聖書のみことば/2006.12
2006年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
偉大なことを見る」 12月第1主日礼拝 2006年12月3日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章43〜51節
1章<43節>その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。<44節>フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。<45節>フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」<46節>するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。<47節>イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」<48節>ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。<49節>ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」<50節>イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」<51節>更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

43節、「その翌日」と言われるように、ヨハネによる福音書では物語が展開するたびに日付が伴います。そのことに注意したいのです。主イエスは地上の時間・歴史に足跡を残しておられるのです。神の御子が私ども人間の日常に介入しておられるということです。主イエスが私どもの日常の時間のただ中においでくださっていることを覚えたいと思います。私どもの日常の中に救いがあるのです。

イエスは、ガリラヤに行こうとした時、フィリポに出会ってくださいました。それはすなわち「弟子として見い出してくださった」ということです。
 フィリポと同様に私どもにも、主が先に声をかけ、私どもをキリスト者としてくださっているのです。「主を信ずる」ということは、私どもが主体なのではありません。主が「わたしのもの」として見い出してくださり、主に見い出された者として「主に従う」ということが起こるのです。

44節、フィリポについて紹介されています。「ベトサイダ出身」、ここで強調されているのはペトロとアンデレと同じ出身であること、そして良い印象のない町であることです。当時「あの地域は…」と蔑視されていたベトサイダ出身である者を、主は弟子として選んでおられるのです。主は何ら誉められることのない者、むしろ陰口を叩かれるような者を導きだしておられる、そのことが強調されています。
 イエスは「わたしに従いなさい」と言われました。しかしここで「フィリポは従った」とは書かれていません。そうではなくて、フィリポは「旧約聖書が言い表している救い主に出会った。ヨセフの子イエスがそうだ」と語っています。このように「従う」とは「主をキリストと知り、告白し、証しすること」なのです。「従う」ことで知るのです。主が先に私どもを捕らえていてくださり、「わたしに従いなさい」という主の言葉があるからこそ、「主こそ救い主」と分かるのです。
 ですから、私どもにとって、「主」が「従いなさい」と言ってくださっていることが大事なのです。主のみ言葉があるからこそ信じることが出来、キリスト者たり得るのです。

46節、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってしまいます。それは彼が、何も知らないから信じられなかったのでなく、豊かな聖書の知識、敬謙な信仰を持っていた故に信じることができなかった、ということを示しています。ナタナエルは旧約聖書を熟知し、知識豊かで、敬虔に祈る故に信じられなかったのです。知識があることは罪深いのです。傲慢になり、へりくだって聴くということが出来なくなるのです。私どもの宗教的感性、賢さが邪魔してしまうということがあるのです。ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と根拠を問うのです。
 「いちじくの木の下にいた」とは、救いを待ち望むということを示す言葉であり、それ故に、主はナタナエルを「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」と言われました。このようにナタナエルは、メシアを真実に求める者であったのです。にも拘らず、しかしその思いだけでは、真実の救いを知ることはできませんでした。「救いを知る」ことは、ただ主の憐れみによるのです。

主は救いを求めている者を知っていてくださいます。救いを求めている者に、主の方から語りかけてくださるのです。ですから、私どもに何よりも求められていることは、神のみ言葉を語ることです。主のみ言葉を伝えることが大事だということです。
 私ども、教会が主のみ言葉を語ることが大事なのです。主のみ言葉が語られるところに救いが起こるのだということを覚えたいと思います。
カナで栄光を現す」 12月第2主日礼拝 2006年12月10日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章1〜12節

2章<1節>三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。<2節>イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。<3節>ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。<4節>イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」<5節>しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。<6節>そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。<7節>イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。<8節>イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。<9節>世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、<10節>言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」<11節>イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。<12節>この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

「3日目に」と言われています。「3日目」とは、1章でナタナエルが「あなたは神の子です」と信仰告白した、それから、ということです。
 「神の小羊」との証しがあり、弟子の召命がなされ、そして「カナの婚礼」は、主イエスの御業が公にされる、最初の活動であります。ここで、主イエスが「イスラエルの王」であるならユダヤが活動の中心になるはずですが、しかし主イエスの活動の場はガリラヤでした。ユダヤで主イエスは捕われ、十字架へと歩みます。ユダの地は主イエスを拒んだ地でした。ガリラヤはというと、そこは異邦人の土地でしたが、そこが活動の場となったのでした。異邦人の地に、福音(救いの恵み)が拡張されていったのです。従って、ガリラヤが示すことは、異邦人(私ども)の所にも救いの恵みが拡げられたということなのです。

