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43節、「その翌日」と言われるように、ヨハネによる福音書では物語が展開するたびに日付が伴います。そのことに注意したいのです。主イエスは地上の時間・歴史に足跡を残しておられるのです。神の御子が私ども人間の日常に介入しておられるということです。主イエスが私どもの日常の時間のただ中においでくださっていることを覚えたいと思います。私どもの日常の中に救いがあるのです。 イエスは、ガリラヤに行こうとした時、フィリポに出会ってくださいました。それはすなわち「弟子として見い出してくださった」ということです。 44節、フィリポについて紹介されています。「ベトサイダ出身」、ここで強調されているのはペトロとアンデレと同じ出身であること、そして良い印象のない町であることです。当時「あの地域は…」と蔑視されていたベトサイダ出身である者を、主は弟子として選んでおられるのです。主は何ら誉められることのない者、むしろ陰口を叩かれるような者を導きだしておられる、そのことが強調されています。 46節、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってしまいます。それは彼が、何も知らないから信じられなかったのでなく、豊かな聖書の知識、敬謙な信仰を持っていた故に信じることができなかった、ということを示しています。ナタナエルは旧約聖書を熟知し、知識豊かで、敬虔に祈る故に信じられなかったのです。知識があることは罪深いのです。傲慢になり、へりくだって聴くということが出来なくなるのです。私どもの宗教的感性、賢さが邪魔してしまうということがあるのです。ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と根拠を問うのです。 私ども、教会が主のみ言葉を語ることが大事なのです。主のみ言葉が語られるところに救いが起こるのだということを覚えたいと思います。 |
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「3日目に」と言われています。「3日目」とは、1章でナタナエルが「あなたは神の子です」と信仰告白した、それから、ということです。 「イエスの母がそこにいた」と記されています。ヨハネによる福音書には、イエスの母の名前(マリア)が一切記されていません。マリアという名前が出てこないのです。これは、ある意図があると考えらます。母性としての権威を強調しないのです。女性に対し「母たれ」と言いたいのではないのです。19章の記事にも示されるように、マリアは単にイエスの母なのではなく弟子たちの母であり、イエスと弟子たちは一つの家族と考えられています。これは、教会が、信じる者たちの共同体であることを示しています。教会は主イエスを頭とする共同体であり、終りの日につながる共同体なのです。マリアを「母」と表すことによって、単なる家族を超えて、救いに至る神の国の共同体に属している私どもであることを示しているのです。地上の家族は終りに実を結ぶものではなく、消え失せるものです。しかし主イエスを頭とする真の共同体・教会は完成するのです。 3節、ブドウ酒が足りないという「欠け」を生じたことが記されています。 どんなことにも「欠け」があるものです。そこで何が起こるのか、トラブルになるのです。準備万端整えたつもりでも、私どもは足りない者なのであり、人の成すことには「欠け」があります。主イエスをお迎えすることは、その欠けを補って余りあるということです。主イエスが共にあってくださるから、欠けが満たされるのです。人は主イエス・キリストによってだけ、満たされるのです。 母は「ブドウ酒がなくなりました」と言いました。息子イエスに対するかいかぶりなのか、マリアは「何とかして欲しい」という気持ちでイエスに語ります。母親が子どもに対して、過度の期待(過干渉)か無関心か、母の自立もここで考えさせられるところです。しかし、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。…」と諭されます。「婦人よ」という言葉が示すことは、「母といえども従うものでない」ということです。何事も、あくまでも「主イエス・キリストの意志」によって行われるものであり強制されて行われるものではないのです。主導権は主イエスにあり、一切は自らなされるということです。「わたしのとき」とは、「救いの完成のとき」であり、それは父なる神のご意志によるのです。従って、主イエスは、父なる神に聴く方なのです。 5節、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とマリアは言います。マリアは強要する者から聴く者・従う者に変えられました。「欠け」を知る者として、主のみ言葉を待たなければならないことを知ったのでした。これは、「祈り」につながることです。祈りを考えますと、願いの祈りは強要の祈りです。自らの欠けを補おうとする祈りになってしまうのです。しかし、祈りは「み言葉を待つ」ということです。「御心をください」ということが根本の祈りなのです。主の御心、それが現実となるのです。私どもの思いが現実となることではありません。主が語りかけてくださること、御心を示してくださることを待つことです。 真実の平和は神の御心にのみあります。人と人との関係を突きぬけた神の御心に聴き従うことです。み言葉を待つ祈りがどんなに大切かが示されています。 |
