聖書のみことば/2006.7
2006年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
自分の重荷を負う」 7月第1主日礼拝 2006年7月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/雨宮)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章1〜5節
6章<1節>兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。<2節>互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。<3節>実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。<4節>各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。<5節>めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
我々教会に集う者は、仮にも神様から選ばれ、原罪を赦され、御前に立つことを赦された者であります。あえて、パウロは言うのです。罪赦され、神との交わりを赦された者であると。ですから御前に立てるのであります。キリスト者は、そのことを礼拝において7日(日曜日)ごと再確認するのです。

イエスはその公生涯の時、「自分自身のように隣人を愛せよ」と言われました。今の私たちに、これを実行することは難しいと思います。
 しかし、これは罪人であることを認めた私たちにしか負えないことだと思います。肉と罪に汚れた私たちは、イエスの十字架によって贖われたのです。誘惑に陥らず、霊の目を持って赦された人間としてこれを直視し、愛し合うことを、負い合うことを、共に同じ時代を生きるものとして、この世でありのままに赦されたことを感謝して、隣人愛に生きることを是とするのです。

霊的にも神との関係が弱い私どもです。しかし、イエス・キリストによって、しかも十字架に贖われた、主の生涯を見た者として、自らその人生をキリストによって委ねられた者として、この世にあってイエスの言われたキリスト教的愛を実践する勇気を与えられたものとして、赦しを受けたものとして、その愛に触れたものとして、人生を神に捧げ、隣人愛に生きたいと願うキリスト者になりたいと思います。
 私たちには夢があります。

蒔いたものを刈り取る」 7月第2主日礼拝 2006年7月9日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章1〜10節
6章<1節>兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。<2節>互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。<3節>実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。<4節>各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。<5節>めいめいが、自分の重荷を担うべきです。<6節>御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。<7節>思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。<8節>自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。<9節>たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。<10節>ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
今日は4節からです。
 各自で自分の行いを吟味しなさいというのです。出来そうで出来ないことです。人は自分がかわいいのです。ですから自分を正当化し相手を非難するということが起こるのです。

パウロがここで言いたいことは何でしょうか。ガラテヤの人は自らを「霊の人」と称して誇っていたということです。キリスト者として、奉仕を誇っている。それを吟味しなさいというのです。その奉仕の内容が良いか悪いかを問うているのではありません。そうではなくて、「奉仕とは何か」を吟味してみなさいというのです。奉仕は自分自身から出たものであるのか。奉仕とは「神から委託された業を行なうこと」であることを忘れてはならないのです。

御言葉の奉仕者とは、神が私(牧師)を立てていてくださるということです。それは教会に委託された「御言葉を宣べ伝える」という業です。神の委託の業、それが奉仕です。

出来ない事柄も、神は用いたもうのです。成し遂げることを目的としていない。その業を通して、神が栄光を現してくださるということを覚えてよいのです。全ての奉仕は自分に由来することではなく、神に由来するのです。出所は神にある。奉仕は、神の恵みとして成し得るのだということを吟味するべきなのです。私どもには、奉仕を神からの出来事としてとらえることができない傲慢があります。

この教会(愛宕町教会)には良き伝統があります。証詞(あかし)です。証詞も奉仕の業です。信仰の先達が喜びをもって証詞しております。それは、神が与えてくださった恵みとして証ししてくださっているのです。証しすることを誇るのであって、自分を誇るのではないのです。

礼拝も奉仕であります。礼拝も、自らの力では出来ない。神の赦しがあって礼拝できるのであります。礼拝を守ることは、恵み、神の出来事を見出すことなくして、なかなか出来ないのです。ですから、礼拝は感謝の出来事です。つたない業でも神が用いてくださることを、神の恵み・感謝と受け止めるのです。

5節、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とは、「自分自身の荷を担うことになるでしょう」という意味です。終りの日、裁きの日に、自らの総決算を吟味せよというのです。しかしそれは「自分はこんなに頑張ってきました」ということではない、それは神の栄光を汚していることです。そうではなくて、自らを神の恵みのもとに見出すということです。それが吟味することであり、神の栄光を表わすことです。神の恵みを見ること、それが吟味するということです。

6節は、牧師の就任式に際して、信徒にすすめる言葉です。「御言葉を教える人の生活を支えよ」ということです。御言葉の宣教は片手間ですることではないのです。中心のことです。それゆえ御言葉の宣教を大事にするということです。

永遠の命を刈り取る」 7月第3主日礼拝 2006年7月16日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章7〜10節
6章<7節>思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。<8節>自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。<9節>たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。<10節>ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
今日は7節からです。
 「思い違いをしてはいけません」とガラテヤの人にパウロは言うのです。それは神に対する侮りだったのでしょうか。ガラテヤ人の思い違い、それは「自分たちは神から特別な賜物をいただいた者であり『霊の人』なのだ」という思い違いなのです。
 ガラテヤはパウロが伝道した地です。しかしその後、ユダヤ人キリスト者の影響を受け入れました。ユダヤ人キリスト者の問題は選民意識(特別に選ばれた者)です。ですから、より意識の高い生き方、すなわち律法厳守に走り自分を堅固にしようとします。律法主義は人に「自分は他者より高い者」と確信させるものなのです。律法を守ることで「自分は霊の人である」と錯覚させるのです。パウロはそのことをわきまえ、「ガラテヤの人は思い違いをしている。神に近い霊の存在とは、そういうことではない」と言っているのです。

