聖書のみことば/2005.11
2005年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
信仰による」 11月第1主日礼拝 2005年11月6日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章21〜29節
3章<21節>それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。<22節>しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。<23節>信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。<24節>こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。<25節>しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。< 26節>あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。<27節>洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。<28節>そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。<29節>あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
「それでは律法は神の約束に反するものでしょうか」とあります。
 律法を厳格に守れば守るほど、人を裁くということが起こる。それが人間の姿です。裁きは神の出来事です。裁きは罪を終わらせるという出来事です。それは、人には成し得ない、神の御業です。神の裁きを脅し(裁かれるという)に使ってはなりません。裁きは、人の罪を終わらせてくれる、救いと一つなのです。人は律法を守ることで、人を裁き、自ら神になってしまいます。律法を守ることは、罪の連鎖ばかり、自らを義とするだけ、救いようがないのです。

しかし一方で、律法は「人の救いの無さ」を鮮やかにするものです。人と神の正しい関係とは、神を義とし神を神とし自らを低くすることです。罪を知ることは神を正しく知ることです。律法もまた、救いの御業に貢献します。自らは救われないということを明らかにするのです。「律法はキリストへ導く養育係となった」、管理の働きを強調しています。人は律法の支配のもとにあり、そこに救いはないということです。律法によって救いの無さを鮮やかにすることで、神を知るのです。

「信仰が現れる」とは、キリストのもとへ導く、信仰が来る、そのことはキリストの到来ということです。信仰とは主イエス・キリストへの信仰です。主イエスを信じることです。信仰は、神に根拠を置くことであることを忘れてはなりません。自らに根拠を置くことではない。それは信仰でも何でもない。それは律法に生きることに他ならないのです。
 与えられる事でしか信仰は持てません。 神への信仰によってのみ、救われるのです。

キリストを着る」 11月第2主日礼拝 2005年11月13日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章21〜29節
3章<21節>それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。<22節>しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。<23節>信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。<24節>こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。<25節>しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。<26節>あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。<27節>洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。<28節>そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。<29節>あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
今日は26節から。私たちはもはや罪の下にいないというのです。
 ガラテヤの信徒への手紙の中心は26節から29節までにあると言われています。そこでは、「私どもは神の子とされている」と言われています。「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子」であると言うのです。
 「キリストに結ばれて神の子」とは、どういうことなのか。私たちが神にふさわしい者になったということではありません。キリストは、人となってくださったことで人と同じであり、人は罪を負っています。その苦難をキリストは十字架で負ってくださった。死において結ばれていると言ってよいのです。私たちはキリストの中にあるということです。私たちの中にキリストがいるということではありません。キリストの内に私たちはあるのです。私たちはこの世のただ中にある、しかし同時にキリストの内にあるのです。キリストによって、キリストのものとされたから神の子なのです。「信仰により」とは、「キリストを信じる」ことで、そのことにより神の子として組み入れられるのです。

その確かさは洗礼であるというのです。神の子の保証なのです。洗礼の事実は薄れたり、消えたりしません。洗礼は揺ぎない神の業なのです。
 歴史的に洗礼の出来事は入会でもあります。罪に死に、新しい人になるということです。そのことは「キリストを着る」ということです。救い主が私たちを覆っているのです。私たちは、救い主の中にあって生きるのです。キリストの内にある。身も心もキリストの内にあるのです。そして、洗礼により確かさをいただいているのです。もはや差別はないと言うのです。民族による差別も、社会的身分も性的差別もないのです。等しく神の子なのだと言っています。
 人は自分の思いが中心になり、人は差別的区別的なのです。その呪縛にある者は神に結びあわせられることなく、解き放たれることはないのです。

信仰は差別なき、とらわれなき生活です。「キリストにあって」とくり返しくり返し言われています。私たちもくり返しくり返しキリストを思い起こし、キリストの内にあることを覚えたいと思います。

神の子とされる」 11月第3主日礼拝 2005年11月20日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第4章1〜7節
4章<1節>つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、<2節>父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。<3節>同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。<4節>しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。<5節>それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。<6節>あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。<7節>ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
パウロは律法を養育係とし、私たちはキリストに結ばれて神の子であり約束の相続人であると前章で聞きました。
 その相続というのは、一定の期日を言うのではなく、父が定めた相続の期日がきたら相続する、その期日をもって成人とするのです。まったく「神の定め」ということです。救いは神の主導にあるということが語られている。時間的経緯ではなく、ある時を基点として歴史をみるのです。人は進化とか、文化の発達で歴史をみる。しかしキリスト者はそうではなく、ある時・救いの働きから歴史を見ている。定めた時というのは、キリストの誕生がその時・救いの歴史であると明らかにしています。救済史的視点からキリスト暦・西暦を使うのです。この世界を救いの歴史と見、西暦を使うのです。

