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愛宕町教会に赴任して今年で11年目になります。 ヨハネによる福音書はシリアの教会で書かれたと言われております。しかし最近では、パレスチナのユダヤ人都市の教会でまとめたものだという見解もあります。エルサレム神殿(教会)崩壊後、ヤムニア会議でキリスト教が異端と決議されたことにより動揺したユダヤ人キリスト者に向けて書かれたとの見解です。 1節「初めに言(ことば)があった」という言葉は「初めに、神は天地を創造された」という創世記第1章を思い起こさせます。この言葉は、「神は全てのものの造り主」であるという聖書全体の信仰告白であり、神を讃える賛美の言葉であります。 2節、本質においてキリストは父なる神と一つであることを言うのです。神の本質とは何か?「神は愛である」と、この福音書は語ります。神は、3つの在り方(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神)によって、ご自身の内に愛の交わりを持つ方であります。私どもは神を見ることはできませんが、キリストと出会い知ることによって、神を知ることができます。つまり、神が御自身をキリストを通して明らかにしてくださっているので、私どもはキリストを通して神を知ることができるのです。 3節、万物の創造者としてのキリスト。「イエス・キリストこそが万物の創り主である」という信仰告白がなされています。キリストは救い主と言われます。その救い主は創造主と一つである事を示しているのです。 4節、キリストは命なる方、光なる方であるとヨハネ福音書は語ります。「命」とは「神との交わりにあること」であり、それは真実な交わりです。交わりを失うことは「孤独」であり死、すなわち命を失うことです。人間同士の交わりはどこかで破れてしまうものです。神との交わりという真実の交わりを知らなければ、人と人との破れた交わりの中で、人はなお誠実に真実に交わりに生き続けることはできないのであります。 「命」は「光」であると言われます。「光」は、孤独という暗闇を解消する光であり、また闇を照らす光でもあるのです。 |
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ここでのヨハネ、いわゆるバプテスマのヨハネは、このヨハネによる福音書以外では「洗礼者ヨハネ」「預言者ヨハネ」として表されています。時のローマ支配の世界においては、ヨハネはむしろイエスよりその名が知られ、キリスト教世界の外、ローマの歴史家ヨセフスの歴史書にも、イエスの名は出て来なくてもヨハネの名は記されるような名の通った存在でした。にもかかわらず、ヨハネによる福音書では、そのようなヨハネの、預言者としての存在、洗礼者としての存在は記されず、ただ「光である救い主イエス・キリストを証しする存在」であることのみが強調されます。また、ヨハネの死、これはよく知られているようにサロメによる断首の死ですが、これもここでは記されません。ここではただ、救い主である主イエス・キリストのさきがけとして、証人として存在し、そしていつのまにか消えていった存在としてのヨハネが記されるだけです。 ここでのヨハネは、キリストの弟子たちの使命を象徴しています。では使命とは何でしょうか。ただひたすらに主を証しし、そして証しが終わったらただ消え行くのみの存在。これがキリストの弟子の使命、理想の姿、あるべき姿なのです。つまりキリストのものとされた者はキリストを表すことが使命であり、すべてなのであります。 人が証人となることは、神の御業です。神の遣わしがなければ「証し」は成り立ちません。「証し」するとは、神の御業、聖霊の御業であります。聖霊を受けて初めて、証しができるのです。聖霊を受けることの最たるものは、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活の救いに与ったものとして洗礼を受けることです。洗礼とはまさしく聖霊の出来事なのです。キリスト者は、キリストのものとされた者として洗礼を受け、キリストの恵みを証しするのであり、キリストを指し示すのであります。 「証し」とは自分を語ることではありません。自分を語ることは、キリストの恵みを誇るのではなく自らを誇る危険、神を見なくなる危険をはらんでいます。これは、結局は神の栄光を汚すことになるのであります。「証し」で語るのはただ主のみであります。ただ主の御言葉のみであります。 5節までに示された「暗闇」とは、時のユダヤの民たちのことです。暗闇は、「光」つまりキリストを理解しませんでした。理解せずに十字架へとキリストを追いやったのでした。暗闇とは、救い主である主の到来を理解しなかったこと、そのものであると言って良いのです。暗闇が光を理解できるには何が必要なのでしょうか。それは、信じることによってのみ可能となります。「信仰によってのみ」可能となるのです。信じて初めて理解に至るのであります。 では何によって信じられるのでしょうか。それは「証し」によってでしかありません。暗闇、つまり救い主を理解しない世界でも、「証し」のみが信じることを可能とするのであります。「証し」とは、自らを語らず、神の御言葉をのみ語ることであり、これが宣教なのです。宣教という手段を通してのみ、信じる者となり得るのであります。キリスト者は、ただ、キリストに仕え、神の御言葉を、キリストを、「証し」することのみによって、神の救いの御言葉を世界に述べ伝えるであります。 |