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主イエス・キリストの誕生(クリスマス)を前に、主イエスの十字架の意味を考えたいと思います。 「主イエスが来られたということ(5節以下)」に対し、1〜4節までに前史(キリスト以前)が書かれています。それは「律法」です。1節、「律法」は「やがて来る良いこと(キリスト)の影」であって、キリストの実体は律法の内にはないと言うのです。すなわち律法に従った献げ物(家畜)は、本当の贖い(あがない)になっていないということです。「家畜」で「人の命」を贖うことはできないのです。それどころか、家畜の献げ物は、かえって罪の重荷を負わせることになると言っています。3節「年ごとに罪の記憶がよみがえり」、罪から解き放たれないのです。従って「真実の贖い」を求めざる得ない、つまり「キリストの必然性」を前史に語っているのです。 7節、キリストは「わたしは来ました。御心を行うために」と言われました。「神の御心」を行う者として、キリストは来られたのです。 クリスマスは、私どもの命の贖いのためにおいでくださり尊い犠牲を払ってくださった十字架のキリストの誕生を祝うのです。だれが他者のために死のうと思うでしょうか。主イエスは完全であるがゆえに成し得たのです。だれが、こんな私どものために犠牲・命を献げるでしょうか。そのことを覚えてクリスマスを迎えなければなりません。 10節「聖なる者とされた」とは、キリストの贖いによって、「神に贖われた者、神に属する者とされる」ということです。聖なる者として「神との交わりに生きる者」としていてくださるのです。救いとは、そういうことです。 |
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1節、このヘロデ王とはヘロデ大王と呼ばれた人で、ローマ支配下のこの時代に一国の自治が認められていました。ヘロデは力ある有能な王で、エルサレム神殿の拡張、土木事業・下水道の整備などを行いました。これは、ローマから信用されていないと出来ないことでありました。広い領域を統治し、政治的手腕もあった人でした。 3節「ヘロデ王は不安を抱いた」と記されております。ユダヤ人の王が生まれたということは、自分の王位が奪われると思ったからでありましょう。しかし、王だけではなく「エルサレムの人々も皆」不安であったと言われております。メシアを切望していながら、一方でメシア到来を喜んでいないのは何故なのでしょうか? 人間の罪をご自分のものとして引き受けてくださった、それが主イエスの「人としての」誕生です。人の不安をすべて引き受けてくださり、十字架までに至ったのです。人には、自分の罪はおろか、他者の罪まで担うことなどできません。罪なき方である主イエスのみ、可能なのです。人としての主イエスの誕生は、十字架(私どもを罪から救う)のための誕生なのです。 私どものすべてを担ってくださる、その方が私どもの所においでくださり、共にいて(インマヌエルの主)くださいますから、ありがたいのです。私どもは、主に担われて在るのです。 「主イエスは私どもの救い主」であることを言い表すのが「クリスマス」です。そして、クリスマスは礼拝の出来事です。「あなたこそ救い主、私どもの罪・不安を担い、放ってくださった!」感謝です。 |
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教会の現状の力は歳晩礼拝に表されると言われます。ですから、今日がその実力であります。困難(年末の慌ただしさなど)な時に、なお礼拝する、それがその教会の力です。こうして歳晩礼拝を守れることは恵みの出来事であります。 この聖書の箇所は聖書日課による公現日の箇所です。主イエスの最初のしるしです。6つの石の水がめの水は、当時、清めに用いられたと思われます。手や足そして食器を清める水でした。石のかめは清めにふさわしいとされていたものです。 5節、母マリアはイエスを「この人」と言います。もはや親子、息子という領域ではない、イエスを神の子としてのやりとりです。カトリック教会では、この箇所のマリアを、救い主への執り成し手という立場で重んじております。しかしプロテスタント教会では、主イエス・キリストを知る者は誰でも執り成しの祈りをする者だということを覚えてよいと思います。キリスト者にとっては、先ず執り成す、すなわち祈る者であることが隣人愛であることを覚えてよいのです。 7節「水がめに水をいっぱい入れなさい」という主イエスの命令に、召し使いは精一杯従いました。何故そうするのか、理由など聞いていないのです。しかし「問う」ということをいけないと言ってはなりません。「問う」ことは「知る」ということと一つなのです。問うことは理解を促すのです。 今日、教会で配慮が重んじられ、聖餐式に、ぶどう酒の代わりにぶどう汁が用いられたりすることがあります。主の言われたことを重んぜず配慮を大事にすることが教会の在り方なのか、考えざるを得ません。「水をぶどう酒に」でなく「ぶどう酒を水に」、それは教会が教会でなくなっていると言わざるを得ません。配慮が先立ってはならないのです。ぶどう酒を使うことの根拠は信仰にあります。ぶどう汁は人間の配慮に過ぎません。ですから、信仰という原則があって、次に配慮があるべきなのです。 10節、水が「良いぶどう酒」に変わるという出来事は、ぶどう酒の質を言っているのではありません。主の御業の素晴らしさを言い表しているのです。良きものは全て神から来るのです。世界の全ては主イエスから来ているのです。人から来るものには、打算、裏があります。主イエスから本当の恵みが来るのです。 5節、9節の「召し使い」という言葉には、ギリシャ語で「ディアコノイ」という言葉が使われております。一般的には「デュロス」であり、「ディアコノイ」という表現は特別です。「主イエスに従う者」という意味が込められた言葉であり、一般の奴隷とは意味が違うのです。ですから、この召し使いたちは、「何も問わずに従った」のであります。「主に従う者」すなわち「主の弟子」は、主の栄光を見る者であったことを示しております。 11節「最初のしるし」とは、主イエスが「ご自身を神の子として現されたこと」です。「栄光を現された」ことに対する弟子たちの応答は、主イエスを神の子として信じることでした。 「主を知る」とは、「主イエスを神の子と信じること」です。信仰の出来事は知恵の出来事、「神の子を知る」という知恵です。信仰(主イエスを信じること)は最上の理解・知恵であります。 |
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