聖書のみことば/2006.5
2006年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
キリスト・イエスのもの」 5月第1主日礼拝 2006年5月7日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章22〜25節
5章<22節>これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、<23節>柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。<24節>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。<25節>わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
今週は、キリスト者となった者に与えられる9の徳目から聞いていきたいと思います。聖霊により信仰が与えられ、霊の結ぶ実として9の徳目が挙げられています。この徳目は、個人の資質によるものではなく、神より与えられるものであります。

しかしその前に、「愛」について話します。「愛」とは「関係」です。「愛」とは、人間の感情に拠るものではありません。人は、思いがあるなしに係わらず他者と係わらざるを得ないこともあるのです。従って、「愛」とは「関係」「交わり」であります。
 プロテスタントの信仰は愛を強調します。しかし愛が救いなのではありません。「義とされること」が救いなのです。神と正しい関係を持つことが義で、義とされることで救いに至るのであります。神により創造された者として、神を正しく表すこと、それが正しい秩序を生み、正しい愛を生むのです。
 私どもの救いは、神との正しい関係において与えられるものです。キリストの十字架と復活の出来事は、失った神との関係を回復し、神との正しい関係に入れられる救いの出来事なのです。
 神を神として礼拝する者であることが、神の内にいることなのです。どんな状況であろうと、神との交わりにあることが恵みなのです。そこに麗しい秩序が生まれるのです。麗しさが失われているとすると、それは神への畏敬の念を失っていることを意味するのです。わかり易く言えば、礼拝の出来事が救いの出来事なのです。礼拝において、私どもは神の義の内にあり麗しい秩序の中にあるのです。

22節で言われる「愛」は、個人に与えられた徳目としての「愛」であります。自分の利益を求めないで相手の利益を求めること、それが愛です。なぜキリスト者に「他者のために」ということが起きるのでしょうか。それは、主イエスが私どものために御自身の命まで捧げてくださったことにより、私ども罪人の救いとなってくださったからであります。その神の御恩寵の内に在る私どもは、既に全てを与えられている(自分自身が神に生かされている)のですから、他に利益を求める必要がなくなるのです。従って、愛に生きることは強制ではありません。神の御恩寵のゆえに何も求める必要がなく、押し出されて他者のために、となるのです。
 では、他者の利益とは何か。他者の利益とは、その人が神に至ること、救いに至ることです。他者のためとは、その人がキリストの救いに至ることなのです。従って、キリスト者にとって「愛に生きる」とは「伝道に生きる」ということです。
 同じくキリスト者にとって家族を愛するとは、家族が救いに至ってほしいと願い導くこと、それが真実の愛であります。

「喜び・平和」とは、あまり人の徳と考えにくいことですが、これは神が与えてくださる賜物であります。終末における救いの完成の恵みであります。神の御恩寵の中にあって、喜びの内に生きる、そこに私どもの幸いがあります。どんなときにも神が共にあってくださるという平安の内にある。神への信頼があるとき、平安なのです。信じる恵みを得ているからこそ平安があるのです。

「寛容」とは、関係が密になるほど難しいことです。なかなか寛容になれない。自分がやらなければならないと思うと苛立つのです。任せられないのです。「神様にお任せします」と委ねるとき、寛容になれるのです。

キリストの恵みに触れるからこそ、やさしく、「親切」になるのです。神が私たちに好意を示していてくださるのです。

「誠実」とは信仰です。神の真実(十字架の出来事)に触れ、真実に生きることです。主キリストの神への従順(十字架)ゆえに私どもは救われたのです。

「柔和」は、主イエスが私どもに仕える者としておいでくださったことを覚え、主に仕えていただいた者として他者に仕えることです。

ここまでの8つはユダヤ教の背景を持つことです。しかし「節制」はユダヤ教にはありません。これはギリシャ倫理・哲学に基づくものです。
 「キリストのものとされる」とは、贖われた(代価によって買い取られた)者として、私どもは、贖い主キリストのものだということです。従って、もはやこの世に束縛されない。この世に対しては、自立した者、自由な者として生きる者とされているのです。自由な意志をもって生きる、それはこの世に対し責任をもった生き方をするということです。このことが自制・節制です。
 この世に支配されているなら、私どもにこの世に対する責任はありません(隷属するという生き方です)。しかし、「キリスト・イエスのもの」となって生きる私どもに与えられていることは、この世を真実に愛するという生き方です。この世に対して、責任をもって、係って生きるということです。

