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今日は11節から聞きたいと思います。 イスラエルは、神に選ばれた「神の民」であります。出エジプト(エジプトでの奴隷からの解放)の際、民の苦しみ、呻きを神は聞いてくださり、指導者モーセを通して荒野へと導き、十戒(律法)を与えて神の民としてくださったのでした。それは、神の一方的な憐れみに基づいてのことです。イスラエルは奴隷であったので、一つの血族、氏族・民族ではありませんでした。有象無象の民です。そんなイスラエルを神は「契約」を与えてくださることによって「神の民」とされたのです。そして、神を礼拝するために荒野へと導かれたのでした。「礼拝共同体」、それが「神の民」ということです。イスラエルが特別に偉い・優れた者だから選ばれたのではないのです。ただ、神の一方的な救いの約束・憐れみによるのです。神を礼拝する共同体です。「礼拝する」ということが「特別の民」なのです。 11節、神の民とされた者であるにも拘らず、民はメシアを拒むのです。この箇所を「旧約聖書の要約」と言う人もおります。自らの自己意識(律法を守っている選ばれた者という)に頼るようになった、それ故にイスラエルはキリスト・イエスを拒まざる得なかったのです。神を礼拝する民という低さを忘れたのでした。 12節、「神の子となる」とは、新しい民の創造です。私どもは滅びに過ぎなかった者です。しかし、そんな私どもが「神の子として新たに創造される」のだとういうことを覚えたいと思います。 13節、「肉の欲」とは家柄、「人の欲」とは男の欲(権威)ということです。そのようなこの世のさまざまな権威によって神の子とされるのではない、神によって、神の憐れみによって神の子とされると言うのです。それが救いということです。それはまさに「自立した自由な存在として生きる」ということです。それは、「礼拝する共同体」として、礼拝することにより形づけられるのです。どこにあろうと、たとえ教会に来れなくなったとしても、礼拝できるなら幸いなのです。 「契約に基づく共同体」、イスラエルがそうであったように、それは私どもも同じです。聖書の信仰により「契約」の概念は生まれたのです。神の契約に基づく共同体、それが全ての共同体の根本的な概念なのです。結婚も、ひいては国家もそうであります。かつては血筋(家柄)によるものでした。 |
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14節「肉となった」とは「人間となった」こと、父なる神のひとり子が人間として生まれてきたことです。それを「受肉」と言います。この箇所はクリスマスの説教によく用います。クリスマスは神の御子がお生まれになったことをあらわしていますが、実は先在(創造の初めから)されている神の子が人間として生まれたという出来事です。 イスラエルは神より律法を与えられ、神に相応しいものとして生きよと示されました。しかし結果は、「これだけ一生懸命やっているから良し」とする落とし穴に陥ったのです。神が人となるとは、高き方が低き者となってくださること、これが、神の憐れみです。神の御子の謙遜が、人の救いなのです。これだけやったのだから救われるとの思いは、傲慢です。そこに救いはありません。 「宿る」という言葉は、実は「幕屋に住まう」こと、テント生活をすることを意味します。テント生活とは一時的な生活です。一時的に私どもの中に住まわれたことを示します。一時的に来られ地上に神の救いを実現してくださったのです。テント生活とは主の十字架、復活・昇天をも指し示します。人となってくださった神の御子は、人の罪を担い、罪を終わりとし、よみがえりの命を与え、神との永遠の交わりへと私どもを入れてくださったのです。 私どもの思いは、罪なる思いです。自分を中心に据えたがる、絶対視したがる思いです。他者に対して君臨したり、他者を物として扱ったりすることになり、結果として交わりの喪失、人間性の喪失、孤独のなかに苦しむことになるのです。人は神となることはできません。「人」であることに人の救いはあるのです。 「その栄光を見た」とはどういうことでしょうか。もともと神の子は父なる神と一体なので、御子の栄光は神の栄光を見ることに他ならないのです。実は、御子の栄光は逆説的な栄光です。人間となることに神の栄光を見ることは理解しがたいことです。あり得ないこと、日本語で言うと有り難いこと。あり得ないことが起こったのです。受肉のできごと、クリスマスの出来事は、私どもにとってこの上なく有り難い出来事であることをあらためて覚えたいと思います。御子を見ることを通して神を見る者とされたのです。 18節に「いまだかつて神を見たものはいない」とあります。本来、神を見ることはできません。なぜなら、神は真実なる方ですから、罪ある私どもは真実である神の前には到底耐えられないのです。私どもは神を見た時、滅びざるを得ない存在です。 「恵みと真理とに満ちていた」とあります。神の「恵み」とは神の「救い」のことです。恵み(救い)が満ち溢れているのです。「真理」とは、イエスが神の御子、救い主であることです。イエスが神であってくださることが真理なのです。 もう一つお話します。これは実は終わりの日の出来事をも表しているということをです。顔と顔を合わせて神を見る。これを聖書では終わりの日(終末)の出来事と言っています。しかし、私どもはイエス・キリストを見ることを通して、終わりの日の出来事を先取る恵みをも得ているのです。それは、礼拝を守ることを通して与えられる恵みです。 |
