聖書のみことば/2005.10
2005年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の力による」 10月第1主日早朝礼拝 2005年10月2日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ペトロの手紙 二 第1章3〜4節
主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
主イエスは「神の力を持つ」といわれています。「神の力を持つ」、それが主イエスです。その神の力をどのように用いてくださったのか、「命と信心に必要なすべてのものを与えて」くださったとあります。

では「命と信心に必要なすべて」とは何なのでしょうか?
 生命・命とは、十字架と復活の主として命をくださり、神との和解を為してくださるということです。この命は死を超えた永遠の命です。わたしたちに永遠の命を与えて下さるということです。
 信心とは、経験と訳します。神を敬うこころです。神を敬うこころを与えてくださるというのです。ギリシャでは、恩恵をあたえてくれる「徳」と考えました。しかし「信仰」と言った方がよい。信仰は神によって与えられるというのです。罪の身に過ぎない私たちのために、主イエスは十字架にかかり復活してくださった、そのことによるのです。その愛の恵みに圧倒されるのです。ですから神を思わざるえないのです。神を知り救いに到達する。キリストの十字架と復活を認識することによって与えられる救いの喜び、そこでこそ神を知るに到るのです。

神の表す栄光は、十字架と復活による救いの御業です。救いは、神を畏れる、神を知る恵みを言い表すことでもあります。「尊くすばらしい約束」は、神の本性にあずかるという約束です。神と一体になることです。神の子とされ、なんの隔たりもない神との密なる交わりにあずからせるということです。

「情欲にそまったこの世、退廃」とは、人が自らを神とすることによって表れます。この箇所に言い表わされている、神との密接な交わりの恵みを覚えられればよいと思います。

主にある喜び」 10月第2主日礼拝 2005年10月9日 
宍戸久子 牧師/山梨英和学院教務教師(聴者/清藤)
聖書/ヨハネによる福音書 第2章1〜11節
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
ガリラヤのカナであたらしい家庭が誕生しようとしています。 そこにイエスの母がいました。他の客より早く来ていて、結婚式の準備をしていたのでしょう。
 イエスも弟子も招かれています。親しい人の結婚式です。ユダヤでは1週間お祝いが続くのです。食べもの、葡萄酒もたくさん用意されます。しかし葡萄酒が足りなくなってしまった、これは主催者の責任です。招かれた者はがっかり、しらけてしまいます。しかしここで、イエス様が水を葡萄酒に変えるということが起こります。 楽しい席につらなる、共に飲み食いし喜んで下さる、そういうイエス様の姿を思い浮かべる事が出来ます。
 同様に、キリスト者の生活は礼拝が中心、御言葉を聞き、賛美し、共に食す。キリスト者は神様との喜びの中にある、それが礼拝の生活です。 ここは私たちの信仰生活、教会生活を示している箇所なのです。

イエス様が母親に「婦人よ、」と呼びかけ、「なんの関りがあるか」と言っておられます。なぜか。「婦人よ」とは、マリアを邪険にした、よそよそしい言葉なのでしょうか。「なんの関りがあるか」とは、イエス様とマリアとどんな関りがあるかということ、つまりイエス様は血縁があるから働くのではなく、神様の御こころによって働かれるという説明です。 マリアに対し「あなたの出る幕ではない」と言うのではなく、「神様の時がまだ来ていない、その時にこそ私は働く」とおっしゃっているのです。
 私たちは神様の時を忘れてしまいます。神様を、自分の思いにさせようとする。しかしそうではありません。私たちは、神の時を共に待つ教会の群に入れられて励まされつつ生きる者なのです。

婚礼の場所に6つの瓶があったと記されています。1瓶には2ないし3メトレテス入るとありますが、1メトレテスは換算すると78リットルですので、これは大変な量です。しかも客は既にかなり飲んでいるのです。それほど大量の葡萄酒が必要だったとは思えません。しかしイエス様は大量の葡萄酒を水から作られました。
 水瓶は本来、律法の遵守、清めのために必要なものでした。ここで水から作られた大量の葡萄酒は、律法を必要としない、イエス様にお会いすることで清められることを示しています。水による清めを必要としない新しい時代、つまりそれはイエス様の十字架のあがないによってもたらされる新しい時代の到来です。それは自由と喜びの時代です。

キリスト者の生活は喜びの生活です。真の交わりが与えられている生活です。私たち自身には苦しい時があるとしても、しかし主があがない、主が招いてくださることを覚えたいと思います。主が願ってくださった、だから神様のみもとに生きる約束が与えられたのです。神様との交わりに生きるようにと招かれた喜びに生きましょう。