神の御心を行う人」 5月第2主日礼拝 2006年5月14日 
田邉良三 神学生/東京神学大学(聴者/清藤)
聖書/マルコによる福音書 第3章31〜35節
3章<31節>イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。<32節>大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、<33節>イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、<34節>周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。<35節>神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
今日は母の日です。母の日を覚えて、お母様に何か贈られたでしょうか? この母の日に、キリスト者として(私の)母なる教会である愛宕町教会で説教できる幸いを感謝します。

母の日には、幾つかの言い伝えがあります。たとえばギリシャ時代に花を捧げたたという話。また17世紀、イースターの40日前に親元に戻るという習慣から…とか。中でもよく言われるのは、アメリカのアンナ・ジャービスが、亡くなった母のためにカーネーションを捧げたという話です。アメリカ・ウエブスターで日曜学校に通っていた子供達が、日曜学校の教師だったアン・ジャービス先生を慕っており、アン先生が亡くなってから、娘アンナも招き、教会でみんなが心を一つにしアン・ジャービス先生を思い出し神様を讃えたという話です。
 私はこのことを思うと、今日の聖書の箇所を思わずにはいられません。聖書に聴きたいと思います。

31節、なぜ家族の者がイエス様を呼ばねばならなかったのでしょうか? なぜイエス様が一所懸命話されているのに、話の腰を折ったのでしょうか? それは「あの男は気が変だ」と言われていたのを聞いて家族は気になり、イエス様を取り押さえに来たからです。普通は、身内が一番身近、一番分かってくれると思うものです。しかし、家族が妨げになることがあります。信仰がそうかもしれません。イエス様は奇跡をおこない、癒しを為し、人々に慰めを語っておりました。しかし、周りからは「あの人は何をやっているのだ?」と言われていたのです。イエス様のなさっていることを、家族は理解していない、いやむしろ邪魔をしようとしております。
 イエス様が大勢の群衆に囲まれていたため、人をやって呼んだのであります。当然、家族や使いの人は、イエス様が話をやめ家族のもとに来ると思ったのです。しかし、イエス様はそうはなさらなかった。イエス様は「私の母、私の兄弟とはだれか」とおっしゃいました。このことを周りの群衆はどう思ったでしょうか。家族を切り捨てたと思ったかもしれません。家族以上に熱心な私たちの信仰を評価したと思ったかもしれません。しかし、その熱心な群衆が遂には、このイエス様を十字架につけたのです。いや、全ての者が十字架につけたのです。

しかしイエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言ってくださっています。十字架につけろと叫んだ群衆、逃げ出した弟子たちです。しかし主イエスは復活され、そのことにより弟子を始め人々に再び勇気を与えてくださいました。イエス様は自ら十字架にかかり罪を贖ってくださったのです。主イエスの復活によって、傷ついた人が再び立ち上がることができるのです。イエス様に力づけられて、神様の御心を行なう者として歩み出し、生きる者とされるのです。復活の主が共にいて、御心を行う者として歩ませてくださるのであります。私どもは、イエス様に呼びとめられ、信じることによって神様の恵みを受けることになったのであります。

イエス様は、取り押さえに来た家族のために、救いの恵みを語られました。まず何よりも神の栄光を表すことを第一とされたのです。神の栄光を表すとは、神を信じる姿勢かもしれません。私たちが立てられているのは、神の恵みを宣べ伝えるためです。 そして、家族、大切な人と共に礼拝する、そのことに希望を抱いていきたいと思います。

