聖書のみことば/2006.10
2006年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神によって生まれた」 10月第1主日礼拝 2006年10月1日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章9〜13節
1章<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。<10節>言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。<11節>言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。<12節>しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。<13節>この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

今日は11節から聞きたいと思います。

イスラエルは、神に選ばれた「神の民」であります。出エジプト(エジプトでの奴隷からの解放)の際、民の苦しみ、呻きを神は聞いてくださり、指導者モーセを通して荒野へと導き、十戒(律法)を与えて神の民としてくださったのでした。それは、神の一方的な憐れみに基づいてのことです。イスラエルは奴隷であったので、一つの血族、氏族・民族ではありませんでした。有象無象の民です。そんなイスラエルを神は「契約」を与えてくださることによって「神の民」とされたのです。そして、神を礼拝するために荒野へと導かれたのでした。「礼拝共同体」、それが「神の民」ということです。イスラエルが特別に偉い・優れた者だから選ばれたのではないのです。ただ、神の一方的な救いの約束・憐れみによるのです。神を礼拝する共同体です。「礼拝する」ということが「特別の民」なのです。

11節、神の民とされた者であるにも拘らず、民はメシアを拒むのです。この箇所を「旧約聖書の要約」と言う人もおります。自らの自己意識(律法を守っている選ばれた者という)に頼るようになった、それ故にイスラエルはキリスト・イエスを拒まざる得なかったのです。神を礼拝する民という低さを忘れたのでした。
 しかし神は「選んだ民イスラエルが拒むのなら、救いの計画は終り」とはなさいませんでした。却って、異邦人にも御子(キリスト)を信ずることによって救いを与えてくださったのです。「否」を用いて、神は救いの計画を止めることなく、なおさら「全世界・異邦人の救い」を推し進められたのです。否をも用いる神なのです。人にはできないことです。それゆえ神の救いは絶大なのであります。
 私どもが「拒む」ことにより救いが起こるのです。ですから「拒むこと」は大事です。「拒み」は「神に向き合うこと」につながります。「神に向き合う」ことによって、揺るぎない神の恵みを知る、より深められて救いを実感することになるのです。どうしようもなくなって、祈らざるを得なくなるのです。信仰の救いは、「罪人の救い・信仰なき者の救い」と語ってきました。「拒みは救いを鮮やかにしてくれる」そのことを覚えたいと思います。
 私どもが信ずるのは「十字架の主」を信ずるのです。三日目に甦られた「甦りの主」を信ずるのです。

12節、「神の子となる」とは、新しい民の創造です。私どもは滅びに過ぎなかった者です。しかし、そんな私どもが「神の子として新たに創造される」のだとういうことを覚えたいと思います。

13節、「肉の欲」とは家柄、「人の欲」とは男の欲(権威)ということです。そのようなこの世のさまざまな権威によって神の子とされるのではない、神によって、神の憐れみによって神の子とされると言うのです。それが救いということです。それはまさに「自立した自由な存在として生きる」ということです。それは、「礼拝する共同体」として、礼拝することにより形づけられるのです。どこにあろうと、たとえ教会に来れなくなったとしても、礼拝できるなら幸いなのです。

「契約に基づく共同体」、イスラエルがそうであったように、それは私どもも同じです。聖書の信仰により「契約」の概念は生まれたのです。神の契約に基づく共同体、それが全ての共同体の根本的な概念なのです。結婚も、ひいては国家もそうであります。かつては血筋(家柄)によるものでした。
 けれども、共同体が破壊されている現代において、世の中は教会を、契約に基づく共同体作りを、今、求めているのです。

言が肉となる」 10月第2主日礼拝 2006年10月8日 
北 紀吉 牧師(聴者/古屋)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章14〜18節
1章<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