3節、諸霊はギリシャ哲学で物質を構成する基礎物質(水、土、樹、空、火)で、崇められる、支配するものと考えられていました。諸霊、それは、もろもろの私たちを魅了、とりこにするするものと言ってよいと思います。人と共に過ぎ去っていく虚しいものです。
 しかし神は救いの時を来らせてくださったというのです。キリストは、私ども「人間そのもの」になってくださった。神の派遣です。神無き世界は、信頼のない不安の世界です。そういう肉なる不安と言う世界を、キリストは御自分のものとしてくださった。罪の身と同じになった、それが神の派遣です。私どものところまでおいでになったキリスト、そのキリストにお任せすればよいのです。

律法のもとに生まれたとは、律法の呪い、すなわち十字架の死に至るということです。そのところから私どもを贖い出して、神の子としてくださいました。私どもが「神の子になった」ということではないのです。「神の子としていただいた」、それが救いの業、恵みの業です。すべては聖霊が働いて、私どもを神の子とし、私どもを信じる者としてくださったのです。
 その証拠は「アッバ・父」と呼ぶことが許されているということです。神を「父よ」と呼べることは、人格関係が与えられているということです。本来は罪に過ぎず、神を父と呼べない者に、人権を与えてくださったのです。神を父と呼ぶが故に決して人格を失う事はないのです。神は私どもを、父よと呼ぶ恵みのうちに置き、救いの相続人としてくださる。尊い人格・尊厳あるものとしてくださっているのです。

休ませてあげよう」 11月第4主日礼拝 2005年11月27日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第11章25〜30節
11章<25節>そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。<26節>そうです、父よ、これは御心に適うことでした。<27節>すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。<28節>疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。<29節>わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。<30節>わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
人々は主がいかなる方であるか、しるしを示したのに主を信じ悔い改めなかった。それを受けて、「そのとき」とあるのです。それなのに、ここでイエスは父なる主を賛美し、ほめたたえています。人は自らに頼り、知恵ある者、賢い者と思っています。それは自然のあり方。しかし、そのことによって、主を理解できないのです。自らの知恵、賢さでは、主を理解することは不可能になると結論づけています。 「幼子のような者」にお示しになったとある。「幼子」とは言っていません。「幼子のような」とは、「まったく信頼する」ことを意味します。人が自らの知恵に頼る時、暗いのです。神を知るに至らないからです。神の恵み深さに頼る時にこそ御心に叶うのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とあります。主の招きの言葉です。頼りがいのある、有益な者を招いているのではありません。疲れた者、重荷を負う者その人たちこそ、休みが必要なのです。なぜ有益な人を招かないか、それは休みなど必要としないからです、主を必要としないのです。
 では、「休ませてあげよう」とはなにか。それに続いて「私の軛を負え」と言っています。そうすると、重荷をすべて外す、ということとは違う。ですからここでいう休みは、ひとときの休息ではないのです。しかし、安らぎが得られるというのです。ここでいう安らぎは平安、平和ということです。主の軛を負って平安を得るというのです。一緒に重荷を負ってくださる、という意味でもあるかもしれない。実は軛という言葉は律法を意味しました。律法を身につけ守ることにより平安が得られるという意味があったのです。主イエスは私の軛と言っている。イエス様自身が軛であり、その軛を負う事により平安を得ると言っている。私に学びなさいと言っている。柔和で謙遜なイエス様の軛を負う、すなわち「心砕かれた」という意味です。そういう者は、頼るものは神以外にないのです。まったくの相手にされないほどの弱き者は神以外に頼るものはなく、神によってのみ平安が得られるのです。十字架の死の姿です。まったく人々に相手にされず、蔑まれた、それに学ぶというのです。
 「私の軛は負いやすく」とは、軛がぴったりと合っていて無駄な力を必要とせず、重荷全体を担うことが出来るというのです。軛がぴったり合っている。それは荷物が軽い。人生を完結するには、自分の重荷を背負っていく。主の十字架の、救いの恵みをいただき、自分の重荷を背負い自分の身の丈で生きる事ができる。それが心地よいということです。
 主は一時の避難、安らぎを言っているのではありません。人生を軽いものとしてくれる、十字架そのものをいただくことにより、生涯を安きに生きる事ができるのです。恵みの内にあることを思い起こし信頼する事により人生を生き切ったと言える生涯が送れるのです。