霊の導きによる前進」 5月第3主日礼拝 2006年5月21日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章24〜26節
5章<24節>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。<25節>わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。<26節>うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
パウロは「キリスト・イエス」と言うことが多いのですが、「イエス・キリスト」とどう違うのでしょうか。「イエス・キリスト」は「イエスはキリスト、救い主です」ということです。では「キリスト・イエス」はと言うと「救い主」が強調されるのです。「救い主こそイエスなのだ」ということです。これはパウロの体験によるのです。
 パウロはイエス様と地上の交わりを持っておりません。復活のイエスに出会ったからです。「キリスト」体験だからです。「救い主」が先にあるのです。パウロにとっては「救い主その方こそイエスであった」ということです。「キリスト・イエスのもの」となったのです。これはあまり出てこない表現です。「キリストの所有」ということです。それは洗礼を受けるという内容です。私どもの主人はキリストであると言っているのです。イエス・キリストが私たちの主権者だということです。ですから「我々は従う者である」ということを言い表しているのです。人が相対化されるのです。相対化がなくなると平等が無くなるということです。神主権でなくして平等はありえないのです。平等は当たり前ではない、神を失った時代には当たり前ではないのです。かっては王に主権がありました。天皇に主権がありました。主権者がなければ平等は成り立たないのです。「従う」ということは、まさしく主を主権者とするからこそ従うということが起こることを忘れてはなりません。「キリストのもの」ということなくして「従う」はないのです。そうでなければ「キリストに見習う」ことになってしまうのです。

では、洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。十字架の贖いに与ったこと、贖いとはお金を払って買い取るということです。主イエスの汚れ無き命をもって買い取ってくださったという意味です。キリストの命を代価として、私どもを神が買い取ってくださった。ですから私どもは、神・キリストのものと言えるのです。私どもはキリストの尊い血により、その犠牲によって買い取られたのです。

しばしば我々は「クリスチャン」と言いますが、それは適当でしょうか? 「キリスト、キリスト」と言っている者だという一般の声に対し、居直ったかのように「クリスチャン」と言うようになったのです。しかし私どもは「キリストのもの」という呼び名の方が適当ではないでしょうか。私はキリスト者、すなわち「キリストのもの」として「キリスト者」がよいかもしれません。

「肉」とは「古き人」という意味です。パウロはここで洗礼を受ける内容を、「肉を十字架につけたことを受け入れる・決断すること。それが洗礼」であると言い表しています。キリストの十字架・主権があってのことです。
 欲情や欲望に生きることが肉です。欲情と欲望の違いは、欲情は受け身、欲望は能動的であります。
 「霊の導きによって生きる」。霊の導きという言い方は、自らを優れた者として立てるという意味ではなく、愛に生きる者だということ、すなわちキリストに仕える、互いに仕える生き方だと教えています。私どもが愛に生きるとは、愛するがゆえに仕えるということ、神に愛されたものとして私どもも他者に仕えるのだということを示しております。そしてそれは、キリストを中心として、互いに仕えることによって共同体を形成することです。

安心しなさい」 5月第4主日礼拝 2006年5月28日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第14章22〜33節
14章<22節>それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。<23節>群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。<24節>ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。<25節>夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。<26節>弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。<27節>イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」<28節>すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」<29節>イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。<30節>しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。<31節>イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。<32節>そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。<33節>舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
主イエスは強いて弟子たちを舟に乗せ向こう岸に行かせております。ここで注目したい言葉は「強いて」という言葉です。それは目的があってのことです。主イエスは一人祈るために山にお登りになりました。一人で祈ったのです。祈りは神との親密な交わりです。祈りは人に見せるものではありません。祈りは、神の前に全てをさらけだし、神との親密な豊かな、隔たりの無い交わりなのです。
 祈りは、自らの信仰深さを示すものではありません。ひたすら神に向かう事です。祈りが出来ないということは、自らを見せようという思いがあるからです。真実に神に向かっているかが問われるのです。
 礼拝を、今、守っております。礼拝は祈りです。私たちはキリストのものとして神の新しい民とされました。神の民とされるとは一つの共同体、一つの人格をもつものとされているということです。一つの共同体として神との交わりをもつことが共同体の祈りです。神の民としての人格をもつことを忘れてはなりません。教会はキリストを頭(かしら)とする体(からだ)なのです。神との交わりに生きる、それが教会なのです。この共同体の中核をなすものは、主がくださった「主の祈り」です。「主の祈り」は個人の祈りではありません。教会共同体の祈りです。
 私ども一人一人は共同体の中に個々人の祈りを覚えていくものです。共同体の中で「祈りを身につける」ことによって、個々人の祈りが深くなっていくのです。祈ることが下手になっているとすれば、祈りの場(共同体)に身を置いていないからです。
 牧師や役員は共同体の祈りを担います。それは個人の祈りではないのです。共同体の祈りを通して、個々人が祈ることを身につけていることを忘れてはなりません。共に祈ることで神の民なのだということを覚えなければなりません。「祈る」それは共同体の中で養われる豊さです。

