聖書のみことば/2006.2
2006年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
自由にしてくださる主」 2月第2主日礼拝 2006年2月12日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章1〜6節
5章< 1節>この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。<2節>ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。<3節>割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。<4節>律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。<5節>わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。< 6節>キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
「自由」、それはキリストによって与えられたものと言うのです。それは16世紀宗教改革以降に獲得したものです。神のもとで、ということです。
 日本の「自由・平等」は明治以降、実質化は戦後でしょう。しかし本当に身についたでしょうか。自由は、何でもやってよいということではないのです。身勝手な考えや、やり方を押し通す、責任を負おうとしない。責任の担い手とならない無責任さ、そこには自由はないのです。自らに規範をもっていないから無責任になるのです。
 自由無き世界は、他力的に生きているということです。封建社会は自立無き世界です。そう考えると、私どもの世界もまだまだです。他人に迷惑をかけないようにとか、相手が怒っているから、こうしようとか。人にどう思われるかを問題とする。他者の目を気にしている。それは不自由でしかないことです。日本人は自分自身の中に自由をもたない、他者によって自分の生き方を決めてしまう不自由な中にいるのです。

神を愛する・礼拝する者となる、すなわち神の前に立つ者こそ、自らの責任が問われるのです。神の恵みにあずかる者として、それに応えていく。人格ある者とは責任ある自由な者ということです。人は罪ゆるされ、神の呼びかけに応えていくことにおいて初めて「人間・人格」となるのです。神の恵みをいただくことなくして、責任をもって応えていくことは起こらないのです。ですから自由とは難しいのです。主イエス・キリストを信ずることなくして、「人」足り得ないのです。神が私どもに主キリストを送り、罪をゆるし、真実な者、生きる者としてくださったのです。
 その根本の生き方が、「礼拝に生きる」、そして「隣人になる」ということです。神を愛する事、それは礼拝です。そして人を愛するとは、その人の隣人になることです。それが真実な自由な姿です。

私どもは、身近であればあるほど愛せなくなっています。それを乗り超えるのは、神に生かされているということを思う事なしには難しい。1節に「自由を得させるために解放してくださった」とあります。何からの解放か。それは奴隷のくびきからです。奴隷のくびきとは、律法からの解放を意味します。パウロは、律法は私どもをこの世のわずらいから解き放つものではないと言っているのです。律法を守る事が救いの条件ではないと明確に言ったのです。自立でなく、他立を好むこと、それは楽だからです。パウロは律法も他立と考えたのです。人格ある応答ではないと。
 先ほど、責任ある規範をもたなければならないと言いましたけれど、人格性を生み出していないのであれば、自由・責任は生まれないのです。神の恵みに喜びをもって応える人格性があって初めて、自由人なのです。すなわち、礼拝する者こそ人間なのです。
 礼拝に出られない者は、その痛みを覚え、礼拝出席を志すことが人格性です。しっかりと神の恵みに立つ、それが自由人の根拠です。神の恵みとキリストの十字架にしっかり立つ、それが自由人、神を礼拝し隣人を愛するということです。

主が共におられる」 2月第3主日 夕礼拝 2006年2月19日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/士師記 第1章22〜36節
1章 <22節>ヨセフの一族も同様にベテルに上った。主は彼らと共におられた<23節>ヨセフの一族はベテルに探りを入れた。この町はかつてルズと呼ばれていた。<24節>見張っていた者が、町から出て来る人を見かけ、「どうすれば町に入れるか教えてください。あなたには憐れみをかけるから」と言った。<25節>その人が町の入り口を教えてくれたので、彼らは町を剣で討ったが、その人とその家族は皆逃がしてやった。<26節>その人はヘト人の地に行って町を築き、それをルズと名付けた。この町の名は今日に至るまでそう呼ばれている。<27節>マナセは、ベト・シェアンとその周辺の村落、タナクとその周辺の村落、ドルの住民とその周辺の村落、イブレアムの住民とその周辺の村落、メギドの住民とその周辺の村落を占領しなかった。そのためカナン人はこれらの地に住み続けた。<28節>イスラエルも、強くなってから、カナン人を強制労働に服させたが、徹底的に追い出すことはしなかった。<29節>エフライムは、ゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はその中にとどまり、ゲゼルに住み続けた。<30節>ゼブルンは、キトロンの住民と、ナハラルの住民を追い出さなかったので、カナン人はその中にとどまり、強制労働に服した。<31節>アシェルは、アコの住民、シドンの住民、マハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフィク、レホブを占領しなかった。<32節>アシェルはこれらの地の住民であるカナン人を追い出さず、彼らの中に住み続けた。<33節>ナフタリは、ベト・シェメシュの住民、ベト・アナトの住民を追い出さず、その地の住民であるカナン人の中に住み続けた。ベト・シェメシュの住民とベト・アナトの住民は、強制労働に服した。<34節>アモリ人はダンの人々を山地に追い込み、平野に下りて来ることを許さなかった。<35節>アモリ人はヘレス山、アヤロン、シャアルビムに住み続けたが、ヨセフ一族が力を増すに及んで、ついに強制労働に服した。<36節>アモリ人の領土は、アクラビムの坂にあるセラから更に上にあった。
ヨセフの一族がベテルに上った、とあります。そこはエフライムの領地でした。ヨルダンから最初の町、どうやってこの町を攻めたらよいか探りを入れた。正攻法では勝ち目がないので探りを入れたのです。
 そして、主が共にいてくださったので、勝つ事が出来ました。主が共にいてくださったので幸いを得たのです。それは、救いの恵みのうちにあるということです。

