聖書のみことば/2006.8
2006年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
十字架のゆえの迫害」 8月第1主日礼拝 2006年8月6日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章11〜16節
6章<11節>このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。<12節>肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。<13節>割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。<14節>しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。<15節>割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。<16節>このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

「私、すなわちパウロは今この手紙(ガラテヤの信徒への手紙)を終わるに際して書いておきたい」と言うのです。「このとおり、自筆で、みんなにわかるよう大きな字で」と、気持ちを入れ、気合いを入れて書いています。これまでパウロが語ってきた大切な言葉、12節以降に出てくる言葉を要約する形で終わっています。

「割礼を誇るのでなく、十字架のみを誇る」とパウロは語ります。大切なことは、パウロを突き動かしているものに触れることです。言葉による説明だけでは伝わらないのです。「気持ち」が伝わなければ本当に受け止めることは起こらないものなのです。「何を言っているのかわからない、しかし気持ちが切々と伝わる」ということがあります。それは信仰には大事なのです。
 言葉を超えた、思いを揺さぶるものがないと、人は受け止められないのであります。パウロ自身もキリストの迫害者でありました。キリストの福音を知識として聞いていただけでは理解できなかったからであります。キリストと出会い、心揺さぶる神の力がパウロに対して働き、十字架の恵みに圧倒されたからこそ、はじめて知ること(受け入れること)ができるようになったのです。

12節、「肉において人からよく思われたがっている人」と、ガラテヤの人々に割礼を強いている人々を、パウロは批判的に見ています。異邦人に割礼を受けさせることによって、厳格なユダヤ人キリスト者から良く(立派だと)思われたいがために、割礼を強いている人への非難の意味を込めて言っているのです。それは、キリストの十字架のゆえにユダヤ人(異邦人にではなく)に迫害されたくないためでした。ユダヤ人共同体からの追放を恐れたのです。

しかしパウロは反発します。「キリストの十字架の福音しかない」のであります。これしかないからこそ、パウロを動かしている事を知らなければなりません。

「人に良く思われたい」ということの根底は、その人の思いが「人」に向かっており、「神」に向かっていないということです。つまり「人」に束縛されているのです。そして、「人」に囚われている自分から自由になることができません。
 自らに囚われなく生きなければなりません。人は、人間関係の配慮の中で自分自身を生きるのではないのです。ただ神に集中すること、それ以外に自分自身を生きることは出来ません。

私どもは、キリストの十字架による圧倒する恵みを知る時にのみ解き放たれ、自由になることができるのです。

誇るは主の十字架」 8月第2主日礼拝 2006年8月13日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章11〜16節
6章<11節>このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。<12節>肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。<13節>割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。<14節>しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。<15節>割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。<16節>このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

今日は14節の御言葉を中心に聴きたいと思います。

13節を受け、パウロは「十字架のほかに誇るものが決してあってはなりません」と言うのです。「肉についての誇り」、割礼を受けた者たちがガラテヤの人々に割礼を勧めたのは、エルサレム教会がユダヤ人からの迫害を免れるためでした。自分を良く見せる。端的に言いますと「伝道の成果を誇る」ということが「肉についての誇り」でした。
 今日でも、伝道の成果については心しなければならないものがあります。伝道の成果に心奪われる誘惑があるのです。しかし伝道は成果をあげることを目的していません。福音宣教を主は命じられましたが、成果については、主御自身が責任を負ってくださり、私どもには「真実に福音を語ること」をこそ求めておられるのです。
 現代社会は実績を求める社会です。実績を求められることは大きな苦しみでもあります。「キリストのみ」というのは成果主義からの解放でもあるのです。主イエス・キリストの十字架に、十字架のみ言葉のみにより頼むということです。このことは、迫害を受けるということも前提になるのです。人に誉められないばかりでなく、迫害を受けることです。

14節、「キリストのゆえに」とは言わないのです。「キリストの十字架」のみが強調されます。なぜ「十字架」と言っているのでしょうか。「主イエスの罪の贖いゆえに」ということです。

