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今日は17節からです。罪に仕えるとはどういうことか。律法違反、キリストのゆるしを得るために大胆に罪を犯したらよいではないか、というのが敵側の意見です。しかし断じてそうではない、と17節で言っています。 罪をどうとらえるか?ユダヤ人は「律法違反が罪」と捉えていますが、パウロは「そうではない。神がこの世を救うために御子を遣わした。それを受け入れないことこそが罪だ」と言うのです。パウロ自身、キリストを信じられず神から遠い者でした。それが罪の問題なのだと知ったのです。律法こそ究極の基準という意見に対して、パウロは、キリストすなわち神のあわれみによって立つ、そこに究極の基準があると知ったのです。キリストを信じることによってのみ、神と正しい関係になる。ですからパウロは律法を基準としないと宣言したのです。しかし律法を無視したというわけではない。普通の生活では、ユダヤ教の生活をしたのです。律法から解き放たれて、捕われずに生活したのです。キリストを信じ神のあわれみに生きたのです。「神に対して」と「律法に対して」は並列しています。しかし「神との正しい関係によって」を強調し、「律法によるのではない」ことを強調しているのです。律法から解き放たれ、神の支配のもとに生きるのだと言っているのです。
死とは人生の総決算の時であり、大丈夫といえない不安があるます。しかし幸いなことに、キリストは罪なる死を引き受けてくださった。私たちの死は孤独ではなく、キリストと共に生きるという新しい生活が与えられているのです。それがキリストの十字架の死です。命をもって支払ってくださった。あがないは神のもの・キリストのものにされるということにほかなりません。それが十字架の主を信じるとうことなのです。私たちは人生を「生きなければならない」というのではありません。それは律法の生き方です。そうではない、「ゆるされて生きている」ということです。「ねばならぬ」から解き放たれて、神の恵みに生きるということです。生かされているという喜びの生き方です。自分で生きるのではなく、神のものとして信頼し、明け渡して生きることなのです。キリストに任せて生きる。生きなければならないのではない。生も死もキリストに任せるということです。そのことにより全てから解き放たれるということを覚えたい。生きるも主のため、死も主のため。 神が私をあがなってくださったから、キリストのものとして生かされているのです。神の御子キリストの真実により生きているのです。 私たちの信仰も神によって与えられたものです。与えられた恵みの応答として信仰がある。神からの働きかけがなければ起こりえません。信じることは恵みなのです。一方的な神からの恵みなのです。人はどこで救われるか、真実によってのみ救われます。真実はどこにあるのか、神のみ、御子キリストにこそある。 「おかげ」という言葉は聖書では「権威、力」です。神様のおかげで救われる。キリストのおかげであって、律法のおかげではない。ゆるされてあるのです。 |
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主イエスがカフェナウムに入っていきます。百人隊長がわざわざやってきて懇願している。僕が中風が寝込んで苦しんでいると言うのです。1、現状を訴えているだけで、直接助けてと言っていない。2、奴隷のためにわざわざやってきて訴えるのか。この2つのことが問われています。
2の奴隷・僕は自分の子供という訳もあり、青年という訳もあります。重要な家の管理をまかされた奴隷と考えられるのです。ではなぜ「助けて、いやしてください」と直接言わなかったのでしょうか。百人隊長はユダヤ人でなく異邦人だったから、ストレートに言わなかったのです。「祈り」は神に強いているだけではだめです。ただひたすらに苦しんでいると訴えている、主が主体となって現実を知って、為してくださる。このように助けてくださいと祈るのでなく、このように苦しんでいると祈る、そして神に任せる。そういうこともわきまえ知るべきです。われわれは、「こうしてください!」と神をも引きずりまわそうとする傲慢さがあることを知るべきです。 主イエスの答えは、「わたしが行って、いやしてあげよう」 。そこで百人隊長は、ありがとうと言わない、いや主をお迎えできるような値打ち、資格はないと答えます。私は罪人にすぎないとの信仰告白です。