聖書のみことば/2006.9
2006年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
初めに言があった」 9月第1主日礼拝 2006年9月3日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章1〜5節
1章<1節>初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。<2節>この言は、初めに神と共にあった。<3節>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。<4節>言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。<5節>光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

愛宕町教会に赴任して今年で11年目になります。
 ガラテヤの信徒への手紙では「神の義」ということについて聴いてきましたが、しばらく福音書から離れておりましたので、今日からはヨハネによる福音書から聴くことにしました。

ヨハネによる福音書はシリアの教会で書かれたと言われております。しかし最近では、パレスチナのユダヤ人都市の教会でまとめたものだという見解もあります。エルサレム神殿(教会)崩壊後、ヤムニア会議でキリスト教が異端と決議されたことにより動揺したユダヤ人キリスト者に向けて書かれたとの見解です。
 真偽は別として、大事なことは、これを機にしてユダヤ教とキリスト教は決別したのであり、ヨハネによる福音書は、キリスト教の信仰(信仰告白)を明確に示した書であるということです。

1節「初めに言(ことば)があった」という言葉は「初めに、神は天地を創造された」という創世記第1章を思い起こさせます。この言葉は、「神は全てのものの造り主」であるという聖書全体の信仰告白であり、神を讃える賛美の言葉であります。
 「言」は何ものにも先立って在ったと言われます。「言」とはイエス・キリストです。すなわち全てに先立ってイエス・キリストがおられたということです。イエス・キリストを初めとする信仰について聴きたいと思います。人は自分を出発点にする、しかしキリスト者はイエス・キリストを出発点とするのです。最近のカレンダーは日曜日が最初にくるようになりました。なぜ週の初めに礼拝するのでしょうか。日曜日はイエス・キリストの甦りの日であり、この日からすべてを始めるようになっているのです。キリストを第一として歩むことが私どもの信仰の在り方です。日常生活において、何を始めるにしても新しく事を始める時、最初にキリストを礼拝し第一とするのが私どもの信仰の姿勢なのであります。初めにキリスト、ということは大切な生活の基盤なのです。

2節、本質においてキリストは父なる神と一つであることを言うのです。神の本質とは何か?「神は愛である」と、この福音書は語ります。神は、3つの在り方(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神)によって、ご自身の内に愛の交わりを持つ方であります。私どもは神を見ることはできませんが、キリストと出会い知ることによって、神を知ることができます。つまり、神が御自身をキリストを通して明らかにしてくださっているので、私どもはキリストを通して神を知ることができるのです。
 礼拝は、復活のキリストを礼拝することです。従ってそれは、神そのものを礼拝していることなのです。キリストに出会わずして、私どもは神に至たらないのであります。

3節、万物の創造者としてのキリスト。「イエス・キリストこそが万物の創り主である」という信仰告白がなされています。キリストは救い主と言われます。その救い主は創造主と一つである事を示しているのです。
 キリストを信じることは、救いに与ることであり、それは神との交わりの回復ということによって新しく創造されることです。救いとは、神との交わりを失った者を、本来あるべき神との関係に回復させることであり、それはすなわち本来の創造を完成させるものなのであります。新しく創造され、本来の自分の姿になること、これこそ救いの恵みです。

4節、キリストは命なる方、光なる方であるとヨハネ福音書は語ります。「命」とは「神との交わりにあること」であり、それは真実な交わりです。交わりを失うことは「孤独」であり死、すなわち命を失うことです。人間同士の交わりはどこかで破れてしまうものです。神との交わりという真実の交わりを知らなければ、人と人との破れた交わりの中で、人はなお誠実に真実に交わりに生き続けることはできないのであります。

「命」は「光」であると言われます。「光」は、孤独という暗闇を解消する光であり、また闇を照らす光でもあるのです。
 「闇」は「罪」です。人と人の交わりによっては、人は自らの罪を知ることはできません。ただ圧倒的な恵み・赦しの中で、キリストという光に照らされて初めて、自らの闇(罪)を知ることができるのです。

その名はヨハネ」 9月第2主日礼拝 2006年9月10日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章6〜8節
1章<6節>神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。<7節>彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。<8節>彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

