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「わたしが言いたいのは『霊の導きによって歩みなさい』ということだ」とパウロは言います。では霊とは何か。特別な霊的体験を言っているのではありません。肉の欲望による業とは違うと言っています。 「霊の導きに従って歩む」とは具体的に、この前の13節「愛によって互いに仕えなさい」ということです。まさに隣人を自分のように愛することです。愛に生きることは、霊の導きにより成し得ることであり、愛とは、自らの思いから出てくることではないことを覚えなければなりません。 今日の日本で、「愛」という言葉が好ましい言葉として定着したのは、キリスト教が入ってからです。ですから私ども(キリスト者)は、愛の意味をわきまえ知っておかねばなりません。 残念なことに、母親であっても子どもを愛することは自明のこととは言えません。愛されるということを知ること無くして愛することは不可能なのです。キリスト者であったとしても、人は、愛すること、赦すことは出来ない、かえって裁くのです。 私どもは、人間関係の中で生きます。ですから、様々な関わりがあり、その中で苦しむことがあったとしても自分の与えられた環境を受け止める、それが愛するということなのです。 神を礼拝すること、その中で愛されていることを見い出し、愛するものとなる、それが霊の働きです。礼拝に生きる生活は、愛に生きる生活なのです。礼拝することで、肉の欲望すなわち自分中心、自己主張の生活から解き放たれるのです。神を愛する、礼拝すること無くして愛に生きることはない、そのことを覚えなければなりません。 愛は共同体を作る基礎・根本です。本当に愛するとは、共同体が形成されることなのです。礼拝共同体です。 |
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エルサレム入場の場面です。今日は、イースターを思い起こしながら過ごしたいと思います。
エルサレムの入場の前にイエス様はエリコのザアカイの家におられました。救い主として来られたことをザアカイの家でお示しになったのです。そのあと王・メシアとしてエルサレムに入られました。新しい神の支配が始まる事を意味するのです。 29節、王として入場する、その使いとして二人の弟子を遣わされます。「子ろばをほどいて連れて来なさい。主がご入り用なのです」と。そして、その通りになりました。主の言葉には力があるのです。主の言葉は現実となるのです。私どもは、本当に力のある、現実をもたらす神の言葉に出合っているのです。 「子ろばに乗る」というのは、弱さを感じさせ、滑稽さも感じさせますが、主はそれをご入り用なのだと言われました。弱さを用いて救いのみ業をなされることが示されています。強さは高ぶり、神を不必要とします。そこには救いはないのです。弱さであるからこそ神は必要であり、それ故に神は救いたもうのです。自らの弱さを知る者は幸いです。そこで神を見るからです。神を表すからです。神の救いに至るからです。私たちにとって救いは、自らの弱さを知るということです。 主の入場は、苦しみと十字架の入場なのです。それはわれわれの罪のため、あが |
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弟子たちが主イエスの甦りの次第を話していると、主イエスが真ん中に立ち、臨んでくださり「平和があるように」と言ってくださったとあります。それは、教会(主を語る者たち)の真ん中に復活の主がいてくださるということです。教会は、個人でもない、人々でもない、救い主イエスが中心であるところです。ただただ私たちの罪のために十字架にかかり、復活した主がいます。したがって、教会はキリストのためにあるのです。
36節、「平和」とは「神との和解」です。罪赦され、キリストのものとされ、永遠の命に与る者とされる、これこそ復活の主によって与えられる、根本の平和であります。 37節、弟子たちは甦られた主に会っても信じられずに、亡霊と思ったと記されています。「主の復活」はまさしく肉体を伴った「死からの復活」でした。私どもは必ず死にあう存在です。それ故に主の復活は、私たちが死から甦る恵みを示しているのです。人は、甦りの主を信じられないから主イエスを亡霊(お化け)と見るのです。人は、主を信じられないほど罪深い。それ故、信じることの出来なかった者に対して与えられた恵みとしての十字架なのです。それは大いなる賜物です。主イエスは、信仰のない者を見い出して、その者のために十字架にかかり神との和解を成してくださったのです。 38節、「わたしの手や足を見なさい」、これは十字架の印(釘打たれたみ傷)を見よと言っているのです。そのことで復活の主に出会うと言っている。さらに「触ってよく見なさい」と言われます。正に肉体をもって甦ったことを示しています。「十字架の主」と「復活の主」が一つだと示されているのです。 亡霊(お化け)は、口惜しく悔いが残っているので現れるのでしょう。しかし、主イエスはその死に際して「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」といって息を引き取られました。「委ねる」ということは委ねる相手への信頼なくしてあり得ません。主の十字架の死は、父なる神への絶対の信頼であったのです。それは、平安な死であり、完結した死でありました。 41節、「喜びのあまりまだ信じられず」とあります。圧倒される、自分の思いを超えた出来事に喜びのあまり信じられなかった、これはもう恐れとは違うのです。 47節、もはや老いることも病むことも、傷つくこともない完全な救いを、復活の主は成し遂げてくださり、私どもに救いを示してくださいました。私たちの信仰は、「救いの完成の約束」が与えられていることにほかなりません。そのキリストの御名が千年の歴史を超え綿々と私どもに宣べ伝えられたのであります。 |
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肉の業の15の悪徳、9の徳目が書かれております。
悪徳には「姦淫、わいせつ、好色」の、性に関するものが挙げられており、これは十戒(旧約聖書)においても新約聖書にも言われていることです。しかしここでパウロは、性のモラルを強調しようとしたのではありません。これらのことはユダヤの伝統にあるから挙げただけです。既婚の女性との関係をもっての家庭の崩壊を防ぐため、家庭の保護の為でありました。ですから、性の交わりを否定はしていないのです。性を神の恵みとして受けとめることなく、自らの情欲を満足させるために相手を道具とすることを戒めているのです。 22節からは「霊の実」と言っています。自らが成し遂げる業と言っていないのです。人の心がけによると見ていない。そうではなくて、神が臨んでくださって、聖霊が働く恵みの実だと言っているのです。聖霊の働きを神に乞い願い、明け渡すことが大切であることを示しています。 |
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