聖書のみことば/2007.1
2007年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
熱心とは」 1月第1主日礼拝 2007年1月7日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章13〜22節
2章<13節>ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。<14節>そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。<15節>イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、<16節>鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」<17節>弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。<18節>ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。<19節>イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」<20節>それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。<21節>イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。<22節>イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

今日の箇所はエルサレムでの宮清めの話です。
 13節、前提にはユダヤ人の過越の祭りがあります。パレスチナ各地にユダヤ人は散らばっていました。当時は、祭りのたびごとにエルサレムに行くことが義務化されていました。ですから人々は、巡礼団を組織して旅してやってきたのでした。ここで巡礼について考えたいと思います。私どもの信仰の人生も巡礼の旅です。今はあまりにも現実主義になってきていますが、信仰は、今が全てではありません。今は終末の一過程なのです。目指すところは神の国です。
 そして、巡礼は修行の場です。今の現実を受け止め相対化し担っていくことが必要なのです。神の約束・保証のもとに目指して行くのです。
 巡礼で何が大切かというと、天国へ自らの意志をもって行くということです。意識をもって今を生きるということです。自覚をもって生きることが巡礼なのです。プロテスタント教会の特徴は、自覚的に、自分の信仰を自分のものとして言い表すことです。自覚的に生きることです。そして、救いの宣言をなすことが教会に与えられた権能なのです。私たちも毎日が天国への巡礼です。一日一日を神の御国へと向かっているのです。新しい命にあずかる約束に向かってです。

14節、ユダヤの神殿では家畜が売られ両替がされていましたが、それは必然でした。それは献げるにふさわしい家畜(傷のない最善のもの)をはるばる連れて来て献げることは困難だったからです。便宜をはかっていたわけで、単に商売が目的ではなかったのでした。また両替についても同様です。貨幣であればなんでもよいということではなかったのです。神殿だけで通用する清い貨幣を献げていました。そのための両替であったのです。
 しかし、それにもかかわらずイエスはそのような行為を排除されました。なぜでしょうか。それは犠牲を廃止したのです。犠牲を伴う礼拝を廃止したのでした。犠牲を伴わない新しい礼拝、祈りとしての礼拝を示しているのです。
 さて、献げものをする時に我々は熱心になります。熱心さが評価されて見返りの御利益を求めるです。しかし、大切なのは人の熱心ではなく神の憐れみです。私どもの熱心ではなく、神の熱心が救いをもたらすのです。
 今日の箇所は、ユダヤ教からキリスト教の転換を示しています。キリスト教の礼拝は、犠牲を献げ熱心さを示す礼拝ではなく、神の憐み、神の恵みの礼拝なのです。生ける神の子を礼拝する恵みが与えられているのです。そこに救いがあります。主を信じ拝する礼拝の恵みに聴くこと、そこに救いの確かさがあるのです。

死者の中からの復活」 1月第2主日礼拝 2007年1月14日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章13〜25節
2章<13節>ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。<14節>そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。<15節>イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、<16節>鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」<17節>弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。<18節>ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。<19節>イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」<20節>それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。<21節>イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。<22節>イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。<23節>イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。<24節>しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、<25節>人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
今日は18節〜22節までを語ります。

主イエスが神殿の境内から牛などを追い出し、両替台を倒されことに対して、18節、ユダヤ人は「このようなことをするのなら、やっても良い証拠(資格)を見せよ」と言います。このことを神の御業として服するのではなく「われわれの納得する形で示せ(しるしを求める)」というところに問題があります。私どもが納得するかどうかではない、理解を超えて主が働かれる、御業が為されることを知らなければなりません。
 また、人間は一つのしるしで満足するものではありません。出エジプトの記事が示しているように、一つのしるしでは納得せず次々と求めます。しるしを求めることによって神が神であることを知り、従う者となったのではないのです。ですからイエス様はしるしを退けられたのでした。信仰の出来事は強制によらない、自ずとの思いからです。

19節「この神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる」と主はお答えになりました。「建てるのに四十六年もかかったのに三日で建て直すと言うのか」、一長一短で壊し、建てる、などあり得ないと、ユダヤ人はつぶやかざる得ませんでした。つまり、主イエスが何を言っているのか全く分からなかったのです。
 21・22節に、そのことの解説がなされます。つまり、この時点では誰にも主イエスのおっしゃったことを理解することは出来なかったのでした。
 私どもには訳の分からないことがある、しかしその中に神の救い、働きがあるのです。私どもの納得を超えたところに救いの御業があるのです。その時は分からなくても、神は、後々分かるように示してくださるお方なのです。分からないことが後に分かった時、深い恵みとなるのです。ですから、分からないことも恵みなのです。
 主イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは初めてここ(19節)で言われたことが分かり、「聖書とイエスの語られた言葉」を信じたのでした。つまり「壊してみよ」とイエスが言われた神殿とは、主イエスご自身の体であったということです。「聖書」とは旧約聖書のことであり、主イエスを証しする書として信じ、イエスの語られた言葉を神の言葉として受け止めたということです。

