聖書のみことば/2006.11
2006年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
荒れ野で叫ぶ声」 11月第1主日礼拝 2006年11月5日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章19〜28節
1章<19節>さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、<20節>彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。<21節>彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。<22節>そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」<23節>ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」<24節>遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。<25節>彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、<26節>ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。<27節>その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」<28節>これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

19節、「さて」と始まります。話の筋を変えて、ここから「ヨハネの証し」にスポットを当てていくのです。

「ヨハネとは何者なのか」。ヨハネによる福音書の記述は他の福音書と違います。ここではエルサレムのユダヤ人に権力の主体があり、神殿に仕える祭司やレビ人を遣わして問わせています。尊敬を受ける者を遣わしてきたのですから、きちんと敬意をもって答えなければならないという背景があるのです。
 20節、ヨハネははっきりと「私はメシアではない」と答えました。当時は、人々がメシアを待望していた背景があり、ヨハネがその人ではないかとの期待があったのでした。しかし、ヨハネはきっぱり否定しました。
 ここで、ヨハネは人の期待に応えようとしていません。いや、むしろ期待を止めさせようとしたのでした。それは、来るべき方(主イエス)こそ、期待すべき方であることを示しています。私どもは、ただ神にのみに期待すべきなのです。人や業績に期待するのではない、ただただ神に期待すべきなのです。

「人への期待は裏切られるためにある」と言えます。何故ならば、人への期待は自らの思いの投影・押しつけだからです。そのことを知っておかなければなりません。自分と他者は違うのです。他者が自分の思い通りになろうはずがありません。それは、親子関係でも言えることです。親は子どもに期待するものですが、自分と子どもは別の者であることを忘れてはなりません。期待は失望になり、ひいては絶望ともなります。何故なら自分自身の思いに破れてしまうからです。
 しかし、私どもは幸いなことに、期待できる方が与えられております。「神に期待してよい」のです。何故なら、神は独り子イエスまで送ってくださり、私どもの罪を赦し、永遠の命を約束してくださったからです。神(神のみ)は真実であられるがゆえに期待できるのです。
 「神に期待する」とは日々「神の御言葉に期待する」ことです。今与えられている状況の中で期待してよいのです。御言葉により聖霊が働くのです。

21節「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねています。エリヤは旧約の代表的な預言者であり、メシアを迎える先駆けとされた人物です。しかしここでもヨハネは「違う」ときっぱり否定しています。
 そして更に「あなたは、あの預言者なのですか」と問われます。「あの」とは特定の人を指しています。それは「今こそ終末の時だ」と言ってくれる預言者であり、人々が期待していた人なのです。しかしヨハネは「そうではない」と答えるです。

22節、では一体何者なのか。ヨハネによる福音書以外の3福音書では、ヨハネを「メシアの先駆け」として捉えていました。イザヤ書を引用して「荒野で叫ぶ者の声」と言うのです。しかし、ヨハネによる福音書では「荒野で叫ぶ声」と書いています。「叫ぶ者の声」ではなく「叫ぶ声」です。「人」としての在り方を否定しているのです。明らかに内容が違っています。
 では「声」とは何か。既に19節に「ヨハネの証し」とあります。ヨハネという「人」にスポットを当てていないのです。強調しているのは「証し」です。「声」とは「証し」です。証し・信仰の告白に強調点を置いているのです。ヨハネは先駆けなのではなく、主イエスを証しする者であることを強調しております。

ヨハネによる福音書は、教会の理想の姿、弟子(キリスト者)の本来の姿を語っております。主イエスを「私の救い主」と言い表す、ただキリストを宣べ伝えるのです。証しそのものです。ここに、私どもの教会のあるべき姿が示されております。

神こそが私どもにとって全てです。私どもは神に認められ、神によって存在を与えられているのですから、もはや「わたしが…」と自ら存在を主張する必要はないのです。神において、存在は明らかにされているのです。
 この世において、キリストを宣べ伝え、キリストを証しすること、そこに恵みがあります。