ここでのヨハネ、いわゆるバプテスマのヨハネは、このヨハネによる福音書以外では「洗礼者ヨハネ」「預言者ヨハネ」として表されています。時のローマ支配の世界においては、ヨハネはむしろイエスよりその名が知られ、キリスト教世界の外、ローマの歴史家ヨセフスの歴史書にも、イエスの名は出て来なくてもヨハネの名は記されるような名の通った存在でした。にもかかわらず、ヨハネによる福音書では、そのようなヨハネの、預言者としての存在、洗礼者としての存在は記されず、ただ「光である救い主イエス・キリストを証しする存在」であることのみが強調されます。また、ヨハネの死、これはよく知られているようにサロメによる断首の死ですが、これもここでは記されません。ここではただ、救い主である主イエス・キリストのさきがけとして、証人として存在し、そしていつのまにか消えていった存在としてのヨハネが記されるだけです。

ここでのヨハネは、キリストの弟子たちの使命を象徴しています。では使命とは何でしょうか。ただひたすらに主を証しし、そして証しが終わったらただ消え行くのみの存在。これがキリストの弟子の使命、理想の姿、あるべき姿なのです。つまりキリストのものとされた者はキリストを表すことが使命であり、すべてなのであります。

人が証人となることは、神の御業です。神の遣わしがなければ「証し」は成り立ちません。「証し」するとは、神の御業、聖霊の御業であります。聖霊を受けて初めて、証しができるのです。聖霊を受けることの最たるものは、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の救いに与ったものとして洗礼を受けることです。洗礼とはまさしく聖霊の出来事なのです。キリスト者は、キリストのものとされた者として洗礼を受け、キリストの恵みを証しするのであり、キリストを指し示すのであります。

「証し」とは自分を語ることではありません。自分を語ることは、キリストの恵みを誇るのではなく自らを誇る危険、神を見なくなる危険をはらんでいます。これは、結局は神の栄光を汚すことになるのであります。「証し」で語るのはただ主のみであります。ただ主の御言葉のみであります。

5節までに示された「暗闇」とは、時のユダヤの民たちのことです。暗闇は、「光」つまりキリストを理解しませんでした。理解せずに十字架へとキリストを追いやったのでした。暗闇とは、救い主である主の到来を理解しなかったこと、そのものであると言って良いのです。暗闇が光を理解できるには何が必要なのでしょうか。それは、信じることによってのみ可能となります。「信仰によってのみ」可能となるのです。信じて初めて理解に至るのであります。      

では何によって信じられるのでしょうか。それは「証し」によってでしかありません。暗闇、つまり救い主を理解しない世界でも、「証し」のみが信じることを可能とするのであります。「証し」とは、自らを語らず、神の御言葉をのみ語ることであり、これが宣教なのです。宣教という手段を通してのみ、信じる者となり得るのであります。キリスト者は、ただ、キリストに仕え、神の御言葉を、キリストを、「証し」することのみによって、神の救いの御言葉を世界に述べ伝えるであります。

神の国はあなたがた
 の間にある」
9月第3主日礼拝 2006年9月17日 
近藤勝彦 先生/東京神学大学教授(聴者/清藤)
聖書/ルカによる福音書 第17章20〜25節
17章<20節>ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。<21節>『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」<22節>それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。<23節>『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。<24節>稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。<25節>しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。