主の言葉の前に、罪人にすぎないと告白する以外に人の真実な告白はないのです。「ただ一言おっしゃってください」と。一かけらのあわれみをいただきたいと言い表している。人の正しさは「罪人だから神のあわれみなくして生きられない」ところにあります。イスラエルは暗闇に放り出されます。自ら信仰を持っていると思い、本当に罪を痛んでない。自己満足している者に救いはありません。 主は「帰りなさい。あなたが信じたとおりになる」とおっしゃいます。主の言葉をいただいたのです。主の言葉によって生きるのだということを覚えたい。主の奇跡を強調しているのでも、癒しを強調したわけでもありません。主のみ言葉を強調しているのです。主のみ言葉以外に生きる力はないのです。 |
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十字架につけられた主、それは私どもも共に十字架についているということです。十字架上の主を見ることは、罪が裁かれているその様を見ているのです。
霊を受けたとあります。どういうふうに受けたか。私たちが共に十字架につけられ裁かれたということは、霊を受けていることで初めて知りえることです。神が働いてくださって可能なのです。私たちの知識ではない。聖霊を受けたというのは、パウロは洗礼を受けたことを意味すると語っています。聖霊を受けるとは洗礼を受けることと語られている。救いの印をいただくこと、まさに神の働きです。 神が働かずして神のものになりません。もし我々が恵みを数えあげるとすれば、聖霊が働いてくださって初めて見ることができます。神が働いて下さって、失われたもの、痛み苦しみの中で恵みを見るのです。「自分の」というとき、不自由の中にいるのです。福音を聞いて信じたということは御言葉を聴いて信じた、そして御言葉とともに神の霊が働くということです。聖霊の働きによってこそ神の言葉だと言いえるのです。なぜ洗礼を受けることが聖霊を受けることになるのか。聖霊を信じるということがなければ、神の言葉にあずかることはできないからです。 「物分かりの悪いガラテヤ人よ」と辛辣に言うのは、親密に、大切に、こよなく愛しているからです。御言葉を信じ受け入れたのに、律法を行うことにより救いを達成しようとするのか?と問うのです。結局は自力によって、目的・到達点(救い)に達っしようとすることを、嘆いているのです。それはキリストの十字架・復活を無駄にしてしまうことです。すなわち、キリスト者を放棄することです。 救いは努力目標でははありません。まったく一方的に受けた神の恵みなのです。私どもは、努力せざるえないような愚かな、ちっぽけな存在であり、恵みによってのみ生きざるえない存在であることを知らなければなりません。信仰とは、想起として、神のなしてくださったみ業、恵みを思い起こすことなのです。 |
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主イエスが向こう岸、異邦人の地ガダラに着かれました。ここに「全世界の救い主として」という前提があります。またもう一つの意味は、「舟に乗り込み(23節)」どこへ行ったかの目的地の答え、そして「主イエスは誰なのか」の答えでもあります。
悪霊に取りつかれ墓場に住んでいた二人の話。悪霊はすなわち死、滅びを示します。悪しき力とは神以外のすべての支配の力です。私たちは悪霊の支配下にあることを覚えなければなりません。私たちが拠り所としている価値観。たとえば仕事を第一とすれば仕事が悪しき力となる。私たちの判断基準は悪しき力なのです。神以外の一切の力は悪霊です。人は悪霊の支配下にある。しかし、イエスの力・神の力は命の力なのです。私たちが頼りにしている力は死です。 悪霊に取りつかれた男は、主イエスを神の子と知っていました。それは霊だからです。私たちに平安を与え、混沌から解き放ってくださって命を与えるのが神の力です。私たちは洗礼を受け、聖霊を受けます。悪霊は来臨・終末の時は今でないと言いますが、しかし真実は、審判者としての主イエスが先取っておいでくださったのです。すなわち終わりの日の救いを先取りしているのです。 イエス様の前に悪霊は滅びに至ります。暫定的に悪霊の支配下にあっても、私たちは、救い主の支配下、すなわち命の中にあります。主に従うことは命です。私たちはなお経済的なものに頼っていますが、そうゆう私たちを救うのは主のみです。 |
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