「イエスの母がそこにいた」と記されています。ヨハネによる福音書には、イエスの母の名前(マリア)が一切記されていません。マリアという名前が出てこないのです。これは、ある意図があると考えらます。母性としての権威を強調しないのです。女性に対し「母たれ」と言いたいのではないのです。19章の記事にも示されるように、マリアは単にイエスの母なのではなく弟子たちの母であり、イエスと弟子たちは一つの家族と考えられています。これは、教会が、信じる者たちの共同体であることを示しています。教会は主イエスを頭とする共同体であり、終りの日につながる共同体なのです。マリアを「母」と表すことによって、単なる家族を超えて、救いに至る神の国の共同体に属している私どもであることを示しているのです。地上の家族は終りに実を結ぶものではなく、消え失せるものです。しかし主イエスを頭とする真の共同体・教会は完成するのです。

3節、ブドウ酒が足りないという「欠け」を生じたことが記されています。 どんなことにも「欠け」があるものです。そこで何が起こるのか、トラブルになるのです。準備万端整えたつもりでも、私どもは足りない者なのであり、人の成すことには「欠け」があります。主イエスをお迎えすることは、その欠けを補って余りあるということです。主イエスが共にあってくださるから、欠けが満たされるのです。人は主イエス・キリストによってだけ、満たされるのです。

母は「ブドウ酒がなくなりました」と言いました。息子イエスに対するかいかぶりなのか、マリアは「何とかして欲しい」という気持ちでイエスに語ります。母親が子どもに対して、過度の期待(過干渉)か無関心か、母の自立もここで考えさせられるところです。しかし、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。…」と諭されます。「婦人よ」という言葉が示すことは、「母といえども従うものでない」ということです。何事も、あくまでも「主イエス・キリストの意志」によって行われるものであり強制されて行われるものではないのです。主導権は主イエスにあり、一切は自らなされるということです。「わたしのとき」とは、「救いの完成のとき」であり、それは父なる神のご意志によるのです。従って、主イエスは、父なる神に聴く方なのです。

5節、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とマリアは言います。マリアは強要する者から聴く者・従う者に変えられました。「欠け」を知る者として、主のみ言葉を待たなければならないことを知ったのでした。これは、「祈り」につながることです。祈りを考えますと、願いの祈りは強要の祈りです。自らの欠けを補おうとする祈りになってしまうのです。しかし、祈りは「み言葉を待つ」ということです。「御心をください」ということが根本の祈りなのです。主の御心、それが現実となるのです。私どもの思いが現実となることではありません。主が語りかけてくださること、御心を示してくださることを待つことです。

真実の平和は神の御心にのみあります。人と人との関係を突きぬけた神の御心に聴き従うことです。み言葉を待つ祈りがどんなに大切かが示されています。

御心を行うために」 12月第3主日礼拝 2006年12月17日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヘブライ人への手紙 第10章1〜10節

10章<1節>いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。<2節>もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。<3節>ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。<4節>雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。<5節>それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。<6節>あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。<7節>そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」<8節>ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、<9節>次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。<10節>この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

主イエス・キリストの誕生(クリスマス)を前に、主イエスの十字架の意味を考えたいと思います。

「主イエスが来られたということ(5節以下)」に対し、1〜4節までに前史(キリスト以前)が書かれています。それは「律法」です。1節、「律法」は「やがて来る良いこと(キリスト)の影」であって、キリストの実体は律法の内にはないと言うのです。すなわち律法に従った献げ物(家畜)は、本当の贖い(あがない)になっていないということです。「家畜」で「人の命」を贖うことはできないのです。それどころか、家畜の献げ物は、かえって罪の重荷を負わせることになると言っています。3節「年ごとに罪の記憶がよみがえり」、罪から解き放たれないのです。従って「真実の贖い」を求めざる得ない、つまり「キリストの必然性」を前史に語っているのです。

