聖書のみことば/2006.3
2006年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主をよりどころとす」 3月第1主日礼拝 2006年3月5日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章7〜12節
5章 <7節>あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。<8節>このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。<9節>わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。<10節>あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。<11節>兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。<12節>あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
パウロは言います、「あなたがたはよく走っていました」。すなわち福音に従って忠実に歩んだというのです。走るということは、目的をもっています。ゴールを目指すということです。それは終りの日の救いの完成であります。救いの完成とは、神との失われる事の無い交わりです。私どもは地上において、多くの出会いを持ちますが、それはすなわち失う事も多いということです。しかしキリスト者の救いは、終りの日に完結するのです。

それなのに、「真理に従わせない邪魔をした者は誰か」と言うのです。神の救いの邪魔をすることはパウロにとっては許しがたい事でありました。ここでは主語を変えて(あなたがたは→だれが)語っています。それはパウロの配慮であり、密接な関係にあったガラテヤの人々を責めないのです。密接な関係であればあるほど、責任を問う、追いつめるということが起こる。人は責任を果たしきるものではありません。だから神の憐れみを乞う以外にない、そのことを覚えなければなりません。責任を果たしきれない、追いつめられる、すると逆に開きなおるという悪循環に陥るのです。
 「真理に従わない」とは、神のみに救いがあり、イエスこそが私の救いと信じて生きることに従わないことです。真理はキリストのみということです。

8節、神の救いに至るということは、神が召し出してくださる、神の召命と一つなのです。信仰とは、神の召しなのです。神に仕える者としてくださったということです。神より使命を与えられることにほかなりません。神に仕えるということは、すなわち神を礼拝する者ということです。神を言い表す、宣教する者とされたということです。
 ここで、新約聖書ではこの箇所でしか使わない言葉が出てきます。「誘い」という言葉です。これはパウロの反対者がパウロの行為に対して使っていた言葉であり、「説得」という意味合いです。しかし「説得」は神のなさることではなく、信仰は説得によって与えられるものではありません。信仰は、神の圧倒する恵みの出来事です。

10節「主をよりどころとして信頼する」と言っています。主を信頼するからこそ、他者を信じることができるということです。人は裏切りでしかありません。しかし主が居ますから憐れみのうちに報いをくださるという信頼なのです。報いてくださるのは人ではなく神です。神がその人を憐れんでくださるから、信頼し得ない者を信頼し得るのです。真実に神を信じることなくして人を信頼することはできないのです。主イエス・キリストゆえに信頼できる、報いてくださるからです。
 人を信頼できない時代を迎えました。かつての村社会の共同体が失われ、人を信頼できない社会となったのです。だだキリストを中心に据えるしかないのです。

十字架のつまずき」 3月第2主日礼拝 2006年3月12日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章7〜12節
5章 <7節>あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。<8節>このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。<9節>わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。<10節>あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。<11節>兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。<12節>あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
11節に、あらたまって「兄弟たち」と呼びかけています。そこには強い思いが示されています。彼らと違うのだよと注意を促している。パウロは「割礼を宣べ伝えていないこと」を言うのです。もし、わたし(パウロ)が割礼を宣べ伝えているなら迫害を受けているのはなぜですか、と言うのです。
 迫害というのは、ネロの迫害とは違います。パウロは「救いはキリストを信じることのみ」と言ったのです。「律法の割礼に救いはない」と言ったのです。それゆえユダヤ人から妬まれ、命を狙われました。

パウロは「十字架のつまずきは避けられない」と言うのです。キリスト教は「つまずき」を語ります。「つまずき」とは「受け入れがたいこと」です。この世の救い主が十字架にかかるなどということは考えられないことです。ですから「つまずき」となるのです。

日本人は物事をつき詰めず、あきらめるのです。つき詰められないのです。しかし真剣に自己をつき詰めていく時、自らの悲惨な極みにこそ、神の憐れみを見い出すのです。自らの知恵や思いによってでは十字架を信じきることはできません。

また、この世にあって、私たちの交わりはいずれ終わります。しかし、決して終わらない交わり、それは十字架の復活のイエス・キリストを通しての神との交わりです。
 ここでは改めて、「十字架のつまずきこそ福音だったのだ」ということを鮮やかに示しています。人の弱さ、悲惨さの極みに立ってくださったキリストを覚えたいと思います。