世の罪を取り除く」 11月第2主日礼拝 2006年11月12日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章24〜34節
1章<24節>遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。<25節>彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、<26節>ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。<27節>その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」<28節>これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。<29節>その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。<30節>『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。<31節>わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」<32節>そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。<33節>わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。<34節>わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

ここでの主題は「知る」です。

ヨハネは「知らない方」(26節、31節)として主イエスを言い表しています。では「知る」とはいかなることなのでしょうか? 他の福音書と比べて、ヨハネによる福音書では「知る」ことに重きが置かれており、「罪を取り除く神の子羊」ということを強調していないという特徴があります。

ヨハネの元に遣わされたのは、祭司やレビ人でした。「ファリサイ派に属する」とありますが、一般的に祭司はサドカイ派でした。サドカイ派は現実主義者、一方ファリサイ派は理想主義者で、本来対抗する間柄でしたが、このところでは、共にキリスト教に敵対するユダヤ人として立場を同じくしていました。このユダヤ人たちは、「イエスがキリストであることを知らない人々」なのでした。
 ファリサイ派の人について解説しますと、ファリサイ派の人は、本当に真面目で誠実で信仰深く理想を現実化としようとする立派な人です。ファリサイ派は確かに理想に向かって現実に実践し、誠実に生きているのですが、自分自身がきちんとできているかが問題で、自分により頼んでいるのです。「神により頼んでいない」そういう罪深さがあるのです。そういう意味で、ファリサイ派は悪い人間なのではなく、「不幸な者」と言えます。ファリサイ派であっても、自らを顧み、罪を知り、何よりも神を必要とする者として神に向かう者であれば良いのであります。

遣わされた者は、ヨハネに対し「なぜ洗礼を授けるのか」を問うています。問いの前提として、洗礼は預言者が授けるものだということがあります。これに対し、ヨハネは「自らの洗礼は水からであって真実のものではない、来るべき方が聖霊によりバプテスマを授ける」と答えています。つまり「洗礼は聖霊の出来事である」ことを覚えなければなりません。
 ここでヨハネはイエスを「あなたがたの知らない方」として言い表しています。

ヨハネによる福音書が示す「主を知る」とは、どういうことなのでしょうか。「信仰」は「知ること」に係わっています。「知る」は「救い」に属するのです。「神が知っていてくださること」は「救い」なのです。出エジプトの出来事を思い起こしてみましょう。神は苦しみにある者の苦しみを知っていてくださいました。イスラエルは「神に知られた民」なのでした。
 私どもの苦しみ・痛みを神が知っていてくださる、神に知られていることは憐れみそのものです。それゆえ救い出していてくださるのです。
 それ故、「知らない」は「救いがない」ということです。ユダヤ人は、イエスがメシアであることを知ろうとしなかった故に救いがないのです。「イエスを救い主と知ること」それがキリスト者の恵み、救いの恵みなのです。
 「洗礼」は本来、異邦人がユダヤ教に転じる儀式でありました。ですからユダヤ人は洗礼を受ける必要はありませんでした。しかし、ヨハネはユダヤ人にも洗礼を授けました。それは「悔い改めの洗礼」です。しかし、ヨハネによる福音書で強調されているのは、「キリストの洗礼(裁きと救い)」です。罪に死に新しく生まれるということが主イエスの洗礼なのでした。

27節、ここでは「あとから来られる方」が私どもの救いを成し遂げる、と言っています。「来られる方」は「来るべき方」と言った方がよいでしょう。この「来るべき方」をヨハネも知らなかったと言うのです。「わたしは、イエスが来るべきメシアだと知らなかった」ということです。
 「履物のひもを解く値打ちもない」、すなわち奴隷の中でも、最も低い者よりも低いと言っています。ヨハネは自分自身を「どこまでも価値の無い、低い」と言っているのです。そこまで言えるは、神の前にきちんと位置づけられているからです。

28節、ヨハネはヨルダン川の向こう側、ベタニアから出ることなく、その場所で主を証ししていた、とあります。つまり、救いを必要とする人は、やって来たのです。求める人が信じたのです。救いを必要とする人を神が導いてくださるのです。ここに教会の姿があります。その場所に教会が建っていることが大切なのです。「求めて来る」ところに、神の御心があります。そこで宣べ伝えるのです。