人間は誰でも救いを必要としています。生きる支え、意義や喜びを必要としています。なんの救いもなく生きているというのは、味気ないことであります。

20節、ファリサイ派の人がイエスに神の国はいつ来るのかと尋ねました。救いはいつ来るのかと聞いたのです。「神の国は近づいた」と主が伝えていたことを知っていたのでしょう。しかし、なかなかやって来ない、そこで揶揄し、からかって尋ねたと思われます。人間は悩み苦しんでいるのが現実であるにもかかわらず、神の国は近づいたと言う、それは嘘ではないかと問うたのでした。
 しかしイエスは率直にその問いに答えています。「神の国は見える形では来ない。あなたがたの間にあるのだ」とお答えになったのです。彼らはエリート階級の人々であり、律法を守り完全な者として神の前に立ち、律法を守る事によってのみ神に救われると信じていたのでした。このような考え、これは現代の日本でもあるのではないでしょうか。よく「結果を出す」と言います。それは成果をあげるということです。これはファリサイ派と同じ考え方です。しかしどうでしょうか、「結果を出す」「成果をあげる」人はどれくらいいるでしょうか。ほんの一握りです。多くの者は違います。私どもが知っているのは、それとは異なる自分の現実です。周囲を見渡しても同じです。結局、思うような結果が出せずに挫ける現実なのです。そこで挫折を感じて行き詰る現実なのです。これは個々の人だけの問題ではありません、世界も同じです。けっして理想どおりに行ってはいません。あっちこっちで行き詰っているのです。人生は、いや社会も世界も、ファリサイ派の理想のようにはいかないのです。

21節、そこで、主イエスは「神の国はあなたがたの間にある」というのです。では「間(あいだ)」とはどういう意味なのでしょうか。「一人一人の心の中に」と解釈していた時代がありました。しかしそれは本質ではありません。それでは、すべてが心の持ち様ということになってしまいます。そうではなく文字通り人と人との間(あいだ)にあるというのです。この「間」とは、主が真ん中にいてくださり、イエスを中心とした人と人との間のことであります。それがこの御言葉の意味です。主が私どもの間におられて、御言葉を語り働いてくださる。そこに神の国はすでに来ているのです。礼拝で御言葉を聞いている、主の周りに集う者にすでに神の国は来ていると受けとめるべきなのです。今すでに主が真ん中に立ってくださり御言葉を語り、働き、周りに集う者の間に神の国は来ているのです。神の国はすでにこのように来ているとしっかり受けとめて、私どもの信仰生活の支さえにしなければなりません。

最近ある青年の話を聞きました。短い留学中に失恋したそうです。その上、ある商社マンの接待している姿を見て、醜い、汚いと感じ、とうとう神経疾患になってしまったそうです。人間はひどい現実が続くと、耐えがたくなることがあります。現実に深く傷つき、「心がこごえる」ようになるのです。 人は誰でも、失敗や困難な情況、あるいは親しい者の死、そんな厳しい現実に出会う時、「心がこごえ」てしまうのです。
 しかし、そんな暗く厳しい現実にありながらも、私どもは、実は守られ、生かされているのです。このことを知らねばなりません。どんなに困難でも主イエスが共にいてくださるのです。主がおられるその場に共に集まることで、私どもは慰められ、憩い、平安を得て、感謝する事が出来るのです。この主を中心とする交わりの生活、教会生活、礼拝生活によって、私どもに生きる力が与えられるのです。愛する力が与えられるのです。さらに平和を創り出す力をも与えられるのです。

先日、ある大学の公開シンポジウムでキリスト教の救いについて語った講演後、一人の婦人に言われました「見えないものを見えるように言うキリスト教はまやかしだ」と。そうでしょうか。決してそうではないのです。現代では「目に見えないもの」ということが、なかなか理解されないのでしょう。しかし本当は「見えないもの」が存在し、「見えるもの」を支えているのです。「見えるもの」はいったい誰のものなのでしょうか、その存在目的は何なのでしょうか、存在の意味は何処にあるのでしょうか。それは分かりません。まさにそれは見えないのです。「見えるもの」だけが真実というのは間違いです。結局は「見えるもの」は無目的です。見えるものでは刹那的なことしかわからないのです。実は、「見えない方」が厳然と存在し「見えるもの」を支えているのです。それが真相なのです。

主イエス・キリストは見えません。しかし信じることができます。見えない主イエス・キリストが私たちの間におられて、この礼拝が成り立っているのです。十字架にかかられた主が、私どもと共に今日この場にいてくださる。そのことが私どもの支えです。信じるのです、信じなければならない。そうでなければ意味を失います。主が私どもの間にいることを信じる。アーメン(そのとおりです)と言うのです。そこに感謝が沸いてくるのです。感謝が生きる力であります。そして愛する力であります。現実に挫けず耐える力なのです。これが信仰生活です。

