2005年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
信仰の義」 9月第1主日礼拝 2005年9月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章6〜14節
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
律法を守って救われるのではなく、福音を信じたから救われた・義とされたと、繰り返しのべてきました。信じる恵みを繰り返し語ってきました。これでもかと信仰によって救われることを語っています。

パウロはここで創世記15章の言葉を持ち出し、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」との神の語りかけにアブラハムは答え、それを受けてアブラハムは信じた、そして義とされた、と示しています。いかに弱く優柔不断な、族長として能力もない、信じきっていると言えない欠けだらけなアブラハムであっても、信じ、義と認められたと言いきっている。信仰とはどういうことかと問わざるえません。信仰とは自分の確信にもとづく信念ではありません。信仰とは「神がみ言葉を与えてくださること」なのです。み言葉には力があり真実です。み言葉は実現するのです。私の確信ではない。信仰とはみ言葉をいただくこと、これに尽きるのです。それゆえ義とされるのです。その人がどれだけ信じるかではないのです。「日々にみ言葉をいただいていることが信じているということ」にほかなりません。

アブラハムをひきあいに出しているのは、律法の契約が与えられる以前に、信じて義にされたという出来事があったことを強調するためです。信仰はみ言葉をいただくことです。み言葉をいただくことが信仰生活です。こんなに信じきれないのに、だめなのに、なおかつ真実なみ言葉をいただいているのです。

今の時代、私たちはいつでもみ言葉が聴ける恵みの時に生きています。いつでも聖書を手に取り、教会へ出かけることが出来ます。そのことを覚えてほしい。私たちは信仰の時代を生きているのです。ですから、み言葉がいただけなくなるのは危ういことです。礼拝に出なくなる、聖書を学ばなくなることは危ういことです。み言葉が与えられているということが生命線です!

もう一ヶ所、創世記12章を引用しています。創世記において既に、異邦人も祝福にあずかると言っています。

アブラハムという人は、途中で挫折したり、救い難い者であったにもかかわらず、本来なすべき到達地に導びかれて目的を完成することができました。しかし、完成は神を抜きにしてあり得ません。私たちの信仰が完結をみるのは神がいるからです。我々の人生は道半ばで終わるのではない、神が導いてくださり、到達点・完結を見るのです。

異邦人にも及ぶ祝福」 9月第2主日礼拝 2005年9月11日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章6〜14節
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
今日は9節から取り上げます。信仰のある人に祝福があるというのです。約束を受けているから与えられるのではなく、すでに祝福の内にあるというのです。アブラハムと共に、と言っています。アブラハムを祝福の仲介者として捉えておらず、アブラハムが信じたがゆえに祝福されたように、あなたがたもそうだと言うのです。

パウロは信仰者の祝福に続いて、律法に頼る者の呪いを語っています。では呪いとは何なのか。「呪う」とは、神仏に災いを祈るのが本来の意味。「滅びの支配にある」という意味合いがあります。旧約聖書では、祝福は具体的です。救いとは数が増すこと。具体的な恵みをいただくことです。神の力をいただくことです。どんな困難、苦しみにあろうとも神が共にあり、神の支え、力をいただくことが祝福なのです。どんな状況にあろうとも神の恵みを見い出す、それが祝福です。

パウロは、律法の一つ一つを守ることは出来ることを知っていました。しかし、本当に守る(神のみこころを行う)ことは出来ない、と言っています。「殺すな」という律法と、他者を「ばか」と思うことは、存在の否定という意味でで同じです。「殺すな」という律法は守れても、「ばか」と思うことによる存在否定はしてしまうのです。神は人の救いを願っておられます。しかし私どもは、表面上正しく生きても、神からはとても遠いということを、パウロは自分の体験から知っていました。神は、神の敵(迫害者)にすぎなかったパウロを見捨てず、神の者としてくださいました。それは、まったく律法(行い)に頼るものではありません。ただ神の憐れみにより、どんなに敵対していた者に対しても、神の愛を貫いてくださったのです。ですから、私どもはそれに応えるしかありません。

律法の実行は、神の憐れみを基にしているものではなく、自らの力に立っています。これは、一番罪深いことです。これでは共同体は成り立ちません。自分の力で他者を裁くことになり、それは必然的に本当の交わりを作らないからです。ですから滅びなのです。生きるとは、神の交わりの中にあることです。信仰とは、神を第一とすることです。私どもは、自力にやぶれ、神の憐れみに生きるのです。

人々の信仰」 9月第4主日礼拝 2005年9月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第9章1〜8節
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
今朝はガラテヤ書を離れ、福音書に聴きたいと思います。

主イエスは異邦人の地からもどり、舟にのって湖をわたり故郷に帰ってきました。主イエスは自分の町に帰ってきた、そこはカファルナウムを意味します。主が臨み、み業をなして下さる町です。
 ここ甲府にも主は臨み、ここも御自分の町と言ってくださっています。恐れるな語りつづけよ、私の民が大勢いるのだからと言ってくださるのです。

人々が中風の者を床に寝かせて主イエスのもとに連れてきました。その人々の信仰をみて、主イエスは宣言されました。それは罪のゆるしです。主の救いは、罪のゆるしです。そしてそれは何によってあたえられるのか、「信仰によって」罪のゆるしが宣言されるのです。キリストを信じるとは、罪をゆるされ、神との交わりが回復することを言うのです。
 このところで主イエスは罪のゆるしの宣言をする時、「子よ、」と呼びかけています。それは「神の子」として覚えられるということです。罪のゆるしの宣言を受けるからです。神の支配にいる者、御国に生きる者としての恵みをいただいたのです。

しかしそれは、その人(中風の人)の信仰ではありません。人々によってです。信仰は個人の信仰ではありません。人々の信仰・共同体の信仰です。このことは大事なことです。一個人の信仰ではない、信仰共同体を言い表しているのです。
 人々は癒しを求めて主イエスのところへ来たのでしょう。何はともあれ主イエスのもとに来た。ここでは内容を細かく問うてはいないのです。内容無しに、ただ主の前に進み出ればよい。人は救われる内容を持たないのです。主へと進み出ればよいのです。とにもかくにも進み出た者を救ってくださるのです。ありがたいことです。救いは宣言を受けることなのです。

律法学者は、主イエスの行為を、神の領域を犯し冒涜していると思いました。それは「主イエスが神の子である」ことを知らないからです。「悪しき思い」は「主イエスを神の子と信じられないこと」です。主イエスは、癒しと罪のゆるしと、どちらがたやすいかを問われました。そして中風の人を癒されました。

中風の人は癒されて家に帰りました。帰るとは、彼が共同体の中に戻った事を意味します。「人々」は、すなわち信仰共同体です。教会の信仰をいい表しているのです。

罪の宣言は、教会に委ねられている信仰・力です。ですから「教会が言い表している信仰に同意します」と言い表すことによって、救いの宣言を受けるのです。私たち(個人)の信仰は曖昧なのです。ですから教会の信仰を自分の信仰と言い表すことが大事です。ですから礼拝が大事なのです。教会の信仰による救いを大事にしているからです。

教会の成すべきことはたった一つ、それは「罪のゆるしの宣言」です。ここに神の出来事が起こり、人々は神を賛美するのです。