聖書のみことば/2006.4
2006年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
霊に導かれて歩む」 4月第1主日礼拝 2006年4月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章16〜18節
5章 <16節>わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。<17節>肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。<18節>しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
「わたしが言いたいのは『霊の導きによって歩みなさい』ということだ」とパウロは言います。では霊とは何か。特別な霊的体験を言っているのではありません。肉の欲望による業とは違うと言っています。
 「霊の導きに従って歩む」とは具体的に、この前の13節「愛によって互いに仕えなさい」ということです。まさに隣人を自分のように愛することです。愛に生きることは、霊の導きにより成し得ることであり、愛とは、自らの思いから出てくることではないことを覚えなければなりません。

今日の日本で、「愛」という言葉が好ましい言葉として定着したのは、キリスト教が入ってからです。ですから私ども(キリスト者)は、愛の意味をわきまえ知っておかねばなりません。
 私どもが第一とするのは「神を愛すること」です。「神を愛すること」によって「自分を愛すること」ができ、それゆえに「人を愛すること」ができるのです。ですから、「神を愛すること」と「人を愛すること」は結び付いているのです。
 「神を愛する」とは、全身全霊をもって崇める、礼拝するということです。神をないがしろにしての愛は危ういのです。何よりも礼拝者として生きること無くして、愛する者にはならないのです。
 神は、私どもの罪のために御子を十字架にかけ、私どもを救い出してくださいました。それは、神の自己犠牲の愛、酬いを求めない愛であり、私ども人間には不可能な愛です。「愛は不可能を可能にする」という今日の愛のイメージは、神の愛が語られたが故にあるのです。そして、その中心はキリスト者であり、礼拝するということなのです。礼拝を通し、神の愛の中に見い出される小さな一人であることを知ることによって、人は自分を愛することができ、他者を愛することができるのであります。

残念なことに、母親であっても子どもを愛することは自明のこととは言えません。愛されるということを知ること無くして愛することは不可能なのです。キリスト者であったとしても、人は、愛すること、赦すことは出来ない、かえって裁くのです。
 私どもは礼拝すること無くして「揺るぎなく愛されている、まったく愛されている自分」を見い出すことはできません。醜くく罪に過ぎない自分が神に愛されていることを知る中で、自分も愛する者となるのだということを忘れてはならないのであります。ですから、「自分を愛すること」と「他者を愛すること」は、一つなのです。

私どもは、人間関係の中で生きます。ですから、様々な関わりがあり、その中で苦しむことがあったとしても自分の与えられた環境を受け止める、それが愛するということなのです。

神を礼拝すること、その中で愛されていることを見い出し、愛するものとなる、それが霊の働きです。礼拝に生きる生活は、愛に生きる生活なのです。礼拝することで、肉の欲望すなわち自分中心、自己主張の生活から解き放たれるのです。神を愛する、礼拝すること無くして愛に生きることはない、そのことを覚えなければなりません。

愛は共同体を作る基礎・根本です。本当に愛するとは、共同体が形成されることなのです。礼拝共同体です。

先に立って進む主」 4月第2主日礼拝 2006年4月9日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ルカによる福音書 第19章22〜44節
19章 <28節>イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。<29節>そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、<30節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。<31節>もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」<32節>使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。<33節>ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。<34節>二人は、「主がお入り用なのです」と言った。<35節>そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。<36節>イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。<37節>イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。<38節>「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」<39節>すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。<40節>イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」<41節>エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、<42節>言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。<43節>やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、<44節>お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
エルサレム入場の場面です。今日は、イースターを思い起こしながら過ごしたいと思います。

エルサレムの入場の前にイエス様はエリコのザアカイの家におられました。救い主として来られたことをザアカイの家でお示しになったのです。そのあと王・メシアとしてエルサレムに入られました。新しい神の支配が始まる事を意味するのです。
 メシアとはもともと、油注がれた者、聖別された者という意味です。その内容は3つで、祭司であり、予言者であり、王であるということです。祭司は罪のあがないの働き、予言者は神から言葉を預かって語る、王は統治・支配を表します。神の支配を表しています。

