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「私、すなわちパウロは今この手紙(ガラテヤの信徒への手紙)を終わるに際して書いておきたい」と言うのです。「このとおり、自筆で、みんなにわかるよう大きな字で」と、気持ちを入れ、気合いを入れて書いています。これまでパウロが語ってきた大切な言葉、12節以降に出てくる言葉を要約する形で終わっています。 「割礼を誇るのでなく、十字架のみを誇る」とパウロは語ります。大切なことは、パウロを突き動かしているものに触れることです。言葉による説明だけでは伝わらないのです。「気持ち」が伝わなければ本当に受け止めることは起こらないものなのです。「何を言っているのかわからない、しかし気持ちが切々と伝わる」ということがあります。それは信仰には大事なのです。 12節、「肉において人からよく思われたがっている人」と、ガラテヤの人々に割礼を強いている人々を、パウロは批判的に見ています。異邦人に割礼を受けさせることによって、厳格なユダヤ人キリスト者から良く(立派だと)思われたいがために、割礼を強いている人への非難の意味を込めて言っているのです。それは、キリストの十字架のゆえにユダヤ人(異邦人にではなく)に迫害されたくないためでした。ユダヤ人共同体からの追放を恐れたのです。 しかしパウロは反発します。「キリストの十字架の福音しかない」のであります。これしかないからこそ、パウロを動かしている事を知らなければなりません。 「人に良く思われたい」ということの根底は、その人の思いが「人」に向かっており、「神」に向かっていないということです。つまり「人」に束縛されているのです。そして、「人」に囚われている自分から自由になることができません。 私どもは、キリストの十字架による圧倒する恵みを知る時にのみ解き放たれ、自由になることができるのです。 |
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今日は14節の御言葉を中心に聴きたいと思います。 13節を受け、パウロは「十字架のほかに誇るものが決してあってはなりません」と言うのです。「肉についての誇り」、割礼を受けた者たちがガラテヤの人々に割礼を勧めたのは、エルサレム教会がユダヤ人からの迫害を免れるためでした。自分を良く見せる。端的に言いますと「伝道の成果を誇る」ということが「肉についての誇り」でした。 14節、「キリストのゆえに」とは言わないのです。「キリストの十字架」のみが強調されます。なぜ「十字架」と言っているのでしょうか。「主イエスの罪の贖いゆえに」ということです。 私どもはどういう者なのでしょうか。人は自らの実績を誇り、頼るのです。それほどに弱く愚かです。それほどまでに頼るものを必要とする存在です。しかし実績は過ぎ行くもの、滅び行くものです。それは空しいことです。 14節後半の意味は、主イエス・キリストにより「この世は脅威でも支えでもなくなった」というのです。「支えは神の憐れみのみ、キリストの十字架のみ」と言っているのです。この世を恐れ依存して生きる必要はなくなったのだとパウロは言っているのです。 この世の力を恐れず、神により頼んで生きる、それがキリスト者の在り方です。 |
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神はアブラハムを試されました。それはアブラハムの信仰が疑わしい状況にあったということです。 3節、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を携え、若者2人と息子と共に、神の命令に黙々と従っていきました。しかし心の内では闘いがあったに違いありません。このアブラハムの旅は、そのような闘いの中で進むのです。神の命令に一歩踏み込んで従うのです。 9・10節、アブラハムは苦しみつつも神の命令に従い、また一歩進みます。 私どももまた、ある時には病気になったり、愛する人を失ったりします。その時、その不条理さをつぶやきたくなることでしょう。しかしその時、私どもは問われるのです。「健康や財産や愛する人以上に、神を愛するか」と問われるのです。私どもはアブラハムのようには従順にいかないでしょう。しかしその時にも、神を呼び、すがる時、神は待っていてくださいます。 主イエス・キリストは、全てに勝る試みに遭われた方です。主イエスへの試みは「十字架」であり、主イエスへの備えは「復活」でありました。主イエスは、十字架の苦しみから逃れる機会がありましたが、逃げるのではなく、全てを主の御心として受け止めていかれました。そして神は主イエスに復活を備えてくださったのであります。 「試み」を通し、私どもは神との関係が新しくされ、人との関係も新しくされます。どんな試みにあっても、神は備えていてくださり、その試みの中で、主イエスが私どもと共にいてくださるのです。 |
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今日は15節からです。 16節「このような原理に従って」とは、「ただ、神の恵みによってのみ生きる」ということです。そのような人に「平和と憐れみ」という祝福が与えられると言うのです。 本来であれば、16節の祝福の言葉を以て書簡は終わるところですが、しかしパウロはなおも語ります。「もう一言、言いたい」という思いで付け加えるのです。それは、もう二度とこのような状況(キリストの福音から離れて割礼を勧める人たちに従ってしまったこと)に陥らず、しっかりとキリストの福音に根ざして生きて欲しいということです。「救いは、ただ主イエス・キリストにしかない」ということをパウロは重ねて語っています。 17節、「焼き印」とは、ギリシャの風習では家畜に焼き印を押して誰の所有かを示しました。それは神殿に仕える奴隷にも押されました。そのことを踏まえてパウロは「イエスの焼き印」という言葉をここで用いています。 「洗礼」とは「イエスの焼き印を身に受ける」ことであり、それはキリストのもの(所有)とされること、キリストに仕える者となることであります。 |
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