聖書のみことば/2006.6
2006年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の霊を吹き込む」 6月第1主日礼拝 2006年6月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/エゼキエル書 第37章1〜14節
37章<1節>主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。<2節>主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。<3節>そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」<4節>そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。<5節>これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。<6節>わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」<7節>わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。<8節>わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。<9節>主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」<10節>わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。<11節>主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。<12節>それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。<13節>わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。<14節>また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
聖霊降臨日は、「聖霊を送る」との主イエス・キリストの約束に基づく「約束の霊」が臨んだ出来事です。弟子たちは約束の聖霊を信じて祈っていたのです。そして聖霊が与えられ、証詞がなされ、教会がつくられていったのです。

今日の聖書の箇所はエゼキエル書です。
 1節、主の手がエゼキエルに臨み、幻が与えられる。谷に甚だしく枯れた骨を見るのです。神はエゼキエルに問います。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。これに対し「あなたのみがご存じです」と答えるのです。彼(エゼキエル)は主の御心(みこころ)次第だと言うのです。出来る出来ないを自分が判断する事ではないと言うのです。それが起こればそれに従うし、起こらなくてもそれに従うと判断している。このことは大事です。信ずるとは「理解できる、できない」ということではないことを示唆しています。神の御心に従うということです。日常でも同じです。神の御心と信じて生きるのです。

4節、「骨に御言葉を語れ」というのです。「預言」は神より委託されている言葉を語ることです。将来という狭い意味ではありません。過去も現在も語るのです。ここで「枯れた骨」とは何でしょう。これらの骨はイルラエルの全家、イスラエルが陥落しバビロンに連れて行かれた捕囚の民のことを意味します。イスラエルの民は神を信じることが出来なくなったのです。希望を失い、生ける屍となったのです。破れを経験した民の混沌、空しく・生きる気力を失った、そういう民に神は御言葉を語れというのです。もう一度存在を与え、命を与えるものは何か? それは、神の御言葉であり、御言葉と共に聖霊が働くのです。もう一度囚われの民が神の民となることを言っているのです。

10節、「自分の足で立った」と言われます。囚われの身でありながら自立した者となる。支配を超えて自由になった、そして大きな一つの民となったというのです。神殿でしか礼拝できなかった民が、もはやそうではなく、どこででも御言葉による・聖霊による礼拝ができる新しい民となったことを言い表しているのです。

13節、「神を神として知るようになった」ということ、これは礼拝する新しい民を言い表しています。大事なことは、神は人を「場所や時間、空間を超えて神を神とし礼拝する民としてくださった」ということです。「聖霊を受ける」とは「どこででも礼拝できるようになる」という、民に与えられた出来事であって、「神がかり」のことではありません。このことによって「教会は礼拝する共同体」なのだということを覚えるのです。

私どもも、この世の縛りの中にあります。しかし、その中にあって自由に、この世の縛りに打ち勝って礼拝する集団なのです。神を礼拝する者として自立した者なのです。聖霊の出来事が示すのは、私どもが礼拝する民であることです。この世に神を証詞することです。私どもは、キリストを通し、恵み・憐れみをもって私どもを救い出してくださった父なる神を証詞する民なのです。

神様の宝物」 6月第2主日礼拝 2006年6月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/申命記 第7章6〜11節、ヨハネによる福音書 第3章16節
申命記 第7章<6節>あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。<7節>主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。<8節>ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。<9節>あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、<10節>御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。<11節>あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

ヨハネによる福音書  第3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

今週から伝道月間に入ります。
 今日は説教題を「神様の宝物」とつけました。甲府市は宝石の町、宝石の塔が甲府駅南口にあります。甲府は、宝に関心がある町でしょう。

神様は何を宝にしているのでしょう。
 人は昔から子を宝としてきました。しかし今、子ですら宝とし得ない時代となってしまいました。出生率も低下してきています。子供よりも大切なものがあるということでしょう。それは何か? 自分の生活であり、自分しか大切なものがないという社会となったということです。危うい時代になったのです。自分以外のものを大切にすることを失ってしまう、これほど寂しい孤独なことはありません。人格的ふれあいが出来ない、大いなるジレンマが起こっているのです。人はこころを失っていると言わざる得ない。自分だけよければよい社会になってきたのです。政治的な関心もない、他者を思いやることもない、人格性を失った社会となってしまいました。
 「豊かさ」は他者との交わりの中で見い出すことです。私どもは、自分よりも大切にするものを持っているか、問われているのです。私たちは何を一番大切にしているのか、常に問われているのです。

神は何を宝としているのでしょうか。神は、イスラエルを自分の宝物として選んで下さり、聖なるものとしてくださいました。「聖とする」とは「分離する」「神のものとする」という意味です。地のたくさんある民の中からイスラエルを選び出し、宝の民としてくださったのです。
 「こころ惹かれて選んだ。好きになって選んだ」と、選びには、それなりの価値があって「選ばれた」という思いがあります。しかしそれは誇ることになるのです。他よりも価値があるから選ばれたのだと。
 では、神の選びはそうなのでしょうか。そうではありません。7節に「数は多くないし貧弱なものを選んだ」と言われています。小さく弱い者だから選んだというのです。だめなものは選ばず、得になるように選ぶのが普通です。なぜ神は敢えて小さなものを選ばれたのでしょうか? よっぽど抜きんでていなければ出来ないことです。真実な神だからこそ、と言わざる得ないのです。選ばれた者に選ばれた根拠はありません。神の側にしか根拠がない、ですから「もったいない、感謝です」というできごとなのです。神の選びは「恵みであり、喜びであり、感謝」なことなのです。人の選びは、価値あるものを選ぶ。神の選びは、何の選ぶべき価値がないものを価値あるものとしてくださる、意味あるものとしてくださるという選びです。本来意味のない、価値のない者を、どこまでも大切にするということです。
 その根拠は何でしょうか? それは「神の愛」であり、神が「約束(契約)に真実」であったからだということです。価値のないものを愛により選び、滅び去ってしまう民に約束してくださったことを為してくださったのです。