29節、王として入場する、その使いとして二人の弟子を遣わされます。「子ろばをほどいて連れて来なさい。主がご入り用なのです」と。そして、その通りになりました。主の言葉には力があるのです。主の言葉は現実となるのです。私どもは、本当に力のある、現実をもたらす神の言葉に出合っているのです。
 神と人との平和、和解が言い表されています。神と人との平和の支配をもたらす方の入場を示しているのです。

「子ろばに乗る」というのは、弱さを感じさせ、滑稽さも感じさせますが、主はそれをご入り用なのだと言われました。弱さを用いて救いのみ業をなされることが示されています。強さは高ぶり、神を不必要とします。そこには救いはないのです。弱さであるからこそ神は必要であり、それ故に神は救いたもうのです。自らの弱さを知る者は幸いです。そこで神を見るからです。神を表すからです。神の救いに至るからです。私たちにとって救いは、自らの弱さを知るということです。

主の入場は、苦しみと十字架の入場なのです。それはわれわれの罪のため、あが
ないのために、私どものために先に立って上って行かれたのです。主イエスは、二の足を踏むのではなく、先立って苦しんでおられる。死を迎える時も、主イエスが先立って死んでおられる。主イエスは、私どもの苦しみ、死を担う者として死んでくださったのであります。

まさしくわたしだ」 イースター礼拝 2006年4月16日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ルカによる福音書 第24章36〜53節
24章 <36節>こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<37節>彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。<38節>そこで、イエスは言われ>わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」<40節>こう言って、イエスは手と足をお見せになった。<41節>彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。<42節>そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、<43節>イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。<44節>イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」<45節>そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、<46節>言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。< 47節>また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、<48節>あなたがたはこれらのことの証人となる。<49節>わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」<50節>イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。<51節>そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。<52節>彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、<53節>絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
弟子たちが主イエスの甦りの次第を話していると、主イエスが真ん中に立ち、臨んでくださり「平和があるように」と言ってくださったとあります。それは、教会(主を語る者たち)の真ん中に復活の主がいてくださるということです。教会は、個人でもない、人々でもない、救い主イエスが中心であるところです。ただただ私たちの罪のために十字架にかかり、復活した主がいます。したがって、教会はキリストのためにあるのです。

36節、「平和」とは「神との和解」です。罪赦され、キリストのものとされ、永遠の命に与る者とされる、これこそ復活の主によって与えられる、根本の平和であります。
 神との和解なくして、どうして平和があるでしょうか。人と人の間に平和がないのは、自らに平和(平安)がないからです。自らの内に赦し(赦されて在る自分)を見い出すことなくして平和はありません。真実の平和は神の赦し、神との和解の中にあります。

37節、弟子たちは甦られた主に会っても信じられずに、亡霊と思ったと記されています。「主の復活」はまさしく肉体を伴った「死からの復活」でした。私どもは必ず死にあう存在です。それ故に主の復活は、私たちが死から甦る恵みを示しているのです。人は、甦りの主を信じられないから主イエスを亡霊(お化け)と見るのです。人は、主を信じられないほど罪深い。それ故、信じることの出来なかった者に対して与えられた恵みとしての十字架なのです。それは大いなる賜物です。主イエスは、信仰のない者を見い出して、その者のために十字架にかかり神との和解を成してくださったのです。
 キリストへの信仰は、神の恵みとして与えられていることを忘れてはなりません。けれども、私どもは信仰深く生きようとする必要はないのです。ただ、自らがいかに神から遠い存在であるかを知り、そんな者が神からどこまでも愛されている、ただ神のみという思いで生きることが大切です。

38節、「わたしの手や足を見なさい」、これは十字架の印(釘打たれたみ傷)を見よと言っているのです。そのことで復活の主に出会うと言っている。さらに「触ってよく見なさい」と言われます。正に肉体をもって甦ったことを示しています。「十字架の主」と「復活の主」が一つだと示されているのです。

亡霊(お化け)は、口惜しく悔いが残っているので現れるのでしょう。しかし、主イエスはその死に際して「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」といって息を引き取られました。「委ねる」ということは委ねる相手への信頼なくしてあり得ません。主の十字架の死は、父なる神への絶対の信頼であったのです。それは、平安な死であり、完結した死でありました。
 昔ユダヤ教徒は夜の眠りの時に詩編31編6節「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と祈って一日を終わったそうです。神に委ねる(完全に委ねきって眠る)ことで一日を完結し、感謝をもって新しい朝を迎えるのです。
 したがって、主の甦りは口惜しさのための亡霊とは違うのです。主イエスの十字架は道半ばの十字架ではありませんでした。神の救いの完結(救いを成し遂げるという使命)のための十字架であったのです。