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人間は誰でも救いを必要としています。生きる支え、意義や喜びを必要としています。なんの救いもなく生きているというのは、味気ないことであります。 20節、ファリサイ派の人がイエスに神の国はいつ来るのかと尋ねました。救いはいつ来るのかと聞いたのです。「神の国は近づいた」と主が伝えていたことを知っていたのでしょう。しかし、なかなかやって来ない、そこで揶揄し、からかって尋ねたと思われます。人間は悩み苦しんでいるのが現実であるにもかかわらず、神の国は近づいたと言う、それは嘘ではないかと問うたのでした。 21節、そこで、主イエスは「神の国はあなたがたの間にある」というのです。では「間(あいだ)」とはどういう意味なのでしょうか。「一人一人の心の中に」と解釈していた時代がありました。しかしそれは本質ではありません。それでは、すべてが心の持ち様ということになってしまいます。そうではなく文字通り人と人との間(あいだ)にあるというのです。この「間」とは、主が真ん中にいてくださり、イエスを中心とした人と人との間のことであります。それがこの御言葉の意味です。主が私どもの間におられて、御言葉を語り働いてくださる。そこに神の国はすでに来ているのです。礼拝で御言葉を聞いている、主の周りに集う者にすでに神の国は来ていると受けとめるべきなのです。今すでに主が真ん中に立ってくださり御言葉を語り、働き、周りに集う者の間に神の国は来ているのです。神の国はすでにこのように来ているとしっかり受けとめて、私どもの信仰生活の支さえにしなければなりません。 最近ある青年の話を聞きました。短い留学中に失恋したそうです。その上、ある商社マンの接待している姿を見て、醜い、汚いと感じ、とうとう神経疾患になってしまったそうです。人間はひどい現実が続くと、耐えがたくなることがあります。現実に深く傷つき、「心がこごえる」ようになるのです。 人は誰でも、失敗や困難な情況、あるいは親しい者の死、そんな厳しい現実に出会う時、「心がこごえ」てしまうのです。 先日、ある大学の公開シンポジウムでキリスト教の救いについて語った講演後、一人の婦人に言われました「見えないものを見えるように言うキリスト教はまやかしだ」と。そうでしょうか。決してそうではないのです。現代では「目に見えないもの」ということが、なかなか理解されないのでしょう。しかし本当は「見えないもの」が存在し、「見えるもの」を支えているのです。「見えるもの」はいったい誰のものなのでしょうか、その存在目的は何なのでしょうか、存在の意味は何処にあるのでしょうか。それは分かりません。まさにそれは見えないのです。「見えるもの」だけが真実というのは間違いです。結局は「見えるもの」は無目的です。見えるものでは刹那的なことしかわからないのです。実は、「見えない方」が厳然と存在し「見えるもの」を支えているのです。それが真相なのです。 主イエス・キリストは見えません。しかし信じることができます。見えない主イエス・キリストが私たちの間におられて、この礼拝が成り立っているのです。十字架にかかられた主が、私どもと共に今日この場にいてくださる。そのことが私どもの支えです。信じるのです、信じなければならない。そうでなければ意味を失います。主が私どもの間にいることを信じる。アーメン(そのとおりです)と言うのです。そこに感謝が沸いてくるのです。感謝が生きる力であります。そして愛する力であります。現実に挫けず耐える力なのです。これが信仰生活です。 |
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「まことの光」とはどんな光でしょう。それは全ての人を照らす光です。「照らす」とは明るみに出す、もう一つは内面を映し出すという意味があります。全ての人の内面を照らし出すということです。世に属するものを照らすのです。 今の社会においては、自分を映し出してくれる人間像は希薄です。従って、自分を真実に見い出すことが難しいのです。かつては期待される人間像というものがありましたが、危ないということで排除されました。これによって、本来の人の姿、あるべき人間の姿が示されず、自立性が失われてしまったのでした。これは個の確立の喪失です。 「赦し」とは安易に「これでよし」とすることではありません。「赦し」は自分の真実の姿を示されることです。ですから、罪を知ることは大切なことです。人は、自らが滅ぶべき者であることを知った時、初めて神に向かいます。真実に深く罪を知り、罪に傷むとき、へりくだって初めて神に向かうのです。自らが苦しみの時、罪をいたく知る時、神の前に立つ思いを得るのです。「罪を知る」ことがその人を救いへと、神へと至らせるのです。人と人との間に救いは起こりません。神に向かう以外に救いはないのです。ですから御子イエス・キリストにより「罪を知る」ということは幸いなことなのです。人は裁きや苦しみを通してさえも救いに与ることができ、救いの希望を持つことが出来ます。それは神がアブラハムを祝福したからです。神が約束されたからです。人間は祝福の約束の内にあるのです。苦しみにより喜びを知るのです。苦しみから神を知る者となるのです。ですから、苦しみは罪人に与えられる恵みなのです。 ここで救いに至る筋道について述べます。まずは、教会に与えられている権能があります。これは「罪の赦しの宣言」です。人はこの「罪の赦しの宣言」を通して罪を知ることができます。「ああ、こんな者が赦されている」ことを知ることによって、真実に罪の赦しを深く自覚するのです。傷みを知るのです。そして罪の赦しの宣言の真実を知るのです。教会の権能、それは神から委託さている絶大な権能です。そして、礼拝で語られる説教は赦しの宣言です。教会の信仰の告白なのです。 10節、私どもの由来は御子イエス・キリストにあります。しかし世はそれを認めようとしませんでした。拒絶したのでした。これが罪なる人間の姿です。主イエス・キリストを認め、従い、信頼することが私どもの本来あるべき姿なのです。主に信頼し主イエスを迎えることを覚えたいと思います。 |
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