32節、どこでヨハネはイエスをメシアと知ったのでしょうか。それは、聖霊が降ることによって知ったのです。教会は「聖霊が降る」ことによって教会となったのです(ペンテコステ)。
 教会が洗礼を授けるのは、聖霊の出来事です。聖霊が働くことによって、「イエスはキリストである」こと知るのです。それが救いなのです。
 聖霊を頂くことは、洗礼を受けることによって与えられる恵みです。自分の力でキリストを知ることはできません。それは、洗礼を通して起こる恵みの出来事なのです。

来なさい」 11月第3主日礼拝 2006年11月19日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章35〜42節
1章<35節>その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。<36節>そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。<37節>二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。<38節>イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビー『先生』という意味ーどこに泊まっておられるのですか」と言うと、<39節>イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。<40節>ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。<41節>彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアー『油を注がれた者』という意味ーに出会った」と言った。<42節>そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファー『岩』という意味ーと呼ぶことにする」と言われた。

先週語りきれなかった「世の罪を取り除く神の小羊」ということについて、今日は、聖書全体が語る「世の罪を取り除く神の小羊」の内容を語りたいと思います。

宗教は様々な救いを語ります。しかし、キリスト教は「罪からの救い」です。病気あるいは窮地から救うということではないのです。根本は「人間の罪からの救い」なのであります。
 神は、私どもの罪を取り除き永遠の命を与えてくださったのです。「神との交わり回復」には多大な犠牲・十字架が必要です。「罪」とは「神から遠く離れている、自らを頼りとする、神が無くてもやっていける、自己中心」です。しかし人は、神無しには生きられない存在なのです。神無しというのは傲慢です。
 今の時代は、まさに高ぶりにある、畏れを持たず謙遜さを持たない社会です。謙遜さは相手を尊ぶことです。高ぶりは、他者を他者としないのです。宗教・信仰を失って謙遜を失っているのです。それによる弊害は自己中心、他者を省みず犠牲にすることが当然起こってくるのです。今の社会では、教育で教えるのは知識であって信仰心ではない、それでは傲慢にならざる得ないのです。しかし、それは公教育でなく家庭教育でなされるべきでしょう。

旧約の時代、「小羊」は「罪の贖い(あがない)」に用いられました。イスラエルの人々は人間の罪を取り除くために贖いを必要としました。「贖い」は「代価」という意味で、人の罪の代価として小羊を献げたのでした。しかし、人間の命を家畜の命で贖うのでは、人間の命の代償にはならないのですから、一日に何度も献げなければならなかったのです。
 しかし、新約においての贖いは、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエス・キリストは「神であられる方でありながら本当の人間になられた方」です。主イエスの人間との決定的な違いは、「まったく罪無き人である」ということです。真実の人間の命(主イエス・キリスト)、汚れの無い本当の命を献げたので、本当の贖いになったのです。この贖いは一度きり、完全なもの、全ての罪人の贖いとなったのです。
 「神の小羊」と言われています。旧約の時代、小羊を準備したのは人間でしたが、ここで小羊を準備しているのは神ご自身です。神のご意志により献げられたのです。従って、主の十字架の贖いは、まったく神の御業なのです。贖いを献げたのも、受けたのも、神ご自身であったのです。ここに十字架の贖いの恵みがあります。これは神の得にはならないことです。いえ、神が損をしてまでなさった御業であります。ご自身の独り子を献げるという「痛み・苦しみ」を伴った救いです。主は私ども罪人のために、あり得ないことをなさったのです。ありがたいことなのです。こんな私どものための主の十字架なのです。申し訳ないとひざまずき、頭を垂れるのです。この救いの真理がプロテスタント教会の中心の教えです。

37節、ヨハネの2人の弟子は、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という証しを聞いて、主イエスに従ったとあります。「従う」とはどういうことなのでしょうか。「主イエスは救い主」と聞いて、主を信じる者として、主を表して生きるということです。それが、ヨハネが示したキリスト者の生き方です。このようにして主に従う者が生まれることが伝道なのです。今改めて、主の証し人としての恵みをいただいていることを覚えたいと思います。