7節、キリストは「わたしは来ました。御心を行うために」と言われました。「神の御心」を行う者として、キリストは来られたのです。
 旧約(前史)に於いて、神の御心は律法でした。 しかし律法という形では罪深さをもつのです。律法は真実に神の憐れみを表すことは出来ませんでした。しかし律法は、二重の意味でキリストの必要性を指し示しました。1.律法を完全には「守れない」という罪深さ、2.律法を完全に「守れた」と思う罪深さ、です。守っても守らなくても人の思いは罪深い、そのことを鮮やかにする、そういう意味で律法は大切なのです。
 5節「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、」とあるように、家畜は代用品であり、また他者犠牲という形の贖いを、神は望んでおられないのです。「体を備えてくださいました。」とは、キリストがイエスという、人の体を与えられたということです。つまり、「キリスト(救い主)が人間イエスとなってくださった」ということです。そのことを受けて「御心を行う」、それは10節「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより」人間の罪が完全に贖われるということを意味するのです。

クリスマスは、私どもの命の贖いのためにおいでくださり尊い犠牲を払ってくださった十字架のキリストの誕生を祝うのです。だれが他者のために死のうと思うでしょうか。主イエスは完全であるがゆえに成し得たのです。だれが、こんな私どものために犠牲・命を献げるでしょうか。そのことを覚えてクリスマスを迎えなければなりません。

10節「聖なる者とされた」とは、キリストの贖いによって、「神に贖われた者、神に属する者とされる」ということです。聖なる者として「神との交わりに生きる者」としていてくださるのです。救いとは、そういうことです。
 そして、「神との交わりに生きる」とは礼拝、祈りの生活です。今この礼拝において私どもは、神との真実な交わりを通し、救いの内にあるのです。

メシア、生まれる」 クリスマス礼拝 2006年12月24日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第2章1〜12節

2章<1節>イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、<2節>言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」<3節>これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。<4節>王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。<5節>彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。<6節>『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」<7節>そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。<8節>そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。<9節>彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。<10節>学者たちはその星を見て喜びにあふれた。<11節>家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。<12節>ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

1節、このヘロデ王とはヘロデ大王と呼ばれた人で、ローマ支配下のこの時代に一国の自治が認められていました。ヘロデは力ある有能な王で、エルサレム神殿の拡張、土木事業・下水道の整備などを行いました。これは、ローマから信用されていないと出来ないことでありました。広い領域を統治し、政治的手腕もあった人でした。
 イエスさまのベツレヘムでの誕生は、ユダヤ人の王として、メシアとしての誕生を暗示しています。ベツレヘムはダビデの町であり、イエスはダビデの子孫であるからです。そこに東方・バビロンから占星術の学者がやってきたと記されております。当時バビロンでは、世界王が西方に生まれると待望しておりました。従って、東方からの来訪者の記事も「全世界が待ち望む王・メシアの誕生」を示しているのです。占星術の学者たちは、メシア(イエス・キリスト)を指し示す星を見て、「王」の誕生を確信したので、エルサレム宮殿を訪れたのでした。

3節「ヘロデ王は不安を抱いた」と記されております。ユダヤ人の王が生まれたということは、自分の王位が奪われると思ったからでありましょう。しかし、王だけではなく「エルサレムの人々も皆」不安であったと言われております。メシアを切望していながら、一方でメシア到来を喜んでいないのは何故なのでしょうか?
 それは、ヘロデ王をはじめエルサレムの人々が皆、神の御心に沿った生き方をしていなかったからです。いかに神の御心から遠いことか。神から遠い思いは罪深く、罪深いがゆえに喜ぶことが出来なかったのでした。本当に神の到来を切望していると同時に、神の到来の現実に、自分が神様にふさわしく生きていないことに対する神の裁きの不安・恐れを抱かざるを得ないのです。
 人には「神から遠い」という罪の現実があります。神の到来に耐え得ない現実があるのです。私どもも同じ現実の中にあります。
 では何故、御子の誕生(神の到来を告げる)を祝うのでしょうか? 罪の現実を抜きにして、神の到来を喜ぶことはできません。メシアの誕生は、罪を裁く者としての誕生でなく、人を罪から救い出すための誕生であることが、1章21節において既に、ヨセフに告げられております。

