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今週は、キリスト者となった者に与えられる9の徳目から聞いていきたいと思います。聖霊により信仰が与えられ、霊の結ぶ実として9の徳目が挙げられています。この徳目は、個人の資質によるものではなく、神より与えられるものであります。
しかしその前に、「愛」について話します。「愛」とは「関係」です。「愛」とは、人間の感情に拠るものではありません。人は、思いがあるなしに係わらず他者と係わらざるを得ないこともあるのです。従って、「愛」とは「関係」「交わり」であります。 22節で言われる「愛」は、個人に与えられた徳目としての「愛」であります。自分の利益を求めないで相手の利益を求めること、それが愛です。なぜキリスト者に「他者のために」ということが起きるのでしょうか。それは、主イエスが私どものために御自身の命まで捧げてくださったことにより、私ども罪人の救いとなってくださったからであります。その神の御恩寵の内に在る私どもは、既に全てを与えられている(自分自身が神に生かされている)のですから、他に利益を求める必要がなくなるのです。従って、愛に生きることは強制ではありません。神の御恩寵のゆえに何も求める必要がなく、押し出されて他者のために、となるのです。 「喜び・平和」とは、あまり人の徳と考えにくいことですが、これは神が与えてくださる賜物であります。終末における救いの完成の恵みであります。神の御恩寵の中にあって、喜びの内に生きる、そこに私どもの幸いがあります。どんなときにも神が共にあってくださるという平安の内にある。神への信頼があるとき、平安なのです。信じる恵みを得ているからこそ平安があるのです。 「寛容」とは、関係が密になるほど難しいことです。なかなか寛容になれない。自分がやらなければならないと思うと苛立つのです。任せられないのです。「神様にお任せします」と委ねるとき、寛容になれるのです。 キリストの恵みに触れるからこそ、やさしく、「親切」になるのです。神が私たちに好意を示していてくださるのです。 「誠実」とは信仰です。神の真実(十字架の出来事)に触れ、真実に生きることです。主キリストの神への従順(十字架)ゆえに私どもは救われたのです。 「柔和」は、主イエスが私どもに仕える者としておいでくださったことを覚え、主に仕えていただいた者として他者に仕えることです。 ここまでの8つはユダヤ教の背景を持つことです。しかし「節制」はユダヤ教にはありません。これはギリシャ倫理・哲学に基づくものです。 |
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今日は母の日です。母の日を覚えて、お母様に何か贈られたでしょうか? この母の日に、キリスト者として(私の)母なる教会である愛宕町教会で説教できる幸いを感謝します。
母の日には、幾つかの言い伝えがあります。たとえばギリシャ時代に花を捧げたたという話。また17世紀、イースターの40日前に親元に戻るという習慣から…とか。中でもよく言われるのは、アメリカのアンナ・ジャービスが、亡くなった母のためにカーネーションを捧げたという話です。アメリカ・ウエブスターで日曜学校に通っていた子供達が、日曜学校の教師だったアン・ジャービス先生を慕っており、アン先生が亡くなってから、娘アンナも招き、教会でみんなが心を一つにしアン・ジャービス先生を思い出し神様を讃えたという話です。 31節、なぜ家族の者がイエス様を呼ばねばならなかったのでしょうか? なぜイエス様が一所懸命話されているのに、話の腰を折ったのでしょうか? それは「あの男は気が変だ」と言われていたのを聞いて家族は気になり、イエス様を取り押さえに来たからです。普通は、身内が一番身近、一番分かってくれると思うものです。しかし、家族が妨げになることがあります。信仰がそうかもしれません。イエス様は奇跡をおこない、癒しを為し、人々に慰めを語っておりました。しかし、周りからは「あの人は何をやっているのだ?」と言われていたのです。イエス様のなさっていることを、家族は理解していない、いやむしろ邪魔をしようとしております。 しかしイエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言ってくださっています。十字架につけろと叫んだ群衆、逃げ出した弟子たちです。しかし主イエスは復活され、そのことにより弟子を始め人々に再び勇気を与えてくださいました。イエス様は自ら十字架にかかり罪を贖ってくださったのです。主イエスの復活によって、傷ついた人が再び立ち上がることができるのです。イエス様に力づけられて、神様の御心を行なう者として歩み出し、生きる者とされるのです。復活の主が共にいて、御心を行う者として歩ませてくださるのであります。私どもは、イエス様に呼びとめられ、信じることによって神様の恵みを受けることになったのであります。 イエス様は、取り押さえに来た家族のために、救いの恵みを語られました。まず何よりも神の栄光を表すことを第一とされたのです。神の栄光を表すとは、神を信じる姿勢かもしれません。私たちが立てられているのは、神の恵みを宣べ伝えるためです。 そして、家族、大切な人と共に礼拝する、そのことに希望を抱いていきたいと思います。 |
