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律法を守って救われるのではなく、福音を信じたから救われた・義とされたと、繰り返しのべてきました。信じる恵みを繰り返し語ってきました。これでもかと信仰によって救われることを語っています。
パウロはここで創世記15章の言葉を持ち出し、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」との神の語りかけにアブラハムは答え、それを受けてアブラハムは信じた、そして義とされた、と示しています。いかに弱く優柔不断な、族長として能力もない、信じきっていると言えない欠けだらけなアブラハムであっても、信じ、義と認められたと言いきっている。信仰とはどういうことかと問わざるえません。信仰とは自分の確信にもとづく信念ではありません。信仰とは「神がみ言葉を与えてくださること」なのです。み言葉には力があり真実です。み言葉は実現するのです。私の確信ではない。信仰とはみ言葉をいただくこと、これに尽きるのです。それゆえ義とされるのです。その人がどれだけ信じるかではないのです。「日々にみ言葉をいただいていることが信じているということ」にほかなりません。 アブラハムをひきあいに出しているのは、律法の契約が与えられる以前に、信じて義にされたという出来事があったことを強調するためです。信仰はみ言葉をいただくことです。み言葉をいただくことが信仰生活です。こんなに信じきれないのに、だめなのに、なおかつ真実なみ言葉をいただいているのです。 今の時代、私たちはいつでもみ言葉が聴ける恵みの時に生きています。いつでも聖書を手に取り、教会へ出かけることが出来ます。そのことを覚えてほしい。私たちは信仰の時代を生きているのです。ですから、み言葉がいただけなくなるのは危ういことです。礼拝に出なくなる、聖書を学ばなくなることは危ういことです。み言葉が与えられているということが生命線です! もう一ヶ所、創世記12章を引用しています。創世記において既に、異邦人も祝福にあずかると言っています。 アブラハムという人は、途中で挫折したり、救い難い者であったにもかかわらず、本来なすべき到達地に導びかれて目的を完成することができました。しかし、完成は神を抜きにしてあり得ません。私たちの信仰が完結をみるのは神がいるからです。我々の人生は道半ばで終わるのではない、神が導いてくださり、到達点・完結を見るのです。 |
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今日は9節から取り上げます。信仰のある人に祝福があるというのです。約束を受けているから与えられるのではなく、すでに祝福の内にあるというのです。アブラハムと共に、と言っています。アブラハムを祝福の仲介者として捉えておらず、アブラハムが信じたがゆえに祝福されたように、あなたがたもそうだと言うのです。
パウロは信仰者の祝福に続いて、律法に頼る者の呪いを語っています。では呪いとは何なのか。「呪う」とは、神仏に災いを祈るのが本来の意味。「滅びの支配にある」という意味合いがあります。旧約聖書では、祝福は具体的です。救いとは数が増すこと。具体的な恵みをいただくことです。神の力をいただくことです。どんな困難、苦しみにあろうとも神が共にあり、神の支え、力をいただくことが祝福なのです。どんな状況にあろうとも神の恵みを見い出す、それが祝福です。 パウロは、律法の一つ一つを守ることは出来ることを知っていました。しかし、本当に守る(神のみこころを行う)ことは出来ない、と言っています。「殺すな」という律法と、他者を「ばか」と思うことは、存在の否定という意味でで同じです。「殺すな」という律法は守れても、「ばか」と思うことによる存在否定はしてしまうのです。神は人の救いを願っておられます。しかし私どもは、表面上正しく生きても、神からはとても遠いということを、パウロは自分の体験から知っていました。神は、神の敵(迫害者)にすぎなかったパウロを見捨てず、神の者としてくださいました。それは、まったく律法(行い)に頼るものではありません。ただ神の憐れみにより、どんなに敵対していた者に対しても、神の愛を貫いてくださったのです。ですから、私どもはそれに応えるしかありません。 律法の実行は、神の憐れみを基にしているものではなく、自らの力に立っています。これは、一番罪深いことです。これでは共同体は成り立ちません。自分の力で他者を裁くことになり、それは必然的に本当の交わりを作らないからです。ですから滅びなのです。生きるとは、神の交わりの中にあることです。信仰とは、神を第一とすることです。私どもは、自力にやぶれ、神の憐れみに生きるのです。 |
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今朝はガラテヤ書を離れ、福音書に聴きたいと思います。
主イエスは異邦人の地からもどり、舟にのって湖をわたり故郷に帰ってきました。主イエスは自分の町に帰ってきた、そこはカファルナウムを意味します。主が臨み、み業をなして下さる町です。 人々が中風の者を床に寝かせて主イエスのもとに連れてきました。その人々の信仰をみて、主イエスは宣言されました。それは罪のゆるしです。主の救いは、罪のゆるしです。そしてそれは何によってあたえられるのか、「信仰によって」罪のゆるしが宣言されるのです。キリストを信じるとは、罪をゆるされ、神との交わりが回復することを言うのです。 しかしそれは、その人(中風の人)の信仰ではありません。人々によってです。信仰は個人の信仰ではありません。人々の信仰・共同体の信仰です。このことは大事なことです。一個人の信仰ではない、信仰共同体を言い表しているのです。 律法学者は、主イエスの行為を、神の領域を犯し冒涜していると思いました。それは「主イエスが神の子である」ことを知らないからです。「悪しき思い」は「主イエスを神の子と信じられないこと」です。主イエスは、癒しと罪のゆるしと、どちらがたやすいかを問われました。そして中風の人を癒されました。 中風の人は癒されて家に帰りました。帰るとは、彼が共同体の中に戻った事を意味します。「人々」は、すなわち信仰共同体です。教会の信仰をいい表しているのです。 罪の宣言は、教会に委ねられている信仰・力です。ですから「教会が言い表している信仰に同意します」と言い表すことによって、救いの宣言を受けるのです。私たち(個人)の信仰は曖昧なのです。ですから教会の信仰を自分の信仰と言い表すことが大事です。ですから礼拝が大事なのです。教会の信仰による救いを大事にしているからです。 教会の成すべきことはたった一つ、それは「罪のゆるしの宣言」です。ここに神の出来事が起こり、人々は神を賛美するのです。 |
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