聖書のみことば/2006.1
2006年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
味わい知った幸福」 1月第1主日礼拝 2006年1月1日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第4章12〜20節
4章< 12節>わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。<13節>知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。<14節>そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。<15節>あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。<16節>すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。<17節>あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。<18節>わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。<19節>わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。<20節>できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
ユダヤ人キリスト者は、福音のみではだめで、割礼を受け律法を守らなければならないという考え方を推し進め、ガラテヤの信徒は、その考えに染まっていきました。ここでパウロは律法を救いの条件としない、自由になって「福音のみ」と、「解放された者になりなさい」と切実に言っています。兄弟たち、お願いしますと切実な思いで言っているのです。
 パウロという人は、復活のキリストに出会って、「救いはただ神の憐れみによる」ということが鮮やかに分かった人です。救いは神の憐れみにあずかることであって、自らの手で勝ちとることではない。自己義認は、信仰の確信を得られないのです。パウロは何よりも神が第一なのだ、と切実に訴えたのです。キリストの十字架と復活なくしては耐えられないという思いなのです。どうか「福音のみ」に戻ってほしいと訴えているのです。

パウロの肉体が弱くなったこと、すなわち病気を患い、当初の伝道計画が挫折し、そこでまったく思いもよらぬ地ガラテヤに導かれて、教会ができたのです。軽蔑してしかりの病気(当時汚れとされた膿を伴う目の病気と思われる)なのに、パウロを受け入れてくれた。パウロを拒んで忌み嫌っていいはずなのに、ガラテヤ人が受け入れてくれた。にもかかわらず、律法主義に落ちたガラテヤの人々に、福音のみに立ち返って欲しいという切実な思いだったのです。あなたがたが味わっていた幸福はどこにいったか、と。
 幸福とは神の恵みにあずかること。この一年も神の救い・恵みにあずかる、そこにこそ幸いがある。そのことを思い起こして歩む者でありたい!

キリストを形づくる」 1月第2主日礼拝 2006年1月8日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第4章12〜20節
4章< 12節>わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。<13節>知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。<14節>そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。<15節>あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。<16節>すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。<17節>あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。<18節>わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。<19節>わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。<20節>できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
病気であったにパウロを敬意を持って受け入れたにもかかわらず、ガラテヤの信徒は変わってしまって敵でもあるかのようだとパウロは言うのです。パウロにとって、この激しい思いの中に、「キリストのみ」の思いを見ることができます。16節、ガラテヤの信徒たちはパウロを遠ざけ、あとから来たユダヤ人キリスト者に倣い律法を守るキリスト者に変わっていってしまいました。
 パウロは、恵みということを知った人です。自らにより頼むのか、神に頼むのかなのです。自らに依存することは滅び・罪なのです。ついつい自分の能力に頼るものです。パウロは神を頼りとし自分を明け渡すときに、救いがあると確信しているのです。パウロは真理を語った。真理とは、救いに至る道、それはイエス・キリスト以外にないと言うのです。
 私どもの真理は、つき詰めると、過ぎゆくもの・滅びなのです。日本人の感覚には「あきらめ」がある。しかし私たちには真理、イエス・キリストの救いがあるのです。キリストのみに真理があるにもかかわらず、律法へ走り滅びを選択したと言っている。17節「善意からではない」とは、ガラテヤ人の救いのことを思っていないということです。本当の善意はキリストに至る事なのです。
 ここでパウロは言うのです。彼らが律法を説く事は、分派活動に走らせ、自分たちの仲間を増やすに過ぎないと。信仰というのは、仲間を増やす事ではないのです。それは救いではないのです。仲間を増やしたいというその思いの根底にあるのは、自分に振り向かせたい、注目されたいという自己顕示欲です。自立性がないのです。自立したものに成り得るのは、まったく神にあがないだされ、神に見い出されて、です。信仰に生きるとは、神により頼み、他には頼らず自立した人になるということです。

パウロは熱心に神にひたすら仕えた。神に仕える熱心さが、ガラテヤの信徒に福音に立ち帰るように語ったのです。パウロは地理的に離れたところにいて、「律法主義に陥ったガラテヤ信徒に対し途方に暮れている」、居ても立っていられない、「キリストに立ち帰ること」そのことを言いたい、そのもどかしさが語られています。十字架と復活のキリストのみを語る、そこに救いの出来事が起こる、それが教会の使命です、教会の恵みです。