違反を明らかにする」 10月第3主日礼拝 2005年10月16日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第3章15〜20節
兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
19、20節から聴いていきます。
 神の恵みは救いであります。神が約束してくださったからです。律法を守ったからではありません。では律法とはなにか、約束の子孫が来るまで、違反を明らかにするために付け加えたものとある。「約束の子孫」とは「主イエス・キリスト」です。「約束」は救いを示します。「御子を信じる者を義としてくださる」ということが「救い」なのです。神との和解、やわらぎが与えられることです。救いが義の出来事であることをしっかり身につけなければなりません。
 愛という言葉も、義に含まれるのです。神の一方的御業なのです。御子イエス・キリストを信じることで義としてくださる。そこに救いがある。 神の民であったとしても、罪があり、神の裁きを免れない、違反をしている者なのです。律法はそれを明らかにしてきた。律法には人の意志が働いているとパウロは言うのです。
 現代は罪が意識が希薄です。あいまいです。なまぬるい。滅びに向かっています。神の前に立たされるからこそ、深く罪を知るのです。神の前に立たされる者を神は憐れんでくださるのです。本当に神の前に立つということは、罪を自覚し、神の憐れみに会うことです。神一人によってのみ救われるのです。
平和の挨拶」 10月第4主日礼拝 2005年10月23日 
北 紀吉 牧師(聴者/清藤)
聖書/マタイによる福音書 第10章5〜20節
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
主イエスが「この12人を派遣するにあたり」とある。「この」とは1〜4節、「主から権能を与えられた12使徒」を受けています。このことはイスラエルを意味し、また教会を意味するのです。

「異邦人の道に行くな」とあります。ユダヤ人にとって異邦人伝道はどうでもよいということでしょうか、ここでは「道」と言っています。すなわち異教の教えに合わせるな、ということです。それは、相手に合わせる危険性があるからです。分からせようとする誘惑。福音は「分からない」ということでなく、「受け入れる」ということです。聖霊の出来事だからです。人間の理解によらないのです。神への信頼なくして宣教はありえないのです。しかしサマリヤの信仰は(元々同じ信仰であったにも拘らず)、自分の理解、自分の益の信仰なのです。イスラエルの確立・神の民の完成が最初ということです。しかしユダヤ人の拒絶により異邦人が先になるのです。

「失われた羊」とは、人間社会の狭間で苦しむ者、存在を失った者を意味します。人は人を担いきれないのです。完全ではないからです。しかし神は見捨てていないのです。羊のもとへ行けというのです。担うためではない、主の恵み、あなたは神に覚えられている存在なのだ、神の支配のもとにある、ということです。「神の国は近づいた」と言いなさい、と言うのです。「神の支配が近づいた」ということです。個人の救いを言っているのではありません、神の支配が目的とされているのです。そして、キリストのものをいただいていれば当然キリストにお返しするのです。

「ただ神に頼りなさい」というのです。伝道の業はただ神に頼るのです。相手に平和を祈るのです。争いに巻き込まざるを得ない現実に平安を祈るのです。福音宣教は私達の責任ではない、神に押しだされてです。

われここに立つ」 10月第5主日礼拝 2005年10月30日 
小島章弘 牧師(聴者/清藤)
聖書/ローマの信徒への手紙 第16章16〜17節、第3章21〜26節
16章<16節>あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。<17節>兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

3章<21節>ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。<22節>すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。<23節>人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、<24節>ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。<25節>神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。<26節>このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

「われここに立つ」、この言葉は、1521年マルティン・ルターの語った言葉です。ここから退かないという強い意味です。神の確かさから動かないという決意を語ったのです。

1517年に宗教改革が起こりました。明日で488年になります。この出来事は世界の歴史の中に記されているように、たった一人の人、ルターによりなされました。それはルターの2つの経験からなされたことです。
 一つ目は雷の経験。当時法学を学ぶ者であったルターは、旅先で落雷に遭い、「お助けください。私は修道士になります」と懇願しました。それは死の恐怖でした。修道院の中で苦しむ日々、階段を祈りながら登り下りしつつ。しかし、修行をしても苦しみは消えず、「神は罰する方」という答えでは解決しなかったのです。それが宗教改革のきっかけになりました。
 二つ目は、修道院の塔に登り聖書を読み、祈ったことです。その箇所がローマの信徒への手紙第1章17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」です。この箇所で平安が得られたのです。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。神の義はルターにとっては裁きであって、彼を苦しめていました。しかしこの箇所を読み、神が私たちのすべて罪を引き受けてくださることを確信しました。そのことによって解放されるに至るのです。

「義」とは、「あなたは無罪です」という意味です。罪があがなわれる、しかも無償で。神の前に自分をさし出すだけでよいというのです。イエス様は地獄のような生活の場に降りてきて共に重荷を背って生きてくださる。私たちが何も良い事をすることが出来なくても。それが神のマルティン・ルターへの啓示でした。ルターと一緒に叫びたい、「我ここに立つ!」と。