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19節、「さて」と始まります。話の筋を変えて、ここから「ヨハネの証し」にスポットを当てていくのです。 「ヨハネとは何者なのか」。ヨハネによる福音書の記述は他の福音書と違います。ここではエルサレムのユダヤ人に権力の主体があり、神殿に仕える祭司やレビ人を遣わして問わせています。尊敬を受ける者を遣わしてきたのですから、きちんと敬意をもって答えなければならないという背景があるのです。 「人への期待は裏切られるためにある」と言えます。何故ならば、人への期待は自らの思いの投影・押しつけだからです。そのことを知っておかなければなりません。自分と他者は違うのです。他者が自分の思い通りになろうはずがありません。それは、親子関係でも言えることです。親は子どもに期待するものですが、自分と子どもは別の者であることを忘れてはなりません。期待は失望になり、ひいては絶望ともなります。何故なら自分自身の思いに破れてしまうからです。 21節「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねています。エリヤは旧約の代表的な預言者であり、メシアを迎える先駆けとされた人物です。しかしここでもヨハネは「違う」ときっぱり否定しています。 22節、では一体何者なのか。ヨハネによる福音書以外の3福音書では、ヨハネを「メシアの先駆け」として捉えていました。イザヤ書を引用して「荒野で叫ぶ者の声」と言うのです。しかし、ヨハネによる福音書では「荒野で叫ぶ声」と書いています。「叫ぶ者の声」ではなく「叫ぶ声」です。「人」としての在り方を否定しているのです。明らかに内容が違っています。 ヨハネによる福音書は、教会の理想の姿、弟子(キリスト者)の本来の姿を語っております。主イエスを「私の救い主」と言い表す、ただキリストを宣べ伝えるのです。証しそのものです。ここに、私どもの教会のあるべき姿が示されております。 神こそが私どもにとって全てです。私どもは神に認められ、神によって存在を与えられているのですから、もはや「わたしが…」と自ら存在を主張する必要はないのです。神において、存在は明らかにされているのです。 |
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ここでの主題は「知る」です。 ヨハネは「知らない方」(26節、31節)として主イエスを言い表しています。では「知る」とはいかなることなのでしょうか? 他の福音書と比べて、ヨハネによる福音書では「知る」ことに重きが置かれており、「罪を取り除く神の子羊」ということを強調していないという特徴があります。 ヨハネの元に遣わされたのは、祭司やレビ人でした。「ファリサイ派に属する」とありますが、一般的に祭司はサドカイ派でした。サドカイ派は現実主義者、一方ファリサイ派は理想主義者で、本来対抗する間柄でしたが、このところでは、共にキリスト教に敵対するユダヤ人として立場を同じくしていました。このユダヤ人たちは、「イエスがキリストであることを知らない人々」なのでした。 遣わされた者は、ヨハネに対し「なぜ洗礼を授けるのか」を問うています。問いの前提として、洗礼は預言者が授けるものだということがあります。これに対し、ヨハネは「自らの洗礼は水からであって真実のものではない、来るべき方が聖霊によりバプテスマを授ける」と答えています。つまり「洗礼は聖霊の出来事である」ことを覚えなければなりません。 ヨハネによる福音書が示す「主を知る」とは、どういうことなのでしょうか。「信仰」は「知ること」に係わっています。「知る」は「救い」に属するのです。「神が知っていてくださること」は「救い」なのです。出エジプトの出来事を思い起こしてみましょう。神は苦しみにある者の苦しみを知っていてくださいました。イスラエルは「神に知られた民」なのでした。 27節、ここでは「あとから来られる方」が私どもの救いを成し遂げる、と言っています。「来られる方」は「来るべき方」と言った方がよいでしょう。この「来るべき方」をヨハネも知らなかったと言うのです。「わたしは、イエスが来るべきメシアだと知らなかった」ということです。 28節、ヨハネはヨルダン川の向こう側、ベタニアから出ることなく、その場所で主を証ししていた、とあります。つまり、救いを必要とする人は、やって来たのです。求める人が信じたのです。救いを必要とする人を神が導いてくださるのです。ここに教会の姿があります。その場所に教会が建っていることが大切なのです。「求めて来る」ところに、神の御心があります。そこで宣べ伝えるのです。 32節、どこでヨハネはイエスをメシアと知ったのでしょうか。それは、聖霊が降ることによって知ったのです。教会は「聖霊が降る」ことによって教会となったのです(ペンテコステ)。 |
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先週語りきれなかった「世の罪を取り除く神の小羊」ということについて、今日は、聖書全体が語る「世の罪を取り除く神の小羊」の内容を語りたいと思います。 宗教は様々な救いを語ります。しかし、キリスト教は「罪からの救い」です。病気あるいは窮地から救うということではないのです。根本は「人間の罪からの救い」なのであります。 旧約の時代、「小羊」は「罪の贖い(あがない)」に用いられました。イスラエルの人々は人間の罪を取り除くために贖いを必要としました。「贖い」は「代価」という意味で、人の罪の代価として小羊を献げたのでした。しかし、人間の命を家畜の命で贖うのでは、人間の命の代償にはならないのですから、一日に何度も献げなければならなかったのです。 37節、ヨハネの2人の弟子は、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という証しを聞いて、主イエスに従ったとあります。「従う」とはどういうことなのでしょうか。「主イエスは救い主」と聞いて、主を信じる者として、主を表して生きるということです。それが、ヨハネが示したキリスト者の生き方です。このようにして主に従う者が生まれることが伝道なのです。今改めて、主の証し人としての恵みをいただいていることを覚えたいと思います。 |
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37節、ヨハネの二人の弟子がイエスに従いました。 39節、二人の弟子は何を求めていたのか、自分で理解し得なかったのです。そこで主は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。このことは「彼らが求めていることは、主に従えば分かる」ということを含んでいます。主はわけのわからない二人を受け入れてくださるのです。どうして主は私どもを招いてくださるのでしょうか。それは、私どもの全てを知っておられるからです。私どもが「救いを必要とする、神へと至らざるを得ない者」であるからこそです。私どもが主を知って従って行くのではない、主が知っていてくださるから従うのです。それが神の憐れみであり救いの出来事です。 40節、二人のうちの一人のアンデレは、「主は救い主である」ことが分かったのでした。38節にあるように、アンデレは主イエスを初めは「先生(ラビ)」と認識していました。しかし、交わりを通し「救い」を見、主イエスが、彼らが求めている救い主であることを知ったのです。 41節、アンデレは「主イエスは救い主」と告白し、兄弟(シモン・ペトロ)に証しする者になったのです。告白し証しすることは、人を主へと導くことであるということを、ヨハネによる福音書は徹底して語ります。 ここで、「伝道」は難しいことではないことが示されます。「伝道」はただ「主イエスは救い主」と言い表すことなのです。一切の説明はいらないのです。この場所で週毎に礼拝する、それが伝道です。 |
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