安息日の主」 1月第3主日礼拝 2006年1月15日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第12章1〜8節
12章< 1節>そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。<2節>ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。<3節>そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。<4節>神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。<5節>安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。<6節>言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。<7節>もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。<8節>人の子は安息日の主なのである。」
安息日に麦畑をとおり、弟子達は空腹を覚え穂を摘んで食べた。これを見たファリサイ派の人々はこれを非難しました。
 世界は神に創られたこと、造り主であることを覚えて礼拝する、またもう一つ、出エジプトを覚えて、すなわち奴隷から救われたことを覚えて、ユダヤ人は安息日を守りました。従って安息日を守ることは重要な規定であったのです。ですからファリサイ派の人々はその規定(律法)を厳密に守っていました。

ファリサイ派の人々は誰を非難したのでしょうか。弟子ではなく、主イエスを非難しました。主イエスを自分たちと同列に、教師、教える者としてみています。神が優先しているのではなく、自分の判断基準で非難しています。自らの体験、行いに根拠を置くことは、神から遠いのです。欲するがままの弟子、俗物にすぎないのが弟子です。自らを律し得ない者を主イエスは弟子としておられる。俗物だからこそ救いが必要なのです。
 ファリサイ派の人々は、「自分を厳しく律することを教えてないのか、安息日を厳密に守る事を教えていないのか」と主イエスを責めました。しかし実は、穂を摘んで食べることの禁止規則はないのです。ファリサイ派の人々は自ら厳しくこの教えを解釈し、自らを律することによって、自らの敬虔さを表したのです。律法を重んじているのではなく、自らをどう律するかという、自分が中心となっているのです。
 しかしそこでは、裁きが起こってきます。「自分たちはこうしている。あなたは出来ないのか」。神の前に膝まずくことでなく、自分なのです。それは人と共に生きる姿勢ではないのです。 主イエスはダビデを例に出し、掟を犯しても罪にならないことがある、安息日規定は絶対ではないと言われました。主は律法に縛られる方ではない。律法、神殿よりももっと大事な偉大なものがあるのです。
 では偉大なものとは何か? 7節「憐れみであって、いけにえでない」と、偉大なことは憐れみだと言っています。憐れみこそ律法も神殿も陵駕するのです。律法を盾に裁いている、それは憐れみではない。罪のわきまえも無い者、まさに見識もなく、自分の欲するままに生きる者すら、神の憐れみの中にあるものとして、主の弟子とされているのです。
 主イエスは、ご自身を「安息日の主」として示されました。安息日とは「憐れみの主を覚える日」です。神の憐れみを思い起こすことこそ、礼拝の中心であることを忘れてはいけません。私たちがひたすらに主に生かされている憐れみを思い起こすのです。礼拝に集う、十字架を思い起こし救いを感謝するのです。礼拝が出来ないのは、神のご恩を忘れていることであり、裏切りです。それはもはや人としての生き方ではない。神の恵みを礼拝において思い起こすのです。ただ神を崇める事によって知るのです。その恵みを軽んじてはいけません。ただあなたのみ私の救い、と祈りたい。来る朝ごと、来る主日ごと、主の憐れみを覚え、主を崇める者でありたいと思います。

ただ主の御前に心から」 1月第4主日礼拝 2006年1月22日 
大木正人 牧師/山梨英和学院(聴者/清藤)
聖書/サムエル記上 第1章1〜20節、ペトロの手紙一 第5章7節
サムエル記上1章 <1節>エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。<2節>エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。<3節>エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。<4節>いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、<5節>ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。<6節>彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。< 7節>毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。< 8節>夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」<9節>さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。<10節>ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。<11節>そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」<12節>ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。<13節>ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、<14節>彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」< 15節>ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。<16節>はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、<17節>「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。< 18節>ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。<19節>一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、< 20節>ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

ペトロの手紙一 / 5章 <7節>思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

ハンナ、ここに本当に祈っている人がいます。子供がいない女性の辛さはわかってもらえず、夫エルカナの言葉さえ、慰めとならず亀裂となるのです。彼女が直面した問題は、どうにもならない人間関係を示しています。
 「ハンナ」その意味は「恵み、いつくしみ、好意」。おそらく神からの豊かな恵みをいただき、人から愛され好意をもたれる人となってほしいという思いで名付けられたのでしょう。夫との間に子供がないという辛い思い。3000年前の古代では沢山子供を産むのは義務であり、神からの祝福と考えられていました。励ますつもりで言った言葉も、かえって悲しみが増す。どうにもならい思い、それが人間関係です。