主の深い憐れみ」 3月第3主日礼拝 2006年3月19日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第14章13〜21節
14章 <13節>イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。<14節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。<15節>夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」<16節>イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」<17節>弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」<18節>イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、<19節>群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。<20節>すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。<21節>食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
主イエスは、 バプテスマのヨハネの死を聞いて、舟に乗り、人里離れたところに退かれました。すなわちヨハネの死への、神への祈りのためです。またメシアの先がけ(ヨハネ)の時代が終わったことから、自分の使命を果たさなければならない時が来たこと、そのために祈ることを意味します。大切な祈りの時に、邪魔されたくはないのですが、群衆が方々の町から後を追ってきました。しかしイエスは、一人にしてくれと言ったのではなく(自分の思いを重んじたのではなく)、群衆のために深く憐れみ、時間を割いて受け入れたのです。主の憐れみの内にあることは幸いな時です。

15節、夕暮れになり弟子たちがイエスのところにきて、「群衆を解散させ、食事の心配を自分達でするように…」と言いました。しかし、群衆は強制されて集められたのではない、自らの思いで集まり喜んでいたのです。いつだって帰れるのです。しかし、その場に、主の側(そば)にいることは、食事よりももっと満たされる思いだったのではないでしょうか。み言葉とみ業を欲して、主のみ側にいたのです。パンではないのです。
 弟子たちは自分本意の思いで、群衆を主のみ側から引き離そうとしました。しかし、主の慈しみは深いのです。主の弟子たち、自分本意で自分中心な者も主イエスの弟子なのです。主イエスは彼らのために十字架につかれたのです。それゆえ、弟子たちは弟子足り得たのです。
 私どもも同じです。キリスト者であるのは、特別であるからではないのです。自らの思いが優先している現実がある、そういう私たちがキリストの憐れみ、恵みの中にあるのです。主イエスが十字架についてくださったからです。

16節「行かせることはない、いさせなさい。そんなに思うなら、あなたがたが食べ物を与えなさい」と言われます。5つのパンと2匹の干し魚が何になるか、それが弟子の思いです。しかし、主は弟子たちを主の御用のために用いてくださいました。弟子として、主の恵みのみ業に用いられたのです。どんなに愚かで、鈍く、救いがたい者でも、主は用い、主の奉仕者としてくださったのです。主の憐れみ以外にないのです。何という憐れみ、恵みでしょう。人の思いでは何の役にも立たないと思える、取るに足りないと思えるものでも、神は用い大いなる祝福を与えてくださるのです。私どもは、小さいからと言って、神の祝福を小さくしてはならないのです。

自分のように愛す」 3月第4主日礼拝 2006年3月26日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章13〜21節
5章 <13節>兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。<14節>律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。<15節>だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。<16節>わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。<17節>肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。< 18節>しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。<19節>肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、<20節>偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、<21節>ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
「兄弟たち」と呼びかけています。それは会衆の思いが散漫な時にでしょう。パウロの手紙は礼拝の中で説教として朗読されていました。ここが肝心というとき、「兄弟たち」と心呼びさましたのでしょう。

ここでパウロは、神が私どもを「自由を与えるために召し出された」と語ります。信ずることは不自由と思うのが日本の現実です。しかし、真実の信仰は自由を与える。本物の信仰は人を自由にするのです。原始仏教も「悟り」ということはそういうものでありました。

キリスト教は、罪から解き放たれ、自己中心から解き放たれ、事柄を平等に見れる、すなわち自由に生きるということです。信仰は熱狂的になることではなく、平常心を持つということです。信仰は人に自由を与え、平常心をもって生きる事なのです。神の前に立って自らを相対化して生きることです。
 絶対化した自分が中心では、自分にもたらされるものとしての関係でしかない。利益をもたらすか、どうかです。
 しかし、相対化されると、すべて平等でお互いの関係が大事になるのです。自分自身の存在が新たにされ、新たに自分を見い出していく。他者と係わり合うことによって自分を見い出し、他者の人格を見い出すのです。それがキリスト者の自由です。人格となるということです。

そして、そこに人間の共同体を作るということが生まれます。関係の概念です。愛ということが起こる。愛とは係わりをもって生きる事。愛の反対は無関係ということです。愛の反対は憎しみではないのです。人は神との関係に生きるから互いに愛し合う。神との係わり、人との係わりの中で生きるのです。
 自分が中心では孤独です。人格として出会わないからであります。それは滅びであり孤独という裁きにあうのです。キルケゴールは「孤独は死だ!」と言いました。罪の世界は孤独なのです。

自由を得る生活は、新しい存在を与えられ、ほんとの意味での共同体が創造されるということです。救いは創造のみ業です。ルターの「キリスト者の自由」の信仰もガラテヤ書から見い出したのです。愛の基盤は自由です。ですから自由は大事なのです。世界を動かしてきた概念は「自由」です。今日、自由が脅かされるなら危ない。私たちは係わりの中で新しくされていく。共同体を作っていく。それが愛に生きる事なのです。

「愛」と言うとき、愛さなければならいと思ってしまう、そういう硬直化したものではありません。信仰は常に新たにされる出来事です。日々新たにされる恵みの中で、私たちは自由な者として神に召されているのです。