では「霊の人」とはどういう人なのか。それは「神の御子イエス・キリストの十字架により、罪赦され贖われた人」ということです。偉くなったということではありません。「自らの罪を知る者となった」ということです。「救われた」ということは、「本当に自分は罪人であることを知ること」と一つなのです。
 パウロのダマスコの経験を思い起こしてみましょう。真実に罪を罪として認めることがキリスト者です。神の憐れみ・赦しの出来事に出会う時に、自らの罪を深く思うのです。本当の意味で「信仰に生きるとは低くなること」です。神を大きくし、自ら人として、罪ある者として低くすることです。赦されて初めて在るのです。

「罪を知る」ことは神の恵みの出来事です。神の霊による認識なのです。人が真実な人間関係を築くこととは、「自分は赦された罪人、まったく他者と同じ者である」と自分を見い出すことであります。自分を高みに立たせては、人間関係は築き得ないのです。
 「愛をもって他者に対する」とは、そこに自分を見る、他者に自分を見るということです。ですから自分を愛すること無くして他者を愛することはできません。他者を自分と同じ者だと見い出せるのは、「共に罪人に過ぎない」「そこに神の赦しを見い出す」ことだからです。「愛をもって」とは、他者と自分を一つにすること、神の前に罪の赦しを見い出すこと無くしてあり得ないのです。

私どもは、神の赦しの恵み、救いの御言葉を繰り返し聞くことが必要です。それは自らを低くすることであります。神無くして自分は在り得ないことを知る時、人は他者と真実に交わり得るのです。神に向かうこと無くして自分を低くすることはできません。礼拝すること、祈る事は真人間になるということです。

知り抜かれる主」 7月第4主日礼拝 2006年7月23日 
斎藤真行 神学生(聴者/清藤)
聖書/詩編 第1章1〜6節
1編<1節>いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず<2節>主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。<3節>その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。<4節>神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。<5節>神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。<6節>神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
「いかに幸いなことか」の言葉をもって詩編が始まります。
 幸いとは何か? 巷では幸福論が氾濫しています。
 「幸い」は神から与えられるものです。私どもの考える幸いは、はかない、もろいものです。しかし、ここに記されている「幸い」のは違うのです。もろく、はかないものではない。苦しいことが起こっても窮地にあっても幸い、永遠の人生の幸いです。それは、神の御心が実現することによる「幸い」です。
 神には私ども一人ひとりに対しての計画、御心があります。またそれは、個人にとどまる幸いではなく、分かち、広め、死をも超えた幸いです。死を前にしてなお幸いだと言い得る、そういう「幸い」です。この幸いを受け継ぐことは何と幸いなことでしょう。

「神の逆らう人」とは、いかなる者でしょうか? それは自分自身を神にする人です。神が邪魔なのです。そういう人は緻密に計画を立てます。将来を自分の支配のもとに置き、自分の思いのままにするためです。しかし考えてみると、将来は私どもの手中にあるのでしょうか? 私どもが計画を立てなくても、神御自身の計画が与えられているのです。神の計画に生かされる時、幸いな者となるのです。
 「罪ある者の道にとどまらず」、「罪」とは「的はずれ」という意味です。「的」は神です。何を目的に歩んでいるか、自分か、神か、です。私どもにとって何が最善であるかということは、神に聴かなければ解らないのです。罪ある者は自分自身に善悪の判断があるのです。
 「傲慢な者」とは、自分自身を大きくする人です。「神の大きさ(自分より大きい者)」を知らない無知です。神を賛美するのは、神を大きくし(神を神とする)、自分を小さくする(本当の自分になる)ことです。
 「主の教えを愛する」とは、主の憐れみから出ることです。主に向かえない時があっても、主は私どもを憐れみ引き戻してくださいます。主の憐れみに信頼し応答するときに、主の教えを愛することができるのです。「その教えを口ずさむ」ことは、御言葉に支配され真実に自由になることです。昼も夜も御言葉を通して自由になるのです。
 「流れ」は「御言葉」を意味します。私どもは「流のほとりに植えられた木」になるのです。神の御言葉によって命が与えられ育てられるのです。恵まれた地に根を張ったからこそ「実」を結ぶのです。「実」とは、真実を語る者となることです。「葉」とは日陰をつくるのものです。すなわち、他者をくつろがせ、ほっと一息つかせる、力を与える、他者に役立つ者となるということです。
 「繁栄をもたらす」とは、真実な共同体を築く事が出来るということです。真実の教会が立てられていく、成長するということです。喜び、感謝にあふれる神の豊かさが表されるのが繁栄です。

