聖書のみことば/2005.12
2005年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神から知られている」 12月第1主日礼拝 2005年12月4日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第4章8〜20節
4章<8節>ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。<9節>しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。<10節>あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。<11節>あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。<12節>わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。<13節>知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。<14節>そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。<15節>あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。<16節>すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。<17節>あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。<18節>わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。<19節>わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。<20節>できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
パウロは、以前ガラテヤの人は神を知らない者であった、そして神でないものを神とし束縛され不自由な者とされていた、しかし今や神を知っている、知るということは神に知られるようになったのだと、先ず述べています。
 自ら欲するものを神とする、自分の中心に据え・拠り所にする、それが偶像礼拝です。偶像礼拝は自分が神となることに他なりません。我々は、自分の捕われでしか生きる事が出来ないのが現実です。しかし神を信じることは、神によって自由人とされることなのです。自らに執着することがなくなる。自分を愛する事が出来る。隣人を愛せる。赦されていることによって起こるのです。信じるということは、自分という執着から解き放たれることです。本当の自由人として神と人(自分を、他者を)を愛せるのです。

神を知るということは、仕えること、礼拝することです。礼拝しないとすれば、神を単なる知識として知る、神を冒涜することに他ならないのです。信じるということは礼拝という行為が起こることに他ならないのです。神を神として礼拝する、その人こそ神を知っているということです。何も知らなくても良いのです。そこで神をかしこみ礼拝することです。私どもは、死を迎え何もわからなくなるかもしれない、しかし病床で礼拝をするとき、本人はアーメンということに出くわすことがあります。
 神を知るということを誤解されては困るとパウロは言いたいのです。「神に知られている」と、神が主体なのだと言い直している。信じさせていただいている、だから信じている。礼拝させていただいていることを忘れてはなりません。礼拝は赦されて守るのです。神が招いていてくださる、赦しなのです。信仰は神の恵みの出来事なのです。神はすべてを知っていてくださる、だから神の前に進み出る事が出来る。神を知る事は、神をかしこみ礼拝すること、そのことに感謝!

人はパンだけで生きる
       ものではない」
12月第2主日礼拝 2005年12月11日 
竹前 昇 牧師/日本基督教団総幹事
(聴者/清藤)
聖書/ルカによる福音書 第4章1〜4節
4章<1節>さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、<2節>四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。<3節>そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」<4節>イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
「人はパンだけで生きるものではない」、ある時、パンというものに精神があることがわかりました。目に見えるものに心が存在することがわかったということです。精神というのは信仰の一部。パンはお腹をみたす側面がありますが、同時に精神の面があります。たとえばクリスマスプレゼントは物ですが、そこには心が込められています。心だけというのはない、かならず形をとるのです。礼拝式も形をとる。しかし目に見えない心によって規制されます。
 私たちが生きていくために衣食住がどんなに大切でしょうか。食べるものがないことぐらい困ることはありません。東南アジアをみると、富の分配がうまくいっていない。経済、政治、外交、戦争、すべてパンということに集約されています。しかし、パンだけでは地球は破滅するでしょう。パンは生存の基礎条件、パンは神の慈しみとして与えられているのです。「神様ありがとうございます」と食前、食後に祈らないから人類は滅亡するのではないでしょうか。

2つの事を申し上げたいと思います。次週は「御言葉への飢え渇き」との説教、今日は食べる事の話です。私たちは、衣食住についてもっと良くしようということを求める、そのことを神様は喜んでいらっしゃる。食べたくなる、それは健康の証拠です。同時に病気になったり、悩んだりする、これこそ神様の慈しみに気づく時であるのです。

クリスマスにあたり、気付いてほしいことがあります。イエスの母マリアは言いました「わたしのようなはしために、どうしてイエス様を宿す事ができるでしょう」と。貧しい人、病んでいる人、底辺にいる人々に光が当てられのです。一番困った、どうしようもないところに、神はひっそりと来るのです。

御言葉への飢え渇き」 12月第3主日礼拝 2005年12月18日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/アモス書 第8章9〜14節
8章<9節>その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。<10節>わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする。<11節>見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。<12節>人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。<13節>その日には、美しいおとめも力強い若者も/渇きのために気を失う。<14節>サマリアの罪にかけて誓う者ども/「ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ/お前の愛する者は生きている」と言う者どもは/倒れて再び立ち上がることはない。
今という時代を御言葉に聴きたいと思います。