3節、シロでのいけにえ祝い、喜びと祝いの食卓であったにもかかわらず、しかしハンナには耐えられない針のムシロでありました。もう一人の妻ペニナには子供たくさんいる。しかしペニナも、夫は自分に目をむけてくれない、ハンナにばかり…。ハンナもペニナもそれぞれ人間関係に亀裂があるのです。
 打ちひしがれたハンナはシロの神殿に引き返します。神殿の片隅に身を隠し、泣きます。うち明けられる場があり、それは救いでした。こうした場所、話す相手もない、それがこの世の現実です。だから伝道しなければならないのです。今、キリストの教会は、弱さをさらけだし泣ける場所になっているでしょうか?
 私たちには自分ではどうにもならないことが沢山あります。子供が産まれない、だれもわかってくれない寂しさです。ハンナは神殿の片隅で祈っている、声にならない声で一心不乱に、一切の心を注ぎ出し祈っています。それは、わずかに唇がふるえる、声にならない黙祷でありました。しかし、祭司エリはハンナの思いに気付かないのです。酒に酔っていると思った。ハンナは訴え、深い苦しみが多くあるのだと答えます。
 しかし神様は祭司とは違うのです。私たちの切なるすべての思いを聞き取り、行動してくださるお方です。万軍の神、私たちは、そこに祈るのです。
 またここで大事なのは、苦しみの極みで祈り求めている、行動する神に祈っているということです。そして彼女は新しくされました。顔が変った、輝いている。悲しみを乗り超え、家に帰っていきます。

我々は誰一人理解してくれない中で漂うのではないのです。神と共に生きていけるからです。主イエスの弟子ペテロは、思い患いはすべて神に任せなさい、神があなたのことを心にかけてくださる、と言っています。「恵み」という意味の「ハンナ」の物語は、多くの恵みの壮大な広がりの中にあります。

二つの契約」 1月第5主日礼拝 2006年1月29日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第4章21〜31節
<21節>わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。<22節>アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。<23節>ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。< 24節>これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。< 25節>このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。<26節>他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。<27節>なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」<28節>ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。<29節>けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。<30節>しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。<31節>要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
パウロはガリラヤの信徒に問うている、「律法の下にいたいと思う人たち」と呼びかけています。普通は「聖徒」と呼びかけるのです。しかしパウロは、ガラテヤの信徒たちを「律法に支配されたいと欲している者」と思っているということです。ガラテヤの信徒たちは福音に生きるのではなく、後からやってきたユダヤ人キリスト者から「律法を守らなければ」と言われたことに惹かれたからです。
 律法を福音に勝って重んじている彼らをパウロは「律法の奴隷」と言っています。人間の思いには、何かにすがる、自らに束縛を求める思いがある。こだわりに生きようとするのです。日本人は「こだわり」を一つの美の価値観にしています。美に結び付け、「こだわり」に生きる事は美しいとする。言葉を変えると、「徹する」ことは美しいとする。しかし考えてみると、空しいものに徹するわけですから、美には何もないと言わざるえないのです。原始仏教は無に徹するものでありました。日本人の根底にあるものは、無に徹し、こだわって生きる生き方でした。自らの束縛(徹すること)によって自らの存在感を見ようとするのです。しかし、それは本当の意味で救いにはならない。限界があるのです。

自らを束縛する必要はないのだ、キリストにあって自由な者だと、パウロは言っています。自由とは、こだわりから解き放たれることです。神の憐れみ、恵みの内に、我々の存在は確かさを持つのです。私たちは自分ではこだわって生きるしかありません。そういう限界の中で生きているのです。ただ揺るぎない神の憐れみの中でのみ、確かな存在を見るのです。

「律法の言うこと」と言っているところは、律法の書に示された、すなわち創世記をここでは示しています。奴隷と自由ということを語っている。神の救いは自由、すなわち主イエス・キリストを受け入れることであります。
 キリスト者は約束のもとにある。神の約束により神の子とされました。神の約束により、私どもは在るのです。