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パウロは言います、「あなたがたはよく走っていました」。すなわち福音に従って忠実に歩んだというのです。走るということは、目的をもっています。ゴールを目指すということです。それは終りの日の救いの完成であります。救いの完成とは、神との失われる事の無い交わりです。私どもは地上において、多くの出会いを持ちますが、それはすなわち失う事も多いということです。しかしキリスト者の救いは、終りの日に完結するのです。
それなのに、「真理に従わせない邪魔をした者は誰か」と言うのです。神の救いの邪魔をすることはパウロにとっては許しがたい事でありました。ここでは主語を変えて(あなたがたは→だれが)語っています。それはパウロの配慮であり、密接な関係にあったガラテヤの人々を責めないのです。密接な関係であればあるほど、責任を問う、追いつめるということが起こる。人は責任を果たしきるものではありません。だから神の憐れみを乞う以外にない、そのことを覚えなければなりません。責任を果たしきれない、追いつめられる、すると逆に開きなおるという悪循環に陥るのです。 8節、神の救いに至るということは、神が召し出してくださる、神の召命と一つなのです。信仰とは、神の召しなのです。神に仕える者としてくださったということです。神より使命を与えられることにほかなりません。神に仕えるということは、すなわち神を礼拝する者ということです。神を言い表す、宣教する者とされたということです。 10節「主をよりどころとして信頼する」と言っています。主を信頼するからこそ、他者を信じることができるということです。人は裏切りでしかありません。しかし主が居ますから憐れみのうちに報いをくださるという信頼なのです。報いてくださるのは人ではなく神です。神がその人を憐れんでくださるから、信頼し得ない者を信頼し得るのです。真実に神を信じることなくして人を信頼することはできないのです。主イエス・キリストゆえに信頼できる、報いてくださるからです。 |
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11節に、あらたまって「兄弟たち」と呼びかけています。そこには強い思いが示されています。彼らと違うのだよと注意を促している。パウロは「割礼を宣べ伝えていないこと」を言うのです。もし、わたし(パウロ)が割礼を宣べ伝えているなら迫害を受けているのはなぜですか、と言うのです。 迫害というのは、ネロの迫害とは違います。パウロは「救いはキリストを信じることのみ」と言ったのです。「律法の割礼に救いはない」と言ったのです。それゆえユダヤ人から妬まれ、命を狙われました。 パウロは「十字架のつまずきは避けられない」と言うのです。キリスト教は「つまずき」を語ります。「つまずき」とは「受け入れがたいこと」です。この世の救い主が十字架にかかるなどということは考えられないことです。ですから「つまずき」となるのです。 日本人は物事をつき詰めず、あきらめるのです。つき詰められないのです。しかし真剣に自己をつき詰めていく時、自らの悲惨な極みにこそ、神の憐れみを見い出すのです。自らの知恵や思いによってでは十字架を信じきることはできません。 また、この世にあって、私たちの交わりはいずれ終わります。しかし、決して終わらない交わり、それは十字架の復活のイエス・キリストを通しての神との交わりです。 |
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主イエスは、 バプテスマのヨハネの死を聞いて、舟に乗り、人里離れたところに退かれました。すなわちヨハネの死への、神への祈りのためです。またメシアの先がけ(ヨハネ)の時代が終わったことから、自分の使命を果たさなければならない時が来たこと、そのために祈ることを意味します。大切な祈りの時に、邪魔されたくはないのですが、群衆が方々の町から後を追ってきました。しかしイエスは、一人にしてくれと言ったのではなく(自分の思いを重んじたのではなく)、群衆のために深く憐れみ、時間を割いて受け入れたのです。主の憐れみの内にあることは幸いな時です。
15節、夕暮れになり弟子たちがイエスのところにきて、「群衆を解散させ、食事の心配を自分達でするように…」と言いました。しかし、群衆は強制されて集められたのではない、自らの思いで集まり喜んでいたのです。いつだって帰れるのです。しかし、その場に、主の側(そば)にいることは、食事よりももっと満たされる思いだったのではないでしょうか。み言葉とみ業を欲して、主のみ側にいたのです。パンではないのです。 16節「行かせることはない、いさせなさい。そんなに思うなら、あなたがたが食べ物を与えなさい」と言われます。5つのパンと2匹の干し魚が何になるか、それが弟子の思いです。しかし、主は弟子たちを主の御用のために用いてくださいました。弟子として、主の恵みのみ業に用いられたのです。どんなに愚かで、鈍く、救いがたい者でも、主は用い、主の奉仕者としてくださったのです。主の憐れみ以外にないのです。何という憐れみ、恵みでしょう。人の思いでは何の役にも立たないと思える、取るに足りないと思えるものでも、神は用い大いなる祝福を与えてくださるのです。私どもは、小さいからと言って、神の祝福を小さくしてはならないのです。 |
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「兄弟たち」と呼びかけています。それは会衆の思いが散漫な時にでしょう。パウロの手紙は礼拝の中で説教として朗読されていました。ここが肝心というとき、「兄弟たち」と心呼びさましたのでしょう。
ここでパウロは、神が私どもを「自由を与えるために召し出された」と語ります。信ずることは不自由と思うのが日本の現実です。しかし、真実の信仰は自由を与える。本物の信仰は人を自由にするのです。原始仏教も「悟り」ということはそういうものでありました。 キリスト教は、罪から解き放たれ、自己中心から解き放たれ、事柄を平等に見れる、すなわち自由に生きるということです。信仰は熱狂的になることではなく、平常心を持つということです。信仰は人に自由を与え、平常心をもって生きる事なのです。神の前に立って自らを相対化して生きることです。 そして、そこに人間の共同体を作るということが生まれます。関係の概念です。愛ということが起こる。愛とは係わりをもって生きる事。愛の反対は無関係ということです。愛の反対は憎しみではないのです。人は神との関係に生きるから互いに愛し合う。神との係わり、人との係わりの中で生きるのです。 自由を得る生活は、新しい存在を与えられ、ほんとの意味での共同体が創造されるということです。救いは創造のみ業です。ルターの「キリスト者の自由」の信仰もガラテヤ書から見い出したのです。愛の基盤は自由です。ですから自由は大事なのです。世界を動かしてきた概念は「自由」です。今日、自由が脅かされるなら危ない。私たちは係わりの中で新しくされていく。共同体を作っていく。それが愛に生きる事なのです。 「愛」と言うとき、愛さなければならいと思ってしまう、そういう硬直化したものではありません。信仰は常に新たにされる出来事です。日々新たにされる恵みの中で、私たちは自由な者として神に召されているのです。 |
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