全地が闇に覆われる、すなわち神の裁きが世を覆うというのです。このアモスの時代は軍事的にも成功し、経済文化も進み、都市化も進み、貧富の差もおきてきた時代です。繁栄に酔いしれ祭り祝ったのです。神のあわれみを失った、人への思いやりが無くなってきた、そんな時代でありました。そこに、神の裁き、御言葉への飢え渇き・飢饉の裁きが行われると予言されたのです。
 御言葉を失った民は放浪の民だというのです。御言葉を失う事は、若者が希望を失うこと、すなわち未来が失われ滅びへ向かっているというのです。神を失う民には未来がないのです。今の日本に希望・未来がないと言われます。若者が負担をおわず、ニート、下流社会へ…、それが御言葉の飢饉です。今私たちが失っているものは何なのか、問わなければなりません。それは御言葉なのです。生きる希望なのです。人が生きるのは御言葉に生きることだと言うのです。人は主イエスに従う事によってこそ、真実に生きることができるのです。

痛ましい事件が続いています。それは、人間としての真の生き方を失っている、その象徴として私共につきつけられている事柄です。人は、神の言葉をいただいて初めて、人間とは何か、どういうものか、どうあるのか、問えるのです。神の言葉は人格を与えるのです。人を人間足らしめるのです。
 今の時代は、考える力を失っている、どうしたらよいかわからない、だからマニュアルによって生きざるを得ないのです。人間の尊厳が失われているのです。自らの思いを言語化する力が失われてきている。言葉で表現できないということは暴力に走るのです。自分の状況を言葉で言い表せない、それが暴力、殺意に走るのです。言葉を失うと人格を失うのです。自らを言語化できないからです。

今日与えられた御言葉に示されていることは、まさしく今の日本社会の問題なのです。御言葉の危機・飢饉なのです。今、考える力を必要としている。わたしたちの罪なる現実を受け入れる神の言葉を必要としているのです。社会は、主イエス・キリストを切望しているのです。

もうすぐクリスマスです。主よ来りませ、罪なる我々を受け入れてくださる、待ち望んでいる救い主がきてくださる恵みの言葉に聴きたいと思います。

人となる」 12月 クリスマス礼拝 2005年12月25日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第2章1〜13節
2章 <1節>そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、<2節>同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。<3節>何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、<4節>めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。<5節>互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。<6節>キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、<7節>かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、<8節>へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。<9節>このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。<10節>こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、<11節>すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。<12節>だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。<13節>あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
日曜日に礼拝をするのは、日曜日の朝イエス・キリストが甦えられたからです。復活のキリストを礼拝するのです。初代教会の礼拝から成立しているキリスト賛歌が、このフィリピの信徒への手紙第2章6〜7節です。これは初代教会の信仰告白なのです。「キリストは、人となってくださった神なのだ」ということがわかったという意味です。クリスマスは、人となってくださった神を礼拝することです。

「キリストは神の身分でありながら…」とあります。キリストは創造以前から在られた方、本質において神であられる、その方が人となられたということです。天地創造の神、そのキリストが敢えて人となった、というのです。「人となる」いわれも無いのに、必要も無いのに、敢えて「人となる」ということが言われています。神の思いがそこにあるのです。
 本来、私共は変わるのは至難の業、しかし神御自身が変ってくださることにより、救いということがおこる。神である身分の自分を放棄してまで人になってくださった、論理上成り立たないパラドックスです。キリストが自ら進んで神のあり方を放棄してまでも、ヨセフとマリヤの子として生まれてくださった。それは何故か? 罪人の救済、その救いの思いを私共は到底知りうるものではありません。お造りになった方が、造られたものになる、被造物になるということです。無限が有限になるというのです。何の得にもならないことを神はなさった。死に至るまでその限界を示されました。すなわち「死すべきものとなった」ということです。限界性の極み、それが死です。「死に至るまで完全な人間となられた」という賛歌です。
 さらに、「十字架の死」ここには大きな出来事が示されています。神が人となったということだけではなく、十字架の死を通して罪人のその死までもとってくださったというのです。私共はそのキリストにお会いし、結ばれる者になったのです。クリスマスは十字架を抜きにして語ることはできません。まさに神が、神でないものになるまでに変わってくださって、私共罪人をまったく愛して、憐れんでやまないのです。

「イエス・キリストは主である」、あらゆる名にまさる名、すなわち主、神なのだ、と全宇宙が告白しています。私たちだけではない、全宇宙がしていること、その告白を私たちが今しているのです。それは全世界・全宇宙を救う告白であることを覚えたいと思います。