人間の罪をご自分のものとして引き受けてくださった、それが主イエスの「人としての」誕生です。人の不安をすべて引き受けてくださり、十字架までに至ったのです。人には、自分の罪はおろか、他者の罪まで担うことなどできません。罪なき方である主イエスのみ、可能なのです。人としての主イエスの誕生は、十字架(私どもを罪から救う)のための誕生なのです。

私どものすべてを担ってくださる、その方が私どもの所においでくださり、共にいて(インマヌエルの主)くださいますから、ありがたいのです。私どもは、主に担われて在るのです。

「主イエスは私どもの救い主」であることを言い表すのが「クリスマス」です。そして、クリスマスは礼拝の出来事です。「あなたこそ救い主、私どもの罪・不安を担い、放ってくださった!」感謝です。

イエスを信じた」 歳晩礼拝 2006年12月31日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章1〜12節

2章<1節>三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。<2節>イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。<3節>ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。<4節>イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」<5節>しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。<6節>そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。<7節>イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。<8節>イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。<9節>世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、<10節>言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」<11節>イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。<12節>この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

教会の現状の力は歳晩礼拝に表されると言われます。ですから、今日がその実力であります。困難(年末の慌ただしさなど)な時に、なお礼拝する、それがその教会の力です。こうして歳晩礼拝を守れることは恵みの出来事であります。

この聖書の箇所は聖書日課による公現日の箇所です。主イエスの最初のしるしです。6つの石の水がめの水は、当時、清めに用いられたと思われます。手や足そして食器を清める水でした。石のかめは清めにふさわしいとされていたものです。 5節、母マリアはイエスを「この人」と言います。もはや親子、息子という領域ではない、イエスを神の子としてのやりとりです。カトリック教会では、この箇所のマリアを、救い主への執り成し手という立場で重んじております。しかしプロテスタント教会では、主イエス・キリストを知る者は誰でも執り成しの祈りをする者だということを覚えてよいと思います。キリスト者にとっては、先ず執り成す、すなわち祈る者であることが隣人愛であることを覚えてよいのです。

7節「水がめに水をいっぱい入れなさい」という主イエスの命令に、召し使いは精一杯従いました。何故そうするのか、理由など聞いていないのです。しかし「問う」ということをいけないと言ってはなりません。「問う」ことは「知る」ということと一つなのです。問うことは理解を促すのです。
 しかし、ここでは「問う」ことより「御言葉に従う」ことが強調されています。どうしてか。それは、主が私どもにとって恵みの方であるからです。主イエスは十字架の主であり復活の主であるという前提、罪より救い出してくださったことを知る者であるがゆえに従いなさいということです。ですから、召し使いは主に言われるままにするのです。そして、水がぶどう酒に変わりました。

今日、教会で配慮が重んじられ、聖餐式に、ぶどう酒の代わりにぶどう汁が用いられたりすることがあります。主の言われたことを重んぜず配慮を大事にすることが教会の在り方なのか、考えざるを得ません。「水をぶどう酒に」でなく「ぶどう酒を水に」、それは教会が教会でなくなっていると言わざるを得ません。配慮が先立ってはならないのです。ぶどう酒を使うことの根拠は信仰にあります。ぶどう汁は人間の配慮に過ぎません。ですから、信仰という原則があって、次に配慮があるべきなのです。

10節、水が「良いぶどう酒」に変わるという出来事は、ぶどう酒の質を言っているのではありません。主の御業の素晴らしさを言い表しているのです。良きものは全て神から来るのです。世界の全ては主イエスから来ているのです。人から来るものには、打算、裏があります。主イエスから本当の恵みが来るのです。

5節、9節の「召し使い」という言葉には、ギリシャ語で「ディアコノイ」という言葉が使われております。一般的には「デュロス」であり、「ディアコノイ」という表現は特別です。「主イエスに従う者」という意味が込められた言葉であり、一般の奴隷とは意味が違うのです。ですから、この召し使いたちは、「何も問わずに従った」のであります。「主に従う者」すなわち「主の弟子」は、主の栄光を見る者であったことを示しております。

11節「最初のしるし」とは、主イエスが「ご自身を神の子として現されたこと」です。「栄光を現された」ことに対する弟子たちの応答は、主イエスを神の子として信じることでした。

「主を知る」とは、「主イエスを神の子と信じること」です。信仰の出来事は知恵の出来事、「神の子を知る」という知恵です。信仰(主イエスを信じること)は最上の理解・知恵であります。