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パウロは「キリスト・イエス」と言うことが多いのですが、「イエス・キリスト」とどう違うのでしょうか。「イエス・キリスト」は「イエスはキリスト、救い主です」ということです。では「キリスト・イエス」はと言うと「救い主」が強調されるのです。「救い主こそイエスなのだ」ということです。これはパウロの体験によるのです。 パウロはイエス様と地上の交わりを持っておりません。復活のイエスに出会ったからです。「キリスト」体験だからです。「救い主」が先にあるのです。パウロにとっては「救い主その方こそイエスであった」ということです。「キリスト・イエスのもの」となったのです。これはあまり出てこない表現です。「キリストの所有」ということです。それは洗礼を受けるという内容です。私どもの主人はキリストであると言っているのです。イエス・キリストが私たちの主権者だということです。ですから「我々は従う者である」ということを言い表しているのです。人が相対化されるのです。相対化がなくなると平等が無くなるということです。神主権でなくして平等はありえないのです。平等は当たり前ではない、神を失った時代には当たり前ではないのです。かっては王に主権がありました。天皇に主権がありました。主権者がなければ平等は成り立たないのです。「従う」ということは、まさしく主を主権者とするからこそ従うということが起こることを忘れてはなりません。「キリストのもの」ということなくして「従う」はないのです。そうでなければ「キリストに見習う」ことになってしまうのです。 では、洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。十字架の贖いに与ったこと、贖いとはお金を払って買い取るということです。主イエスの汚れ無き命をもって買い取ってくださったという意味です。キリストの命を代価として、私どもを神が買い取ってくださった。ですから私どもは、神・キリストのものと言えるのです。私どもはキリストの尊い血により、その犠牲によって買い取られたのです。 しばしば我々は「クリスチャン」と言いますが、それは適当でしょうか? 「キリスト、キリスト」と言っている者だという一般の声に対し、居直ったかのように「クリスチャン」と言うようになったのです。しかし私どもは「キリストのもの」という呼び名の方が適当ではないでしょうか。私はキリスト者、すなわち「キリストのもの」として「キリスト者」がよいかもしれません。 「肉」とは「古き人」という意味です。パウロはここで洗礼を受ける内容を、「肉を十字架につけたことを受け入れる・決断すること。それが洗礼」であると言い表しています。キリストの十字架・主権があってのことです。 |
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主イエスは強いて弟子たちを舟に乗せ向こう岸に行かせております。ここで注目したい言葉は「強いて」という言葉です。それは目的があってのことです。主イエスは一人祈るために山にお登りになりました。一人で祈ったのです。祈りは神との親密な交わりです。祈りは人に見せるものではありません。祈りは、神の前に全てをさらけだし、神との親密な豊かな、隔たりの無い交わりなのです。 祈りは、自らの信仰深さを示すものではありません。ひたすら神に向かう事です。祈りが出来ないということは、自らを見せようという思いがあるからです。真実に神に向かっているかが問われるのです。 礼拝を、今、守っております。礼拝は祈りです。私たちはキリストのものとして神の新しい民とされました。神の民とされるとは一つの共同体、一つの人格をもつものとされているということです。一つの共同体として神との交わりをもつことが共同体の祈りです。神の民としての人格をもつことを忘れてはなりません。教会はキリストを頭(かしら)とする体(からだ)なのです。神との交わりに生きる、それが教会なのです。この共同体の中核をなすものは、主がくださった「主の祈り」です。「主の祈り」は個人の祈りではありません。教会共同体の祈りです。 私ども一人一人は共同体の中に個々人の祈りを覚えていくものです。共同体の中で「祈りを身につける」ことによって、個々人の祈りが深くなっていくのです。祈ることが下手になっているとすれば、祈りの場(共同体)に身を置いていないからです。 牧師や役員は共同体の祈りを担います。それは個人の祈りではないのです。共同体の祈りを通して、個々人が祈ることを身につけていることを忘れてはなりません。共に祈ることで神の民なのだということを覚えなければなりません。「祈る」それは共同体の中で養われる豊さです。 23節、主イエスは一人で祈っておられました。夜が明けるまで祈っておられた。24節、弟子たちの乗った舟はというと風に阻まれ、向こう岸に行けないでいました。25節、そんな弟子たちのところに主イエスは赴かれます。困難な中にいる弟子たちのところに、主イエスは向かっていくのです。困難の中にあるということは、そこから抜け出せないでいるということです。そこへ、主は行かれるのです。 27節、弟子たちは、自然の力に勝った主の力を幽霊と思った、実に情けない者です。しかしそれは、主イエスの十字架と復活をまだ見ていないからです。そんな、主を主として見い出す事の出来ない弟子に、主イエスは「安心しなさい」と声をかけてくださいました。「わからないのか」と叱るのではなく、「安心の根拠は私だ」と言ってくださるのです。 29節、ペトロは、イエスさまを見い出して、新しい一歩を踏み出します。主の力に圧倒された者は、主を見い出すことによって新しい一歩を歩み出す、自分の外へと歩み出す、それが信仰です。ペトロは新しい歩みを始める事が出来ました。 30節、ところがペテロはイエスの方を見たにもかかわらず、ものすごく圧倒する波に気付いて恐れ、身を沈めてしまいました。この世の波風は、私どもを圧倒します。しかし主イエスに思いを凝らし、主を見い出すならば、圧倒されることはありません。嵐をつきぬけて生きる事が出来るのです。それは、溺れかかっているからこそ、主を呼ぶこと(求めること)ができるからです。溺れて終りではない。主の御名を呼ぶ、そこに主の御手が働くのです。私どもは叫ぶことができるのです。そのところで、主は私どもを救い出してくださるのです。 33節、この世に力に圧倒されている者(ペトロ)は、それに勝る力、主の憐れみにより「本当にあなたは神の子です」という告白に至りました。救われた者は、何をもって生きるのか、「あなたこそ神の子です」その信仰に生きること、それが信仰に生きる者の生きざまです。 |
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