23節、主イエスは一人で祈っておられました。夜が明けるまで祈っておられた。24節、弟子たちの乗った舟はというと風に阻まれ、向こう岸に行けないでいました。25節、そんな弟子たちのところに主イエスは赴かれます。困難な中にいる弟子たちのところに、主イエスは向かっていくのです。困難の中にあるということは、そこから抜け出せないでいるということです。そこへ、主は行かれるのです。
 26節、しかし弟子たちは、水の上を歩いていかれる主イエスを幽霊と思ったのです。理解出来なかった。しかしここで主イエスが水の上を歩いたかどうかは議論すべきことではないのです。ここで知るべきことは、人の理解を超えたところに神の力が働くということです。神の計画は人間の理解を超えているのです。理解を超えた出来事が起こっていることを知るのです。
 主イエスは、一晩中祈り、弟子たちのところへ、水の上を歩いて行かれました。祈って力を与えられたのです。波や嵐に勝った力で臨まれるということです。祈ることは神から力を与えられる恵みなのです。主イエスは祈りの人でした。ですから神からの力を宿されたのです。
 私どもも様々な困難、苦難に出くわします。しかし、その圧倒する力(困難)に勝る力が与えられる、それが祈りです。私どもも神の力を与えられるのです。祈りの力は、その人に神が下さる力です。

27節、弟子たちは、自然の力に勝った主の力を幽霊と思った、実に情けない者です。しかしそれは、主イエスの十字架と復活をまだ見ていないからです。そんな、主を主として見い出す事の出来ない弟子に、主イエスは「安心しなさい」と声をかけてくださいました。「わからないのか」と叱るのではなく、「安心の根拠は私だ」と言ってくださるのです。
 主の臨在は、主のみ言葉によって明らかにされます。主の言葉によって力を得、主を主として知る認識を得ることができるのです。主を知る時に私どもは、平安・安らぎを得るのです。

29節、ペトロは、イエスさまを見い出して、新しい一歩を踏み出します。主の力に圧倒された者は、主を見い出すことによって新しい一歩を歩み出す、自分の外へと歩み出す、それが信仰です。ペトロは新しい歩みを始める事が出来ました。
 時代の中で、キリスト者・教会は常に歩み出しています。教育界、福祉においても、文学においても…。そこで主の憐れみを必要とするところに歩み出すのです。そのように教会は大きな働きをしてきました。信仰は保身の出来事ではない、自分の外へと歩み出す行動の出来事なのです。神を見、キリストを見、一歩外に踏み出そうという、恵みの出来事です。

30節、ところがペテロはイエスの方を見たにもかかわらず、ものすごく圧倒する波に気付いて恐れ、身を沈めてしまいました。この世の波風は、私どもを圧倒します。しかし主イエスに思いを凝らし、主を見い出すならば、圧倒されることはありません。嵐をつきぬけて生きる事が出来るのです。それは、溺れかかっているからこそ、主を呼ぶこと(求めること)ができるからです。溺れて終りではない。主の御名を呼ぶ、そこに主の御手が働くのです。私どもは叫ぶことができるのです。そのところで、主は私どもを救い出してくださるのです。
 疑いの心は、主以外に目をやることです。あれもこれもです。そこには平安がありません。しかしそのような、様々なものに目を奪われ遂には身を沈めてしまう者にも、主は御手をくださる、救ってくださるのです。

33節、この世に力に圧倒されている者(ペトロ)は、それに勝る力、主の憐れみにより「本当にあなたは神の子です」という告白に至りました。救われた者は、何をもって生きるのか、「あなたこそ神の子です」その信仰に生きること、それが信仰に生きる者の生きざまです。
 信仰者とは、主の恵み深さを知った者として「主を神の子」と言い表して生きる者にほかなりません。そのことを覚えたいと思います。