14節「肉となった」とは「人間となった」こと、父なる神のひとり子が人間として生まれてきたことです。それを「受肉」と言います。この箇所はクリスマスの説教によく用います。クリスマスは神の御子がお生まれになったことをあらわしていますが、実は先在(創造の初めから)されている神の子が人間として生まれたという出来事です。
 では、マリアから生まれたというのは何を意味するのでしょうか。単に人間の形をとったということではありません。神が人として、私どもと同じ者となってくださったということです。ここにクリスマスの意味があります。神は神であるので、本来、人となることはありません。また、より良い者が悪い者になろうとは普通は思わないでしょう。より良い者でありたいと思うものです。ですから本来は考えられないことが起きたのです。それは、不可能な出来事と言わざるを得ないのです。神が「僕(しもべ)」と等しい者となられた。無限なる方が有限の者となられた。永遠なる方が、時間を超えた方が、人間に、時間の制約のもとに来られたのです。これが「人となった」という内容です。不可能を可能となさった神の御業です。なぜでしょうか。有限なる人間を「神が愛してくださった」からの出来事です。この在り方は私どもの通常の在り方とは全く逆です。

イスラエルは神より律法を与えられ、神に相応しいものとして生きよと示されました。しかし結果は、「これだけ一生懸命やっているから良し」とする落とし穴に陥ったのです。神が人となるとは、高き方が低き者となってくださること、これが、神の憐れみです。神の御子の謙遜が、人の救いなのです。これだけやったのだから救われるとの思いは、傲慢です。そこに救いはありません。
 子ども讃美歌に「良い子になれないわたしでも、神さまは愛してくださるって、イエスさまのみことば」という讃美があります。良い子になろうとすると、願っている自分になれない苦しみを負うのです。真剣になればなるほど苦しみが多くなる、神はそういう者をこそ愛してくださっていると、この讃美歌は歌います。
 有限性の中に生きるのが人間です。有限性の中では「絶対」というところには到達し得ないのです。人は、限界性を持つことを覚えなければなりません。もし神が「絶対たれ」と言われれば、誰も救われないのです。神は、人が神にふさわしい者となることを、もはや望んではおられません。神にふさわしい者でないことを知る、その中で神の恵みを知るのです。神がなさったことは全能の御業です。本来、罪人に救いなど有り得ることではないのです。

「宿る」という言葉は、実は「幕屋に住まう」こと、テント生活をすることを意味します。テント生活とは一時的な生活です。一時的に私どもの中に住まわれたことを示します。一時的に来られ地上に神の救いを実現してくださったのです。テント生活とは主の十字架、復活・昇天をも指し示します。人となってくださった神の御子は、人の罪を担い、罪を終わりとし、よみがえりの命を与え、神との永遠の交わりへと私どもを入れてくださったのです。

私どもの思いは、罪なる思いです。自分を中心に据えたがる、絶対視したがる思いです。他者に対して君臨したり、他者を物として扱ったりすることになり、結果として交わりの喪失、人間性の喪失、孤独のなかに苦しむことになるのです。人は神となることはできません。「人」であることに人の救いはあるのです。
 私どもは罪なる者にすぎないことを、どこで見ることができるのでしょうか。御子イエス・キリストを前にして罪の姿が浮き彫りにされることを覚えたいと思います。しかしなお、私どもを見捨てておられない、私どもに関わってくださる神を見出すことが救いに至る道です。見捨てず、関わってくださる神の在り方が、御子イエス・キリストが人となった出来事です。

「その栄光を見た」とはどういうことでしょうか。もともと神の子は父なる神と一体なので、御子の栄光は神の栄光を見ることに他ならないのです。実は、御子の栄光は逆説的な栄光です。人間となることに神の栄光を見ることは理解しがたいことです。あり得ないこと、日本語で言うと有り難いこと。あり得ないことが起こったのです。受肉のできごと、クリスマスの出来事は、私どもにとってこの上なく有り難い出来事であることをあらためて覚えたいと思います。御子を見ることを通して神を見る者とされたのです。