私どもはどういう者なのでしょうか。人は自らの実績を誇り、頼るのです。それほどに弱く愚かです。それほどまでに頼るものを必要とする存在です。しかし実績は過ぎ行くもの、滅び行くものです。それは空しいことです。
 「十字架にのみ頼ること」により、功績主義・実績主義と決別することができます。
 実績(自らを頼みとする)、人間が造りだしたものに頼る、それは罪です。人は自らが頼りとするものを神としてしまうのです。人として低くなることを忘れ「自らが神となる」そこに罪があるのです。
 我々の頼りとするべきは神です。人が人として、人格ある者となるは、神を神として拝することにほかなりません。本来裁かれるべき私どもが、キリストの十字架を通して贖われたのです。神御自身が大きな痛み(御子を献げる)ほどに、私どもに踏み込んで憐れんでくださるということを知る時に、その神の憐れみにすがる以外にない、そのすがる思いが信仰なのです。

14節後半の意味は、主イエス・キリストにより「この世は脅威でも支えでもなくなった」というのです。「支えは神の憐れみのみ、キリストの十字架のみ」と言っているのです。この世を恐れ依存して生きる必要はなくなったのだとパウロは言っているのです。 この世の力を恐れず、神により頼んで生きる、それがキリスト者の在り方です。

主は備えてくださる」 8月第3主日礼拝 2006年8月20日 
斎藤真行 神学生(聴者/清藤)
聖書/創世記 第22章1〜14節
22章<1節>これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、<2節>神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」<3節>次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。<4節>三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、<5節>アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」<6節>アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。<7節>イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」<8節>アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。<9節>神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。<10節>そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。<11節>そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、<12節>御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」<13節>アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。<14節>アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

神はアブラハムを試されました。それはアブラハムの信仰が疑わしい状況にあったということです。
 神はアブラハムに呼びかけ、アブラハムは「はい」と答えます。これまでアブラハムを助けてこられた神が、ここでまた呼びかけておられるのです。しかし、アブラハムは神よりもイサクに心傾いていました。これがアブラハムの疑わしい状況です。神とイサク、どちらが大切か、そこを試されたのです。アブラハムがイサクよりも神を愛するか、試されたのです。これはあまりにも不条理、乱暴にも思います。しかし神のみがアブラハムを真実に生かしてくださる方です。神よりもイサクを愛することはアブラハム自身を損なうことになるのです。ですから、神への愛か、イサクへの愛かが試されました。

3節、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を携え、若者2人と息子と共に、神の命令に黙々と従っていきました。しかし心の内では闘いがあったに違いありません。このアブラハムの旅は、そのような闘いの中で進むのです。神の命令に一歩踏み込んで従うのです。
 薪をイサクに背負わせ、アブラハムは刃物と火を持って、親子は歩いて行きます。アブラハムは心が張り裂ける思いであったでしょう。7節「わたしのお父さん」とイサクは呼びかけます。「ここにいる。わたしの子よ」と答えるアブラハムは、現実を見、イサクへの愛を振り切って前進するのです。「焼き尽くす献げ物を神が備えてくださる」と語りつつ、神への愛とイサクへの愛が闘いをするのです。

9・10節、アブラハムは苦しみつつも神の命令に従い、また一歩進みます。
 12節、「神を畏れる者」とは、全てに勝って神を愛する者のことです。アブラハムは、試みを通し、「神に従うこと」によって神との関係を新たに受け取り直しました。そして、全てに勝って神との関係を第一に持つことによって、イサクとの関係も新しく生まれたのでした。つまりイサクへの執着からも解放されて、より自由にイサクを愛することができるようになったのです。
 13節、木の茂みに雄羊が用意されていました。すべてが、この試みにより祝福されました。

私どももまた、ある時には病気になったり、愛する人を失ったりします。その時、その不条理さをつぶやきたくなることでしょう。しかしその時、私どもは問われるのです。「健康や財産や愛する人以上に、神を愛するか」と問われるのです。私どもはアブラハムのようには従順にいかないでしょう。しかしその時にも、神を呼び、すがる時、神は待っていてくださいます。
 神はそもそも初めから備えてくださっているのです。備えていてくださるからこそ、「試み」があるのです。