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今日読みましたヨハネによる福音書4章は、主イエスが「礼拝」について語られた箇所です。ローマの信徒への手紙では、パウロは「礼拝」について明確に述べています。パウロの一番長い手紙はローマの信徒への手紙で、16章まであります。1〜11章には「信仰の筋道・原理」が書かれており、12章以降は「どう生きるべきか」について書かれています。ですから、この書を読みますと「信仰を持つ者としてどう生きていくべきか」がわかるのです。 1節、「こういうわけで」と始まります。そして「礼拝」の捉え方をまず示しています。この箇所で、非常に難しいと思う箇所は「なすべき礼拝」というところです。口語訳では「霊的な礼拝」となっていました。しかし英訳では「理性的な礼拝、合理的な礼拝」あるいは「霊的な礼拝」など、意味が反対とも思える訳が多々あるのです。ですから、この新共同訳聖書の「なすべき礼拝」という訳は、非常にうまい訳であるとも言えるでしょう。 なぜ私どもは毎週教会に集まるのでしょう。それは、主イエス・キリストを忘れないためです。そして「わたしは全て神様のものなのだ」と告白するのです。「わたしのためにキリストは十字架にかかって下さった。功名無しで、無条件で愛されているのだ」、それを忘れないために毎週礼拝を献げているのです。 2節「この世に倣ってはなりません」と言われます。「妥協するな」と言っているのです。人は妥協すると、どこまでも妥協せざるを得なくなり、どんどん自分が壊れていくのです。自分のアイデンティティが無くなっていくのです。自分がわからないまま進んで行くことの恐ろしさを思います。 また人は「自分を変える」ことの難しさを知っています。「心を新たにして」とは、礼拝に出ることによって作りかえられ新しくしていただくということです。それがパウロが言おうとしたことです。 ルカによる福音書17章11節以下に主イエスの奇跡物語があります。皮膚病を患った10人が癒しを願い、癒された記事です。癒された10人のうちの一人の者が主のもとに喜んで帰ってきました。これが礼拝だと思うのです。私どもを無条件に愛して下さること、そのことを喜んで感謝を献げる、そこに私どもの「なすべき礼拝」があるのです。 |
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14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、「受肉」を意味します。 15節、ここにバプテスマのヨハネの言葉が記されていますが、ここでのバプテスマのヨハネのキリストについての証しは、他の福音書とは異なっています。ヨハネによる福音書以外の3つの福音書では、「わたしの後から来られる方は優れている。力のある方、救いと裁きをなす救い主(聖霊と火による洗礼)である」という点を強調しています。しかしヨハネによる福音書では「わたしより後から来られた方は、先におられた方である」ことを強調しているのです。先在性(受肉されたイエスは先在された方)を、つまり「天地創造をなさった神と共にある方」であることを強調しています。先在のキリストは創造と関わっていることを知らなければなりません。救いと創造が一つとして語られるということです。これは「御子を信じる者は新しい民として創造される」ということ、「神の子としての新しい創造をいただく」ことを意味します。このことはヨハネによる福音書の冒頭から言われていることで、ヨハネの証しで示されていることは「主イエスはわたしより先なる方」と語っていることです。 16節「満ちあふれる豊かさ」の内容は、「恵みと真理に充満している主イエス・キリスト」ということです。当時のギリシャ世界はグノーシス思想に支配されており、「充満」は救いの頂点を表す「永遠の命に満ちあふれていること」を意味しました。従って、主イエス・キリストの永遠の命にあずかるということです。「恵み」は「主イエス・キリストによる救い」そのものです。「真理」は「主イエス・キリストが救い主である」ということです。どちらも救いを表し、主を信ずることは、永遠の命に満ちあふれ、救いにあずかっているということなのです。 ヨハネによる福音書1章1〜18節は全体の序にあたります。ここで語りたいことは、18節が結論部分です。「父のふところにいる独り子である神」、つまり「イエス・キリストは神だ」と言っているのです。ここにユダヤ教とキリスト教の一線があります。ユダヤ教では、イエスをメシアとしますが神とは認めません。 私どもの献げる礼拝は「主イエスを神として礼拝する」のです。「甦りの主イエス」を神として礼拝しているのであります。 |
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私どもは、ともすると「魂の扉」を閉じてしまっている者であります。 ヨハネ黙示録3章14節以下には、ヨハネからラオディキヤの教会に送られた手紙が記されています。ヨハネはパトモス島に送られましたが、そこから7つの教会に宛てて手紙を書いたと言われております。 18節、貧しさ、裸、目薬という言葉で三つの勧告をしています。本当の富と救いとは何かを語っているのです。「火で精錬された金」とは主によって与えられる真実の輝き、「白い衣」とは新しい生を生きることの象徴の白、「目に塗る薬」とは目を癒し本当に見るべきものを見えるようにするということです。主イエス・キリストを信じて生きるとき、真実の富、真実の癒しが与えられるのであります。 「霊性の飢饉」ということが言われます。それは、霊の食物を失ったとき、私どものは肉の食物を求めるように霊の食物を求めるだろうか、いや求めない、ということです。しかし19節では「熱心に求めよ、悔い改めよ」と言っています。 20節には、主イエス・キリストが準備してくださる恵みと憐れみの大きさが示されています。主イエスが扉をノックし、入ってきてくださり、共に食し交わりをしてくださるというのです。私どもの頑な扉を主イエスはノックし続けていてくださいます。その主の呼びかけに応えて扉を開けること、それだけが私どもに求められていることです。 私どもには、信仰の闘いの日が必ずあります。創世記32章の箇所は、ヤコブがヤボクの渡しで神の天使と闘う場面です。ヤコブは腿の関節を外されて自らの力を失ったとき、祝福されました。「勝利を得る者」とは、神によって義とされ祝福された者のことであります。信仰によって義とされ、聖餐により、十字架によって勝利を得られた主をお迎えする恵みに与るのです。 |
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