「神に逆らう者はもみ殻」、「もみ殻」は中身のない、虚しいものということです。「風に吹き飛ばされる」とは、神の裁きを意味します。「裁きに耐えず」、それは逆に言うと、御言葉に従う人は裁きに耐えて根を張ることが出来るということです。
 「罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」、罪ある者は自己否定を感じ不安になり、恐れを感じ、迫害に走るのです。
 「 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」、つまりこの二者択一を迫られているのです。

苦しい時、悲しい時、孤独な時、私どもは主の御心を理解できないと思う時があります。しかし、私どもが神を見失っても、神は私どものことを知っていると語ってくださる。「私はあなたを助け出す」というのです。
 私どもが罪を犯し、神に逆らったらどうなるのでしょうか? しかし主は「あなたを知らない」とは言わないというのです。なぜなら主イエス・キリストが十字架にかかってくださったからです。キリストは深い罪の極みにまで行き、解決を与えてくださった、だからわたしのもとに帰って来なさいというのです。
 私どもは生かされているのです。憐れみ深い神が共にいてくださる。だからこうして礼拝することができ、一週間が歩めるのです。主を信じて、人生を全うすることが出来るのであります。

食卓から落ちるパン屑」 7月第5主日礼拝 2006年7月30日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第15章21〜28節
15章<21節>イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。<22節>すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。<23節>しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」<24節>イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。<25節>しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。<26節>イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、<27節>女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」<28節>そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
「そこをたち、」とあるのはゲネサレの地であります。ゲネサレからカナン、すなわち異邦人の地へ行かれたということです。
 主イエスは、人々から離れて休みの時を必要とされました。それは単に身体を休めるということではなく、神との交わりの時でした。真の安らぎは、神との交わりの中でいただくものです。私どもは「礼拝の時(神との交わりの時)」を必要としているということです。

22節、カナンの女が「主よ、ダビデの子よ」とイエスを呼びました。それはメシアに対する呼びかけ、信仰の告白であります。カナンの女は異邦人であり、ユダヤ人に反感を持っているのが普通です。それにもかかわらず、そう呼んだということは、驚くべきことであります。
 「娘を救ってくれるのは、この方しかいない」と確信したのでしょう。娘を救うために、おそらく医者や祈祷師を頼み、あらゆる手を尽くしたのです。ですからイエスの噂を聞き、この方しかないと思い、「主、ダビデの子」=救い主として叫んだのです。ここに母子一体の思いが込められています。母は娘の病気のために身も心も苦しんでいる、ですから「娘を癒してください」ではなく「私を憐れんでください」と切実な訴えをしたのです。
 しかし、主イエスは何も語りませんでした。まったくの無視でありました。愛のかけらも示さなかったのです。この主の沈黙をどう受け止めたらよいのでしょうか。
 23節、カナンの女は叫び続けました。そこで弟子たちは、あまりにもしつこく食い下がってくるので「追い払ってください」と言ったのです。ここに弟子たちの「心無さ」が書かれています。「助けてやってください」と言わないのです。
 カナンの女の叫びは、人にうとましい・うざいと思わせるほどに切実なものでした。しかしカナンの女は無視されていました。にもかかわらず弟子たちの願いに、イエスは答えているのです。「愛のかけらも無い」弟子たちに答えておられるのです。
 私どもも、本当は心無い者であるにもかかわらず、主は受け入れて聞いて下さいます。なぜなら主の弟子とされているがゆえです。しかしこの女性には厳しいのです。ユダヤ人・神の民に遣わされているのであって、異邦人に遣わされているのではない、「あなたに神の憐れみは注がれていない」と言うのです。おそらく私どもは、このような場面に出くわしたなら、「人の一生懸命さが分からないのか」と、捨てゼリフを吐いて罵るかもしれません。しかし、カナンの女はこの場面で「ああ、イエスはわたしに向かって語ってくれた」と、力を得て、イエスの前にひれ伏し必死に頼んだのです。
 しかし尚、イエスは「神の恵みは子ども(イスラエル)のものであって、子犬(異邦人)に与えられていない」とはっきり言うのです。当時、犬は汚れでした。
 27節、女性は言うのです「主よ、ごもっともです」と、どこまでも「主イエスの言う通り、主は正しい」と言うのです。自らの汚れを言い表しているのです。そして「子犬はパン屑=神の憐れみのかけら、恵みのかけら、おこぼれでも必要なのです」と言うのです。

28節、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と語ります。ここに言い表されている信仰とは何でしょうか。
 「どこまでも主が正しく、自分は罪にすぎない。自分は価値無き者。だから恵みのおこぼれが必要だ」と言った、そこにカナンの女の信仰があります。
 また、私どもは喜んで神の恵みを受けているでしょうか。「もっと恵みが欲しい」と恵みを欲していないでしょうか? それは「恵みを恵みとしていないこと」です。このカナンの女ほど「恵みのかけらがどれほど大きいものであるか」言い表し、「恵みを恵みとして」言い表した人は無いのです。

なぜ主は沈黙しておられたのか、沈黙し得たのか。それは、真実に憐れみある方だからこそであります。真に人が神を言い表すまで、信仰を言い表すまで、一切の誤解無く人が恵みを恵みと自覚し得るまで、沈黙し得る方なのです。主こそ真実に人を信仰へと導くことがおできになる方なのです。