主イエス・キリストは、全てに勝る試みに遭われた方です。主イエスへの試みは「十字架」であり、主イエスへの備えは「復活」でありました。主イエスは、十字架の苦しみから逃れる機会がありましたが、逃げるのではなく、全てを主の御心として受け止めていかれました。そして神は主イエスに復活を備えてくださったのであります。

「試み」を通し、私どもは神との関係が新しくされ、人との関係も新しくされます。どんな試みにあっても、神は備えていてくださり、その試みの中で、主イエスが私どもと共にいてくださるのです。

イエスの焼き印」 8月第4主日礼拝 2006年8月27日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章15〜18節
6章<15節>割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。<16節>このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。<17節>これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。<18節>兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

今日は15節からです。
 「新しく創造される」とは、割礼の有無ではなく、「主イエスを信じ洗礼を受けること」だと言っています。パウロは「割礼」を否定しているわけではありませんでした。ユダヤ人の生き方として「割礼」は大切なことなのです。しかし「割礼によっての救いはない」と言うのです。
 私どもは「救いの確かさ」をどこに見出すのでしょうか。それは私どもの内にはありません。ただ神にのみ見るのです。決して揺らぐことも変わることもないもの、それが神の恵みです。私どもがどのような状況にあり、どのような思いであったとしても、救い(神の約束)は揺るぎないのです。ですから、神こそが私どもの救いの根拠です。
 そして「救い」とは、まさに「新しく創造されること」です。罪の身に死んで、神との交わりに生きる「新しい人とされる」のです。

16節「このような原理に従って」とは、「ただ、神の恵みによってのみ生きる」ということです。そのような人に「平和と憐れみ」という祝福が与えられると言うのです。
 「憐れみ」とは、何の資格も無いにも拘らず与えられるものであります。神が「憐れむ」という思いを持ってくださるのであり、神が思ってくださることは現実化するのです。
 「平和」とは、「神との交わりにあること」であります。人間は創造の初めから「神との交わりに生きるために」造られたのであり、それが人間の本来あるべき姿です。ですから「神との交わりにある」時、人は満たされるのであります。そうでなければ、平和は表面的なものになってしまいます。
 「平和」とは、ただ考えたり語ったりするだけのものではなく、「実現する」ためにあるものです。「平和を実現する」とは、神との交わりに生きること、つまり「礼拝の生活」だと言えます。真実に神の支配の表されるところでなければ、本当の平和はないのです。

本来であれば、16節の祝福の言葉を以て書簡は終わるところですが、しかしパウロはなおも語ります。「もう一言、言いたい」という思いで付け加えるのです。それは、もう二度とこのような状況(キリストの福音から離れて割礼を勧める人たちに従ってしまったこと)に陥らず、しっかりとキリストの福音に根ざして生きて欲しいということです。「救いは、ただ主イエス・キリストにしかない」ということをパウロは重ねて語っています。

17節、「焼き印」とは、ギリシャの風習では家畜に焼き印を押して誰の所有かを示しました。それは神殿に仕える奴隷にも押されました。そのことを踏まえてパウロは「イエスの焼き印」という言葉をここで用いています。
 パウロは、キリストの福音を宣べ伝えるために、キリストの使徒として数々の迫害を受け、ムチや石打ちによって肉体にも多くの傷を負いました。しかしその「傷あと」こそが「イエスの焼き印」であり、イエスの使徒であることの証明なのです。「使徒」は、ただキリストの栄光が表されるためにだけに生きる者です。使徒にとって自らの傷は、主イエスが私どもの罪のために負われた十字架の傷を思い、キリストと苦難を共にすることであり、またキリストの救いに共に仕える者であることを示しています。

「洗礼」とは「イエスの焼き印を身に受ける」ことであり、それはキリストのもの(所有)とされること、キリストに仕える者となることであります。
 そしてまた「所有」されることは、「保証をいただく」ことであります。それは、キリストの恵みのうちに日々新たにされて生きることであり、終わりの日の救いの完成の約束であります。