には出来るのです。主イエスを救い主と信じることにより、永遠に生きることができるのです。また、野の花の装いは、栄華を極めたソロモンでさえも及ばないのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われます。 新しい週も、この世の生活が私どもを待っています。なお異邦人の道にそれることなく、神の約束を信じて、神の国を求めて生きる日々でありたいと思います。 |
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22節「その翌日」と言われています。5千人を満腹にした翌日です。このことを通して群衆は、主イエスを王・メシア(救い主)ではないかと期待しましたが、その期待に反して主イエスは山へ退かれました。今日の22節以下は上記を受けて、「主イエスとは、どういう方か」という問いに対する答えが示された箇所です。 23節〜、5千人の群衆は、不思議にも「数そうの小舟」で対岸に渡ることができました。人の理解では不可能ですが、つまり「主イエスを追いかけた人々は対岸に渡ることができた」ということなのです。それも神の働きでありました。人の分析では捕らえられない出来事もあるのです。それが神の働き・導きです。 27節「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われます。一時の欲望を満たすだけのものではなく、本当に命満たすものが、人には必要なのです。 30節「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」、29節の主イエスの答えの内容を群衆は理解できないのです。31節「天からのパン(マンナ)が与えられた」ことに対し主イエスは、32節「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」とお答えになりました。これは、群衆がイエスにモーセのような者であることを示せと言ったことに対し、ご自分はモーセを超える者であることを示された主イエスの答えなのです。永遠のパンを与えてくださるのは神です。そして主イエスは、モーセのような、神のパンを取り次ぐ者なのではありません。主イエスは「神からの永遠のパン」そのものであられるのです。「主イエスとは、どういう方か」。主イエスこそ永遠の命を与えてくださる神のパンなのです。 このヨハネによる福音書が強調していることは、永遠のパンである主イエスを「信じなさい」ということです。「信じること」、それは神の御業であります。その神の働きに委ねる、お任せする、私どもにはそれ以外にないのだということを覚えたいと思います。 |
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30〜33節は先週と重なりますが、先週は神の御業を中心に話しました。今日は命のパンということについて話したいと思います。 群衆は「しるし」を求めるのです。6章2節には「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とありますし、また5千人の給食というしるしを群衆は既に経験しております。「見た、経験した」にも拘らず、なおしるしを求める、ここには、どこまでもしるしを求める危うさ、罪深さが示されております。常に満足せず、自分が納得できるかどうかが第一の関心事で、神の業が第一ではないのです。自己満足を求める、それは神から遠い姿です。 31節、群衆は「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」とマナの奇跡を持ち出し、主イエスに「どのようなことをしてくださいますか」と問います。主イエスをモーセのような指導者と受け止めているのです。しかし、指導者が大事なのではなく、天からのパンそのものが大事なのです。32節、主イエスはモーセに目を向けるのではなく、天からのパンに目を向けるようにと言われます。天からのパンが与えられている、それは主イエスご自身、世に救いをもたらす真の命のパンだと。 主イエスの言葉を群衆は全く理解できません。主イエスの出来事、それは、人の理解を超えた出来事だからです。神でありながら人として生まれ、罪人の救いのために十字架で死に復活された方、主イエス・キリスト。完全な神が不完全な人になること自体、不可能なことです。罪人のために十字架にかかる、自分に敵する者のために十字架にかかることなどあり得ないことです。そして、復活も理解を超えたことです。しかしそれを人が理解しようとするならば、それは甚だ傲慢で罪深いのです。ただ聖霊が私どもに臨んでくださるから、アーメン、そうだと言い得るのです。神が人になってくださった。私どもの罪のため十字架かかり、永遠の命のために復活された、そのことを信じられるとすれば、それは聖霊の働きによるのだということを忘れてはなりません。 パンとは主食、地上の肉体を保つのに必要不可欠なものです。しかしそれに勝って、私どもの命にとって決して失ってはならないもの、それは主イエスなのです。私どもは、さまざまな問題を抱えております。ごまかしたり、向き合わず見ないようにする、他者に責任転嫁する、しかしそれらの問題は、突き詰めてみれば自分の問題となるのです。そうであれば救いが必要です。根底に罪があるからです。私どもは救いを必要としている。救いという主イエスを必要としているのです。私どもは、主イエスなくしては済まされないのです。それが、この命のパンという言葉に託されていることです。 35節「主イエスを信じる」そのことによって、私どもは既に主イエスの身許にあるのです。主イエスを第一と見い出すとき、私どもは既に主の身許にあるのです。「渇くことも飢えることもない」終わりの日の永遠の命が、今ここに与えられていると宣言されているのです。「主イエスを信じる」、そこで私どもは、決して失われることのない神との交わりに、今、既に入れられているのだということを覚えたいと思います。 |
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