まことの光」 9月第4主日礼拝 2006年9月24日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章9〜13節
1章<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。<10節>言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。<11節>言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。<12節>しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。<13節>この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

「まことの光」とはどんな光でしょう。それは全ての人を照らす光です。「照らす」とは明るみに出す、もう一つは内面を映し出すという意味があります。全ての人の内面を照らし出すということです。世に属するものを照らすのです。
 本来「世」とは悪い意味ばかりに使うわけではなく、秩序あるものです。しかし神に敵対し秩序を失っている、そんな「世」の、罪に汚れた、神に敵対する人々の内なる思いが、主イエス・キリストによって露にされると言うのです。
 最近よく「ありのままが良い」という言葉を聞きますが、本当にそう言いきれるでしょうか? 「ありのまま」は自己中心であって善ではあり得ません。罪なるものです。「ありのままで良い」、そのためには神の赦しの出来事がなければなりません。キリストの十字架の死による罪の赦し、贖いなくして「ありのままで良い」はあり得ないのです。神(十字架)抜きで「ありのまま」を実践すれば、共同体は作れません。わがままな世界、危うい世界だということになりかねないのです。私どもは本心を隠して生きなければならない存在です。しかしそこで、罪赦される出来事があるからこそ「ありのまま」でいられるのです。それは謙虚さを伴う「ありのまま」であり、自らを制することができます。「赦し無きありのまま」は傲慢で、深い罪を持つのです。

今の社会においては、自分を映し出してくれる人間像は希薄です。従って、自分を真実に見い出すことが難しいのです。かつては期待される人間像というものがありましたが、危ないということで排除されました。これによって、本来の人の姿、あるべき人間の姿が示されず、自立性が失われてしまったのでした。これは個の確立の喪失です。
 しかし私どもには、主なるイエス・キリストがおいでくださいました。しかも真の人間の形をとって、この世においでくださったのです。主イエス・キリストを見ることにより、私どもは真実な人間のあり方を見ることが出来ます。主の御言葉によって示され、罪が浮き彫りになるのです。憐れみに遠く、他者を軽蔑することに早い、そんな自らの罪を知らされるのです。人々からの軽蔑…見捨てられ、無視された「いと小さきもの」と共にあって寄り添ってくださる主の御言葉によって、私どもがいかに憐れみに遠く、罪深い者かが映し出されるのです。

「赦し」とは安易に「これでよし」とすることではありません。「赦し」は自分の真実の姿を示されることです。ですから、罪を知ることは大切なことです。人は、自らが滅ぶべき者であることを知った時、初めて神に向かいます。真実に深く罪を知り、罪に傷むとき、へりくだって初めて神に向かうのです。自らが苦しみの時、罪をいたく知る時、神の前に立つ思いを得るのです。「罪を知る」ことがその人を救いへと、神へと至らせるのです。人と人との間に救いは起こりません。神に向かう以外に救いはないのです。ですから御子イエス・キリストにより「罪を知る」ということは幸いなことなのです。人は裁きや苦しみを通してさえも救いに与ることができ、救いの希望を持つことが出来ます。それは神がアブラハムを祝福したからです。神が約束されたからです。人間は祝福の約束の内にあるのです。苦しみにより喜びを知るのです。苦しみから神を知る者となるのです。ですから、苦しみは罪人に与えられる恵みなのです。

ここで救いに至る筋道について述べます。まずは、教会に与えられている権能があります。これは「罪の赦しの宣言」です。人はこの「罪の赦しの宣言」を通して罪を知ることができます。「ああ、こんな者が赦されている」ことを知ることによって、真実に罪の赦しを深く自覚するのです。傷みを知るのです。そして罪の赦しの宣言の真実を知るのです。教会の権能、それは神から委託さている絶大な権能です。そして、礼拝で語られる説教は赦しの宣言です。教会の信仰の告白なのです。

10節、私どもの由来は御子イエス・キリストにあります。しかし世はそれを認めようとしませんでした。拒絶したのでした。これが罪なる人間の姿です。主イエス・キリストを認め、従い、信頼することが私どもの本来あるべき姿なのです。主に信頼し主イエスを迎えることを覚えたいと思います。