18節に「いまだかつて神を見たものはいない」とあります。本来、神を見ることはできません。なぜなら、神は真実なる方ですから、罪ある私どもは真実である神の前には到底耐えられないのです。私どもは神を見た時、滅びざるを得ない存在です。
 神を見ることから神は私どもを遠ざけておられます。猶予しておられるのです。では、神を見られないことは憂慮すべきことでしょうか。違います。これも憐れみの出来事です。しかし、一方で神を見ない事に救いはありません。それゆえに御子イエス・キリストとしておいでくださって神を見せてくださったのです。私どもは神を見ることに与ったのです。神を見れば信じるという人がいますが、本当は見ない方が幸いです。見たら滅びるからです。ですから、御子が神を示すのです。御子に神を見るのです。

「恵みと真理とに満ちていた」とあります。神の「恵み」とは神の「救い」のことです。恵み(救い)が満ち溢れているのです。「真理」とは、イエスが神の御子、救い主であることです。イエスが神であってくださることが真理なのです。
 ここで覚えておきたいと思います。神は御子を通して地上に救いを成し遂げられましたが、この救いが「私」のものとなるには一つのステップがあります。そこに「信じる」という出来事が起こらなければならないのです。神が人となってくださった事を信じることによって初めて、救いに満たされるのです。信じられる者となって初めて救いがあるのです。他人ごとではなく、「私」のものとなることが信仰の出来事なのです。
 また、信仰の出来事は聖霊の出来事です。神が働きかけてくださって初めて起こることをも忘れてはなりません。

もう一つお話します。これは実は終わりの日の出来事をも表しているということをです。顔と顔を合わせて神を見る。これを聖書では終わりの日(終末)の出来事と言っています。しかし、私どもはイエス・キリストを見ることを通して、終わりの日の出来事を先取る恵みをも得ているのです。それは、礼拝を守ることを通して与えられる恵みです。

なすべき礼拝」 10月第3主日礼拝 2006年10月15日 
小島章弘 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第4章23〜24節、
   ローマの信徒への手紙 第12章1〜節
ヨハネによる福音書4章<23節>しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。<24節>神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

ローマの信徒への手紙12章<1節>こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。<2節>あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

今日読みましたヨハネによる福音書4章は、主イエスが「礼拝」について語られた箇所です。ローマの信徒への手紙では、パウロは「礼拝」について明確に述べています。パウロの一番長い手紙はローマの信徒への手紙で、16章まであります。1〜11章には「信仰の筋道・原理」が書かれており、12章以降は「どう生きるべきか」について書かれています。ですから、この書を読みますと「信仰を持つ者としてどう生きていくべきか」がわかるのです。

1節、「こういうわけで」と始まります。そして「礼拝」の捉え方をまず示しています。この箇所で、非常に難しいと思う箇所は「なすべき礼拝」というところです。口語訳では「霊的な礼拝」となっていました。しかし英訳では「理性的な礼拝、合理的な礼拝」あるいは「霊的な礼拝」など、意味が反対とも思える訳が多々あるのです。ですから、この新共同訳聖書の「なすべき礼拝」という訳は、非常にうまい訳であるとも言えるでしょう。
 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあります。一般的には礼拝に献げるのは「心」と思うのではないでしょうか?しかし「体」とある、これはどういうことでしょう。ギリシャ時代には二元論的思想がありました。「体は悪(汚れ)」「心は善」という考えです。ですからおそらく、動物を殺して焼き尽くして礼拝を献げたこの時代に、「自分の汚れた体を献げよ」と勧めるパウロのこの書簡は、驚きを持って読まれたことでしょう。
 しかしパウロは「自分の体がすべて神様のものだと告白することが礼拝だ」と言うのです。自分のそのまま全てを神に献げよということです。これは大きな意味を持っています。

なぜ私どもは毎週教会に集まるのでしょう。それは、主イエス・キリストを忘れないためです。そして「わたしは全て神様のものなのだ」と告白するのです。「わたしのためにキリストは十字架にかかって下さった。功名無しで、無条件で愛されているのだ」、それを忘れないために毎週礼拝を献げているのです。
 かつてポーランドのワレサ議長が来日した際、その日は日曜日でした。そこで記者に「どこで教会の礼拝を守れるのか、何時だ、どこにあるか・・・」としきりに問うたけれども、記者は答えられなかった。その記者に対し、ワレサ議長が「あなたは何を信じているのだ?」と問い、答えられない記者に「人間がものを信じないということはわからない」と言ったという逸話があるそうです。「自分が何者かわからない」で生きているとすれば、それは人にとって危険なことです。無免許で運転しているようなものです。 礼拝を守ることによって人は、「自分が何者か」わかり、「自分が自分であることができる」のであります。