「宮清め」の出来事は、他福音書では「苦難」の中で語られますが、このヨハネによる福音書では「復活」が強調されており、その中で語られます。十字架(苦難)を前提としない復活強調に特徴があります。
 主イエスは復活の主であります。弟子たちにとって、十字架は挫折・失望の極みの出来事でありました。しかし、復活の主との出会いによって信仰が与えられたのでした。十字架のみでは教会は立たないのです。復活の主にお会いすることは、信じられない者(不信仰の極みにある者)に与えられた恵みです。私どもは生から死へ向かう者にすぎません。しかし復活は死から生への転換です。復活の主を信じる以外に、死から生への転換はありません。不信仰から信仰への転換、死から生へ、復活は恵みの出来事です。人を生かす命の出来事です。神は復活により、圧倒する恵みを以て、力を示されたのです。
 神の豊かな力は、恵みで示されるのです。神の権威。主の復活こそ私どもに与えられた恵み、力。そこに、主に従う者の喜びが生まれ、自ずとの思いを持って神(権威)に服する者となるのです。

人を知る主」 1月第3主日礼拝 2007年1月21日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章23〜25節
2章<23節>イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。<24節>しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、<25節>人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

23節、主イエスは過越祭の一週間エルサレムに滞在し、「しるし」をなさったとあります。「しるし」とは何でしょうか。
 2章の初め、カナの婚礼で水をぶどう酒にかえた、それが「しるし」です。なぜこのような「奇跡」を、聖書では「しるし」と言うのでしょうか。「奇跡」とは「神の子のしるし」です。主イエスは神の子であって、奇跡を行う人ではないのです。
 私どもには奇跡を求める思いがあります。しかし主イエスは、人の思いを満たす奇跡を行ってはおられません。主イエスがなされることは、人を助けるということではなく、人を神へと導くことであります。「しるしを見て多くの者が信じた」、それは主イエスを神の子・救い主として信じたということを意味するのです。
 ここで、イエスの「名」を信じたとありますが、それはどういうことでしょうか。名は体を表す、実体を表すのです。名を信じたとは意義深い。名を聞いて信じたからです。このヨハネによる福音書が書かれた当時は既に、地上での主イエスの生涯を知らない世代になっておりました。ですからここで示されることは、現在の私どもにも示されることです。私どもは「宣べ伝えられたイエスの名」を信じるのです。そして、その名が語られるところに主は臨んでくださる。私どもも主の御名を信ずる者として、主の臨在を得るのです。

24節「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあります。
 しるしを見て信じることには限界があります。人は自らの体験に頼る者です。奇跡であっても自らの体験となり、新しい体験によって変わってしまう。ですから人は、危ういのです。
 「信用する」とは「委ねる」ことです。主イエスは自らを彼らに委ねることをなさらなかったということです。人間の主体性ではなく、主の主体性が大事なのです。
 私どもは信頼関係を大事にします。しかし問題は、そこに甘え、なれあいが起こることです。主はなれあいを良しとされません。
 主の救いの出来事は、自らの命を献げてまでもの救いでした。それは人には担いきれない、厳然とした厳しいものです。そのことを甘く考え、慣れてはならないのです。人は移り気で信頼できない、頼りない者です。主の優しさは甘えではありません。主自らが働いてくださる、そこに救いがあるのです。ですから、畏れおののきをもって救いをいただく、そこに救いの恵みへの深い感謝が生まれるのです。それは、礼拝でしか与えられないものです。まさに礼拝・神の臨在を感じさせるみ言葉のなかで救いを救いとして聴くのです。聖霊の出来事が神を証しするのです。人と人とのなれあいの中で救いが与えられるのではない、ただキリストが臨まれることによって救いがあるのです。

大胆に言うならば、信じるとは、人が信じることで救いに至るのではないのです。つまり、信じる御褒美として救いが与えられるのではないということです。救いは、ただ神からの恵みです。救いの確信は神にあるのであって、人にあるのではないのです。救いは神がくださる恵みの出来事、神に根拠があります。救いは与えられる、あずかるものです。主が救いを成しとげてくださった(主イエスが神の御心に全く従われた)ことによって私どもの救いがある、その圧倒する神の恵みを知ったからこそ、信じることが起こるのです。信じたから救われるということではない、救いは神がなさってくださることです。信仰無き者に救いを既になしてくださっている、それを信じるのです。私どもが信じることが主体ではなく、完全な救いを成しとげてくださった主イエスに主体があるのです。主の御業があっての信仰なのです。