メシアに出会った」 11月第4主日礼拝 2006年11月26日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章35〜42節
1章<35節>その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。<36節>そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。<37節>二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。<38節>イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビー『先生』という意味ーどこに泊まっておられるのですか」と言うと、<39節>イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。<40節>ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。<41節>彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアー『油を注がれた者』という意味ーに出会った」と言った。<42節>そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファー『岩』という意味ーと呼ぶことにする」と言われた。

37節、ヨハネの二人の弟子がイエスに従いました。
 38節、イエスは「何を求めているのか」と、どうして従ったのか、罪の贖い主(メシア)を理解したのかを問われたのです。しかし、二人の答えは「どこに泊まっておられるのですか」とトンチンカンな答えをしていることからも、到底主を理解しているとは思えないのです。
 彼らは「神の小羊」が分からないのです。しかし、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という証しに惹かれたのでしょう。このように「証し・告白」は人を捕らえる力があるのです。それは聖霊の働きによって成し得るものだからです。二人に聖霊が働いたのです。証し・告白は救いの出来事だからであります。
 「聖霊を信ずる」ということがなければ、証し・告白は無に等しいのです。人がどう思うかではなく、自らが信じたところを語ればよいのです。相手に分かるようにと、くどくどとした説明はいらないのです。告白は聖霊により、その人を捕らえるのです。人には限界があっても、神との係わりの中では限界・不可能はないのです。改めて、「聖霊を信ずる」ということが「教会の信仰」であることを認識したいと思います。信仰(救い)は説得によって得る出来事ではないのです。救いは聖霊の出来事、神が働くことです。

39節、二人の弟子は何を求めていたのか、自分で理解し得なかったのです。そこで主は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。このことは「彼らが求めていることは、主に従えば分かる」ということを含んでいます。主はわけのわからない二人を受け入れてくださるのです。どうして主は私どもを招いてくださるのでしょうか。それは、私どもの全てを知っておられるからです。私どもが「救いを必要とする、神へと至らざるを得ない者」であるからこそです。私どもが主を知って従って行くのではない、主が知っていてくださるから従うのです。それが神の憐れみであり救いの出来事です。
 「どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」とあります。「そうすれば分かる」と言われたことは「場所」を意味しないのです。「求めていることが分かる」ことを意味するのです。主と深い交わりをいただいた、そのことによって知ったのです。

40節、二人のうちの一人のアンデレは、「主は救い主である」ことが分かったのでした。38節にあるように、アンデレは主イエスを初めは「先生(ラビ)」と認識していました。しかし、交わりを通し「救い」を見、主イエスが、彼らが求めている救い主であることを知ったのです。

41節、アンデレは「主イエスは救い主」と告白し、兄弟(シモン・ペトロ)に証しする者になったのです。告白し証しすることは、人を主へと導くことであるということを、ヨハネによる福音書は徹底して語ります。
 シモン・ペトロはケファという名前を主からいただきました。新しい名前をいただくとは、新しい人生を始めるということです。主を証しする新しい人生です。
 私どもにおける新しさは、神との係わりを通して常に新しくされるのです。もはや自分自身を生きるのではなく、主イエスを表して生きるのです。神にある恵み、神の豊かさを知り、それを証しする、新たな人生なのです。
 自分自身を生きることは、どんどん古び、孤独なのです。しかし、主共にある人生は「神に知られている者として、孤独ではない」のです。信仰をもって生きるとは、神と共に生きることです。神を信じない人生は孤独な死です。

ここで、「伝道」は難しいことではないことが示されます。「伝道」はただ「主イエスは救い主」と言い表すことなのです。一切の説明はいらないのです。この場所で週毎に礼拝する、それが伝道です。
 教会歴では、アドヴェント(待降節)(12月3日)から新しい一年が始まります。クリスマスを迎えるこの時期、私どもは、簡潔に「主イエス・キリストは救い主。主イエス・キリストの誕生を祝いましょう」と告白する者でありたいと思います。