2節「この世に倣ってはなりません」と言われます。「妥協するな」と言っているのです。人は妥協すると、どこまでも妥協せざるを得なくなり、どんどん自分が壊れていくのです。自分のアイデンティティが無くなっていくのです。自分がわからないまま進んで行くことの恐ろしさを思います。

また人は「自分を変える」ことの難しさを知っています。「心を新たにして」とは、礼拝に出ることによって作りかえられ新しくしていただくということです。それがパウロが言おうとしたことです。

ルカによる福音書17章11節以下に主イエスの奇跡物語があります。皮膚病を患った10人が癒しを願い、癒された記事です。癒された10人のうちの一人の者が主のもとに喜んで帰ってきました。これが礼拝だと思うのです。私どもを無条件に愛して下さること、そのことを喜んで感謝を献げる、そこに私どもの「なすべき礼拝」があるのです。

独り子である神」 10月第4主日礼拝 2006年10月22日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章14〜18節
1章<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、「受肉」を意味します。

15節、ここにバプテスマのヨハネの言葉が記されていますが、ここでのバプテスマのヨハネのキリストについての証しは、他の福音書とは異なっています。ヨハネによる福音書以外の3つの福音書では、「わたしの後から来られる方は優れている。力のある方、救いと裁きをなす救い主(聖霊と火による洗礼)である」という点を強調しています。しかしヨハネによる福音書では「わたしより後から来られた方は、先におられた方である」ことを強調しているのです。先在性(受肉されたイエスは先在された方)を、つまり「天地創造をなさった神と共にある方」であることを強調しています。先在のキリストは創造と関わっていることを知らなければなりません。救いと創造が一つとして語られるということです。これは「御子を信じる者は新しい民として創造される」ということ、「神の子としての新しい創造をいただく」ことを意味します。このことはヨハネによる福音書の冒頭から言われていることで、ヨハネの証しで示されていることは「主イエスはわたしより先なる方」と語っていることです。

16節「満ちあふれる豊かさ」の内容は、「恵みと真理に充満している主イエス・キリスト」ということです。当時のギリシャ世界はグノーシス思想に支配されており、「充満」は救いの頂点を表す「永遠の命に満ちあふれていること」を意味しました。従って、主イエス・キリストの永遠の命にあずかるということです。「恵み」は「主イエス・キリストによる救い」そのものです。「真理」は「主イエス・キリストが救い主である」ということです。どちらも救いを表し、主を信ずることは、永遠の命に満ちあふれ、救いにあずかっているということなのです。
 「永遠の命」とは、現代にどういう意味があるのでしょうか。今は、神無き時代にあると言えます。絶対を失い、すべてが相対化され、頼るべき根拠をもたない時代です。つまり、頼るべき根拠を持たずに死を迎えるという現実です。それは「モラトリアム=執行猶予」を生きているという現実なのです。いくら寿命が伸びても、それだけ死に向き合わなければならなくなるのです。
 しかし、私どもキリスト者は、モラトリアム=執行猶予に生きているのではありません。聖書は語ります「この地上の生が全てなのではない。朽ちない命、死を超えた生を与えられているのだ」と。私どもは、主イエス・キリストを信じることによって、死を超え、救いの完成に臨む命を生きるのです。

ヨハネによる福音書1章1〜18節は全体の序にあたります。ここで語りたいことは、18節が結論部分です。「父のふところにいる独り子である神」、つまり「イエス・キリストは神だ」と言っているのです。ここにユダヤ教とキリスト教の一線があります。ユダヤ教では、イエスをメシアとしますが神とは認めません。