私どもは主を信じます。しかし、主は信用しておられない。人は信頼に足る存在ではない、それが現実です。しかし主は、信頼できない者をなお愛してくださっております。そこに私どもの望みがあるのです。信頼はできない、しかし愛する、そこに救いの根拠があります。
 人間関係の中で、人と人との信頼を失うとき、私どもは傷つき、また自力で信頼を回復できない者であります。しかし、神は傷つき倒れる者をなお愛するという道を示してくださいました。信頼を取り戻すという道ではなく、愛するという道です。神が私どもを愛してくださるがゆえに、愛する中に生きることができるのです。

新たに生まれる」 1月第4主日礼拝 2007年1月28日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章1〜15節
3章<1節>さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。<2節>ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」<3節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」<4節>ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」<5節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。<6節>肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。<7節>『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。<8節>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」<9節>するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。<10節>イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。<11節>はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。<12節>わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。<13節>天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。<14節>そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。<15節>それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

1節、まず最初にニコデモという人物の紹介がなされます。彼は、ファリサイ派でユダヤ人の議員。ユダヤの最高法院サンヘドリンの議員でした。
 ここで「議員」という言葉に注目したいと思います。「議員」を指すギリシャ語は「アルコーン」です。AD70年代エルサレム神殿崩壊以前にはサンヘドリンの、そしてAD70年以降は、ユダヤ人の会堂(シナゴーク)の長老を示すようになります。そして更にエルサレム神殿崩壊後、異邦人時代にはヤムニア会議の議員を思い起こさせる言葉となりました。ヤムニア会議とは、キリスト教をユダヤ教から切り離し「異端」と決めた会議です。つまりこのヨハネ福音書では、サンヘドリンの議員のことを語りながら、実際にはキリスト教を迫害する者の代表としてニコデモを位置づけているのです。
 ニコデモは他の福音書に出て来ません。ヨハネによる福音書によれば、イエスを埋葬する一人として加わった人物であります。キリスト教に大変好意的な人物だったことは確かです。しかしニコデモが主の救いにあずかったかどうかは留保されており、明記されておりません。

2節、ニコデモがある夜、イエスのもとにやって来ました。
 地域や時間を特定するのがヨハネによる福音書の特徴です。特定することによって示されることは、信仰にある者に対し、時間・空間を超えて、その場を主が共に生きてくださっているという恵みです。しかし、ここでは違います。「ある夜」と言われます。「秘かに」という言葉を補って読めばよいのです。ニコデモが、人に隠れてイエスに好意を寄せている人物であることを「ある夜」で示しているのです。「わたしども」と言っているように、ニコデモは、主イエスに好意を持ちつつ公にユダヤ教からキリスト教に改宗し得ない(迫害を恐れて)、隠れて主イエスを信じている者の代表と読んで良いのです。
 ニコデモは主イエスに対し、「あなたは神のもとから来た教師」だと言うのです。主イエスのしるし(奇跡)を見て信じたのです。しかし主イエスはニコデモにご自身をお委ねにはなりません。ここは2章23節以下の記述にあることの事例です。3節「はっきり言っておく」と権威をもって主イエスは言われます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と、話の主導権を主イエスがお取りになるのです。ニコデモは主に従わざるを得ません。何故でしょうか。それは、ニコデモが「神の国を見たい」と求めているからです。ニコデモが何を求めて訪ねてきたのかを、主イエスは既にご存知であり、厳かに、単刀直入に語ってくださったのでした。
 私どもの根幹にあることを神は誰よりもご存じです。そのことを忘れてはなりません。自分でも気付かない、私どもの根底にある飢え渇き、救いを求めていることを、主はご存知なのです。主に知られていることは慰めなのであります。

4節、ニコデモは戸惑います。「新しく生まれる」とはどういうことか。5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と、「神の国のしるし」を見せるのではなく、「神の国に入る」ことはどういうことかを主イエスは示してくださいました。
 「水と霊とによって」とは「聖霊」を受けること、すなわち「洗礼」を受けることです。聖霊なくして洗礼はないのです。「古き人を捨て新しくなる」それが洗礼です。洗礼により神の国の民とされるのです。
 地上の誕生は死に向かうものです。しかし、洗礼による誕生は死から永遠の命に向かうのです。大いなる逆転です。洗礼による誕生こそが「新たに生まれる」ことなのです。
 そして、洗礼の出来事は告白を伴うものです。「公に言い表す」ということです。しかし、ニコデモは公に言い表していません。秘かに信じていたのです。
 信仰は、「主イエスを救い主(信仰告白)」と公に言い表すことです。「心で信じていれば良いのではないか」と言われますが、そうではありません。信仰告白は神の恵みに対する応答なのです。信じ、告白するところに神の聖霊の働きがあり、救いの確信(保証)、神のものとしてのしるしが与えられるのです。