その後、占領出来なかった土地のリストが載っています。弱さを率直に語っている。自らの弱さを言えるのは、主は共におられるという支えがあるからです。神が根底にあるから弱さを率直に言えるのです。
 人は強がって生きるのではなく、率直に弱さを言える、それが真の強さです。

愛の実践を伴う信仰」 2月第4主日礼拝 2006年2月26日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第5章1〜6節
5章< 1節>この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。<2節>ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。<3節>割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。<4節>律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。<5節>わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。< 6節>キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
パウロは「断言する」という厳しい言葉で、膝図目談判しています。「割礼では救われないのだ。割礼を受けるのでは主イエスは要らなくなる。救いはキリストにある。イエス・キリスト信仰のみにある」と。2節「キリストは何の役にも立たない方になります」とは未来形であり、終わりの日の「最後の審判」を意識して語っています。
 「割礼を受けることは、アブラハムの子孫になること」、そのことで救いの確保が得られるとユダヤ教徒は考えていました。パウロは、それならば律法を全うする義務があり、それは自力による救いだと明言します。しかし「律法を全うする義務は決して果たし得ないこと」であることを、パウロ(かつて律法に生きていた)は誰よりもよく知っているのです。自ら救いに至れない、だからこそキリストの救いが必要なのです。そういう意味で、「キリスト以外に救いはない」ということを鮮やかにしてくれることは、律法の効用と言えます。

私どもは自らを顧みれば、あのことこのことと悔いる毎日でありましょう。真実であろうとすればするほど、「悔い、負い目」を感じるのです。自らでは覆うことのできない悔い、負い目。だからこそ、主イエスの贖いによる救いが必要なのです。それは罪赦され、さらに義とされるという救いです。
 では、私どもが正しくないのに義とされるとはどういうことでしょうか。それは、私どもが正しくなるということではないのです。神様との関係が正しくなるということです。関係概念です。神との正しい関係とは、御子イエス・キリストの従順という犠牲をともなった義により、与えられた関係なのです。
 従って神との正しい関係に生きるとは、神に罪赦された者として生きるということです。神を神とすること、そして「自らは罪人にすぎない、あなたのみ正しい方」と言い表すことです。そのことを目に見える形として表すのが礼拝です。私どもは「礼拝者として生きる」、これしかないのです。礼拝は自分のためにあるのではありません。神を神とする、神のためにあるのです。神が神であられるということが、第一義なのです。私どもは、その神を崇める者として生きることを赦されているのです。

5節、「聖霊」は洗礼により働くのです。終りの日の救いの完成の希望をいただくのです。
 6節、救いにとっては信仰こそが大事だということです。では、「愛の実践を伴う信仰」とは何でしょう。「愛の根拠となるのが信仰」だと言っているのです。信仰の発露は愛です。真実に信仰に生きる者には愛が伴うのです。信仰なくして真実の愛はありません。神の憐れみゆえ、神に愛されていることを知るがゆえに、こんな自分であっても自分を愛することができるのです。そして他者を愛することができるようになるのです。
 「大切」とは「力がある」という意味です。「信仰にこそ力がある」と言っているのです。それは救いに至らせる力です。私どもの力はどこにあるのか、信仰にこそあるのです。