私どもの献げる礼拝は「主イエスを神として礼拝する」のです。「甦りの主イエス」を神として礼拝しているのであります。
 主イエスを信じることを通して、神の御言葉に出会い、神との交わりに入れられていることを覚えたいと思います。

魂の扉を開く」 10月第5主日礼拝 2006年10月29日 
関川 泰寛 先生/東京神学大学教授(聴者/清藤)
聖書/創世記 第32章23〜33節、ヨハネの黙示録 第3章14〜22節
創世記32章<23節>その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。<24節>皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、<25節>ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。<26節>ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。<27節>「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」<28節>「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、<29節>その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」<30節>「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。<31節>ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。<32節>ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。<33節>こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

ヨハネの黙示録3章<14節>ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。<15節>「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。<16節>熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。<17節>あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。<18節>そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。<19節>わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。<20節>見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。<21節>勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。<22節>耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」

私どもは、ともすると「魂の扉」を閉じてしまっている者であります。

ヨハネ黙示録3章14節以下には、ヨハネからラオディキヤの教会に送られた手紙が記されています。ヨハネはパトモス島に送られましたが、そこから7つの教会に宛てて手紙を書いたと言われております。
 ラオディキヤの教会は、まさに「魂の扉を閉じた」教会でした。黒い羊から羊毛をとり、目薬が作られ、豊かで何不自由ない、地中海で最も繁栄をきわめた町でした。しかしヨハネは、この町の問題を指摘しました。17節です。自分は富んでおり満足していても、富んで自己満足していればいるだけ、実は深い惨めさの中にいるのだということに気付いていないという問題です。これは私どもにも同様の現実であります。
 しかしそこで14節、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」、つまり神と同じ本質であられる主イエス・キリストが語ってくださるというのです。「あなたの惨めな現実を知っている、なまぬるい現実を知っている」と。それは、人がうらやむ外見、富にかかわらず、私どもに与えられている現実の姿です。 しかしそのように私どもが固く魂の扉を閉じていても、主ご自身が深くかかわってくださるというのです。主イエスは高い所から私どもの惨めさを指摘したのではありません。主は、私どもの惨めさのために、命を投げ打ってくださったのでした。

18節、貧しさ、裸、目薬という言葉で三つの勧告をしています。本当の富と救いとは何かを語っているのです。「火で精錬された金」とは主によって与えられる真実の輝き、「白い衣」とは新しい生を生きることの象徴の白、「目に塗る薬」とは目を癒し本当に見るべきものを見えるようにするということです。主イエス・キリストを信じて生きるとき、真実の富、真実の癒しが与えられるのであります。

「霊性の飢饉」ということが言われます。それは、霊の食物を失ったとき、私どものは肉の食物を求めるように霊の食物を求めるだろうか、いや求めない、ということです。しかし19節では「熱心に求めよ、悔い改めよ」と言っています。
 10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95か条の論題を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけました。その第一条は「悔い改めよ」と始まっています。「主が悔い改めよと言われたとき、信じる者の全生涯が悔い改めであることを主は望まれた」と語っています。ルターはローマの信徒への手紙などを基として、功績主義や免罪符に象徴される形式的な悔い改めではなく、ただ与えられた信仰によって義とされると主張したのでした。それは「受動的な義」です。自らが獲得する信仰ではなく、与えられた信仰によってのみ、「惨めさ・傲慢さ」から解放されるのであります。

20節には、主イエス・キリストが準備してくださる恵みと憐れみの大きさが示されています。主イエスが扉をノックし、入ってきてくださり、共に食し交わりをしてくださるというのです。私どもの頑な扉を主イエスはノックし続けていてくださいます。その主の呼びかけに応えて扉を開けること、それだけが私どもに求められていることです。

私どもには、信仰の闘いの日が必ずあります。創世記32章の箇所は、ヤコブがヤボクの渡しで神の天使と闘う場面です。ヤコブは腿の関節を外されて自らの力を失ったとき、祝福されました。「勝利を得る者」とは、神によって義とされ祝福された者のことであります。信仰によって義とされ、聖餐により、十字架によって勝利を得られた主をお迎えする恵みに与るのです。