今、私どもは自らに価値を見出すことの出来ない時代に生きています。あなたに価値があるからではない、私どもは誰をも宝物とすることが出来ないのかもしれない、しかし、そんな私たちを「私の宝物」と言ってくださる神がいてくださいます。
 それが十字架の父なる神なのであります。なぜ、神は主イエスを十字架につけたのでしょうか? それは、「この世を愛するため」でした。それが、神のご計画・約束でありました。
 今、私どもがなすべきことは一つです。「神、その方のみ信頼すべき神である」と言い表すことが、私ども人としての生き方であります。

人はパンだけで
    生きるのではない」
6月第3主日礼拝 2006年6月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/申命記 第8章1〜10節
8章<1節>今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。<2節>あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。<3節>主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。<4節>この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。<5節>あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。<6節>あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。<7節>あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、<8節>小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。<9節>不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。<10節>あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。
1節、「戒め」とは、神から託された生き方を示した律法のことです。律法には、神の民にふさわしい生き方が示されております。みことばに従って生きる事、その恵みについて語られているのです。

2節、あることを思い起こせ、すなわち「40年の荒野の旅」を思い起こせというのです。ここ(荒野の40年)で飢え、苦しみにあう、それを「神の試み」としてとらえています。私どもは人生をどういう視点でとらえるのでしょうか。悲しみ、苦しみの人生をどのように受け止めるのでしょうか。私どもにとって、自らが負いきれない課題があります。究極は人、人と人との問題です。

3節、主が苦しみを与えて試しておられるというのです。「苦しみ」を神が与えてくださった「試練」とみる時、解決が与えられるのです。神に向かうからです。苦しみを受け止めるとはどういうことでしょうか。その苦しみに意味を見出だし、ある方の意志があると見ずして解決はないのです。神を信じるとは、今ある出来事を神の試みとして見ることです。苦しみの意味がわかれば、その問題を受容できるのです。
 今、人生の受け止め方を述べました。それは「人生を受け止めることが出来る」ということです。人は、死を迎える時、総決算するのです。人生を意義あるものとして見出し完成を見て終わるかどうか、ということです。

神は荒野の40年の試みの中で、イスラエルに「マナ」をくださったとあります。食べものを恵みとしてくださったのです。そしてこの「マナ」を通して民は、「神の恵みとして生かされている」ことを知ったのです。神は食べものを与え支えてくださった。恵みをくださった神に信頼し生きるのです。神のみが全てを与えてくださるのです。

私どもは、「生かされている」と知れば、日々恵みを知るということが大事です。全てが恵みであり、そこに感謝が生まれます。もし食事に神の恵みを感謝できなければ、それは餌でしかありません。恵み無き生活は、わがまま、自己中心の生活であり、感謝なき生活です。
 ですから、神を信じることの出来ない世界は危ういのです。私どもの人生に「神の試み」を知ることがなければ、私どもは空しく生きざるを得ないのです。

10節、神を神として感謝、賛美、喜びを持って生きる。そこに人間の真実、謙遜に生きる平安な生き方があるのです。

人は何で生きられるか」 6月第4主日礼拝 2006年6月25日 
小島 章弘 牧師(聴者/雨宮)
聖書/使徒言行録 第3章1〜16節
3章<1節>ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。<2節>すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。<3節>彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。<4節>ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。<5節>その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、<6節>ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」<7節>そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、<8節>躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。<9節>民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。<10節>彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。<11節>さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。<12節>これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。<13節>アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。<14節>聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。<15節>あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。<16節>あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
美しの門のかたわらの足の不自由な人の人生哲学の転換を、私どもの人生に当てはめて考えたいと思います。

彼の人生は「あきらめ」でした。しかし、ヨハネとペトロに出会った彼はイエス・キリストの福音を知りました。
 それは神との出会いでした。彼は使徒たち(ヨハネとペトロ)を見上げました。今までは下ばかり見ていたのです。生まれながらの不自由に耐えてきたのでした。「なぜ、俺だけこんな目に遭うんだ!」そんな人生観でした。

その彼が、イエスの言葉によって、完全に癒されたのです。人生は、神を知ることを目指しています。苦難を喜びに換える発想の転換でありました。我々は不自由から解放され、神の御心に生きることが赦されております。その点に足の不自由な人は気付いたのでした。彼の心は喜びに満たされ、躍り上がりました。

人は苦難によって、その人生は落ち込むのです。激しい苦悩が人を襲うのであります。
 キリスト教は解放の宗教であります。人生は神を見出すこと。我々と共に生きておられる神の存在を探し求めることであります。

いつの時代にも光と影があります。クリスチャンは闇を光に変える使命を持っております。この世にあって光を見出し、それをこの世に示す使命を持っているのです。
 この世にあって、この意義を改めて新たにしたいと思います。