41節、「喜びのあまりまだ信じられず」とあります。圧倒される、自分の思いを超えた出来事に喜びのあまり信じられなかった、これはもう恐れとは違うのです。

47節、もはや老いることも病むことも、傷つくこともない完全な救いを、復活の主は成し遂げてくださり、私どもに救いを示してくださいました。私たちの信仰は、「救いの完成の約束」が与えられていることにほかなりません。そのキリストの御名が千年の歴史を超え綿々と私どもに宣べ伝えられたのであります。
 したがって、神との和解、救いを喜びをもって語ることが教会の使命です。今日の御言葉に見るように、主の復活は「信じること(信じたから)」によって全世界に広まったのではなく、ただ宣べ伝えられることによって、信じるという恵みが与えられたのであります。

肉の業と霊の実」 4月第5主日礼拝 2006年4月30日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章19〜23節
5章 <19節>肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、<20節>偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、<21節>ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。<22節>これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、<23節>柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
肉の業の15の悪徳、9の徳目が書かれております。

悪徳には「姦淫、わいせつ、好色」の、性に関するものが挙げられており、これは十戒(旧約聖書)においても新約聖書にも言われていることです。しかしここでパウロは、性のモラルを強調しようとしたのではありません。これらのことはユダヤの伝統にあるから挙げただけです。既婚の女性との関係をもっての家庭の崩壊を防ぐため、家庭の保護の為でありました。ですから、性の交わりを否定はしていないのです。性を神の恵みとして受けとめることなく、自らの情欲を満足させるために相手を道具とすることを戒めているのです。
 「偶像礼拝、魔術」に対する戒め、これは「神のみを神とする」ということです。神の救いと一つであります。私どもは、私の救いをなしてくださった神をひたすら拝するということです。魔術とは、もともと薬物からきています。薬物により神体験をするということが起源です。私どもは、主イエスの十字架と復活により私どもの救いを現実のものとしてくださった、その神のみを拝するのです。ですから、努力目標や意志で礼拝を守る、あるいは神社参拝しないということではないのです。礼拝を守れるということは恵みの出来事、神の恵みそのものなのであります。
 「敵意」から「ねたみ」までの8つが一つのまとまりであり、これは紛争の出来事を言っております。敵意は愛に対立する言葉、愛は交わりであり敵意は争いです。「そねみ」は激しい行動ということです。「怒り、利己心」は、人との交わりを阻害するものです。「不和」は個人より社会的動きに使っています。ガラテヤの教会はパウロの宣教により立てられた教会でした。しかし、後からきたユダヤ教出身の宣教者の、福音だけでなく律法も必要と説く分派活動をパウロが憂いていることの表れでもあります。このことから教会は、主イエスの十字架と復活のみの共同体である、それ以外のものを入れると分裂、崩壊に繋がるということの警告であることを覚えなければなりません。
 また、「仲間争い」は異端を意味する言葉でした。そして分派活動を締めくくる言葉として「ねたみ」が出てきています。分裂を引き起こした者の根底にあるものは何か、「ねたみ」を持つということです。人は手柄を欲しがる、そしてそれは「ねたみ」を起こすのです。人の争いの根底にあるのは自らの手柄を欲すること、そして「ねたみ」も起こるのです。現代は業績を求める社会であり、それはねたみ、争いを起こすことになります。ですから、そのことから解き放たれることが必要です。キリストに生きるとは真実に生きることにほかなりません。
 「泥酔、酒宴」もユダヤ教の伝統に則って書いているだけで、特別なことではありません。
 そして、これら「肉の業は明らかです」と言われています。

22節からは「霊の実」と言っています。自らが成し遂げる業と言っていないのです。人の心がけによると見ていない。そうではなくて、神が臨んでくださって、聖霊が働く恵みの実だと言っているのです。聖霊の働きを神に乞い願い、明け渡すことが大切であることを示しています。
 日々、祈りの内に生きる者でありたいと願います。